2026年7月16日木曜日

金沢を歩く11~金沢神社

 

金沢神社・本殿

兼六園の「随身坂門」を出て、隣接している金沢神社に参拝しました。

1.金沢神社の由緒

寛政6年(1794年)、11代藩主・前田治脩(はるなが)が、兼六園の現在の梅林の地に藩校「明倫堂」を建てた。その鎮守社として、前田家の祖先とされる菅原道真公を御祭神に迎えたのが始まり。のちに12代藩主・前田斉広が「竹沢御殿」を造営した際、藩主の個人的な祈願所や兼六園の鎮守としても崇められるようになる。

江戸時代は藩主専用の神聖な場所であり、一般庶民は例祭の日(425日と925日)に婦女子のみが許される特別な神社であったが、1874年 (明治7年)に兼六園が一般開放されたことに伴い、誰でも参拝できるようになった。

1876(明治9年)に「竹沢天神」から「金沢神社」に改称した。



(1)拝殿

主祭神は、学問の神菅原道真公を祀る。

相殿として 白蛇龍神が祀られている。





(2)手水舎

「金城霊沢」の地下水源と同じくしている。






(3) 金城霊沢

金沢という地名のルーツである。その昔、芋掘藤五郎という男がこの湧き水で芋を洗ったところ、多くの砂金が出てきたという伝説から「洗いの」と呼ばれ、それが「金沢」の地名になったと伝えられている。

2.随身門

随身門の左右には、神社を悪霊や災いから守護する門守神(かどもりのかみ)として、平安時代の近衛府の官人(警護官)の姿をした右大臣・左大臣の神像(随身様)が安置されている。

門の中に安置されている神像の背面には「文政四年」(1821年)の銘があり、加賀藩の重臣(加賀八家)である前田土佐守家7代・前田直時によって奉納されたことが分かる。現在の門は、1993(平成5)年に修復・再建された。

13代藩主・前田斉泰(なりやす)の母である眞龍院(鷹司隆子)が、隣接する成巽閣(せいそんかく)に入輿する際、警護の随身やお供の女中たちがこの門の前の坂を通ったこと、また門に随身像が祀られていることから、一帯が「随身坂」と呼ばれるようになった。






絵馬の奥は白阿紫稲荷大明神

菅原道真公の絵馬と白蛇の絵馬


3.放生池

池の大部分が緑の葉で覆われ、美しいピンク色の睡蓮(スイレン)や、黄色い可憐な花を咲かせるコウホネ(河骨)が水面を彩る。



コウホネ(河骨)

睡蓮(スイレン)


4.いぼとり石

この石は、12代藩主・前田斉広(なりひろ)の夫人、または13代藩主・前田斉泰(なりやす)の夫人・真龍院が、能登の町屋村から運ばせたと伝えられている。 町屋村にはかつて「いぼ池」という池があり、その周辺の石でイボをこすると治るという信仰があり、その霊験あらたかな名石がこの場所に据えられた。

明治以降、兼六園が一般開放されると、敷地内にあるこの石の評判が庶民にも広まり、広く信仰されるようになった。いまでは、体にあるイボだけでなく、心の「イボ(悩み)」も取り除いてくれる、見えないイボを癒やす石としても親しまれているという。




5.夢石

金沢神社の御祭神である菅原道真公は「丑年生まれ」であり、さらに大宰府へ左遷された際に牛に命を救われたという伝承があることから、全国の天満宮と同様に、牛が「神の使い」として境内に据えられている。

この像は、金沢市出身の旧帝展作家・都賀田勇馬(18911981)によって制作され、戦前に神社へ奉納された。

全国の天満宮・天神神社では「撫で牛」と呼ばれるが、ここでは「夢牛」の名で親しまれていて、 願い事を頭に思い浮かべながら頭部や体を撫でると、その夢や願いが叶うと言い伝えられている。多くの参拝者が撫でていくため、背中や体は風情ある苔に覆われている一方で、頭部だけはツルツルと輝いている。




