| 金沢聖霊修道院聖堂 |
金沢の街は、どこをみても日本的な雰囲気があります。しかし、今回は教会に行ってみました。可愛らしい教会で、美しい建物です。加賀といえば、かつては真宗王国といわれるほど浄土真宗の門徒が多いところで知られていますが、江戸時代には高山右近がキリスト教を広めた所でもあります。そんな歴史も垣間見てみました。
1.金沢聖霊修道院聖堂
1931(昭和6)年、キリスト教カトリック系の医療施設「聖霊病院」の附属聖堂として建設された。 設計はスイス人建築家・マックス・ヒンデル(1887-1963)による。マックス・ヒンデルは、大正末期から昭和初期にかけて15年間日本に滞在し、その間各地で次のようなカトリックの教会堂建築などの設計を多く手がけた。
天使の聖母トラピスチヌ修道院(函館、1927年)。カトリック松が峰教会 (宇都宮1932年 ):大谷石を使った双塔の教会建築。カトリック神田教会(東京、1928年)。聖母病院(東京、1931年)。上智大学1号館 (東京、1932年) など。
(1)外観の特徴
聖堂の外観はチロル風のロマネスク様式が特徴となっている。
ロマネスク建築が基調:全体的に半円アーチや円形の窓を配置した、素朴で重厚なロマネスク様式を取り入れている。
チロル風の鐘楼:ヒンデルが来日前に活動していたオーストリア・チロル地方の影響を受け、頂部に十字架を冠した八角形の美しい尖塔(鐘塔)を持っている。
下見板張りの外壁:木造平屋建ての構造で、白い下見板張りの外壁と、2層の切妻屋根が特徴となっている。
| 頂部の十字架 |
| 白い下見板張りの外壁 |
(2)内部の特徴
聖堂の内部は 和洋折衷と金沢の伝統工芸が使われているのが特徴となっている。
三廊式バシリカの空間:中央の身廊と、両脇の側廊からなる、三つの廊が並ぶ「三廊式バシリカ」と呼ばれる建築様式をとっている。
伝統技術による天井:側廊の天井は、日本の伝統的な葭(よし)を簾状に編んだものを下地にし、漆喰で仕上げることで、ロマネスク調の「交差ヴォールト風天井」を再現している。
畳敷きの名残:日本の生活様式に合わせ、創建時は「全面畳敷き」のミサ空間であった。現在は中央の通路を挟んで右側が畳敷き、左側が椅子席という独特のスタイルになっている。
伝統工芸の融合:堂内の列柱や仕上がりには、黒漆塗りや金箔貼り、群青といった金沢ならではの伝統色彩や技法が随所に散りばめられている。正面中央に祀られている十字架は、地元で獅子頭を彫っていた職人・古瀬信一の作品(昭和14年)である。
バラ窓と壁画:正面にはステンドグラスのバラ窓があり、祭壇の奥には「神・イエス・聖霊」を描いた三位一体の壁画が施されている。
| 右側が畳敷き、左側が椅子席 |
| 三廊式バシリカ |
| 聖体灯 |
| 正面中央に祀られている十字架 |
| 「IHS」のモノグラム |
| 告解室 |
(3)聖霊病院(現・金沢聖霊総合病院)
ドイツ人カトリック宣教師・ヨゼフ・ライネルスが1914(大正3)年「聖霊病院」として開院した。生活困窮者を対象に無医村診療などを行い、地域からは「ドイツ病院」、「お助け病院」と呼ばれた。
2.加賀藩とキリスト教
加賀藩におけるキリスト教の歴史は、1588年に高山右近が藩祖・前田利家によって客将として招かれたことから始まる。高山右近は、前年の豊臣秀吉によるバテレン追放令で、播磨明石から追われていたが、加賀藩祖・前田利家に預けられた。当初は囚人のような扱いを受けていたとされるが、1590(天正18)年になると、利家から、2万6000石の扶持を受けて暮らすようになる。この待遇の変化は秀吉の意思によるものと考えられ、秀吉は右近を豊臣政権に復帰させようとしたが、右近の棄教を拒否する意思の前に秀吉も断念し、前田家の管理下に置くことで、相応の待遇を容認したのではないかとされている。また、前田利家は以前から、右近を、「武勇のほか、茶の湯、連歌、俳諧にも達せし人」と高く評価していたとされ、加賀においてキリシタンとしてのみならず、武将として、築城家として、茶人として待遇した。
(1)加賀の一向宗
前田家が統治する以前の加賀は、一向一揆によって約100年間にわたり仏教徒が自治を行い、「真宗王国といわれるように「百姓の持ちたる国」であった。そこに織田信長の命で一向一揆を武力鎮圧した前田利家が乗り込み、さらにキリシタン大名である高山右近を招き入れたため、両者の間には複雑な緊張関係が生じた。
(2)切支丹大名としての右近
そうしたなか、前田利家、利長らの黙認と保護のもとで、右近は自費で教会を建て、熱心に布教を行い、多くの藩士や家来がキリスト教に入信した。また、 右近を慕い、内藤如安や浮田休閑といった各地のキリシタン武将が集まり、金沢城の西側には、これら信徒や宣教師が居住する「伴天連屋敷エリア」が形成された。 その結果、1604年ごろにはキリスト教徒は約1,500人にまで達したと記録される。しかしながら、加賀藩領の大半を占める一向宗門徒の信仰の絆は非常に強固であり、キリスト教が武士階級を超えて一般農民にまで広く浸透するのを防ぐ巨大な防波堤となった。
(3)武将・築城家としての右近
右近は、1590(天正18)年の小田原征伐に建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し、八王子城の戦いにも参加している。
また、築城家としての高い技術を活かして金沢城の修築や、惣構(外堀)の建設など、加賀藩の街づくりにも大きく貢献した。また、加賀藩2代藩主・前田利長の隠居城となる高岡城の設計を担当した。
(4)茶人としての右近
千利休の高弟で「利休七哲」の一人として知られる右近は、茶の湯の文化を加賀藩に広めると同時に、茶会をキリスト教の布教や信者同士の交流の場として活用した。当時の加賀藩主・利家も、右近の茶室で南蛮文化を学んだとされる。
1614(慶長19)年、徳川幕府による全国的なキリシタン禁教令が出されると、右近は棄教を拒否した。その結果、約26年間を過ごした加賀を離れ、マニラへ追放され、翌年現地で死去した。
時代が変わり、明治時代初期のキリスト教解禁とともに、プロテスタントの宣教師が金沢に入り、再び布教が始まることになる。
| 高岡古城公園にある高山右近像 |
高山右近が加賀にも大きな足跡を残していることを知りました。残念ながら右近ゆかりの地である、カトリック金沢教会などを巡ることはできませんでしたが、加賀料理の代表である「治部煮」は頂きました。というのもこの治部煮は、右近が宣教師からもたらしたもので、フランス語のジビエに由来するといいます。ただし、治部煮のルーツについては、高山右近説のほかにも諸説あるようです。
歴史の奥深さを味わいました。