先に、キリスト教の聖堂を観ましたが、今度は浄土真宗のお寺、東別院に行きました。正式には「 真宗大谷派金沢別院」です。また、徒歩10分ぐらいのところに西別院(「浄土真宗本願寺派 本願寺金沢別院 」)があります(寄りませんでしたが)。
加賀は「真宗王国」といわれるように、前田家と一向宗の関わりは深いものがあります。その歴史も垣間見ておきます。
1.東別院
(1)本堂
1962(昭和37)年の火災による焼失を経て、1971(昭和46)年に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂が完成した。本堂には、阿弥陀仏、親鸞聖人、蓮如上人の御影が安置されている。
| 塀の石垣 |
| 本堂 |
| 阿弥陀仏 |
| 蓮如上人像 |
| 聖徳太子像 |
| 本堂内部 |
(2)大門
火災を免れた大門は昭和32年に竣工した。楼上の天井には、木村杏園によって描かれた迫力ある龍の図がある。しかし、大門の楼上(2階部分)の堂内に納められているため、通常は門の下をくぐって見上げる位置からは見えず、特別な法要や行事の際などを除いて見ることはできないようだ。
代わりに手水舎の龍、 鐘楼堂の龍の彫刻 を観た。
(3)鐘楼堂
こちらも火災を免れた歴史ある建造物で、梵鐘には1545(天文14)年の銘が刻まれている。
| 鐘楼堂の龍の彫刻 |
2.前田家と一向宗
東別院は、1546年(天文15年)に加賀国石川郡の門徒衆によって、現在の金沢城跡地に「みたう(御堂)」が建立されたのを始まりとする。「みたう」は、のちに「尾山御坊」と呼ばれ、一向一揆の拠点となった。
戦国時代:前田家が登場する前、加賀は戦国大名ではなく一向宗門徒が支配する異例の地域であった。
1488年(長享2年):加賀一向一揆が勃発。門徒たちが守護大名の富樫政親を自害に追い込む。
1546年(天文15年):一向一揆の司令塔・政治の拠点として、現在の金沢城の場所に「金沢御堂」のち「尾山御坊」が建立される。
1580年(天正8年):織田信長が一向宗の本山である大坂・石山本願寺を降伏させると、北陸の一向一揆も終焉を迎える。信長の命を受けた柴田勝家や佐久間盛政が金沢御堂を攻め落とし、一揆の自治が解体される。
1583年(天正11年):本能寺の変ののち、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」が起きる。秀吉側に付いた前田利家が、佐久間盛政の領地だった金沢城に入城し、ここから前田家による加賀統治が始まる。前田利家が金沢に入城した当時、一向一揆の残り火は根強く、統治は困難を極めた。
利家は反抗的な門徒を容赦なく処刑し、見せしめとして手取川の河原に磔にするなど、当初は厳しい弾圧を行った。しかし、力だけの支配に限界を感じた利家は、一向宗の信仰そのものを禁止するのではなく、「政治に口を出さないなら、信仰は認める」という融和方針へ転換する。そこで、金沢城の象徴だった御堂の建物を破却するのではなく、城外の別の場所に尾崎御坊(現在の尾崎神社) などに移築させ、寺領を安堵して保護した。
1587年(天正15年):利家により金沢城が築かれた後、一向衆との融和を図るため寺地を寄進し
寺院の機能は金沢城の「後町(うしろまち)」に移された。その後、1611年(
慶長16年
)に現在の笠市町の場所へと移転する。これが、現在の浄土真宗本願寺派の「本願寺金沢別院(西別院)」にあたる。
1602年(慶長7年):いっぽう、本願寺は、徳川家康から京都に土地を寄進されたことで、「西本願寺」と「東本願寺」に完全に分立した。これに伴い、加賀・能登・越中の教如上人(東本願寺)を支持する門徒たちが、西本願寺派に対抗して新たに金沢に御坊が建てられ「東末寺」(のちの金沢東別院)として出発した。
1634年(寛永11年):その後、東別院は、現在の地(安江町)に寺基が移された。
3.東・西本願寺の分裂
東別院は真宗大谷派の京都・東本願寺を本山とし、西別院は浄土真宗本願寺派の京都・西本願寺を本山とする。それぞれの本山である、本願寺が東西に分立した歴史を追ってみる。
(1)織田信長の時代:
10年以上織田軍と戦ってきた石山本願寺の顕如(父)は、遂に降伏的和睦し紀州にしりぞいた。その際、長男の教如は和睦に反対して籠城を継続した。激怒した顕如は教如を勘当(義絶)し、跡継ぎを三男の准如に決定する。顕如の死後、豊臣秀吉の裁定で一度は長男の教如が跡を継ぐ。
(2)豊臣秀吉の時代:
しかし 秀吉はかつて信長に激しく抵抗した強硬派の教如を嫌い、 また、顕如の准如を後継とする譲状(遺言状)を盾に、わずか1年で教如を退位させ、准如を本願寺(西本願寺)の新たな門主に据え置いた。
(3)徳川家康の時代:
失脚した教如は「裏方」と呼ばれる独自の勢力を形成し、本願寺内に激しい派閥対立が生じる。教如は関ヶ原の戦い前後で徳川家康に接近し協力をした。
1602年、家康は教如の功績に報いるため、准如の本願寺(西本願寺)に対抗する形で、教如に京都・烏丸七条の土地を寄進した。 教如はここに新たな本願寺を建立。これにより、准如の西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如の東本願寺(真宗大谷派)に完全分立した。
これは、本願寺の巨大な宗教勢力を恐れた家康が、組織を二分割して弱体化させるために裏で仕組んだ政治工作とされる。
