前回、「保谷民博」との関わりを中心に、渋沢敬三の博物館にかける「夢」とその活動を見たが、今回は民族博物館を保谷の地に建てるのに大きく貢献した高橋文太郎について、どのような夢をもっていたのか?その活動をおってみていきたい。
欅(ケヤキ) |
1.武蔵野保谷村の欅(ケヤキ)
高橋文太郎といっても、ほとんど知られていない。まずは、その人となりからみていこう。
高橋文太郎は、保谷(現在の西東京市)に生まれた(1903年明治36年)。渋沢敬三が明治29年生まれだから7つ年下ということになる。
高橋家は、曾祖父の時代に藍玉などによって財を成し、保谷の大地主となっている。父・源太郎は武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)の大株主の一人で取締役にも就き、地元に保谷駅と操作場をつくった。
文太郎は明治大学を出て、立教大学に入るもすぐに退学し、父源太郎の関係から武蔵野鉄道の重役となる(1927年24才)。
アチックミューゼアムの同人になるのは1929年26才のころで、渋沢敬三はじめアチックの同人と調査旅行で日本各地に行くなど、活動を広げていく。
文太郎自身が、アチックの同人たちに向け、つぎのように自己紹介している。(アチックマンスリー「WHO’S HE」(1936年昭和11年10月発行))。
「申上げます。云う迄もなく武蔵野保谷の産。・・・ 渋沢先生からケヤキ=KYKに譬えられてからアチックでは欅で通じるようになったのは聊か恥ずかしい。然し乍らもケヤキ号は有難く拝命して居る。-中略-
明大政経部を昭和二年(1927)に出て直ちに立教の文学部哲学科に入ったが家の都合で退学、それ以後武蔵野鉄道に七年程在職したが此の頃から民俗に興味を持った。在学当時、山岳部に居たので依頼ずっと山に病付き、もう「山」から離れられないだろう。何卒宜敷。」
欅(ケヤキ)というニックネームについては、文太郎が『山と民俗』を出版した際(1933年30才)、その序文に渋沢敬三が文太郎の人柄について、つぎのように書いてくれたことによる。
「武蔵野村に萌える若葉の欅。高橋君はこんな感じのする人である。人に見せつける花もなければ、これ見よがしの枝振りもない。況んやエキゾティックな樹相は微塵もなく、只素直に朗らかに、活達に、しかも、どこか繊細な、しみじみ日本の木だというかんじのある欅、そして人が見ようが見舞いが与えられたところに極めて、ありのままにすくすくと育ってゆく。武蔵野に生まれ武蔵野に育ち武蔵野を研究しておられる高橋君はこんな味のする人である。」
文太郎は、敬三という大きな懐に抱えられ、アチックミューゼアムという場で、ちょっと照れたような自己紹介をするように仲間と楽しく共同研究に貢献していった。
2.アチック同人としての活動
文太郎は、ケヤキというニックネームをもらうような、そんな人柄もあってか、敬三からの信頼も得て、アチック同人の中心的役割を果たしたようである。それは、アチック同人の集合写真には、文太郎が敬三(中央)のすぐ横に位置している写真が何枚かあることからも推察できる。
実際、アチックでは、敬三の運営方針であるチームワークで共同研究が進められたが、そうした取り組みの一つとして、「民俗図彙」の計画があり、文太郎は、この仕事の「委員長」(いわばプロジェクトリーダー)となっている。
敬三は、この計画について、次のように述べている。
「アチックに標本がだんだん集まり、これを編纂して写真集として『民俗図彙』とでも名づけて世に出そうと考えている。物の製作者も採集者も多数であり、その協力から成り立つこのミュージアムである以上、研究もぜひティームワァークにしたいというのが、かねてからの自分の望みであった。それで、この仕事は高橋文太郎君を委員長、宇野円空氏、今和次郎氏、宮本勢助氏を顧問格とし、早川君、小川徹君(ら五人)・・・、で取り掛かったのである。」(渋沢敬三「祭魚祠雑録」収録 1930年)
なお、顧問となっている三人の専門は次の通り。宇野円空(東大教授宗教学)、今和次郎(早大教授・民家・考現学)、宮本勢助(風俗史・服飾研究)。
この写真集としての「民俗図彙」は、結局、実現しなかったが、その代わりに絵葉書となって『日本民俗研究資料 絵葉書」10編がつくられた(1931年昭和6年)。
