先の尾山神社が藩祖・前田利家を祀るのに対し、江戸時代、前田家は徳川家康を祀る神社を建立しました。それが尾山神社から徒歩10分ほどの位置に鎮座する尾崎神社です。
1.創建
「尾崎神社」は、1643(寛永20)年に、加賀藩3代藩主・前田光高によって創建された神社。
前田光高は、前田利家の嫡孫(嫡子の嫡子)で、徳川家康の外曾孫(孫の子供)にあたる人物で、光高の母(3代藩主・利常の正室)が将軍・徳川秀忠の娘(珠姫)であった。その縁もあり、徳川家を神として金沢城内の北の丸に祀ることで、「幕府への絶対的な忠誠と服従」を表すという政治的な狙いがあったとされる。そこで、日光東照宮から徳川家康(東照大権現)の神霊を勧請し、「東照三所大権現社」という名で、徳川家康と父・前田利常、天照大神を祀る東照宮として建立された。加賀藩内では「御宮(おみや)」と呼ばれていた
明治維新後、1874(明治7)年に、神仏分離令によって尾崎神社と改称した。その後、1878(明治11)年に、金沢城は1873(明治6)年、軍用地として利用されることになり、城内から現在地に移築された。なお、「尾崎」という神社の名前の由来は「尾っぽの先」のことで、小立野台地の先っぽに築城された金沢城内の最も先端に建てられた位置が、動物の尾っぽの先にあるように見えたことから名付けられたという。
2.建物
尾崎神社は、徳川家康を神として祀る東照宮の総本社「日光東照宮」を模した神社で、朱塗りの社殿はまさに東照宮らしい建造物である。また、前田家の神社でありながら、境内には徳川家の「三つ葉葵」の家紋が彫刻や金具のあちこちに見られる。 江戸時代には「金沢城の江戸」「北陸の日光」と称えられ、一般庶民の立ち入りが禁じられた神聖な場所であった。
金沢城の多くの建物が火災で失われた中、城外に移築されていたことから、創建当時の姿をそのまま残す、金沢城跡周辺で最も古い貴重な遺構で、本殿、拝殿、幣殿、中門、透塀のすべてが国の重要文化財に指定されている。
本殿
東照大権現など神様が鎮まる最も神聖な建物。朱漆塗りと極彩色の彫刻、そして飾り金具が美しく、東照宮建築の最初期の特徴を伝えている。
拝殿
参拝者が祈りを捧げるための建物。随所に徳川家の葵紋が見られる。彩色は朱塗りを基調に縁・建具・壁は黒に塗られている。
| 葵の御紋 |
| 龍の彫刻 |
幣殿
本殿と拝殿の間を繋ぎ、神前に供え物や幣帛を奉るための建物で、拝殿と一体的になっている。
中門
本殿のすぐ手前、幣殿と本殿の間に建つ格式高い門。
透塀
本殿を取り囲むように設置されている、透かし彫りが施された塀。 中門の両脇から左右に伸び、本殿の神域を外部と区切りつつも、完全に視界を遮らない「透かし」の構造となっている。
神門
拝殿前にある門
| 神門 |
透塀
3.摂社・豊受稲荷社
天照大神を祭神とすることから、伊勢神宮外宮と同じ豊受大神を祀る。1677年頃の金沢東照宮の建立時の遺構である可能性が高い貴重な社殿とされる。
4. 辰巳用水分流再興碑
尾崎神社の境内には、1889年に建てられた「辰巳用水分流再興碑」が置かれている。これは、金沢城の防火・生活用水として引かれた辰巳用水を、近江町方面へ分水した歴史的な水路と、それを記念する碑である。
辰巳用水は、1631年の金沢城大火を機に、城の防火用水と防御強化を目的として計画され、 1632年に加賀藩3代藩主・前田利常の命により建設された全長約12〜16.5kmの歴史的な用水路である。金沢城の防火・防御や兼六園の水源として、また日本の高度な土木技術の結晶として知られている。
徳川家康を祀る東照宮は、江戸時代のピーク時には全国に約500〜700社あったということですが、明治時代の神仏分離令などで多くが廃絶して、現在は、約130社が現存しているとされています。そのうちのひとつが前田家として徳川家に忠誠を尽くす姿勢を示すために、家康公の御霊を金沢城内に祀った、この尾崎神社ということです。
空を見上げると、鷹でしょうか、トビでしょうか?境内を飛んでいました。