2026年10月30日金曜日

東京異空間443:実りの秋~柿


実りの秋を代表する果物といえば、やはり柿でしょう。

秋晴れの日、近所を散歩していると、柿がたわわになっていました。また、柿を吊るして干し柿を作っているところもありました。

ところで、10月26日は「柿の日」だそうです。これは正岡子規の有名な句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」が詠まれた日に因んでいるそうです。



















ことわざに「桃栗三年 柿八年」という言葉がありますが、これは「何事も成就したり一人前になったりするにはそれ相応の長い時間がかかる」という教えを表わしています。

ところで、実際に柿が実るまでに8年かかるのでしょうか?答えはイエスです。ことわざ通り、種を植えてから「およそ8年」かかります。ただし、種から育てるとほぼ100%「渋柿」に戻ってしまうそうです。

2026年10月29日木曜日

函館を歩く4~ベイエリアから函館公園周辺へ

金森赤レンガ倉庫

五稜郭から路面電車に乗りベイエリアに行き、さらに函館公園や神社などを見て回りました。

1.五稜郭公園前駅~函館駅~十字街駅

(1)路面電車

函館市電(路面電車)は、函館駅や五稜郭、金森赤レンガ倉庫、湯の川温泉など、主要な観光エリアをほぼ網羅している便利な交通機関となっている。

路線は、2系統(赤) 湯の川 ⇄ 十字街 ⇄ 谷地頭 と、5系統(青) 湯の川 ⇄ 十字街 ⇄ 函館どつく前 の2系統あり、五稜郭公園前から谷地頭行に乗り十字街で降り、ベイエリアに向かった。

(2)JR函館駅

JR函館駅前には、赤いパブリックアートが置かれている。これは、親がお腹の下に子供を隠して守る「ふれあい」をテーマに制作されているという。




(3)操車塔

十字街駅近くに、変わった建物の「操車塔」が建っている。

交差点の上部に設置されたキノコ型の塔の中に職員が入り、窓から電車の運行状況を確認しながら、手動のスイッチで路面電車のポイントや信号機を制御していた。 かつては十字街、宝来町、函館駅前、松風町、五稜郭公園前、ガス会社前など、市内で6基が稼働していたという。そのひとつが1995(平成7)年に、現在の「アクロス十字街」前(末広町)へ移設され、当時の姿のまま形態保存されている。



(4)丸井今井

路面電車に乗った五稜郭公園前に丸井今井があり、降りた十字街駅近くには、かつての丸井今井(末広町)の建物が建っている。

丸井今井は北海道を代表する百貨店として、札幌、旭川、小樽、函館、室蘭、釧路など北海道の主要都市に支店があったが、今は札幌と函館の2カ所となっている。

丸井今井・函館店は、1892年(明治25年)の創業から始まり、1969年(昭和44年)には、末広町の旧店舗から、現在の五稜郭地区(函館市本町)へ移転した。旧店舗は、 2007年から改装を経て、市民活動や観光の拠点である「函館市地域交流まちづくりセンター」として利用されている。大正時代の美しいアール・デコ調のデザインや、1934年の大火を耐え抜いた強固な構造が今もそのまま残されており、歴史的建造物として高く評価されている。

丸井今井・函館店

十字街駅近く、旧丸井今井(末広町)

旧店舗・「函館市地域交流まちづくりセンター」



(5)高田屋嘉兵衛

淡路島出身の豪商・高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)は、蝦夷地の箱館を拠点に活躍し、「箱館発展の恩人」と称されるほど街の基盤整備や北方開拓に大きな足跡を残した。とくに、 1813年にロシア人艦長ゴロヴニンの釈放と日露関係の和平を成功させ、その功績により、幕府の御用商人となった。

ベイエリア近くに資料館(末広町)があり、また護国神社坂のグリーベルトに銅像(宝来町)がある。

①箱館高田屋嘉兵衛 資料館(末広町)

明治36年(1903年)建築の1号館(石造り)と、大正12年(1923年)建築の2号館(鉄筋コンクリート造り)が並ぶ。もともとは海産商の昆布倉庫として使われていた伝統的建造物で、特に1号館の壁面には、北前船のバラスト(船の重心を保つ重し)として運ばれた本物の「越前石」が積まれている。




