三宝院につづいて醍醐寺の伽藍エリアと霊宝館エリアを回りました。今回は、下醍醐にある伽藍を回りましたが、醍醐寺の始まりである上醍醐へは、険しい山道を徒歩で片道約1時間ほど登る必要 があり、回ることはできませんでした。しかし、醍醐寺の歴史においては、重要な場所であります。
1.醍醐寺の歴史
(1)上醍醐と下醍醐
874年、空海の孫弟子である聖宝が、山頂で地主神から「醍醐水」という霊泉を譲り受け、准胝・如意輪両観音を祀ったのが始まり。 そのとき湧き出た水の味が、仏教で最高級の美味しさを表す「醍醐味」のようだったことから「醍醐寺」と名付けられた。この山側の上醍醐は、修行の地であり、 険しい山道を登った上にある「修験道」の場であった。
その後、醍醐・朱雀・村上の3代天皇の深い信仰を受け、広大な山麓に下醍醐の伽藍(金堂や五重塔など)が整備された。 下醍醐は、 平安時代に天皇の勅願寺として寺域が拡大し、参拝・信仰の地となった。しかし、中世の応仁の乱などの戦火により、五重塔を除いて建物の多くが焼失し、一時は衰退の途をたどった。
醍醐寺の再建は、豊臣秀吉が晩年に盛大な「醍醐の花見」(1598年)を催したことをきっかけに、三宝院の庭園や建物の再建が進み、現在の壮麗な姿を取り戻した。この 醍醐の花見の1年前の慶長2年(1597)には、豊臣秀吉と徳川家康が下見のために上醍醐へ登山したことが「義演准后日記」に記されている。
(2)醍醐の花見
醍醐の花見は慶長3年3月15日(1598年4月20日)に行われた。 秀吉自ら庭園の設計を指導したとされる三宝院の庭園や建物が、この日のために急ピッチで整えられ た。花見のために、畿内各地から約700本もの桜が集められ、この日に咲くようにと醍醐寺の境内に植樹された。 さらに趣向を凝らした八カ所の茶屋・仮店が建てられた。
花見には、秀吉の正室・北政所(ねね)や側室の淀殿、息子の秀頼をはじめ、親しい大名の女房衆など、約1,300人が招かれた。 参列者の多くは女性で、彼女たちは宴の途中で2回、合計3つの衣装に着替える「お色直し」が行われた。そのため、秀吉は一人につき3着ずつ衣装を新調させ、この日のためだけに用意された衣装は1,300着〜1,600着にのぼったという。
秀吉は境内に設けられた8箇所の茶屋を巡りながら、茶会や歌会を楽しみ、天下人としての権威を誇示した。しかしながら、 この花見が行われた5ヶ月後に秀吉はこの世を去った。
現在も醍醐寺では毎年4月に、この故事にちなんだ「豊太閤花見行列」が開催されている。

*『醍醐花見図屏風』に描かれた豊臣秀吉と北政所。 (国立歴史民俗博物館蔵)
2.仁王門
1605年に豊臣秀頼が秀吉の遺志を継ぐ形で金堂を再建し、それに続いてこの仁王門も建立された。 門の両脇に安置されている仁王像は、もとは南大門に祀られていたもので、1134年に仏師の勢増(せいぞう)と仁増(にぞう)によって造立された。この二人は 「大仏師」と呼ばれており、単なる職人ではなく、高い技術と地位を持った工房の指導者であった。彼らが生きた時代は、運慶・快慶(鎌倉時代)よりも前で、平安時代の貴族文化が色濃く残る中で、仏像に力強さと気品を共存させる技術を持っている。
3.清瀧宮拝殿・本殿
弘法大師空海が唐の長安にある青龍寺から、水を司る龍女(清瀧権現)を日本に請来したことに由来する。 空海が唐の長安にある青龍寺で密教を修めた際、その守護神である「青龍」を日本へ勧請した。日本へ渡る際、海を越えることから名前に「さんずい」を加え、「清瀧」と改められたと伝えられている。
醍醐寺の開山である聖宝(理源大師)の夢に現れたことをきっかけに、醍醐寺の守護神として上醍醐に祀られるようになった。
1088年に上醍醐の清瀧宮が創建され、1097年には、第14世座主・勝覚が山上の清瀧宮から山下に分祀し、下醍醐にも祀られた。 現在の下醍醐の清瀧宮本殿は、1599年(慶長4年)に座主・義演准后により整備されたもの。
仏が神の姿で現れたとされる「本地仏」として、准胝観音と如意輪観音が祀られている。
| 清瀧宮本殿 |
| 清瀧宮本殿 |
4.金堂
醍醐寺の金堂は、醍醐天皇の御願により延長4年(926年)に創建されたが、永仁と文明の年間に2度焼失した。現在の金堂は、豊臣秀吉の命により、慶長3年(1598年)に紀州・湯浅の満願寺から移築され、豊臣秀頼の時代である慶長5年(1600年)に完成した建物である。。平安時代末期の様式を残しつつ、安土桃山時代の建築技術も反映された、醍醐寺の正中心に位置する。
