金沢神社から成巽閣にまわりました。立派な武家屋敷と緑豊かな庭園がありました。
また、この建物は明治時代には博覧会の会場となりました。そうした歴史も見てみます。
1.成巽閣
13代藩主・前田斉泰が、12代藩主・斉広の正室である母・眞龍院のために、1863年(文久3年)に竹沢御殿の一部を移して造営した。
金沢城から見て東南(辰巳/巽)の方角に位置していたことから、当時は「巽御殿(たつみごてん)」と呼ばれていた。明治になってから「成巽閣(せいそんかく)」と改称された。
2.建物
建物は2階建てになっており、1階が「武家書院造」、2階が「数寄屋風書院造」となっている。
| 屋根瓦に前田家の家紋「梅鉢紋」 |
1階:格式高い「武家書院造」
拝謁のための「謁見の間」など、公式の場としての威厳を放つ格式高い造りになっている。 欄間には繊細な花鳥の彫刻、障子の腰板にはギヤマン(オランダ渡りのガラス)が嵌め込まれるなど、女性らしい雅さが組み込まれている。
| 花鳥の彫刻 |
| 花鳥の彫刻 |
2階:遊び心あふれる「数寄屋風書院造」
格式のある階下の書院に対して、階上は意匠を凝らした数奇屋風書院である。特に、前田家にのみ許された高貴なウルトラマリンの染料を用いた「群青の間」の天井は、鮮烈な美しさがある。ただし、館内は原則として写真撮影禁止となっている。(*写真はネットから借用)
杮葺きの屋根:
屋根は、「杮葺き(こけらぶき)」で造られており、その軽さを生かした「ハネ出し構造(梃子の原理)」で柱のない開放的な縁側(「つくしの縁」「万年青の縁」 )を実現している。
| 杮葺きの説明模型 |
3.展示品
室内には、前田家ゆかりの品々で、散逸を免れた貴重な文化財が展示されている。とくに、、武家において、家門の継承は何よりも重要な責務であり、世継ぎとなる若君が心身ともに健やかに育つことは大名家最大の願いであったことから、歴代の若君たちが実際に使用した、あるいは彼らのために作られた品々が数多く遺されている。大名家の子供用武具や人形は、時代の移り変わりや維新の動乱、災害などによって散逸・焼失してしまうことがほとんどであった。しかし、成巽閣は13代・斉泰が母君(眞龍院)のために建てた「奥方御殿」であり、代々の奥方たちが奥深くの「道具蔵」などで祈りを込めて大切に守り伝えてきたため、今日まで非常に良好な状態で遺されている。
人形:子供の健やかな成長や魔除け、幸運の願いが込められた人形群
| 前田家の家紋「梅鉢紋」 |
童具足:童具足は、端午の節句(武者飾り)の調度品として、あるいは実際の儀礼用として、調製された。
4.庭園
成巽閣の庭園は、主に「飛鶴庭」「つくしの縁庭園」「万年青の縁庭園」の3つで構成されている。いずれも建物から眺める書院庭園 となっている。
(1)飛鶴庭 :辰巳用水から引いた水流を取り入れた、静かで清邃な露地風の平庭。 通常は非公開。
(2)つくしの縁庭園:長さ約20メートルにわたり「柱が一本もない」特殊な構造の廊下(つくしの縁)から一切遮られることなく一望できる広々とした中庭。
(3)万年青の縁庭園 :御寝所であった「亀の間」や万年青の廊下に面した中庭で、築山が設けられており、奥深い山谷のような景色。
| 「柱が一本もない」廊下 |
(4)2階からの庭園の眺め
5.博覧会
兼六園は、加賀藩の私邸から、公園として一般に公開したことに伴い、成巽閣などで博覧会を開催し、文明開化の発信地となった。
(1)成巽閣での博覧会
第1回:金沢展覧会(1872年
/明治5年)
明治5年(1872年)、東京の湯島聖堂を文部省博物館として、日本で初めての博覧会が開かれた。さらに、政府は翌年のウィーン万国博覧会に向け、国内各地で物産を集める博覧会を推奨した。
