2026年2月28日土曜日

東京異空間406:水鳥たち

 

カイツブリ

公園に散歩にでかけると、水鳥たちに出会うことができます。今回は、カイツブリ、オオバンなどが見られました。

1.カイツブリ

カイツブリは、潜水が大得意で、望遠レンズを向けていると、アッという間にもぐってしまい、ファインダーから消えて、しばらくして、あちらの方でポッカリ浮かびあがる。潜水は獲物を捕食するため、1回に平均15秒前後(状態により数秒から30秒)潜水し、およそ秒速2mで泳ぐとされるが、最高で水深2メートルまでと深くは潜らないという。

カイツブリの名前は、水中で魚を捕まえる際に「水を掻いて(かい)」「潜る(つぶり)」行動が「掻きつ潜りつ(カキツムグリ)」となり、そこから「カイツブリ」へと転じた説がある。

また、漢字では、「鳰(にお)」と書き、「水に潜る(入る)」という意味で、「鳰」は日本独自の倭字だとされ、万葉集にも見られるという。琵琶湖は、この鳥が古くから多かったことから「鳰海(におうみ)」の別名がある。



潜ると、首が長く伸びる


2.オオバン

オオバンは歩くのも得意で、草をついばみながら比較的速く移動したり、また、泳ぎながら水草や小動物を食べるのも得意で、いわば水陸両用の体といえる。もちろん上手に飛ぶこともできる。

オオバンの名前は、似た鳥である「バン(鷭)」よりもひと回り以上大きいことから付けられた。では、「バン(鷭)」の名前の由来はというと、田んぼの「番(見張り)」をする鳥という意味から名付けられたという説がある。

なお、オオバンの額にある白い部分は、専門用語で額板(がくばん)と呼ばれるもので、羽毛ではなく、 皮膚が裸出した部分である。 繁殖期にはこの白い部分を相手に見せつけて、つがい相手へのアピールや、縄張りを主張するために使われていると考えられている。  




オオバンとカルガモ

オオバンとカルガモ、手前に黄金の大きな鯉


3.カルガモ

カルガモは、この公園の池ではよく見られる。カイツブリと違って、潜水することはできず、水面で逆立ちして餌をついばんだり、岸辺を歩きながら採餌する。

カルガモ(軽鴨)の名前の由来は、『万葉集』に登場する奈良県の「軽の池(かるのいけ)」にいたカモであるという説が有力とされる。他にも、マガモより体重が少し軽いため「軽いカモ」という説、美味しいマガモに比べて「価値(美味)が軽い」という意味の説などがあるそうだ。

カルガモと鯉

カルガモと鯉




4.ゴイサギ

ゴイサギは、昼間は林の中でじっとしていて、夕方から川や池へ出かけて魚などを捕る夜行性のサギである。「クワッ クワァッ」と一声ずつ鳴き、夜空から聞こえてくることから「夜烏」の異名をもつ。英名では、「night=夜」といわれる。

しかしながら、ゴイサギ(五位鷺)という名がついているのは、平安時代、醍醐天皇が神泉苑で池にいたサギを捕らえるよう命じた際、そのサギが天皇の命令に逆らわず神妙であったため、当時貴族のランクである「五位」の位を与えられたという『平家物語』の逸話によるという。



5.コサギ

コサギ(小鷺)の名の由来は、日本で見られる白鷺(シラサギ)の仲間の中で、体が小さめ(小)の「サギ」であることに由来する。全長約60cm程度で、ダイサギやチュウサギよりも一回り小さく、黒い嘴と足、黄色い足指が特徴。「サギ」という言葉自体の語源には、羽が白く清らかな様子を表す「サヤケキ(鮮明)」から転じたとする説や、鳴き声が「サヤギ(騒がしい)」ことに由来する説などがある。




先日、久しぶりにまとまった雨が降りましたが、近くを流れる石神井川の水量はほとんど増えていませんでした。いつもこの川で餌をとっている、カルガモやコサギなども、困っているように見えました。

干上がってしまった石神井川

少し残った水たまりで餌をとるカルガモ


(参照):

東京異空間396:冬の鳥たちⅡ2026/2/8

東京異空間274:春を待つ鳥たち2025/2/13

秋の公園Ⅲ~バード・ウォッチング2021/11/11

2026年2月26日木曜日

東京異空間405:梅の次は桜~河津桜

 


近所にある河津桜も、そろそろ満開になってきました。梅の次は桜ということで、また撮ってきました。

河津桜は、沖縄県などで1月から咲き始める「カンヒザクラ(寒緋桜)」と、伊豆諸島などに自生する「オオシマザクラ(大島桜)」との自然交雑で生まれた桜といわれています。カンヒザクラの特徴が「非常に早咲き」「花色が濃い」という性質を持ち、もう一方のオオシマザクラからは「花が大き』という特徴を受け継いでいます。