堂内には、薬師如来坐像を中尊とし、日光菩薩・月光菩薩を両脇侍とする薬師三尊像が安置されている。これらも建物と同じく、満願寺から移された鎌倉時代の作と伝えられている。
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| * 薬師三尊像 |
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| * 金堂内部 |
5.不動堂
醍醐寺には山上の上醍醐に「五大堂」が存在する。上醍醐の五大堂は、開山の理源大師聖宝が876年に最初に建立したお堂の一つとされている。下醍醐の伽藍整備の一環として、参拝しやすい平地に不動堂が建立され、「近畿三十六不動尊霊場」の札所として、多くの参拝者が訪れる。
不動明王のほか、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五体の明王が祀られている。
6.真如三昧耶堂
もとは朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3年(949)に創建されたが、文明2年(1470)に焼失。現在の建物は、1997年に真如三昧耶堂として建立された。
7.祖師堂
真言宗の宗祖である弘法大師・空海と、醍醐寺の開山である理源大師・聖宝を祀るお堂で、かつては「御影堂」と呼ばれていた。 1605年に当時の醍醐寺座主・義演准后によって建立された。
8.日月門
1930(昭和5)年、醍醐天皇の一千年御忌(没後1000年の法要)を記念して建立された。
9.観音堂
貞観18年(874年)、理源大師・聖宝が自刻した「准胝観世音菩薩」を祀るため、上醍醐の地に草庵を建てたのが始まりとされる。元来は上醍醐の「准胝堂」だったが、2008年の火災焼失以降、下醍醐の「観音堂」に本尊が移されている。
この観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、地蔵堂、鐘楼、伝法学院等を総称して「大伝法院」と呼ばれている。
| 旧伝法学院 |
魔除けの神様として知られる鍾馗をかたどった瓦像 |
10.弁天堂
朱塗りの弁天堂が水面とよく合う紅葉の名所となっている。
堂内には、音楽などの学芸や知識の女神であるとして広く知られている弁才天(七福神の一つ)が祀られている。
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| * 弁才天 |
11.五重塔
醍醐天皇の崩御後、その菩提を弔うために建立された。 朱雀天皇が936年に着工し、村上天皇の代である951年に完成した。京都に現存する木造建築物の中で最も古いもので、 高さは約38メートルあり、そのうち屋根の上の「相輪」が約13m(全体の約3分の1)を占める。初層の内部には、日本密教絵画の源流とされる「両界曼荼羅」や「真言八祖」が描かれている。
12.霊宝館
霊宝館は、貴重な寺宝の保存と公開を兼ねた施設として1930年、醍醐天皇千百年御遠忌に計画され、1935年に開館。増築等を行ない、醍醐薬師堂の本尊である国宝・薬師三尊像、上醍醐五大堂に安置されていた重文・木造五大明王像など、諸堂に祀られている諸尊以外のほとんどの寺宝は「霊宝館」に安置して いる。春と秋に特別展が行われる。また、庭園には樹齢180年を超える「醍醐大しだれ桜」が植えられている。
| 庭に置かれている仏像 |
13.総門
仁王門をくくり、唐門を見ながら桜馬場と呼ばれる通りを歩き、総門を出て旧奈良街道に出る。
| 仁王門 |
| 唐門 |
| 総門 |
| 白壁塀 |
醍醐寺は、2018年9月4日に上陸した台風21号によって甚大な被害を受けました。強風により、上醍醐と下醍醐でおよそ3,000本に及ぶ倒木や、三宝院の枝垂れ桜も、醍醐寺を取り巻く白壁塀の損壊、下醍醐・清瀧宮などの建物も損傷を受けたということです。伽藍を歩いているときにはほとんど気付きませんでしたが、旧伝法院の付近の荒れた所に置かれていた鍾馗の瓦像を見ると、その被害の一部が残っているように見えました。鍾馗さんは屋根の上に一体で置かれることが多いですが、このように親子のような姿をしていたり、地上に置かれていたりするのは、寺院ならではで、修復・建て替えの際に魔除けとして大切に保管されているものと考えられます。


