2026年8月17日月曜日

高岡を歩く9~勝興寺(4):大広間・式台

 


勝興寺・本堂に続いて、やはり国宝となっている大広間・式台にまわりました。

大広間・式台は、加賀藩前田家や本願寺、公家との深い繋がりを背景に、本山(西本願寺)に準じる高い格式を持つ寺院として、極めて破格の規模で建てられたものです。そのため、お寺とは思えないような部屋や、寺宝がありました。




左側・式台

1.大広間

大広間は、1653 年に建立された、勝興寺に現存する最古の建造物である。住職は、江戸時代に、勅使や地元大名の当主といった有力者などをここで迎えていたとされる。

(1)外観

正面が入母屋造、背面が切妻造の杮葺(こけらぶき)となっている。







(2)内部

勝興寺の大広間は内部が「2列配置(南北2系列)」に分かれている。

北側列(2室):大床(おおどこ)に向かう奥行きの深い広間で、大人数の集会・対面用。

南側列(3室):東から「三の間」「二の間」「一の間(上段)」と続き、付書院や違い棚を備えた格式高い個別の接客・儀礼用。

京都・西本願寺のように「集会空間」と「個別接客空間(白書院)」を別棟にするのではなく、1つの大広間の中に2つの機能を並列で取り込んでいる点が特徴である。初期の真宗型対面所から、武家風の洗練された書院造へと発展していく「過渡期の形式」とされる。








上段の間

最も格式の高い応接間「一の間」には、門跡寺院や勅使を迎えるための「上段の間」が設けられている。地方の浄土真宗寺院で、江戸時代以前に造られた上段の間が現存するのは勝興寺だけである。

火灯口 :上段の間の横(右側)に見える、上部がラッキョウ型(または炎の形)に曲線を描いた枠を持つ、「火灯口(かとうぐち)」と呼ばれる隠し扉のような美しい開口部がある。この奥は通路に繋がっており、貴賓に直接お茶や食べ物を差し出す際、他の一般参列者で埋まる「二の間」「三の間」を通らずに、裏から直接給仕ができる特別ルートになっていた。

また、武家建築の「帳台構え」と同様に、この「火灯口」の奥の部屋も、対面中に不測の事態が起きた際に備えて護衛の武者を待機させておくスペース(武者隠し)として機能する構造になっていた。


右側・火灯口

欄間

「上段の間(一の間)」とその手前の部屋(二の間)の境界に欄間が施されている。 これは、ただの装飾ではなく、最も位が高い「上段の間」という聖域・特別な場所を、手前の空間と明確に区別する「結界」としての役割を持たせて作られている。

欄間には美しい「梅」の彫刻が施されているが、前田家の家紋「梅鉢紋」とのつながりを意識させる。これも、「井波彫刻」の職人によって作られている。




「梅」の欄間 裏表

「梅」の欄間 裏表

床の間(一の間)の掛軸 

勝興寺18代住職 澤映(たくえい)の書。

勝興寺・住職の瑞映の画《高原晩靄》5653

瑞映は南画の名手であったとされ、門徒や地元住民に作品を分か堪えていたとされる。1963(昭和38)年、68歳で没した。











障壁画

一の間の床壁には、格式の高さを示す鮮やかな「鶴に松」の障壁画が描かれている。


「鶴に松」の障壁画

壁紙

額に入った壁紙は大修理の際に発見された江戸時代のもの。これを再現して壁と襖に使用している。



江戸時代の壁紙


釘隠しなどの文様

勅使を迎える場所であるため、襖の唐紙や釘隠しには皇室ゆかりの「菊の文様」が散りばめられ、訪れる人に寺の威信と格式の高さを知らしめる役割も持っていた。





2.式台

大広間に向かって右側に連なっる建物を勝興寺では「式台」と呼ぶ。お坊さんや賓客が籠から直接乗り降りするための格式高い玄関、および客の控えの間を含む空間である。

建築年代は大広間と同時期とされていたが、本堂と同時期、1795年とされる。

(1)外観

正面には美しい曲線を描く「むくり屋根」の庇がつき、吊り下げ式の雨戸など、武家屋敷さながらの威厳ある外観をしている。式台は別名「鉄砲の間」とも呼ばれ、有事の際の武力的備えや武家との繋がりを意識した構造となっている。勝興寺は、加賀藩前田家から強力な庇護を受け、越中の「触頭」として機能していたことから、空間の入り口である「式台」には、城郭や大名屋敷(武家殿舎)の「遠侍(お供の武士の待合所・警護詰所)」としての性格が強く組み込まれている。

