| 勝興寺・本堂 |
勝興寺の本堂は、国宝に指定されています。本堂は、京都・西本願寺の阿弥陀堂を模して造られたことから、その建物も、外観も見事ですが、そこに施されている彫刻、さらに内部の装飾なども素晴らしいものです。これまで見た井波彫刻、高岡銅器という伝統技術がここでも生かされています。
西本願寺・阿弥陀堂
(参照):
1.本堂の歴史
本堂は、1760(宝暦10)年造営の京都・西本願寺 阿弥陀堂を模して、1795(寛政7)年に落成した。
(1)前田家の篤い庇護
江戸時代、加賀藩・前田家と勝興寺の関係は良好であり、1646年(正保三年)には本願寺12世・准如(じゅんにょ)の六男である良昌(りょうしょう)が住持となり、そこに加賀藩2代藩主・前田利常の養女が輿入れしたことで本願寺及び前田家との強固な関係が構築された。さらに、1756年(宝暦六年)には5代藩主・前田吉徳(よしのり)の十男・法暢(ほうちょう)が、幼くして出家して1756(宝暦6)年に11歳で勝興寺の住職に就いた。十男ゆえ藩主など遠い存在であったが、兄たちが相次いで亡くなり、1771年 (明和八年)に、還俗した法暢が前田治脩(はるなが)として十代藩主に就任した。その際、治脩は藩主就任の条件として、老朽化した勝興寺の修復を挙げたとされ、本堂はじめ伽藍全体の整備に精力的に取り組んだ。
(2)本願寺を模す
現在の「本堂」は前田治脩による援助を受けて1793年 (安永四年)に着工し、1795年(寛政七年)に遷仏して竣工した。本願寺阿弥陀堂の絵図をもとに、地元大工と考えられる滝川喜右エ門が采配を振るい、加賀藩御大工として多数の大型建築を手掛けた山上善五郎に技術指導を仰ぎつつ築き上げた。
本堂には、「高岡鋳物」や「井波彫刻」といった高度な伝統工芸技術の粋が随所に散りばめられている。
2.本堂の建物
(1)外観
境内の南寄りに東面して建ち、間口(桁行)約39.3メートル、奥行(梁間)約37.5メートル、高さ約23.5メートルと地方の仏堂としては屈指の規模である。本堂全体を122本もの国産ケヤキの太い柱が支え、非常に強固な構造をしている。
一般的な社寺建築は南向きだが、ここの本堂は東に向けられている。これは西方浄土の仏教思想に拠るもので、真宗の本尊 阿弥陀如来が浄土より民衆を迎える「来迎」の教えを具現化したものとされる。そのため、浄土のある西を向いて参拝することになる。
屋根は入母屋造(いりもやづくり)と呼ぶ側面に三角部分を持つ屋根で、正面の中央には玄関口の庇である向拝(こうはい)が張り出している。
①扁額「殊勝誓願興行教寺」(しゅしょうせいがんこうぎょうきょうじ)
内外陣境正面には、1883(明治16)年に新調された勝興寺の名称のルーツを示す扁額「殊勝誓願興行教寺」が掲げられている。額縁には昇り龍と降り龍の金箔彫刻が施されている。
「殊勝誓願興行教寺」は、勝興寺の名称のルーツとなる由緒ある寺号で、承久の変(1221年)で佐渡島に配流された順徳天皇の勅願により、親鸞聖人の弟子が開いたとされる寺院の名称に由来する。その、3文字をとって「勝興寺」と名付けられた。
②大香炉
本堂の手前には獅子頭の大香炉が置かれている。これも「高岡銅器」の伝統技術によるもの。
③梵鐘
平安時代後期の治承3年(1179年)に鋳造された、富山県内に現存するなかで最も古い梵鐘である。 元々は勝興寺のために作られたものではなく、越中国の有力な寺院から戦国時代の混乱期などを経て、勝興寺へと移されたと言われている。