 また、河津桜が咲く2月はまだ冬の寒さが残っていることから、長く楽しめるということです。というのは、気温が低いほど花の代謝は抑えられることから、つぼみがほころんでから満開になるまでの進み方が緩やかになり、長く花を楽しむことができるということです。

























桜(ソメイヨシノ)が満開になるのは、まだ1か月ほど先になります。それまで、ゆっくり河津桜を楽しみましょう。



東京異空間404:練馬のあゆみ@ふるさと館・常設展示

練馬大根

ふるさと館で浮世絵展を観た後、常設展示されているものから練馬の歩みの一部をたどってみました。

ふるさと館・常設展示


1.江戸時代

(1)鷹狩り「尾張殿鷹場碑」

尾張徳川家の鷹場があり、その境界に建てられた石柱が、「尾張殿鷹場碑」。尾張徳川家の鷹場は江戸城から五里(約20㎞)以西の地域で、川越街道を通って向かう途中、練馬を通過したり、小榑村、上練馬村あたりで鷹狩りをしたり、食事や休憩の場として円光院などを利用したりしていた。

尾張徳川家の鷹狩りは、軍事訓練や農村の視察に加えて、民衆に大名の威信を示すことを目的に、寛永8年(1631年)から慶応3年(1867年)まで行われていた。1回の鷹狩りで、300名あまりの尾張藩士が参加し、約10日間行われた。大名にとって鷹狩りは華やかな行事であったが、鷹場に住む人々は人足として徴発されたほか、「犬猫は放し飼いにしない」「手をたたかない」「かかしを勝手に建てない」など細かい規定が設けられ、破ると罰せられることがあった。




(2)練馬大根

練馬といえば「練馬大根」がよく知られているが、これは江戸時代から栽培が始まった。練馬大根の興隆期は江戸中期から明治前期で、この頃に日本一の名声を博し、生大根、干大根、沢庵漬としての生産が著しく向上したとされる。

練馬大根は、水分が少なく、干し上げたときの歩留まりも良いため、沢庵漬にも適しており、練馬一帯は全国有数の大根・沢庵漬の産地となった。江戸時代には、農家が武家屋敷に下肥代金として沢庵漬を納めている。 1877(明治10)年に開催された「第一回内国勧業博覧会」では、上練馬村の農家が出品した沢庵漬が褒賞されている。


大根の連干風景

沢庵製造業者


(3)養蚕 

江戸後期より、上石神井の名主を務めていた栗原家は、養蚕の飼育方法、精子の技術を信州で学び、地域に広めた。明治には、輸出生糸の品筆管理機関である「生糸改会社」の一つが石神井村に設けられるなど、地域の一大産業となっていた。大正期頃まで養蚕は石神井周辺で盛んに行われていた。



歌川国郷《養蚕家繫栄之図》 1853(嘉永6)年

蚕蛾が産卵紙に卵を産み付けている様子



「内国勧業博覧会出品願書」 1876(明治9)年

江戸後期より、上石神井の名主を務めていた栗原家が生糸を出品した際の願書。



(4)富士山、大山詣で

練馬区内をほぼ東西に走る都道である「富士街道」は、江戸時代には「富士山」や相模国(現・神奈川県)の「大山」に参詣する人が通った道の一つで、当時「ふじ大山道」「大山道」「富士山大山道」などと呼ばれていた。富士山や大山詣では、信仰とともに、近郊への行楽の楽しみもあった。

「護符」

旧内田家の屋根裏に大量の護符が吊るされていた。護符は明治後期から戦前にかけて、33もの寺社のものがあった。成田山新勝寺(94枚)、武州御嶽神社(77枚)、大山阿夫利神社(23枚)、榛名神社(19枚)、富士浅間神社(6枚)など遠隔地の寺社の護符がまとまってあった。護符を屋根裏に保存することで火伏の効果があるといわれていた。

下の写真には、「参詣の土産」として盃、目薬、百草丸などが置かれている。




2.明治から大正時代

(1)鉄道の開通

1915(大正4)年、武蔵野鉄道は池袋~飯能間で開通した。現在の練馬区内には「練馬駅」「石神井駅」(現「石神井公園駅」)の2駅が置かれるのみだった。大正期~昭和初期にかけ私鉄3線(東上鉄道・武蔵野鉄道・西武鉄道)が開通したことは、農村地帯だった練馬区域の住宅地としての発展の礎となった。とくに関東大震災後は、それまで静かな農村地帯であった近郊郡部は、市中からの人口流入でみるみる膨張していった。また、沿線の「豊島園」や「三宝寺池」などが東京近郊の行楽地となった。

石神井公園駅前の「石神井火車站之碑」

石碑には、郷人は挙って賛同し土地五千坪余りも寄付し、「火車站を設けて以もって交通殖産の利便に資す」と、石神井駅ができる喜びを記している。

(参照):