むくり屋根

むくり屋根





(2)内部

玄関寄りに床の間が付いた2室(客だまり)を並べ、その背後に廊下を介して板間の3室を配置し、さらに奥の台所へと繋がっている。


鉄砲の間

鉄砲の間


3.台所

式台の後方に接続する台所は、大勢の賓客や集まった門徒に振る舞う、大規模な食事や時の膳(時食)を調えるための「厨房」として作られた。 江戸時代末期の文久3年(1863年)に建立された。

(1)外観 

切妻造・妻入(きりづまづくり・つまいり):

屋根は本を開いて伏せたような切妻造で、三角形に見える側(妻側)に主要な出入口を設けた「妻入」の形式をとっている。

* 台所(外観)


(2)内部

土壁とむき出しの太い梁が織りなすダイナミックな架構構造が特徴的である。

床の上の井戸(床高井戸):

板の間の床の上から直接水が汲めるように設計された、非常に珍しく特殊な井戸である。調理中の動線を短縮するための、当時としては高度な工夫が見られる。





囲炉裏(いろり):

板の間の中央付近に切られており、食事の保温や湯沸かし、調理人の暖房・明かりとして使われていた。




竈(かまど ):

土間には、大勢の米を一度に炊き上げ、汁物を作るための巨大な煮炊き用の竃(かまど)が並んでいる。

台所のすぐ近く(書院側)には、大きなお茶会の準備を行うための専用の部屋「台子の間」が配置されている。



4.台子の間

書院の建物に入って最も手前(入口側)に位置する部屋で、 本山や藩主、高貴な客人を迎える大茶会や儀式に際し、「台子」を用いたお点前の準備や、貴重な茶道具をしつらえて見せるための空間である。

「台子」とは、茶道で使われる最も格式の高い仕立ての「茶道具を載せる棚(飾り棚)」のこと。

「龍」の欄間



5.勝興寺の誇る「寺宝」

(1)「洛中洛外図屏風」(複製)

書院エリアの入り口にある「台子の間(だいすのま)」にこの屏風が常設展示されてい る。

勝興寺本(六曲一双、慶長末〜元和年間頃の制作)は、左隻に慶長8(1603)4月に修築の終わった二条城、右隻に方広寺の大仏殿を描く、洛中洛外図屏風の中でも、一双揃って現存する最も古い作品とされている。これらは、おおよそ慶長末から元和年間頃の京都の様子を描いたものとされ、数々の風俗が狩野派の絵師によって描かれている。

異例の大きさで強調された「西本願寺」:
画面の左隻(京都の西側)において、慶長8年(1603年)に修築された二条城が大きく中央を占める一方、その左側(下側)に描かれている西本願寺が極めて巨大かつ詳細に描かれている。西本願寺の御影堂の内部にまで目を凝らすと、細かな水墨画の描写が施されるなど、並みの社寺を圧倒するほど非常に手の込んだ描き込みがなされており、本山に対する並々ならぬ敬仰と関心の強さが示されている。

権力の象徴「二条城」と賑わう城下:
二条城の東大手門の前では、堀川通を進む祇園会の神輿渡御を見物する群衆の姿が活き活きと描かれており、天下人の城と京都の民衆のエネルギーが対比的に表現されている。

この屏風の伝来については、二つ説がある。

鷹司家からの輿入れ道具説(寺伝)
寺の記録(寺伝)によると、江戸時代後期の関白である鷹司政煕の娘・諧子(ときこ)が、勝興寺第20代住職・本成に嫁ぐ際、お輿入れの道具(持参品)として京都から持参したとする。

