2026年6月28日日曜日

金沢を歩く6~東別院(真宗大谷派金沢別院)

 

東別院

先に、キリスト教の聖堂を観ましたが、今度は浄土真宗のお寺、東別院に行きました。正式には「 真宗大谷派金沢別院」です。また、徒歩10分ぐらいのところに西別院(「浄土真宗本願寺派 本願寺金沢別院 」)があります(寄りませんでしたが)。

加賀は「真宗王国」といわれるように、前田家と一向宗の関わりは深いものがあります。その歴史も垣間見ておきます。

1.東別院

(1)本堂

1962(昭和37)年の火災による焼失を経て、1971(昭和46)年に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂が完成した。本堂には、阿弥陀仏、親鸞聖人、蓮如上人の御影が安置されている。


塀の石垣


本堂

阿弥陀仏



蓮如上人像

聖徳太子像




本堂内部


(2)大門

火災を免れた大門は昭和32年に竣工した。楼上の天井には、木村杏園によって描かれた迫力ある龍の図がある。しかし、大門の楼上(2階部分)の堂内に納められているため、通常は門の下をくぐって見上げる位置からは見えず、特別な法要や行事の際などを除いて見ることはできないようだ。














代わりに手水舎の龍、 鐘楼堂の龍の彫刻 を観た。

手水舎

手水舎の龍

親鸞聖人像

かつての本堂の鬼瓦


(3)鐘楼堂

こちらも火災を免れた歴史ある建造物で、梵鐘には1545(天文14)年の銘が刻まれている。




鐘楼堂の龍の彫刻


2.前田家と一向宗

東別院は、1546年(天文15年)に加賀国石川郡の門徒衆によって、現在の金沢城跡地に「みたう(御堂)」が建立されたのを始まりとする。「みたう」は、のちに「尾山御坊」と呼ばれ、一向一揆の拠点となった。

戦国時代:前田家が登場する前、加賀は戦国大名ではなく一向宗門徒が支配する異例の地域であった。

1488年(長享2年):加賀一向一揆が勃発。門徒たちが守護大名の富樫政親を自害に追い込む。

1546年(天文15年):一向一揆の司令塔・政治の拠点として、現在の金沢城の場所に「金沢御堂」のち「尾山御坊」が建立される。

1580年(天正8年):織田信長が一向宗の本山である大坂・石山本願寺を降伏させると、北陸の一向一揆も終焉を迎える。信長の命を受けた柴田勝家や佐久間盛政が金沢御堂を攻め落とし、一揆の自治が解体される。

1583年(天正11年):本能寺の変ののち、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」が起きる。秀吉側に付いた前田利家が、佐久間盛政の領地だった金沢城に入城し、ここから前田家による加賀統治が始まる。前田利家が金沢に入城した当時、一向一揆の残り火は根強く、統治は困難を極めた。

利家は反抗的な門徒を容赦なく処刑し、見せしめとして手取川の河原に磔にするなど、当初は厳しい弾圧を行った。しかし、力だけの支配に限界を感じた利家は、一向宗の信仰そのものを禁止するのではなく、「政治に口を出さないなら、信仰は認める」という融和方針へ転換する。そこで、金沢城の象徴だった御堂の建物を破却するのではなく、城外の別の場所尾崎御坊現在の尾崎神社 などに移築させ、寺領を安堵して保護した。

1587年(天正15年):利家により金沢城が築かれた後、一向衆との融和を図るため寺地を寄進し 寺院の機能は金沢城の「後町(うしろまち)」に移されたその後、1611年( 慶長16年 )に現在の笠市町の場所へと移転する。これが現在の浄土真宗本願寺派の本願寺金沢別院(西別院)」にあたる。
1602年(慶長7年):いっぽう、本願寺は、徳川家康から京都に土地を寄進されたことで、「西本願寺」と「東本願寺」に完全に分立した。これに伴い、加賀・能登・越中の教如上人(東本願寺)を支持する門徒たちが、西本願寺派に対抗して新たに金沢に御坊が建てられ「東末寺」(のちの金沢東別院)として出発した。

1634年(寛永11年):その後、東別院は、現在の地(安江町)に寺基が移された。

3.東・西本願寺の分裂

東別院は真宗大谷派の京都・東本願寺を本山とし、西別院は浄土真宗本願寺派の京都・西本願寺を本山とする。それぞれの本山である、本願寺が東西に分立した歴史を追ってみる。

(1)織田信長の時代:

10年以上織田軍と戦ってきた石山本願寺の顕如(父)は、遂に降伏的和睦し紀州にしりぞいた。その際、長男の教如は和睦に反対して籠城を継続した。激怒した顕如は教如を勘当(義絶)し、跡継ぎを三男の准如に決定する。顕如の死後、豊臣秀吉の裁定で一度は長男の教如が跡を継ぐ。