東京異空間57 石仏巡りⅤ~長命寺1・東高野山の境2022/3/9



「農家の食事」

上は、ある日の夕食。麦飯、けんちん汁、芋の煮っ転がし、切り干し大根、といった自家製の農作物を食材にしたメニュー。

下は、うどんとまんじゅう。自家製の麦から作り、盆や祭りなどの特別な日に食べた。



(2)「豊島園」東京日日新聞後援による海水浴場とプールの案内・ポスター(昭和10年)


このポスターにあるいくつかの項目について調べてみた。

「豊島園」は、1926(大正15)年から94年間営業して2020(令和2)年8月に閉園した。豊島園は実業家の藤田好三郎が豊島城址と周辺を整備し自然豊かな庭園として造った。昭和2年に西武豊島線豊島駅(豊島園駅)が開設、昭和16年には武蔵野鉄道の経営となった。



「石神井プール」は、1920大正9)年に日本初の100メートル・プールとして作られた府立第四公衆游泳場である。湧き水を利用したため水温が低かったと言われてい。しかし、水泳大会も盛んに行われ、この地で練習した石神井游泳団から は、後のロサンゼルスオリンピックに出場 した選手も誕生した。プールは1941(昭和16)年に閉鎖された。跡地は、1955(昭和30)年に釣り堀「石神井釣道場」となり、1986(昭和61)年に閉鎖されたのち公園用地へ編入された。

「大宮八幡プール」は、京急開発が1934(昭和9)年 「株式会社大宮八幡園」として設立した。

「保護菌科学研究所」1935年創業、現在のヤクルト本社・中央研究所の前身のようだ。

「素菌」とは、陸軍軍医学校と共同研究開始された「潤正ソキン」のことか。これは粉末状、あるいは錠剤として、戦場へも携帯できるため、陸軍との共同研究で効力を立証された。生きた乳酸菌製品としてつくられたようだ。

3.戦時中

(1)成増飛行場

帝都防衛のため陸軍の成増(高松)飛行場が建設された。1943(昭和18)年。この飛行場は戦後、駐留米軍家族が住む住宅地「グラントハイツ」となり、返還後は、23区最大規模の「光が丘団地」や、「都立光が丘公園」などが設けられた。




(2)「御守」千人針 1941(昭和16)年

出征する兵士の無事を祈り、女性が願いを込めて一針ずつ縫い、糸止めの玉を千個つけた布。腹に巻いて身に着けることで、敵の弾丸に当たらないといわれていた。



(3)「衣料切符」 1944(昭和19)年

戦時下では物資の不足から日用品の購入を制限され、衣料切符が配布された。この衣料切符は昭和1941日から昭和21年3月31日までが有効期間と記されており、板橋区役所練馬支所の押印がある。



(4)「爆弾の破片」 1945(昭和20)年5月以前

空襲直後、東京第三師範学校附属国民学校(現・東京学芸大学附属大泉小学校)にあった防空壕から出た際に見つけて拾った爆弾の破片。拾った直後はひどく熱かったという。



(5)「陶製湯たんぽ」

従来は金属製であった湯たんぽも、陶製になっている。



4.戦後

(1)練馬区の誕生

「練馬区」は、1947(昭和22)年に「板橋区」から独立し、東京都の23番目の特別区として誕生した。

(2)戦後の生活

昭和 30 年代後半から40年代の暮らしを再現したセットが展示されている。石神井公園駅の巨大写真パネルの両側にその町並みを再現し、夕暮れの情景を演出している。また、民家の台所や居間などが生活用具とと もに再現されている。

メニューの看板に、中華そば五十円とある。ちなみに1963(昭和38)年の物価を示す。平均月間現金給与額が約3万円のころである。

白米(1㎏)112円、牛乳18円、森永ミルクキャラメル20円、びんビール115円、入浴料23円、テレビ(14型)57,100円、電気洗濯機21,200円、電気冷蔵庫49,100円

石神井公園駅前の写真パネル




ダイハツ・ミゼット




(2)アニメの聖地

区内東大泉にある東映アニメーションで、日本アニメの草創期から使用されていた撮影台。多段式のマルチプレーンカメラスタンドで、1959(昭和34)年製の35mmカメラが備わっている。

この撮影台で撮影された主な作品には、西遊記(1960年)、宇宙戦艦ヤマト(1977年)銀河鉄道999(1979年)などがある。

なお、日本初の長編カラーアニメは『白蛇伝』(1958年)である。

また、大泉学園駅北口にも、アニメのキャラクターの像が並んでいる。

(参照):

アニメの聖地~大泉学園2021/10/9


(参考):

『ふるさと文化館 常設展示ガイド』2010年


練馬に住んではいても、なかなかその歴史までは知らないことが多い。ふるさと館の常設展示で、その一部を見ることができました。

東京異空間406:水鳥たち

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