西本願寺からの持参説(有力な異説):
画面に描かれた「西本願寺」の描写が極めて大きく、非常に手の込んだ細工が施されていることから、別の時代(第13代准教の時代)に西本願寺第12代准如上人の娘・小良姫が輿入れした際に持ち込まれたのではないかという説も有力視されている。

右側に方広寺の大仏殿



「二条城」と賑わう城下手前に祇園会の神輿渡御




強調された「西本願寺」(左側)右中央に二条城

(2)戦国武将・最高権力者の古文書

勝興寺は一向一揆の中核として地域に君臨していたため、歴史上の重要人物たちからの直筆書状(禁制や安堵状など)が多数保管されている。主な人物としては、武田信玄、佐々成政、豊臣秀吉、前田利長(加賀藩初代藩主)など。これらは戦国〜織豊期の北陸情勢を解き明かす一級の学術資料とされる。

「武田信玄・勝頼連署書状」 1572(元亀3)年

武田信玄(152173)とその子・勝頼(154682)が連署して、勝興寺第9代住職・顕栄(150984)に届けた書状で、信玄・勝興寺と対立する上杉謙信への対応について記したものである。差出書が信玄親子の連署となっているもので唯一現存する極めて貴重な史料である。



(3)宗祖・中興の祖の書跡

浄土真宗の教えの根幹に関わる、極めて神聖な染筆(直筆の書)も格別に大切に保管されている。

主な人物としては、真宗宗祖の親鸞聖人、および勝興寺の起源(土山御坊)を築いた中興の祖である蓮如上人の書跡など。

(4)公家・大名の調度品

京都の公家(鷹司家など)から嫁いだ姫君たちが持ち込んだとされる、絢爛豪華な蒔絵(まきえ)が施された大名道具や調度品、茶器などが当時の状態で多数現存している。

「梅鉢紋蒔絵女乗物」

5代藩主・前田吉徳の十男である時次郎(後の10代藩主・前田治脩)が、勝興寺の住職として入寺する際に使用した。「女乗物」というのは、大名婚礼などに使われる形式だが、幼少の得度者が乗るための格式高い仕様(格天井や豪華な内装)で作られていることから採用されたという。

1761年(宝暦11)に、当時の藩お抱えの最高峰の職人集団である加賀藩御細工所の手によって作られたとされ、黒漆塗りをベースにした本体には、金高蒔絵や精緻な梅鉢紋の金具が施され、内装には華やかな吉祥画が描かれている。



龍模様平文鐙(りゅうもようひょうもんあぶみ)・菊花紋蒔絵鞍(きくかもんまきえくら)

どちらも木造で、全面を黒漆で塗り上げ、鐙の内側だけを朱漆で赤く塗り分けている。鐙の正面に龍模様を金の平文(ひょうもん)で描き、鞍の正面には薄肉金高蒔絵の十六弁菊花紋を置いている。

実戦用の武具ではなく、江戸時代の極めて高い漆芸・工芸技術が凝縮された、儀礼・装飾用としての華麗な美しさを今に伝える

龍模様平文鐙・菊花紋蒔絵鞍

龍模様平文鐙


6.敷の廊下

格式高い「上段の間」や「一の間」へ昇るための公式な通路・控えの空間である。身分の高い賓客(公家衆の使者や大名など)が訪れた際、ここで出迎えや格式に応じた作法が行われた。

現在は、 20年以上に及ぶ平成の保存修理で屋根から下ろされた、江戸時代の歴史的な瓦の屋内展示場となっている。棚には、かつて大広間や各伽藍の屋根を飾っていた職人技の光る鬼瓦や装飾瓦が間近で見られるよう並べられている。



7.書院 奥書院

「大広間(公式・大人数の対面)」から、中に入って「書院(準公式・日常)」、そして最奥の「奥書院(極秘・最高格式の対面)」へと、奥に進むほど空間が狭まり、逆に格式と緊密性が高まる「重層的な構造」を構築している。

なお、大広間から本堂へ、また書院から本堂へと、それぞれ渡廊下が設けられている。

(1)書院

17世紀中期の「大広間」建立と前後し、その控室・日常空間として整備された。 住職の日常の生活や、準公式な応接、家老などとの合議の場である。落ち着いた数寄屋風の意匠であり、庭園に面し、実用性と居住性を兼ね備える。