また、付録としての民具の解説をまとめ「民具問答集」が刊行されている(1937年昭和12年)。
「民具」という言葉は、いまでは一般的にも使われるようになっているが、当時は、「土俗品」「民俗品」などと呼ばれていたのを、敬三が中心となって、民俗研究の中核として「民具」という概念の確立を図った。
こうした民具の研究について文太郎は次のように述べ、敬三=アチックによる「民具」の概念の確立にも貢献している。
「一番肝腎なことは、その物についてその村の使用者がどんな風に考へているかを探求することにあると思われる。民具をその村から切り離して持ってきてしまうと有機的な関連が切り離されてしまう。・・・科学的というのは、単に測定したり精密な写真を撮ったりすることだけでなく、この精神的な目に見えない方面の分析実験などが必要となってくると思う。」(「民具の研究」高橋文太郎)
つまり、常民が使っている「民具」というモノを、その生活から切り離すことなく、包括的に捉え、常民の精神的な面を含む生活文化を科学的に探求していくことが必要だと考えている。
また、「足半(あしなか)」という足の半分ぐらいまでの草鞋の研究においては、各地から「足半」を収集し、それをレントゲンに撮るなどして、その、構造、材質、製作技法などを科学的に分析している。そうした研究成果をまとめ、『所謂 足半(あしなか)に就いて』として刊行しているが、そのなかで文太郎は、「足半の用途および民俗の整理」を担当している。
3.高橋文太郎の業績
文太郎は、アチックでの同人との共同研究にも大きく貢献しているが、自らの研究成果を、7冊の本にして残している。
一つは、自らの産である、武蔵野保谷の民俗を研究した『武蔵保谷村郷土資料』アチックミューゼアム刊(昭和10年)である。その「自序」で、次のように自らの民俗学への研究の関心とあり方を述べている。
「当村の郷土資料を採集し始めたのは、今から7,8年前の昭和2,3年のころからであります。その当時はまだほんの興味本位と云っても良い位の気持ちで蒐集して居りました。併し当時すでに柳田先生などによりまして攻究されていた郷土研究乃至民俗学の学問に対しましては、少なからぬ魅力を感じて居ったので有ります。(中略)
「私が始めこの学問に魅力を感じ興味を持ちました当時の気持ちと只今曲がりなりにも村の採集を行いまして実際に村の人々の心持や生活風などに接して見ました後の気持ちとは大変違って居るのであります。即ち斯ういふ採集は単に趣味であり又好きであり面白いから行うのだと云うことだけでも良いとは思ひますが、只之だけでは相済まぬと云う感じを深うしたので有ります。・・・私は之等の資料が他の地方の資料と比較研究される材料ともなり、延いては斯学の資料充実に何等か裨益する處あれば仕合せだと考へて居ります。」
この武蔵野保谷という東京近郊の村の生活、文化の資料として高く評価された。当時は貴重であった写真も47点も掲載し、資料価値を高めていた。
もう一つの著作は、大学時代から山岳部に所属し、自己紹介でも述べているように「山とは離れられない」という山の民俗の探求心から生まれたもので、次のようなタイトルで刊行されている。
『山と民俗』山と渓谷社 1933年昭和8年 30才
「山の民俗学」 『山岳講座第4巻』共立社1936年昭和11年 33才
『秋田マタギ資料』 アチックミューゼアム1937年昭和12年 34才
『山の人達』 龍星閣1938年昭和13年35才
『輪樏』日本常民文化研究所1942年昭和17年 39才
『山と人と生活』金星社1943年昭和18年 40才 文太郎の山の民俗学に関する集大成とされ、この書を最後に執筆されたものはない。なお、この本は最近、『山びとの人生』と改題されて再刊されている。(2019年8月河出書房新社)
これら山の民俗に関する著作は先駆的な業績を示すものであるとされる。とくにマタギに関しては、マタギ自身からの聞き取りを行い、すでに失われた生活文化をまとめており、宮本常一は次のように高く評価している。
「この書物が刊行せられ、この書物を手にしたとき、私など一種の驚嘆をおぼえた。・・・そこに生ま生しい現実感の溢れていることから、私自身もマタギを調査しようかと考えてみたことがあった」宮本常一『秋田マタギ資料』作品解題
