2026年4月10日金曜日

京の寺社8~随心院

 

小野小町の歌碑

醍醐寺から歩いて15分ぐらいのところに随心院があります。ここは小野小町ゆかりの寺として知られています。

1.大乗院

大乗院は、随心院の子房(塔頭)で、随心院の手前にある。 境内には、樹齢数百年ともいわれる立派な椿があり、「大椿(だいちん)」の寺ともいわれる。










2.随心院

991年、弘法大師空海から8代目の弟子にあたる仁海僧正(にんがいそうじょう)によって開基された。 仁海僧正は、神泉苑で雨乞いを行った9回もの祈雨(雨乞い)の儀式をすべて成功させたことから「雨僧正」と称えられ、その功績によって一条天皇から寺地(現在の随心院の場所)を賜った。

当初は「牛皮山曼荼羅寺」と称した。それは、仁海が夢で亡き母が牛に生まれ変わったことを知り、その牛を飼育したが、死後に牛の皮に両界曼荼羅を描いて本尊としたという伝説に基づいているという。

「随心院」という名は、第5世住持である増俊(ぞうしゅん)阿闍梨が、もともとの本堂であった曼荼羅寺の子房(塔頭)として隨心院を建立したことに由来する。 「随心」という名は、真言密教の教えにおいて、「仏の心(慈悲や悟り)が、修行者の心に自由自在に随(したが)い、通じ合う」といった、意味合いがあるという。

「随心院」と改め、後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来、代々皇族や公家が住職を務める門跡寺院となる。しかし、承久・応仁の乱で焼失し、一時荒廃したが、慶長4年(1599年)に本堂が再建され、以後、九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建された。

(1)建物と庭

庫裏は、桃山時代の建築で、二条家の政所を移築したもの。院の台所であり、現在は拝観受付となっている。

表書院は、江戸時代の寛永年間に九条家から寄進された建物。表書院は門跡が使者と対面された部屋で、庭園に面し、狩野派の描いた「四愛図」や「四季花鳥図」などの襖絵がある。

能の間は、やはり九条家より寄進されたもので、ここで能の上演が可能となっており、門跡が日々の楽しみとしたという。仏間には小町地蔵尊と卒塔婆小町坐像が安置されている。

奥書院は、表書院のさらに奥に位置し、より格式の高い私的な空間である。狩野派による 舞楽図、宮廷人物図、竹虎図などの障壁画がある。奥書院の前にも苔の庭園が広がる。

本堂は、1599年に桃山城の遺構を移築して再建された、寝殿造りの建物とされる。 本尊である如意輪観世音菩薩を安置する。 表書院の近くにあり、この間の庭園は一面の苔に覆われた美しい光景である。

入口の扁額に「豁如」とあるのは、心静かに気持ちを落ち着けて、仏菩薩を拝するようにとの意味があるという。



大玄関は、本堂や書院の入り口で、九条家から寄進された格式高い建物。

薬医門は、境内南側にあり、大玄関の前へと続く門。大玄関同様、寛永年間に九条家から寄進された歴史ある門である。

庫裏

庫裏付近のサンシュユ

大玄関から薬医門をのぞむ

表書院から本堂とその庭をのぞむ





心字池




薬医門

薬医門

薬医門


(2)襖絵・杉戸絵

表書院、奥書院には、狩野派の絵師による襖絵があるが撮影不可であったので、同じく狩野派による杉戸絵の写真を載せて置く。

能の間は、極彩色の小町絵図や花のインスタレーションで賑やかに飾られていた。

また、門跡が使ったという駕籠や、門跡が野点に使ったという茶釜と風炉が置かれていた。

入口の小町を描いた衝立

能の間の襖絵など









茶釜と風炉

駕籠


3.小野小町

随心院がある「小野」の地は、一族である小野氏の邸宅があった場所ということから、小野小町が晩年を過ごしたと伝えられる。

小野小町は、平安時代、9世紀頃に活躍した歌人として知られるが、その生涯等についてはほとんど不明である。 『古今和歌集』の序文で「六歌仙」のひとりに選ばれた、唯一の女性歌人で、三十六歌仙にも選ばれている。

絶世の美女として名高いが、いっぽうで 百歳まで生きた、あるいは晩年は醜く衰えたという「卒塔婆小町」の説話もある。

(1)歌碑

入口付近には小野小町の歌碑があり、百人一首のよく知られた次の歌が書かれている。

「花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

「花の色は色あせてしまったことよ、長雨が降り続く間に。むなしく私もこの世で月日を過ごしてしまった、物思いにふけっている間に。」という意味で、花の色があせていくことに自分の身が老いていくことのはかなさを重ねて詠んだ歌とされる。


また、小野小町をモチーフにした小町絵馬に願いが込められていた。


(2)小町化粧井戸

この地に隠棲していたとされる小野小町が、毎朝この井戸の水を使って化粧をしていたという伝説が残っている。水面に向かって降りる道がついている珍しい形状が特徴で、その昔には風雅な建物があったところといわれる。






(3)小野梅園

随心院の境内の一部に、小野梅園があり、白梅や紅梅など約200本の梅が植えられている。 庭園には遅咲きの梅があり「はねずの梅」 といわれる。「はねず」とは薄紅色の古名で、3月の末には、「はねず踊り」という華やかな衣装をまとった少女たちが舞う行事が行われる。これは小野小町が老いた後、里の子供たちと踊ったという伝承を再現したものだという。





(4)卒塔婆小町坐像

鎌倉時代の作とされ、晩年の小野小町の老いた姿を描いたという立膝で座る像である。絶世の美女の面影はなく、歯を見せて笑うような表情や、首・額のしわなど、年老いた姿がリアルに表現されている。「卒塔婆小町」という言葉は、この老いた小町の姿を描いた能の演目名となっている。



随心院を後にして、まだ少し時間があったので、地下鉄小野駅から京都駅に出て西本願寺に向かいました。

2026年4月7日火曜日

東京異空間413:椿いろいろ

 


ここ数月に撮った椿を主に色別に整理してみました。椿はその種類も多く、また咲く時期も冬から春にかけてと長く楽しめます。

椿の名前の語源は、葉に艶や厚みがあることから「艶葉木(ツヤハキ)」「厚葉木(アツハキ)」が転じて「ツバキ」となったとする説、光沢がある様子をあらわす古語「つば」に由来し「つばの木」が「ツバキ」となった説など、諸説あるようです。
椿の歴史をさかのぼると『日本書紀』や『万葉集』にも記述があり、日本人にとってはるか昔から馴染み深い花で、 椿油は遣唐使が不老不死の贈り物として唐の国へ献上したという記録も残っているということです。

とくに豊臣秀吉は茶の湯に椿を好んで用い、茶道において椿は重要な地位を占めるようになりました。江戸時代に入るとさまざまな花が観賞の対象になり、二代将軍徳川秀忠が椿を好んだことから芸術の題材として椿が広く知られるようになりました。この時期に描かれた《百椿図》伝狩野山楽筆 、根津美術館蔵)は、数ある品種の椿に文化人たちが漢詩、和歌の賛を書き添えた絵巻物となっています。

《百椿図》


1.ピンク











2.絞り











3.白色







4.紅色の絞り






5.赤色




















京の寺社8~随心院

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