(2)奥書院

17世紀後半以降、本山や公家との関係深化に伴い、最奥部に増築された。 天皇の勅使や本山の門主、加賀藩主など最上級の賓客を迎える密談・接待の場である。

最も奥深い「対面の終着点」であり、壁や襖が金箔で覆われている豪華な「金の間」を構え、菊の文様が随所に見られる。




金の間


(3)西本願寺の書院との比較 

奥に行くほど「豪華」になる逆転の構造:
西本願寺では、表の大広間や白書院が金碧障壁画や彫刻で最も華やかであり、最奥の「黒書院」は墨絵などを基調とした落ち着いた数寄屋風(黒漆や侘びの空間)になっている。それに対し、勝興寺では、表の「大広間」は比較的落ち着いた格式を見せるのに対し、最奥の「奥書院」にまばゆい「金の間」を配置している。これは、地方の有力寺院(加賀藩の権力や本山との紐帯を誇示する必要がある立場)として、「最も大切な賓客を、最も奥まった最高の秘密空間(金の間)でもてなす」という、城郭御殿に近い政治的・戦略的な意図が強く反映されているためである。

「門主」ではなく「勅使・前田家」を意識した最高格式:
西本願寺の黒書院はあくまで「門主(住職)のプライベートな空間」としての性格が強いのに対し、勝興寺の奥書院は、天皇の使者である「勅使」や、強力な後ろ盾であった「加賀藩主(前田家)」の座る場所として特化している。そのため、釘隠しや唐紙には本山や皇室を意識した「菊の文様」が格調高くあしらわれており、地方寺院でありながら本山に準じる(あるいはそれ以上の)破格の接待空間として整備された。

(4)襖の引手
奥書院の引き手金具一つとっても、ただの丸型ではなく、植物の葉や結び紐などをモチーフにした、職人の手による極めて微細なタガネ彫りが施されており、近くで見るほどにその密度に圧倒される。




8.御内仏・御霊屋

一番奥に位置するこの二つの建物は、通常非公開となっている。


手前が御内仏、その奥が御霊屋、大広間


(1) 御内仏

大広間の奥(書院とつながる北側)に位置する御内仏は、本堂が一般の門徒や公的な法要のための空間であるのに対し、御内仏は勝興寺の住職が日々お勤め(礼拝)を行うための極めてプライベートな仏間(内仏殿)である。住職は毎朝、本堂で朝の勤行を捧げたあと、奥書院へ戻る途中にこの御内仏に立ち寄り、私的な祈りを捧げるのが日課とされていた。

1688年(元禄元年)に建立された。

* 御内仏


(2)御霊屋(みたまや)

加賀藩11代藩主・前田治脩(はるなが)や12代藩主・前田斉広(なりひろ)などの位牌が安置され、藩主の霊を祀る役割を担っている。 1810年(文化7年)に造営された。

9.空間のつながり

大広間・式台の各部屋の平面構成は、以下の3つが交錯することなく、極めて機能的に機能するよう設計されている。

賓客が格式高く迎えられる「式台 ➔ 大広間」

裏方が給仕に徹する「台所 ➔ 廊下・入側 ➔ 大広間各室」

宗教的儀式へ移行する「大広間 ➔ 渡り廊下 ➔ 本堂」

この完璧に分離された動線計画こそが、加賀藩の連枝寺院として、幕府・朝廷・藩の要人を同時に、かつ失礼なくもてなすためのシステムであった。

大広間から本堂に行く渡廊下


式台 ➔ 大広間






つぎに、勝興寺を出て、高岡の市街地にある高岡御車山会館などを見て、もうひとつの国宝の寺「瑞龍寺」に行きました。


高岡を歩く9~勝興寺(4):大広間・式台

  勝興寺・本堂に続いて、やはり国宝となっている大広間・式台にまわりました。 大広間・式台は、加賀藩前田家や本願寺、公家との深い繋がりを背景に、本山(西本願寺)に準じる高い格式を持つ寺院として、極めて破格の規模で建てられたものです。そのため、お寺とは思えないような部屋や、寺宝...

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