②高田屋嘉兵衛 銅像(宝来町)

函館山の麓、かつて高田屋の巨大な屋敷があった場所に佇む立派な銅像で、嘉兵衛の没後130年および「函館開港100年」を記念し、1958(昭和33)年に建立された。
この像の服装とポーズには、次のような深い歴史的意味が込められている。1812年に起きた日露の紛争「ゴロヴニン事件」の際、嘉兵衛はロシア軍艦「ディアナ号」へ交渉のため乗り込んだが、その時の決死の覚悟の正装姿(仙台平の袴、白足袋、麻裏草履、帯刀)が再現されている。右手には松前奉行からの論書(さとしがき)を握りしめ、左手には艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣服を抱えており、まさに命懸けで日露の平和的解決へと向かう緊迫の瞬間を捉えている。








銅像のすぐ傍らには、民間外交の先駆者となった彼の功績を称える「日露友好の碑」が2000年に建てられている。



(6)高橋掬太郎の歌碑 

嘉兵衛の銅像と同じグリーンベルトにもうひとつ碑が置かれている。この碑には、昭和を代表する作詞家・高橋掬太郎(1901-1970)の直筆による「酒は涙か溜息か…」の歌詞の一節が彫られている。



高橋掬太郎は北海道・根室に生まれ。大正から昭和初期にかけて「函館日日新聞社」に記者として勤務しており、その傍らで作詞を行っていた。昭和6年(1931年)に函館の繁華街であった銀座通りの雰囲気をモデルに作詞した「酒は涙か溜息か」(古賀政男作曲、藤山一郎歌)が大ヒットし、これを機に専属の作詞家へと歩みを進めた。

2.ベイエリア

(1)金森赤レンガ倉庫

金森赤レンガ倉庫は、明治時代の面影を色濃く残し、函館ベイエリアのランドマークとなっている。

①金森赤レンガ倉庫の歴史

1869年(明治2年) 初代・渡邉熊四郎が前身となる「金森洋物店」を開業し、函館で初となる営業倉庫業を開始。海運業の発展とともに規模を拡大した。

1907年(明治40年) 函館大火により、倉庫6棟が焼失したため、不燃質の防火建築として現在の赤レンガ倉庫群を再建。強固な「イギリス積み」のレンガ壁(厚さ55cm)が採用された。

1988年(昭和63年) 北洋漁業の衰退などに伴い、倉庫としての役割から商業施設へとリニューアルした。

②「金森」の名の由来

「金森」の名の由来は、渡邉熊四郎が長崎の商人・森弥兵衛のもとで商売を学んだ際、その誠実な働きぶりが認められ、暖簾分けとして「金森」の文字と商標(曲尺に五の字)を授かったことによる。「金森」の「金」は商売繁盛(かね)を、「森」は当時の師である森弥兵衛の名から取られており、恩義と成功への願いが込められている。






(2)ラッキーピエロ

函館を中心に全17店舗を展開するハンバーガーレストランで、観光客にも大人気のお店である。ランチにマリーナ末広店に、翌日は別のお店、十字街銀座店に入った。

ラッキーピエロ(愛称「ラッピ」)は、創業者である王一郎氏によって1987年に函館のベイエリアで誕生した。

名前の由来は、創業者である王氏が少年時代に見た「サーカス」のワクワク感や楽しさがベースになっていて、そこから「ピエロ」をモチーフにし、誰でも親しみやすく幸福を呼ぶ言葉として「ラッキー」を組み合わせたのが始まりという。

ラッキーピエロの特徴は、次のようなことがあげられる。

・大手チェーンのような「スピード重視・冷凍食材・どこの店も同じ内装」の真逆をいく戦略をとっていること。

・作り置きを一切せず、注文を受けてから調理する「オーダーメイドシステム」を貫いていること。

・函館・道南地域から出店を出さない「道外不出」の方針を徹底していること。

・材料の約8割以上に北海道産・地元産を使用する「地産地食(地産地消)」にもこだわっていること。

・サンタクロース、オードリー・ヘップバーン、メリーゴーランドなど、全17店舗がそれぞれ異なる独自のテーマパークのような内装になっており、訪れること自体が観光体験になっていること。