(2)豊臣秀吉の時代:

しかし 秀吉はかつて信長に激しく抵抗した強硬派の教如を嫌い、 また、顕如の准如を後継とする譲状(遺言状)を盾に、わずか1年で教如を退位させ、准如を本願寺(西本願寺)の新たな門主に据え置いた。

(3)徳川家康の時代:

失脚した教如は「裏方」と呼ばれる独自の勢力を形成し、本願寺内に激しい派閥対立が生じる。教如は関ヶ原の戦い前後で徳川家康に接近し協力をした。

1602年、家康は教如の功績に報いるため、准如の本願寺(西本願寺)に対抗する形で、教如に京都・烏丸七条の土地を寄進した。 教如はここに新たな本願寺を建立。これにより、准如の西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如の東本願寺(真宗大谷派)に完全分立した。

これは、本願寺の巨大な宗教勢力を恐れた家康が、組織を二分割して弱体化させるために裏で仕組んだ政治工作とされる。

分立後、双方はそれぞれの基盤を固め、現代に続く巨大教団へと発展した。

教如(東本願寺・真宗大谷派)は、その後 家康の全面的なバックアップを受け、東国(関東や東海)の門徒を中心に勢力を急速に拡大した。

准如(西本願寺・浄土真宗本願寺派)は、その後 豊臣秀吉から安堵された六条堀川の地(現在の西本願寺)を守り、西日本を中心に強固な地盤を維持した。

この本願寺の東西分裂は、そもそもの兄弟の対立という、個人の確執を超えて、戦国時代から江戸時代への権力交代(織田~豊臣~徳川)に翻弄された、日本の宗教史上最も大きな転換点の一つであった。

4.東西分立した本願寺への前田家の対応

金沢の東別院と西別院は、かつて一向一揆の拠点だった寺院をルーツに持つが、京都の本山の分立に伴い「東派(真宗大谷派)」と「西派(浄土真宗本願寺派)」に分かれて発展した。両院は金沢の町が宗教都市として発展する礎を築いた重要な場所で ある。前田家の東西分立した本願寺への対応策を見ていく。

(1)東西分立への対応

徳川家康の政治的意図により本願寺が「東(真宗大谷派)」と「西(浄土真宗本願寺派)」に分立した際、前田家はどちらか一方だけを優遇することをせず、両方に別院(東別院・西別院)の土地を与えて庇護した。

(2)東西の競合を利用した統制:「触頭」
加賀藩領内(加賀・能登・越中)には東西両派の有力寺院が混在していた。3代藩主・前田利常らは、領内の主要な巨大寺院をそれぞれ東西の「触頭(ふれがしら)」として、藩と本山を仲介・統制する最高責任寺に任命した。

東本願寺系には、城端の善徳寺や井波の瑞泉寺(いずれも現・南砺市)、専光寺(金沢・安江木町)などを触頭に指定。

西本願寺系には、伏木の勝興寺(現・高岡市)を触頭として指定、

これら領内の触頭寺院に、加賀藩主の息子(実子や一族)を次々と住職(門主)として送り込んだ。これにより、寺院のトップが「前田家の人間」となり、本願寺の末寺組織でありながら、実質的には加賀藩の出先機関のような機能を持たせることに成功した。

(3)本山・本願寺への依存度を薄める
藩は領内寺院の役職任免や紛争解決の権限をこの「触頭」に集約させ、金沢の「寺社奉行」がそれを監視する体制を確立した。これにより、門徒たちが京都の本山(東・西本願寺)を直接仰ぐのではなく、「加賀藩のコントロール下にある地元の有力寺院」を仰ぐ仕組みを作り上げた。

(4)本山・本願寺への財政援助

京都の東・西本願寺は火災等により巨額の借金を抱えたが、、加賀藩は最大の門頭(信者組織)を抱える国として、これらの再建資金や上納金をコントロールし、経済的優位性から本願寺に発言力を持ち続けた。また、加賀藩の支藩である富山藩の財政危機の際には、逆に西本願寺の財政専門家(家司)を招いて改革を行わせるなど、相互の依存関係を深めた。

(5)本山・本願寺との縁組
前田家は、京都の東本願寺(大谷家)や西本願寺(大谷家)へ娘を嫁がせ、あるいは本願寺家から養子を迎えるなど、幾重にもわたる婚姻関係を結んだ。これにより、本願寺にとって前田家は「最大のパトロンであり親戚」となった。

(6)幕府を欺くための「信仰心」

3代藩主・前田利常は、徳川幕府から「謀反の疑い」をかけられないよう、鼻毛を伸ばして「うつけ」のふりをした逸話でもしられる。利常はあえて軍事ではなく「仏教や文化の振興」に大金を投じるとともに、本願寺の有力寺院(富山県の勝興寺など)に自身の娘を嫁がせるなどして、前田家が平和的な存在であることを幕府にアピールした。