この古鐘は、ひび割れがあり、撞くくことができないため本堂内に展示されている。このひびは「一向一揆の際、激しく乱打したために割れてしまった」、あるいは「天正9年(1581年)に織田信長方の兵(佐々成政など)によって勝興寺が焼き討ちされた際、炎上・落下して傷ついた」という説があるそうだ。この梵鐘(釣鐘)は、敵の襲来や非常事態を門徒たちに知らせる「陣鐘(じんがね)」として、戦国時代の過酷な歴史を伝える貴重な遺物とされる。
上部の「龍頭(りゅうず)」:鐘を吊り下げる最上部には、一対の龍の頭を模した「龍頭」が精巧に鋳造されている。
「乳(ち)」の配列:鐘の上部を取り囲むように突起している丸い部分は「乳」と呼ばれる。整然と格子状に並べられており、荘厳な音響の余韻を生み出す役割も果たしている。
④青銅製燈籠
1963(昭和38)年の親鸞聖人七百回忌法要に合わせ、本堂前に伝統産業「高岡銅器」を象徴する一対の青銅製燈籠が奉納された。六角形の基台の上に蓮弁状の台座を載せ、火袋には唐草紋様の透かし彫りと金色の寺紋、天には擬宝珠を冠している。高岡鋳芸社
堺幸山作とされている。
(2)彫刻群
建物の手挾、木鼻、蟇股に鳳凰や鶴、獏、孔雀、獅子、麒麟、鶴、象などの吉祥の彫刻が多く施されている。勝興寺には、青だく、解豸(かいち)といった珍しい霊獣も見られる。これらの作品の多くは、明治時代のもので、井波の職人によるものとされる。(瑞泉寺で見た井波彫刻によく似たものもある)
(参照):
①蟇股の彫刻
向拝とは、建物の正面の階段を覆う庇(ひさし)のこと。向拝の蟇股に施された彫刻は、中央に仏法の守護「龍」、その両脇に仁徳を具える「麒麟」を配している。共に霊獣の双璧であるが、山号「雲龍山」に因み「龍」を中央に配している。
「龍」「麒麟」
「象」
「波に天馬」
天馬(海馬)は、体に炎のような気炎をまとったり、波の上を駆けることができる空想上の「聖獣・霊獣」として扱われ聖域である本堂や仏法を外敵・邪気から守る「守護獣」 とされる。
「鳳凰」
徳の高い君主が世に現れる際に姿を見せるとされる、中国古来の瑞鳥(吉祥の鳥)である鳳凰。
「唐獅子と牡丹」
唐獅子は、百獣の王とされ、魔除けや守護の意味をもつ。牡丹は、 百花の王とされ、富貴や繁栄の象徴とされる。
「唐松に孔雀」
孔雀は、害虫や毒蛇を好んで食べることから「人間の心の毒や煩悩を喰らい尽くし、災いを取り除く益鳥」として尊ばれてきた。また、 青々とした葉を落とさない松は、「長寿」や「誠実・不変」の吉祥の植物で、 仏の教え(仏法)が未来永劫変わらずに栄え続けること、また門徒の信仰心が揺るぎないものであることへの願いが込められている。
「竹に虎」
竹林は、虎にとって絶対的な安全地帯(聖域)となることから、「竹と虎」は強者が安息を得る場所、あるいは神仏の慈悲によって守られた安全な聖域を意味する。
「笹に解豸(かいち)」
解豸(かいち)は、正邪の判別に長けた聖獣であることから、法や公正、正義の象徴とされる中国の伝説の霊獣。一説には、日本の狛犬の起源ともされる。麒麟と獅子を合体させたような風貌をもつ。
勝興寺本堂に彫られているものは「麒麟形の解豸」に分類され、顔つきや体が麒麟や獅子に近く、体を炎が包み、足は蹄ではなく肉球のある獣の足(獅子や虎の足)をしている 「物事の善悪や正邪を厳しく見分ける力」を持つとされている。裁判や法、正義の象徴であり、人々の間で争い事が起きた際、不正を働いている者をその鋭い一角で突き刺して懲らしめるという性質を持っているとされる。
「雲に永楽鳥」
永楽鳥というのは、体に五色の文様(美しい色彩)があり、クチバシは赤く(丹喙)、頭も赤(赤頭)で、頭の上には冠(冠羽)がある。
この鳥が「天下太平(てんかたいへい)」と鳴くとき、世の中が平和に治まるとされている。
「雲に龍」
「象」
猿のようにも見えるが?