①マリーナ末広店

海に突き出た圧倒的ロケーション! 金森赤レンガ倉庫の真向かいにあり、函館港のオーシャンビューを楽しめ、内装はオールドアメリカンをテーマにしている。 席数が多く154席もあることから多くの人が訪れる。看板メニューである「チャイニーズチキンバーガー」を模した巨大な椅子のオブジェが鎮座し、旅の記念写真のスポットとして、 2頭のホッキョクグマなどが置かれている。



チャイニーズチキンバーガーのオブジェ






②十字街銀座店

店舗は大正11年(1922年)に建てられた元・理髪店(床屋)の建物をリノベーションして使用しており、歴史的価値が高く、函館市の「歴風文化賞」を受賞している趣のあるレトロなお店である。店内に入ると、壁から天井まで約5,000体ものサンタクロースの人形やクリスマスグッズがびっしりと並んでいる。

総席数は24席とコンパクトで、1階のカウンターで注文・会計を済ませ、少し急な階段を上がって2階の客席で食べるという、ラッキーピエロ全店でここだけの独特なレイアウトとなっている。








3.函館護国神社

ベイエリアから函館護国神社に行く。高台にあり、朱の大鳥居から函館の街並みと津軽海峡・函館湾が一望できる

(1)由緒

創建(1869年):明治2年、箱館戦争終結後に新政府軍の戦没者を祀る「招魂場」が始まりで、のちに「函館招魂社」 として現在地に創建された。

護国神社への改称(1939年):昭和14年に内務大臣指定の「函館護國神社」に改称された。

終戦後の1946年:GHQの神道指令によって一時的に「潮見が丘神社」への改称を余儀なくされたが、1954年に元の社号へと復した。

戦没者の祀り:箱館戦争から太平洋戦争に至るまで、北海道南部ゆかりの国難に殉じた英霊約13,000余柱が祀られている。













(2)なでふくろう

境内に置かれた可愛らしい石のフクロウ像で、撫でることで苦難を払い、幸運をもたらすとされる。




(3)招魂場碑(亀石)

豪商・高田屋嘉兵衛が、仕事の無い人々の救済のために海中から引き上げさせたと伝わる亀の形をした大石で、新政府の官軍総督・清水谷公考の揮毫による「招魂場」の文字が刻まれている。



(4)学徒援農記念碑「大地への献身」

この碑は、太平洋戦争末期の厳しい状況下(空襲や潜水艦の脅威がある中)で、深刻な農家の人手不足の解消と緊急の食糧確保を目的に、全国から北海道へと動員され農作業に従事した「学徒援農隊」の歴史と若者たちの足跡を後世に伝えるため、2005年に建立された。 中央には北海道の地図が描かれ、「学徒挺身 20万人の若者の足跡」という文字が刻まれている。



(5)旧官修墳墓(政府軍墓地)

社殿の向かって右奥)に、国が費用を支弁して戦没者を埋葬・供養する「官修墳墓」が作られ、 箱館戦争で戦死した薩摩藩・長州藩などの新政府軍兵士の墓が約50基整然と並んでいる。



4.函館公園

函館護国神社から函館公園にまわった。

(1)函館公園

公園は、明治12年(1879年)に開園した北海道を代表する最古の西洋式都市公園の1つ。遊園地やミニ動物園があるとともに、旧博物館(一号、二号)がある。

当時、開港地として外国人が多く行き交っていた函館において、英国領事のリチャード・ユースデンが「病人には病院が必要なように、健康な人には休養する場所(公園)が必要」と強く提言した。 これに心を動かされた当時の開拓使や豪商(渡邉熊四郎など)をはじめ、一般の市民、役人、さらには僧侶までもが資金の寄付や土運びなどの労働奉仕に参加した、文字通り市民の手によって造り上げられた、歴史と温かみの詰まった公園である。

(2)旧博物館(一号、二号)