(7)東本願寺・真宗大谷派の勢力が強い理由

加賀藩においては東本願寺・真宗大谷派の勢力が圧倒的に強い。その理由は、加賀藩主である前田家が、徳川幕府への配慮や領内統治の観点から東本願寺を強力に庇護・優遇したことにある。 その背景には、前田家の政治的スタンスとして、徳川幕府が支持する教如側の東本願寺(東末寺)を手厚く保護した 。

また、かつての「加賀一向一揆」を支えた豪農や門徒衆のなかに、織田信長や豊臣秀吉に対して徹底抗戦を貫いた教如を慕う人々が多く、彼らが東本願寺を強力に支持したことが土台となっている。

前田家は、かつて信長を10年苦しめた真宗のエネルギーを「弾圧」するのではなく、「前田家の親戚・藩の機関」としてシステムの中に組み込むことで、百万石の泰平を維持し続けた。

京都・西本願寺


(参照):

京の寺社9~西本願寺2026/4/10

東別院を訪ねたことで、加賀藩における真宗と前田家の歴史、さらに本願寺の東西の分立の歴史などを垣間見ることができました。金沢のあと旅の後半には、越中・富山にまわり、井波の瑞泉寺や 伏木の勝興寺など「触頭」の指名された大寺にも訪れることになります。

東別院から金沢駅に歩いて行きました。途中に、不思議なパブリックアートがありました。

Corpus Minor #1(コーパス・マイナー #1)」というアート作品です。2種類の鉄のピースを48個組み合わせて作られており、錆による風合いの変化を楽しむ作品です

ヤンネ・クリスティアン・ヴィルックネンによって制作され、「金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2004」で優秀賞を受賞したということです。

金沢の街は、日本の伝統的な建物、景色とともに、こうした現代的なアートも似合う街といえるでしょう。

Corpus Minor #1


2026年6月26日金曜日

金沢を歩く5~金沢聖霊修道院聖堂

 

金沢聖霊修道院聖堂

金沢の街は、どこをみても日本的な雰囲気があります。しかし、今回は教会に行ってみました。可愛らしい教会で、美しい建物です。加賀といえば、かつては真宗王国といわれるほど浄土真宗の門徒が多いところで知られていますが、江戸時代には高山右近がキリスト教を広めた所でもあります。そんな歴史も垣間見てみました。

1.金沢聖霊修道院聖堂

1931(昭和6)年、キリスト教カトリック系の医療施設「聖霊病院」の附属聖堂として建設された。 設計はスイス人建築家・マックス・ヒンデル(1887-1963)による。マックス・ヒンデルは、大正末期から昭和初期にかけて15年間日本に滞在し、その間各地で次のようなカトリックの教会堂建築などの設計を多く手がけた。

天使の聖母トラピスチヌ修道院(函館、1927年)。カトリック松が峰教会 (宇都宮1932 ):大谷石を使った双塔の教会建築。カトリック神田教会(東京、1928)。聖母病院(東京、1931)。上智大学1号館 (東京、1932年) など。

(1)外観の特徴

聖堂の外観はチロル風のロマネスク様式が特徴となっている。

ロマネスク建築が基調:全体的に半円アーチや円形の窓を配置した、素朴で重厚なロマネスク様式を取り入れている。

チロル風の鐘楼:ヒンデルが来日前に活動していたオーストリア・チロル地方の影響を受け、頂部に十字架を冠した八角形の美しい尖塔(鐘塔)を持っている。

下見板張りの外壁:木造平屋建ての構造で、白い下見板張りの外壁と、2層の切妻屋根が特徴となっている。


頂部の十字架


白い下見板張りの外壁










(2)内部の特徴

聖堂の内部は 和洋折衷と金沢の伝統工芸が使われているのが特徴となっている。

三廊式バシリカの空間:中央の身廊と、両脇の側廊からなる、三つの廊が並ぶ「三廊式バシリカ」と呼ばれる建築様式をとっている。

伝統技術による天井:側廊の天井は、日本の伝統的な葭(よし)を簾状に編んだものを下地にし、漆喰で仕上げることで、ロマネスク調の「交差ヴォールト風天井」を再現している。

畳敷きの名残:日本の生活様式に合わせ、創建時は「全面畳敷き」のミサ空間であった。現在は中央の通路を挟んで右側が畳敷き、左側が椅子席という独特のスタイルになっている。

伝統工芸の融合:堂内の列柱や仕上がりには、黒漆塗りや金箔貼り、群青といった金沢ならではの伝統色彩や技法が随所に散りばめられている。正面中央に祀られている十字架は、地元で獅子頭を彫っていた職人・古瀬信一の作品(昭和14年)である。