「唐松に青だく」
「青(せい)だく」は、顔は人間に近く、翼は8枚、脚は1本という。
よく観ると、普通の鳥には見られない長く細い角が2本生えている。
中国の伝説の霊鳥とされ、『和漢三才図会』には「人面に鳥の喙、八つの翼をもち一足、毛の色は雉に似ていて進行するにも土を踏まない」とある。一説には、ヴィシュヌ神の乗り物であり、鳥族の王ともされる半人半鳥の神鳥とされるヒンドゥーの幻獣「ガルーダ
」ともされる。
「波に神亀」
これは親子の玄武(神亀)と波を彫っている。
「波に鷹」
荒波という厳しい環境に毅然と立ち向かう鷹の姿を通して、「困難に打ち勝つ強さ」や「不屈の精神」を表現している。
「波に飛龍」
飛龍は水を司る霊獣であり、荒波を蹴立てて大空へと飛び立つ躍動的な姿である。
「雲(瑞雲・霊雲)」
勝興寺の山号は「雲龍山」であることから、本堂の各所には山号にちなんだ「龍」の精巧な彫刻が施されており、この蟇股に彫られた豊かな雲のうねりは、龍が飛翔する天空や、吉祥をもたらす瑞兆を表わしている。
②木鼻の彫刻
「獏」
「獏」は、「悪夢(災い)を食べる」とされ、邪気を払い、世の中の安寧を守る平和の象徴とされている。。鼻が長く、独特の巻き毛のたてがみや、鋭い爪を持っているのが特徴。
「象」 5606
仏教において、お釈迦様の誕生にも深く関わる神聖な動物で、仏法の守護獣とされる。象の彫刻には、足の裏に可愛らしい「肉球」が彫られ、隠れた遊び心も隠されている。
「龍頭」
「隅尾垂木(すみおだるき)」の先端に彫られた龍頭。
③手挟の彫刻
正面向拝の庇下にある手挟みに施された一木造りの透かし彫りの彫刻。
④妻下の彫刻
雲様の懸魚(げぎょ)に龍と牡丹
屋根の側面(妻下)を彩る彫刻装飾や雲様の懸魚、およびそこに施された「龍」と「牡丹」は、火災から建物を守る魔除けと、勝興寺が持つ高い格式(山号や加賀藩・本願寺との繋がり)を象徴している。
雲様の懸魚:本堂の懸魚は、波や雲をかたどった「雲様(くもがた)懸魚」が彫刻で構成されている。雲は「雨を呼ぶもの」であり、これも魚と同様に火災を退ける強い防火の願いが込められている。
「龍」:勝興寺の山号は「雲龍山」であり、本堂正面の向拝(玄関口)中央にも見事な龍が配されているが、妻下の懸魚周辺に龍が躍動しているのも、この山号に由来する。
龍は仏教において「仏法を守護する八大龍王」として崇められており、同時に「天に昇り、雲を呼び、雨を降らせる」という水の神(恵みの雨をもたらし、火を消す神)でもある。まさに木造の巨大な本堂を火災から守る最強の守護神として彫られている。
「牡丹」と対になる「唐獅子」:牡丹は古来「百花の王(長)」とされ、富貴や栄華、最高位の美しさを象徴する植物。 勝興寺は、西本願寺(京都)の阿弥陀堂を規範として建てられた壮大な真宗寺院であり、さらに加賀藩主・前田家とも極めて強い姻戚・経済的結びつきを持っていた。この「牡丹」や「唐獅子牡丹」の意匠は、勝興寺が持っていた本願寺連枝(門主の血縁)としての上流階級の気品と、加賀藩前田家のバックアップによる高い権威を視覚的に証明するものとなっている。
3.本堂の内部
内部は、一般参拝者が集まる手前の「外陣(げじん)」と、仏像が安置された奥の「内陣(ないじん」の二分構造になっている。その外陣と内陣を区切る結界のような役割を果たしているのが「欄間」である。
(1)内陣