函館公園の敷地内にある旧博物館(一号、二号)は、日本に現存する最古の木造洋風の博物館建築であり、北海道指定の有形文化財として当時の姿を今に伝えている。

明治初期、開拓顧問ホーレス・ケプロンが博物館や図書館の必要性を提言したことをきっかけに建設が始まった。火災の多かった函館において、明治初期の木造建築が奇跡的に2棟とも焼けずに残り、昭和41年に現在の「市立函館博物館本館」が開館するまで長く現役で使われ続けた。

現在は通常、建物の内部は非公開で、外観のみ見ることができる。

旧博物館一号

旧博物館一号

旧博物館二号

旧博物館二号


(3)市立函館博物館

昭和41年(1966年)に、現在の市立函館博物館(本館)が落成し、総合博物館として新たにスタートした。



明治時代のレンガ積みマンホール

博物館の脇に置かれている「明治時代のレンガ積みマンホール」は、市内を走る電話の地下ケーブルを収容・管理するための通信用マンホールで、明治43年(1910年)に築造され、昭和57年(1982年)まで72年間にわたり函館の通信インフラを支え続けた。役割を終えた後、函館の近代化を物語る歴史的遺産として、市立博物館の横に移築・保存されている。



(4)ハーバー遭難記念碑

函館公園の裏手にある「ハーバー遭難記念碑」は、明治時代初期に発生したドイツ領事暗殺事件(ハーバー事件)の現場に建てられた歴史的記念碑である。事件の概要は次のようなものであった。

明治7年(1874年)8月11日夕方、函館に着任していたドイツの代理領事ルードヴィッヒ・ハーバー(当時31歳)が、現在の函館公園裏手付近を散策していたところ、背後から襲撃され惨殺された。 犯人は旧秋田藩士の田崎秀親(当時23歳)で、「皇国を汚す外国人を誅する」という過激な尊王攘夷・排外思想に基づく単独犯行であった。田崎はその足で警察署(邏卒本営)へ自首し、翌月に死刑が執行された。幸いドイツ公使館が、単独犯であることや適切な事後処理に理解を示したので重大な外交問題にならずにすんだ。

ハーバーの遺体は、英国人商人トーマス・ブラキストンらによって函館の外国人墓地に埋葬された。

この碑は、大正13(1924)年、甥のフリッツ・ハーバー(ノーベル賞受賞者)を迎えて没後50年祭を開催したときに、旧墓碑を遭難地に移し記念碑としたもので、外国人墓地には同型の新墓碑が建立されている。



(3)エゾヒキガエルの看板

公園脇の道路に変わった看板を見つけた。ここに書かれている「エゾヒキガエル」というのは、1912年(明治45年)に函館山の麓で初めて発見された。その当時は、もともと北海道にはヒキガエルがいないとされていたため「北海道固有の希少種」ということで、「エゾヒキガエル」と名付けられ、話題になったという。
ところが、近年の遺伝子解析によって、実は明治時代以降に本州から医療用の実験目的や物資に紛れて人為的に持ち込まれたアズマヒキガエルと同じ種であることが判明した。かえって、北海道本来の生態系を乱す恐れがあるとされ、現在は北海道の指定外来種に指定されている。
このヒキガエル、普段は函館山などの山林に生息しているが、春の繁殖期(5月頃)になると、産卵のために近くにある函館八幡宮の「勾玉の池」などの水辺へ一斉に下りてくる。その際に道路をよろよろと横断するため、車に轢かれてしまう事故が多発した。
こうしたカエルたちを守るため、地元の「函館ロータリークラブ」などが中心となり、函館公園の上の道や谷地頭周辺の道路にこの注意看板が設置された。「カエルをタイヤの跡が容赦なく横切る」という非常にユニークなデザインから、現在では函館の隠れた名物珍看板として密かに人気を集めているという。



5.函館八幡宮

函館公園から函館八幡宮に出た。

(1)由緒

函館八幡宮の歴史は、函館という街の誕生や名前の由来と深く結びついているという。

創建と「箱館」のルーツ(1445年):
室町時代の文安2年(1445年)、亀田郡の領主であった河野加賀守政通が、現在の元町公園周辺に館(宇須岸うすけし 館)を築いた際、その東南の隅に八幡神を祀ったのが始まりとされる。この河野氏の館が「箱」の形に似ていたことから、のちにこの地が「箱館(現在の函館)」と呼ばれるようになった。