分立後、双方はそれぞれの基盤を固め、現代に続く巨大教団へと発展した。
教如(東本願寺・真宗大谷派)は、その後 家康の全面的なバックアップを受け、東国(関東や東海)の門徒を中心に勢力を急速に拡大した。
准如(西本願寺・浄土真宗本願寺派)は、その後 豊臣秀吉から安堵された六条堀川の地(現在の西本願寺)を守り、西日本を中心に強固な地盤を維持した。
この本願寺の東西分裂は、そもそもの兄弟の対立という、個人の確執を超えて、戦国時代から江戸時代への権力交代(織田~豊臣~徳川)に翻弄された、日本の宗教史上最も大きな転換点の一つであった。
4.東西分立した本願寺への前田家の対応
金沢の東別院と西別院は、かつて一向一揆の拠点だった寺院をルーツに持つが、京都の本山の分立に伴い「東派(真宗大谷派)」と「西派(浄土真宗本願寺派)」に分かれて発展した。両院は金沢の町が宗教都市として発展する礎を築いた重要な場所で ある。前田家の東西分立した本願寺への対応策を見ていく。
(1)東西分立への対応
徳川家康の政治的意図により本願寺が「東(真宗大谷派)」と「西(浄土真宗本願寺派)」に分立した際、前田家はどちらか一方だけを優遇することをせず、両方に別院(東別院・西別院)の土地を与えて庇護した。
(2)東西の競合を利用した統制:「触頭」
加賀藩領内(加賀・能登・越中)には東西両派の有力寺院が混在していた。3代藩主・前田利常らは、領内の主要な巨大寺院をそれぞれ東西の「触頭(ふれがしら)」として、藩と本山を仲介・統制する最高責任寺に任命した。
東本願寺系には、城端の善徳寺や井波の瑞泉寺(いずれも現・南砺市)、専光寺(金沢・安江木町)などを触頭に指定。
西本願寺系には、伏木の勝興寺(現・高岡市)を触頭として指定、
これら領内の触頭寺院に、加賀藩主の息子(実子や一族)を次々と住職(門主)として送り込んだ。これにより、寺院のトップが「前田家の人間」となり、本願寺の末寺組織でありながら、実質的には加賀藩の出先機関のような機能を持たせることに成功した。
(3)本山・本願寺への依存度を薄める
藩は領内寺院の役職任免や紛争解決の権限をこの「触頭」に集約させ、金沢の「寺社奉行」がそれを監視する体制を確立した。これにより、門徒たちが京都の本山(東・西本願寺)を直接仰ぐのではなく、「加賀藩のコントロール下にある地元の有力寺院」を仰ぐ仕組みを作り上げた。
(4)本山・本願寺への財政援助
京都の東・西本願寺は火災等により巨額の借金を抱えたが、、加賀藩は最大の門頭(信者組織)を抱える国として、これらの再建資金や上納金をコントロールし、経済的優位性から本願寺に発言力を持ち続けた。また、加賀藩の支藩である富山藩の財政危機の際には、逆に西本願寺の財政専門家(家司)を招いて改革を行わせるなど、相互の依存関係を深めた。
(5)本山・本願寺との縁組
前田家は、京都の東本願寺(大谷家)や西本願寺(大谷家)へ娘を嫁がせ、あるいは本願寺家から養子を迎えるなど、幾重にもわたる婚姻関係を結んだ。これにより、本願寺にとって前田家は「最大のパトロンであり親戚」となった。
(6)幕府を欺くための「信仰心」
3代藩主・前田利常は、徳川幕府から「謀反の疑い」をかけられないよう、鼻毛を伸ばして「うつけ」のふりをした逸話でもしられる。利常はあえて軍事ではなく「仏教や文化の振興」に大金を投じるとともに、本願寺の有力寺院(富山県の勝興寺など)に自身の娘を嫁がせるなどして、前田家が平和的な存在であることを幕府にアピールした。
(7)東本願寺・真宗大谷派の勢力が強い理由
加賀藩においては東本願寺・真宗大谷派の勢力が圧倒的に強い。その理由は、加賀藩主である前田家が、徳川幕府への配慮や領内統治の観点から東本願寺を強力に庇護・優遇したことにある。 その背景には、前田家の政治的スタンスとして、徳川幕府が支持する教如側の東本願寺(東末寺)を手厚く保護した 。
また、かつての「加賀一向一揆」を支えた豪農や門徒衆のなかに、織田信長や豊臣秀吉に対して徹底抗戦を貫いた教如を慕う人々が多く、彼らが東本願寺を強力に支持したことが土台となっている。
前田家は、かつて信長を10年苦しめた真宗のエネルギーを「弾圧」するのではなく、「前田家の親戚・藩の機関」としてシステムの中に組み込むことで、百万石の泰平を維持し続けた。
(参照):
京の寺社9~西本願寺(2026/4/10)
東別院を訪ねたことで、加賀藩における真宗と前田家の歴史、さらに本願寺の東西の分立の歴史などを垣間見ることができました。金沢のあと旅の後半には、越中・富山にまわり、井波の瑞泉寺や 伏木の勝興寺など「触頭」の指名された大寺にも訪れることになります。
東別院から金沢駅に歩いて行きました。途中に、不思議なパブリックアートがありました。
Corpus Minor #1(コーパス・マイナー #1)」というアート作品です。2種類の鉄のピースを48個組み合わせて作られており、錆による風合いの変化を楽しむ作品です
ヤンネ・クリスティアン・ヴィルックネンによって制作され、「金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2004」で優秀賞を受賞したということです。
金沢の街は、日本の伝統的な建物、景色とともに、こうした現代的なアートも似合う街といえるでしょう。