素木の外陣とは対照的に、一歩結界を越えた内陣は純金箔と黒漆塗で埋め尽くされている。そのきらびやかさは、モデルとなった本山・西本願寺以上とも評されている。
中央の内陣は、御本尊の阿弥陀如来を安置する最も重要な部屋である。床を一番高く張り、黒と朱色の漆塗を施しか須弥壇を中央に設え、その上に金箔貼の宮殿(くうでん)を据えて、その中に阿弥陀如来立像を安置している。天井は周囲より一段高くする折上格天井とし、十六弁の菊花(頌徳上皇の勅願所を継承した為)を描いている。
梁や金箔の柱の上部には、色鮮やかな装飾紋様が細部まで描かれている。これは経典に説かれる「金・銀・瑠璃などの宝石で飾られ、美しい鳥が舞い、清らかな花が咲き誇る極楽浄土」の風景を、当時の工芸・絵画技術の粋を集めて本堂内に再現したもので、この内陣は、まさしく阿弥陀如来の極楽浄土を具現化している。
![]() |
| 西本願寺・内陣 |
| 勝興寺・内陣 |
| 手前が外陣 |
(2)欄間
欄間には極彩色の「牡丹」の彫刻が並び、上方には楽器を奏でて舞う「天女」の立体的な木彫が施されている。その周囲には赤・青・緑・金色など種々の絵具や金箔で彩られる彩色が華やかに施され、さらに金色に輝く錺金具(かざりかなぐ)が随所に散りばめられている。
(3)灯籠
①猫足型灯籠(柱掛け灯籠)
浄土真宗の伝統的な様式を反映した華麗な透かし彫りと、下部の丸みを帯びた「猫足」と呼ばれる装飾が特徴的である。金色のフレーム部分には、寺院を支えた信徒や門徒組織(講中)の寄進者名が刻まれており、歴史的な信仰の深さを今に伝えている。
②巨大な吊り灯籠「高岡講中」
高岡は江戸時代、加賀藩の「商工業の町」として大きく発展し、富を蓄えた有力商人や、鋳物師などの職人たちが「高岡講中」を組織し、越中真宗の触頭であった勝興寺へ多大な財政支援を行っていた。明治時代の廃仏毀釈や藩からの財政支援の打ち切りにより、多くの中世・近世大寺院が経済的に困窮し、建物や土地、寺宝を切り売りせざるを得なったが、勝興寺は、この「高岡講中」をはじめとする越中全域の熱心な真宗門徒たちが、時代が変わっても熱心に支え続けたため、江戸時代そのままの壮大な規模を現在まで完全に残すことができた。
吊り灯籠に刻まれた「高岡講中」の4文字は、加賀藩の経済を支えた高岡町民たちの圧倒的な財力と、阿弥陀如来への深い信仰心のを示しているものと言える。
(4)「デカローソク」
この大蝋燭は、燭台を含めると高さが約3メートル、重さ150kgに達する圧倒的な大きさである。毎年1月6日に営まれる、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の遺徳をしのぶ「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)」などの重要な法要の際に火が灯され、厳かな空間を黄金色に照らし出す。
このような巨大化したローソクが造られるようになったのは、明治以降、勝興寺周辺にある2つの地区が、1年交代で本堂に蝋燭を奉納する慣例ができ、両地区の間で「相手の地区よりも立派なものを奉納したい」「負けたくない」という対抗心が芽生え、年を追うごとに大きさを競い合うようになったという。 現在は、市内の老舗ろうそく店がこの伝統的な大ろうそくの製造を担っており、地元の信仰心と遊び心が合わさって生まれた勝興寺ならではの隠れた名物となっている。
| 両脇にデカロウソク |
(3)掛軸・絵画