金沢では中屋彦十郎や森下森八ら民間人が発議し、成巽閣とその隣接地に残されていた「旧鉱山学所(デッケン館)」を合わせて最初の展覧会が30日間開催された。展示物は湯島聖堂での博覧会と同様のものであったが、博覧会より少し規模が小さく、出品点数も少なかったので、「展覧会」とされた。
第2回:金沢博覧会(1874年
/明治7年)
豪商の木谷藤十郎らによって成巽閣(この年に巽御殿から成巽閣へ改称)を会場に開催。名古屋城から取り外された「金の鯱(しゃちほこ)」が展示され、大きな話題を呼んだ。
第3回:兼六園内博覧会(1875年
/明治8年)
兼六園内の洋館(旧鉱山学所)を博物館の仮会場として開催。常設展示への要望がさらに高まる契機となる。
第4回:金沢博物館開館に合わせた博覧会(1876年
/明治9年)
木谷らの「博物館設立方願」が県に受理され、成巽閣と洋館を統合して「金沢博物館」が誕生。開館記念として他府県からも多くの出品を集めた大規模な博覧会が催された。
これは、明治維新に伴い、加賀藩の御細工所が廃止され、金沢の工芸産業が激しく衰退したことに危機感を持った地元の豪商木谷藤十郎ら官民が、工芸品の産業復興を目指した動きであった。
その後、
1878年(明治11年)金沢博物館が勧業博物館に改称。同年、明治天皇が北陸行幸された際、この勧業博物館と兼六園を視察された。
1880年(明治13年)勧業博物館が県に移管され石川県勧業博物館となる。
1909年(明治42年)時代の進展とともに役割を終え、博物館としては廃止となる。
(2)デッケン館
デッケン館は、明治初期に兼六園の「山崎山」の麓に建てられた、石川県最初期の洋館(異人館)で、お雇い外国人であるドイツ人鉱山学者、フォン・デッケン(1837~1897)の居宅として建設された。当時の最先端である洋風のデザインを取り入れた木造の建物で、金沢市民からは「異人館」と呼ばれ珍しがられた。
先に述べたように、1872年(明治5年)デッケンが退去したあとの洋館(デッケン館)と、前田家の奥方御殿であった成巽閣を主な施設にあて、博覧会が開催され、金沢の文明開化の象徴的な舞台となった。
6.武家屋敷の土塀
兼六園を小立野口から出ると、長い塀が続く、塀の中の建物は金沢医療センターである。この地は、加賀藩の最高名門である「加賀八家」の一つ、奥村宗家(1万7,450石)の上屋敷があった場所である。金沢医療センターの前身は、1873年(明治6年)に「金沢衛戍病院(陸軍病院)」として場内に創設された。1899年(明治32年)には、第9師団の設置などによる軍備拡張に伴い、城内から奥村家の屋敷跡(現在地)へと新築移転した。当時、 1万坪を超える広大な土地を一括で接収でき、しかも金沢城や兼六園に極めて近い場所であり、城内にある司令部との連携や、兵士の輸送などにも最適な立地であった。
長土塀は、大名並みの権力と財力を持っていた奥村家の広大な敷地を物語る遺構であり、 土塀の全長は282メートルに及び、病院の敷地をぐるりと取り囲んでいる。金沢市内に現存する武家屋敷の土塀の中でも最大級の規模である。現在の土塀は、1759年(宝暦9年)の金沢大火で一度焼失したのち、1779年(安永8年)までに復元されたもの。また、兼六園下へと続く坂沿いの土塀は、1919年(大正8年)の市街電車敷設の際に新設されたもの。この時、江戸時代から続く奥村家屋敷の景観を損なわないよう、伝統的な構法を用いて周囲に調和させたという。
明治維新とともに、金沢城は陸軍の拠点となり、兼六園は公園として一般開放された。成巽閣は博覧会の会場となり、いっぽう、家老職にあった奥村家の武家屋敷は陸軍病院となる。それぞれの歴史に近代化の象徴を見ることができる。
つぎは、明治時代には博覧会の会場となった成巽閣から、現代の金沢にある美術館をその建物を観ていきます。