バラ窓と壁画:正面にはステンドグラスのバラ窓があり、祭壇の奥には「神・イエス・聖霊」を描いた三位一体の壁画が施されている。


右側が畳敷き、左側が椅子席









三廊式バシリカ


聖体灯






正面中央に祀られている十字架






「IHS」のモノグラム










告解室



(3)聖霊病院(現・金沢聖霊総合病院)

ドイツ人カトリック宣教師・ヨゼフ・ライネルスが1914(大正3)年「聖霊病院」として開院した。生活困窮者を対象に無医村診療などを行い、地域からは「ドイツ病院」、「お助け病院」と呼ばれた。







2.加賀藩とキリスト教

加賀藩におけるキリスト教の歴史は、1588年に高山右近が藩祖・前田利家によって客将として招かれたことから始まる。高山右近は、前年の豊臣秀吉によるバテレン追放令で、播磨明石から追われていたが、加賀藩祖・前田利家に預けられた。当初は囚人のような扱いを受けていたとされるが、1590(天正18)年になると、利家から、26000石の扶持を受けて暮らすようになる。この待遇の変化は秀吉の意思によるものと考えられ、秀吉は右近を豊臣政権に復帰させようとしたが、右近の棄教を拒否する意思の前に秀吉も断念し、前田家の管理下に置くことで、相応の待遇を容認したのではないかとされている。また、前田利家は以前から、右近を、「武勇のほか、茶の湯、連歌、俳諧にも達せし人」と高く評価していたとされ、加賀においてキリシタンとしてのみならず、武将として、築城家として、茶人として待遇した。

(1)加賀の一向宗

前田家が統治する以前の加賀は、一向一揆によって約100年間にわたり仏教徒が自治を行い、「真宗王国といわれるように「百姓の持ちたる国」であった。そこに織田信長の命で一向一揆を武力鎮圧した前田利家が乗り込み、さらにキリシタン大名である高山右近を招き入れたため、両者の間には複雑な緊張関係が生じた。

(2)切支丹大名としての右近

そうしたなか、前田利家、利長らの黙認と保護のもとで、右近は自費で教会を建て、熱心に布教を行い、多くの藩士や家来がキリスト教に入信した。また、 右近を慕い、内藤如安や浮田休閑といった各地のキリシタン武将が集まり、金沢城の西側には、これら信徒や宣教師が居住する「伴天連屋敷エリア」が形成された。 その結果、1604年ごろにはキリスト教徒は約1,500人にまで達したと記録される。しかしながら、加賀藩領の大半を占める一向宗門徒の信仰の絆は非常に強固であり、キリスト教が武士階級を超えて一般農民にまで広く浸透するのを防ぐ巨大な防波堤となった。

(3)武将・築城家としての右近

右近は、1590(天正18)年の小田原征伐に建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し、八王子城の戦いにも参加している。

また、築城家としての高い技術を活かして金沢城の修築や、惣構(外堀)の建設など、加賀藩の街づくりにも大きく貢献した。また、加賀藩2代藩主・前田利長の隠居城となる高岡城の設計を担当した

(4)茶人としての右近

千利休の高弟で「利休七哲」の一人として知られる右近は、茶の湯の文化を加賀藩に広めると同時に、茶会をキリスト教の布教や信者同士の交流の場として活用した。当時の加賀藩主・利家も、右近の茶室で南蛮文化を学んだとされる。

1614(慶長19)年、徳川幕府による全国的なキリシタン禁教令が出されると、右近は棄教を拒否した。その結果、約26年間を過ごした加賀を離れ、マニラへ追放され、翌年現地で死去した。

時代が変わり、明治時代初期のキリスト教解禁とともに、プロテスタントの宣教師が金沢に入り、再び布教が始まることになる。

高岡古城公園にある高山右近像

高山右近が加賀にも大きな足跡を残していることを知りました。残念ながら右近ゆかりの地である、カトリック金沢教会などを巡ることはできませんでしたが、加賀料理の代表である「治部煮」は頂きました。というのもこの治部煮は、右近が宣教師からもたらしたもので、フランス語のジビエに由来するといいます。ただし、治部煮のルーツについては、高山右近説のほかにも諸説あるようです。

歴史の奥深さを味わいました。

治部煮


金沢を歩く6~東別院(真宗大谷派金沢別院)

  東別院 先に、キリスト教の聖堂を観ましたが、今度は浄土真宗のお寺、東別院に行きました。正式には「 真宗大谷派金沢別院」です。また、徒歩 10 分ぐらいのところに西別院(「浄土真宗本願寺派 本願寺金沢別院 」)があります(寄りませんでしたが)。 加賀は「真宗王国」といわれる...

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