2022年1月12日水曜日

東京異空間51発祥の地(続)~一ツ橋・錦町にあった学校群

 

聖堂よりお茶の水橋並び駿河台望むの図

すでに「東京異空間50発祥の地」として学士会館・如水会館を中心として、現・東京大学、現・一橋大学などの発祥の地を訪ねましたが、今回、続編として、『東京名所図會・神田区之部』第二十編 明治32年発行(昭和43年復刊)により、一ツ橋通及び神田錦町三丁目辺りにあった学校について補足しておきます。(参考:『大学の誕生(上)』天野郁夫 中公新書) 

 

1.一ツ橋通

一ツ橋には、東京商業学校(現・一橋大学)があったことを既に述べたが、それ以外にも次のような学校があった。


(1)高等師範学校附属小学校

 昌平坂に師範学校があり、その実地練習(今でいう教育実習)のために附属小学校が設けられた。明治6年。(現・筑波大学付属小学校)

師範学校は、明治5年、小学校の教員の養成機関として官立の学校として設立された。明治19年に高等・尋常の別が設けられ、東京高等師範学校と改称され、中等学校教員の養成を行う機関となった。当時の中等学校の教員は、医師や法律家に準ずる近代社会の主要な専門的職業であった。(東京教育大学、現・筑波大学)

 

(2)東京音楽学校分教場

音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)は、明治20年、下谷区(現・台東区)に創設されたが、通学者の利便のためとして、ここ一ツ橋に、東京音楽学校の選科の一部及び小学唱歌講習科を設置した。明治31年。

「小学唱歌講習科」とあるように、小学校の教員の養成を主たる目的としていた。本校である東京音楽学校は、学則第一条に「汎ク音楽専門ノ教育ヲ施シ、善良ナル音楽教員及音楽師ヲ養成スル処トス」とあり、演奏家の養成よりも教員養成に力点が置かれていた。しかしながら、その卒業生は教員としての就職すらなかなか難しかったという。

 

(3)共立女子職業学校(『東京名所絵図』の挿絵参照)

共立女子職業学校については、既に述べたところだが、その学科等について記しておく。術科として、裁縫、編物、刺繍、造花、図画があり、別に裁縫教員養成科と割烹科まであった。こうした学科の生徒が作った製品は、天皇、皇后が御覧になり金二百圓などを賜っている。

『東京名所絵図』にある挿絵「共立女子職業学校教場の図」には、実技を学ぶ姿が描かれている。

また、次のような記述がある。「本校に於いては、近来女子の服装漸く華奢に流れ、互ひに姸麗(けんれい)を競ふを憂ひ、服装に関する心得を説明し左の如く定む。」

として平常用服は木綿毛織類、麻布類としている。今でいう服装の校則が既に厳しく定められていた。

 

2.神田錦町

一ツ橋通の隣に位置する錦町三丁目辺りは東京大学の発祥の地であることは既に述べたが、次のような私立の学校などもあったことを補足しておく。

なお、「錦町」の名前の由来について、『東京名所絵図』では次のように記している。「昔時、一色某なる者の二邸ありしより二色小路と呼ひなせしを、維新以降二色の文字を、錦に改めたるものなりといふ」と。

 

(1)東京外国語学校

外国語学校は、高等商業学校の付属であった(明治30年創設)。「現今に於いては英吉利語、仏蘭西語、独乙語、露西亜語、西班牙語、清語、韓語を教授せり」とあり、正科生の授業料は1学年に付き金拾圓とし、毎年9月、2月の2回に分けて徴収するとしている。

 

(2)東京法学院

明治18年に錦2丁目に開校された英吉利法律学校が、明治20年に東京法学院に改称された。

ボアソナードによるフランス法学に対し、東京大学の卒業生らがその名の通り、英米法学の中心拠点の学校として創設した。明治38年に中央大学に改称した。

当時は、帝国大学の監督下の学校として、専修学校(現・専修大学)、明治法律学校(現・明治大学)、東京法学校(現・法政大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)、英吉利法律学校(現・中央大学)の5校を「五大法律学校」と呼んだ。

法学院の校舎は、辰野金吾の設計によりルネサンス様式の赤煉瓦の二階建ての宏壮な建物であった。しかし、明治25年の火災、さらに関東大震災により被災し、駿河台に新校舎を建て、跡地は電機学校(現・東京電機大学)に売却した。その後、昭和53年以降に、現在の多磨校舎(八王子市)に移転した。

 

(3)錦城中学校

明治13年、福澤諭吉の高弟で、政治家・ジャーナリストとして活躍していた矢野龍渓らによって、三田の慶応義塾内に三田英学校を創設したのが始まりで、明治22年神田錦町に移転し、校名を「錦城学校」と改称した。現・錦城高等学校。

また次のような記述がある。「本校生徒は、毎年春季陸上運動會を行ひ、秋季は修学旅行として、二宿乃至三宿を以て近縣旅行するを例とす」と、この時代から既に春の運動会、秋の修学旅行が行われていたことが分かる。

明治30年代、大学に入る学力が求められ高等中学校の充実が図られるとともに、高等中学のエリート化が進み、第一高等学校への入学者数が開成中学に次いで、錦城中学がランクしている。


(4)東京府高等女学校(『東京名所絵図』の挿絵参照)

明治21年「東京府高等女学校」として創立され、都立高の中では日比谷(明治11年)、戸山(明治22年)に次いで3番目に古い歴史を持つ。

当初は、女子高等師範学校などと同様、小学校教師育成に注力していた。新設された小学校などの教師育成が明治の近代化にとって急務であり、女子の高等教機関は、革新的な教育手段として創設された。