「箱館」から「函館」へ:

ところで、「箱館」が「函館」と表記が変わったのは、明治2年9月30日、箱館に開拓使出張所が置かれたタイミングで、公式に「函館」へと表記が改めらた。しかしながら、開拓使の事業報告などに「箱館を函館と改む」と記録はあるものの、なぜその文字を選んだのかという詳しい理由は当時の公文書には明記されていないという。そこで、諸説あるが、「函」はもともと蓋付きの容器を表す正式な漢字(一方、「箱」は蓋と本体が離れる形状の容器を指す) であり、公的な地名や文書においてより格調高い文字(正字)を選ぶ意図があったとされている。

「八幡坂」の由来と度重なる移転:
江戸時代には幕府の直轄地となり、「蝦夷地惣鎮守」として箱館奉行所からの厚い保護を受けた。かつては観光名所で有名な「八幡坂」の頂上に社殿があったが、明治11年(1878年)の大火で焼失したため、明治13年(1880年)、函館山の麓である現在の谷地頭町へ山を切り開いて遷座された。

(2)本殿

本殿は、 「聖帝八棟造り(しょうていはちまんづくり)」という、威厳のある外観である。

1915年(大正4年)に完成した現社殿は、「大正式八幡造」の傑作と評されている。藤原時代の寝殿造りと権現造りを融合させたもので、屋根のなだらかな曲線が重なり合う威風堂々とした姿をしている。

函館八幡宮は、函館山を背にして造られており、本殿に至る階段は130段以上ある。















6.黄色い消火栓

(1)「函館型三方式地上式消火栓」

函館の街を歩いていると、黄色い消火栓を見かける。函館市内全域に約2,000基が設置されているという。一般的な赤い消火栓とは一線を画すこの消火栓は、1934年(昭和9年)に発生した大惨事「函館大火」の教訓から、迅速な消火活動と大量放水を実現するために函館市が独自に設計・導入したものである。その際、、アメリカの地上式消火栓を手本に作られたことから、デザインや機能に洋風の優れた工夫が凝らされている。

元々は防災の観点から生まれたものだが、元町地区の教会群や洋館、赤レンガ倉庫といった函館特有の和洋折衷の街並みに調和し、今では「函館らしさ」を感じさせる人気の撮影スポットとなっている。








(2)小樽の消火栓

本州では赤色で地下式が一般的だが、北海道の主要都市では雪の中でも見つかりやすい色で、地上式がほとんどだという。 参考に、函館と同じようにユニークな小樽の消火栓をみてみる。

小樽は「坂の街」といわれるように高低差が激しいため、水道の配水系統が細かく分かれている。1974年の大火災の際、複数の消防車が同じ配水系統の消火栓から一度に水を取ったため、水圧が下がり水が出にくくなるトラブルが起きてしまった。 この教訓から、同じ色の消火栓からは同時に多くの水を取らないように、配水系統ごとに消火栓を色分けをして、現場の消防隊員が一目で別のルートの消火栓を判別できるようにしたという。現在では約1,500基が配備されている。



歩き疲れたので、八幡宮から谷地頭温泉に向かいましたが、あいにく臨時休業ということで入れませんでした。翌日、再度行って、のんびりと癒してきました。

谷地頭温泉は、函館山の麓に位置している、源泉かけ流しの大型日帰り入浴施設です。明治時代に開掘された歴史ある温泉で、かつては市営でしたが、現在は民営化されリニューアルされ、リーズナブルな料金で地元住民から観光客まで幅広く愛されているということです。

谷地頭温泉

 

東京異空間443:実りの秋~柿

実りの秋を代表する果物といえば、やはり柿でしょう。 秋 晴れの日、近所を散歩していると、柿がたわわになっていました。また、柿を吊るして干し柿を作っているところもありました。 ところで、10月26日は「柿の日」だそうです。これは正岡子規の有名な句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」が詠...

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