浄土真宗の伝統的な様式(西本願寺本堂を規範)に則り、中央の「御内陣(ごないじん)」と、その左右にある「余間(よま)」に、それぞれ重要な掛軸や仏画が配置され、教義において不可欠な役割を果たしている。
①御本尊:阿弥陀如来立像
御内陣の正面中央、須弥壇の厨子内に安置される信仰の根本主体である。すべての生きとし生けるものを救い、極楽浄土へと導く慈悲を表している。
②親鸞聖人御影
真宗の本堂で、本尊の右側に掛けられる親鸞聖人の肖像画は、浄土真宗の開祖である親鸞への報恩感謝を表し、門徒がその教えを我が身に聞くための礼拝対象として、真宗寺院には欠かせない最も重要な肖像画である。主に「鏡御影(かがみのごえい)」と呼ばれる構図(国宝・西本願寺蔵を模したもの)に基づいている。
正面ではなく、少し斜めを向いて座っているが、これは「常に阿弥陀仏を仰ぎ、民衆と同じ方向(浄土)を向いている」という親鸞の 謙虚な姿勢を表している。
また、華美な法衣ではなく、墨染めの素朴な衣服を纏い、足元には鹿の皮(当時、旅や修行で使われた実用的なもの)が敷かれている。これは、権力に阿ねず、辺境の地で苦しむ庶民とともに生きた「非僧非俗」の精神を表しているとされる。
③上宮太子
④聖徳太子像
聖徳太子は、飛鳥時代に大陸から伝来した仏教の教義に深い理解を示し、これを通して国家の安定を祈願、その興隆に力を尽くした。後の時代には仏教保護者として宗派を越えて崇敬を集めるようになるが、とりわけ浄土真宗との関係は深い。太子建立とされる六角堂(京都)に宗祖・親鸞が参籠し、念仏専修の道を選んだと伝えられることから、浄土真宗の寺院では太子像を安置して祀るようになったといわれている。
髪を美豆良(みずら)に結い、苞の上に袈裟を懸け、裙をつけて沓を履く太子が柄香炉を手にする本図は、「孝養図」の様式を示す。
⑤蓮如上人真像
描かれている姿は、親鸞聖人と同じく、斜めを向いて座る姿(「前御影」などの伝統的構図)で描かれている。蓮如上人は、難解だった親鸞の教えを「御文章(おふみ)」などを通じて日本全国の庶民へ爆発的に広めた人物で、宗の「中興の祖」といわれる。
⑥七高僧像
インド・中国・日本の、浄土の教えを正しく伝えた7人の高僧(龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空)を1幅に描いたもの。親鸞が自らの思想の基盤とした先達への敬意を表している。
⑦釈准性
第26代住職である「准性(誠教院)」の肖像画。勝興寺には、初代から近代に至るまでの住職の肖像画が揃っているという。
⑧鏡如
鏡如(大谷光瑞)上人は勝興寺の住職ではなく、京都・西本願寺の門主。真宗寺院の本堂(内陣)において、本山の「歴代門主」の御影を掛ける際は、基本的には「親鸞聖人」「蓮如上人」が中心となり、近現代の門主の御影を一般の参拝の場に常時掲げることは稀であるが、明治〜大正期に鏡如上人と物的な繋がりが非常に深いことによるようだ。
⑨「金地着色松樹図」
まばゆい金箔の背景(金地)に、力強く屈曲した幹と青々とした松の葉が描かれ、その上には立体的に積もる「白雪」がダイナミックに表現されている。加賀前田家との深い結びつきを示す、桃山〜江戸時代初期の豪壮華麗な狩野派や真宗大寺院の様式を色濃く伝えている。
続いて、やはり国宝になっている「大広間・式台」にまわります。こちらも外観のみならず、多くの寺宝が所蔵されています。