明治23年、第3回内国勧業博覧会に生徒の製作品、裁縫、編物、書画、邦語作文等を出陳したとある。

また、明治30年、東京府庁に聖影を保管し、「爾来式日、大祭日の都度校長之が奉迎送なすを例とす」と記述されている。教育の場を通じて天皇制を浸透させていった一端を見ることができる。「教育勅語」は明治23年に下されている。

明治34年に「東京府立第一高等女学校」と改称する。現・都立白鴎高等学校。

 

なお、官立の女学校は明治4年の東京女学校をはじめとし、明治8年、東京女子師範学校が開校し、女性教員の養成がはかられた。現・お茶の水女子大学。(一橋大学と同様、御茶の水という地名を大学名に冠している。

(御茶の水の名の由来ついては、大猷院・家光が、この川の水でお茶を召し上がったこと、あるいは神祖・家康が茶の湯に遊ばれたこと、からとされる。)

 

(5)斯文學会

明治13年、道徳を研磨し文学を講究する所として、岩倉具視、三条実美らの賛助を得て設置された。その趣旨について次のように記す。「我邦、一たひ泰西の文物を輸入してより、人皆靡然(ひぜん)として、之に傾き器械工藝の學は大に進歩したりと雖も、仁義忠孝の道は棄てて而して顧みす。・・・わが国固有の道徳は将に地を掃うに至らんとす。同會は実に茲に慨する所ありて起こりし」と、その趣旨に基づき、講演会、雑誌等の刊行、さらに斯文校を開き800余りの生徒を教育したが、「時運非にして」閉校した。その後、公益財団法人斯文会となり、関東大震災で被災した湯島聖堂の再建に寄与し、現在も聖堂の管理団体として指定されている。

(6)東京瓦斯株式會社

学校ではないが、東京瓦斯株式會社の記述があるので見ておく。

明治18年に東京瓦斯局を東京府から澁澤栄一、大倉喜八郎に24万円で払い下げられ、東京瓦斯会社として創立された。当初は、芝にあったが、明治30年新築するとともにこの地(神田錦三丁目)に移転した。澁澤栄一は取締役会長についている。

澁澤栄一は、東京商業学校でも「商議委員」として帝国大学の「官」に対し「民」の立場に立って活躍している。やはり、一橋家・慶喜に仕えたことからしても、この地においても、様々な功績を残している。

なお、澁澤は、一橋家に仕え、旧主・慶喜の真意を正しく後世に伝えたいという熱い思いから、『徳川慶喜公伝』全8巻という膨大かつ貴重な資料を25年をかけて編纂している

共立女子職業学校教場の図

東京府高等女学校:校舎と生徒が輪投げをしている図のようだ。


この一ツ橋、神田錦三丁目周辺には、前回述べた東京大学、一橋大学等の発祥の地であるばかりでなく、今回、『東京名所絵図』をとおして、多くの教育機関が創設されていたことを知ることができました。こうした教育機関が、多くの優秀な人材を輩出し、日本の近代化の下支えをしてきました。いまも優れた学校として存在していることに歴史の重みを感じます。また、教育の歴史を振り返ることも大切だとも思います。


(参考)

神田の文教地区にあった主な大学の設立年代を整理すると、次の通り。これ以外にも、既に述べたような中等学校など多くの教育機関がこのエリアにあり、ここだけでも、教育の歴史の概略を見ることができる。

 

江戸・明治初期:官学中心

①蕃書調所(九段下、1856年)→開成所(「護持院原」(現・錦町)、1863年(文久3年)→開成学校(1868年明治元年)→東京外語学校(1873年明治6年)→東京大学法理文学部(1877年明治10年)

専門学校として、東京商業学校(1884年明治17年現・一橋大学)、音楽学校(1887年明治20年、現・東京芸術大学)、学習院(1877年明治10年華族学校、現・学習院大学)


②昌平坂学問所(1871年閉鎖)→師範学校(1872年明治5年)→東京師範学校(1873年明治6年)→東京女子師範学校(1890年明治23年)

 

明治中・後期:私学台頭

明治法律学校1881年明治14年、現・明治大学)、英吉利法律学校(1885年明治18年、現中央大学)、日本法律学校(1889年明治22年、現日本大学)、専修学校(1880年明治13年、現専修大学)、共立女子職業学校1886年明治19年、現・共立女子大学)

2022年1月8日土曜日

こほり雪


寒の入りの1月6日、東京にも4年ぶりに大雪警報が出ました。午後から降り出した雪は、10㎝ほどつもり、翌朝は零下に冷え込んだため、道路は凍結しました。

 

さすがに、雪が降っているとき、それが凍った翌日にも出掛けることはしませんでしたが、雪が降って、2日経ってから、公園までカメラを持って出掛けました。

 

津軽では七つの雪が降るといわれ、「こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、みず雪、かた雪、こほり雪」と、新沼謙治の「津軽恋女」にも歌われています。

 

今回は、一面の雪景色ではなく、「こほり雪」になった道路や公園の雪景色を撮ってみました。

「こほり雪」

凍った路面

今日から学校も始まった




雪かきを

今日も元気に

新築の家にも雪が

早稲田野球グランド






石神井川にシラサギが


シラサギがカニ?をつかまえた

カワセミもやってきた

カワセミ

「わた雪」


2022年1月2日日曜日

2021年を振返ってⅡ~水・鳥・窓際


続いて、「2021年を振返ってⅡ」として、昨年撮った写真を拾ってまとめてみました。

散歩では、花だけでなく公園の池の水面の美しさ、そこに飛来してくる鳥たちのたくましさに引き込まれました。道すがら、花などを飾る窓際に、愛らしいセンスを感じました。


1.水面








2.

カワセミ

キンクロハジロ

カルガモ

ダイサギとカルガモ

ムクドリ

ムクドリ

ムクドリ

タカ

ウミウ


3.窓際の花












 

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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