また『輪樏』は、「わかんじき」という履物についてまとめたもので、雪国の「民具」から、その生活文化を描いている。
これらの著作の多くが、アチックミューゼアム(後の日本常民研究所)から出版されており、渋沢敬三の支援が大きかった。
4.「保谷民博」の夢が・・・
すでに述べたように、文太郎が保谷の土地を寄付することで、民族博物館が保谷の地に建てられることになった。博物館は、敬三はじめ、アチック同人、もちろん文太郎の夢でもあった。「保谷民博」は、バラックの建物でスタートしたとはいえ、展示館のほかに研究所も併設されていた。文太郎は、ここでさらなる研究成果を上げるはずであった。
しかし、アチックの同人の一人宮本常一は当時の文太郎の様子を次のように述べている。
「保谷民博」がとりあえずスタートしたころ(昭和12年)から「文太郎の学問的活動は鈍っていた。と同時にその拠点としていたアチックミューゼアム(日本常民文化研究所)にも昭和15年ころからあまり姿を見せなくなり、戦争がはげしくなってからは、消息を聞く程度になった。」(宮本常一『秋田マタギ資料』作品解題)
文太郎は、「保谷民博」が開館した翌年(1940年昭和15年)には、提供した土地を撤回して引き上げてしまい、研究員もやめてしまう。文太郎に何があったのだろうか。その理由は不明となっている。
その理由らしきものを推測してみると、ひとつには研究上の確執があったのではないか。
博物館内にできた研究所には、高橋文太郎をはじめてとするアチックからのメンバーと古野清人らの東大出のエリートたちの二つのグループができていた。そこに、文太郎が突然、土地を引き上げてしまい、研究員も辞めてしまったということで第2グループのメンバーたちは、非常に憤り、口を極めて非難したという。以降、アチックのメンバーは研究所から排除されていった。戦後は、こちらの第2グループが、アカデミズムの主流となる。
さらに研究所そのものが、「民族研究所」として文部省直属の研究所となり、国策としての民族研究に邁進してしまった。(ただし、保谷民博の管理については、アチックの宮本馨太郎などによって戦後まで維持されていた。これも敬三の判断によるものであろう。)
そのため、文太郎の活動、研究成果などについても消されていき、理由も不明とされていった。いわば在野の研究者とアカデミズムの研究者の確執によって、文太郎の活動成果の多くが埋もれてしまったといえるのだろう。
もうひとつの理由として、個人的な事情、家の都合があったと推測できないだろうか。
文太郎は、父源太郎の関係から大学卒業後すぐに武蔵野鉄道の重役になっている。
しかし、その後1935年に武蔵野鉄道会社 調査課長になるも退社している。この年に父源太郎が亡くなっている。翌年1935年に高橋合名会社を設立し、土地管理にあたるようになっている。
したがって、文太郎が「保谷民博」の土地を引き上げ、研究員を辞めた時期には、すでに武蔵野鉄道との関係はなかったが、同じ年、武蔵野鉄道には堤康次郎が社長に就いている。
この間の文太郎の略歴を記しておくと、
1927年24才 明治大学卒業、立教大学に入るも家庭の事情で退学。このとき武蔵野鉄道の重役に就く
1928年25才 監査役になる
1929年26才 アチックの同人となる
1934年31才 武蔵野鉄道会社 調査課長になるも退社 12月父・源太郎没
1935年32才 高橋合名会社を設立し、土地管理にあたる。
1940年37才 アチック新年会に参加 学会への寄付行為を撤回、研究員を辞す。
武蔵野鉄道は、堤康次郎が社長となる。(戦後1946年に武蔵野鉄道と西武農業鉄道が一緒になり、現在の西武鉄道となった。)
武蔵野鉄道は、1920年代末から経営難に陥いっていた。経営不振の要因は、過大な設備投資にたいし、乗客が少なく十分な収入がなかったこと。また地元系小資本家の協同で設立されたので、鉄道経営に長じた経営者がいなかったことなどによるとされている。その後、紆余曲折があって、堤康次郎が東武鉄道(根津)などの大株主から株式を取得して、社長になり、戦後、いまの西武鉄道となった。
父源太郎が出資し、保谷に駅を造るなど鉄道会社に大きくかかわっていた。その子として大学卒業後すぐに役員になるなど会社に関わっていた文太郎にとって、経営危機に陥っていた会社の動きに心労がなかったとはいえないだろう。また、父が亡くなり相続等の問題も生じただろう。
文太郎が手を引いた理由には、そうした個人的な事情もあったのではないだろうか。
5.文太郎の夢のその後
実業・家庭と学問とのはざまにあった文太郎のその後は、 渋沢敬三との関係もぷっつり途切れている。事実、そうであったのか、それとも関係する資料が失われてしまったため、事実がわからないのか。
「相手の成長を心から喜ぶという本格的な雅量を、ほとんど生まれながらにして身につけていた」といわれる敬三の気質からすると、この時期の文太郎に対して何も支援や、助言はなかったのだろうか。一方、文太郎が、最も信頼する敬三に何も相談しないで手を引くことを決断したということは考えられない。敬三も了承の上の判断であったのだろうか、そんな疑問が残る。いずれにしても文太郎の業績とともに、その理由も埋もれてしまっていった。
地元でも忘れられていた文太郎、その埋もれた夢を掘り起こし、光を当てたのは「高橋文太郎の軌跡を学ぶ会」という市民による活動であった。最初に拙ブログ「東京異空間23」でみた「民族学博物館発祥の地」と書かれたパネルを建てたのも、この会によるものである。
その会は、文太郎の遺稿「絵画随想」という資料も見つけ出している。内容は、古美術や骨董に関するエッセイで、病室の様子も書かれていることから、絶筆とされている。自らの絵画骨董趣味について書いている一部を引用する。
「こういうインフレの世の中で日々の生活が赤字かつ皆その生活にあえいでいる時、美術なんかと言いたくなるのだが、どうしても、その生まれつきの性格から脱することはできそうもない。だから宿命なのだし、善かれ悪しかれの趣味においても。」
ここには、戦後は自分の好きなことをやる、絵画や骨董などの趣味人となっていた文太郎の姿しかない。かっての民俗研究に架けた情熱、博物館の夢はどうなってしまったのだろうか。戦争がその夢も情熱も奪ってしまったのだろうか。
余談になるが、同じように美術趣味を持っていた写真家野島康三に保谷の土地一千坪を、横山大観の絵と交換に譲ったという話もあるようだが、この土地は「保谷民博」に隣接していたところである。
戦争の激化により、保谷は中島飛行機の工場近くにあり、空襲の危険にさらされたため、文太郎は、群馬に疎開している。(1945年昭和20年)
戦後は目立った活動はほとんどなく、先の「絵画随想」を絶筆として亡くなった。享年45才という若さであった(1948年昭和23年)。胃潰瘍だったという。
「高橋文太郎の軌跡を学ぶ会」が行った講演会において武笠俊一(三重大学教授)は、「民族博物館の夢と現実」と題して、つぎのように結んでいる。
「保谷民博」には、秘められた学問の闇の部分と、それにもかかわらず自分たち在野の学問を育て上げようとした人々の情熱、理想の博物館をつくろうとした高い理想が埋もれている。」
「民族学博物館発祥の地」というパネル |
「民族学博物館発祥の地」というパネルを見つけてから、「保谷民博」にかかわる渋沢敬三の博物館の夢について、そして今回、高橋文太郎というほとんど知られていない人物についていろいろ調べてみると、歴史の流れの中で、埋もれていき忘れられていった一人の男の夢を垣間見ることができた。
なお、文太郎が若くして亡くなり、高橋家の屋敷は相続税等で物納したのを西武が買ってレストランにしたという。いまは、そのレストランもなくなり、大きなマンションが建っている。
町から民族博物館がなくなり、跡地は清水建設の社宅になり、いまはそれもなくなり、広い駐車場に博物館があったときに植えられたという大きな樹が2本ある。しかし、そこに文太郎のニックネームであった大きなケヤキを見ることはできない。
町は、その姿をどんどん変えていき、いつの間にか歴史は隠されてしまう。歴史を忘れる町に発展はないといわれる。これからも散歩しながら、地域の歴史に遊んでみたいと思う。
高橋家の跡地に建つ大きなマンション |
マンションの裏側には畑が残る |
保谷駅の操作場 |
保谷駅の操作場 |
博物館跡地の駐車場 |
駐車場の自販機には、敬三が定宿にしていた西伊豆の旅館の広告がある。 |
ケヤキの大木(別の高橋家) |
ケヤキの大木(別の高橋家) |
屋敷林のある高橋邸(文太郎の家とは別) |
高橋邸 |
高橋邸の倉 |
高橋邸の竹林 |
高橋邸の竹林 |