6.板屋神社遥拝所

画期的な土木技術を用いて兼六園の水泉、さらに金沢城へ水を引く「辰巳用水」をわずか1年足らずで完成させた「板屋兵四郎(いたやへいしろう)」が祀られている。本社である板屋神社(金沢市上辰巳町)は遠方に位置しているため、一般の人や関係者が兼六園のすぐ側から遠隔で遥拝できるようにこの建物が設けられた。   

なお、遥拝する対象である「板屋神社」自体は、1960年 (昭和35年)に創建された。


つづいて隣接している「成巽閣」に行きました。


金沢を歩く10~兼六園・時雨亭周辺

 


山崎山から流れ出る曲水の周辺を巡り、時雨亭、梅林をまわって随身門から出ました。

1.ラジオ塔

兼六園の長谷池近くにある「ラジオ塔」は、昭和8年(1933年)にNHK(日本放送協会)が公共放送の普及を目的に設置したもの。

戦前には、この塔から名古屋放送局などのラジオ番組が流れ、多くの人々に親しまれていた。1930年(昭和5年)から全国で約460基作られ、各地のラジオ塔の多くは鉄筋コンクリート造であったが、特別名勝である兼六園では、周囲の豊かな緑や歴史的な景観との調和を保つため、あえて上部に木製の灯籠デザインが採用された。各家庭にラジオが普及したことでその役目を終え、現在は当時のラジオ文化を伝える貴重な歴史遺産となっている。




2.松の傷

「松の傷」は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月頃、軍用航空機の燃料とするために松脂(まつやに)を強制採取した歴史的な痕跡である。

1945年 (昭和20年)3月、日本政府は航空機の燃料不足を補うため「松根油等拡充増産計画」を閣議決定した。これは、全国の松から松脂や松の根を採取・乾留し、航空機用の代替燃料(松根油)を大量生産しようという計画であった。兼六園も例外ではなく、園内の松約200本が対象に指定された。同年6月、実際に53本の松から松脂の採取が開始された。1本の木から1昼夜で約1合半(約270ml)の松脂が絞り取られたと記録されている。

最終的に、この燃料で実際に航空機が飛ぶことはないまま、同年8月に終戦を迎える。

戦災に遭わず、江戸時代の美しい庭園の姿をそのまま残す兼六園において、この松の傷は唯一とも言える明確な「戦争の痕跡」である。




3.千鳥配置(ちどりはいち)

千鳥配置とは、石を一直線に並べるのではなく、左右にわずかに互い違いに配置する飛び石の手法である。千鳥が、左右に体を揺らしながら歩く独特の足取りに似ていることからこの名が付けられている。左右、一歩進むたびに景色が変わる仕掛けとなっており、兼六園の庭ではいくつか見られるが、これは「舟之御亭」に向かう飛び石である。

奥が舟之御亭


4.時雨亭

兼六園のルーツ:時雨亭の始まりは、1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀が金沢城内の作事所を移転させ、その跡地に「蓮池御亭(れんちおちん)」を建てたことにある。この蓮池御亭がのちに補修や建て替えを経て、藩政後期に「時雨亭」と呼ばれるようになった。

明治時代初期に一度取り壊されて姿を消したが、2000年の「平成の復元事業」において、残されていた古図や絵図を基に現在の場所に再建された。




5.時雨亭周辺








6.梅林

梅林は、全国から集められた約20種・200本の梅が植えられている名所。加賀藩前田家の家紋は「梅鉢紋」であり、家系が梅をこよなく愛した菅原道真の末裔を称していたことから、元々梅とは非常に強い結びつきがあった。こうした深い縁から、明治100年を記念して1969年 (昭和44年)に梅林が造成された。 造成にあたっては、北野天満宮や太宰府天満宮、水戸偕楽園など、全国の有名な梅の名所から由緒ある苗木が集められた。




7.随身坂口

「随身坂」は、この坂のそばに、兼六園の敷地に隣接する「金沢神社」の神門が「随身門」と呼ばれることに由来する。


「随身坂口」を出て、兼六園に隣接している「金沢神社」に参ります。

兼六園を一回りしたところで、その歴史を振り返っておく。

江戸時代:歴代藩主による作庭と改修

江戸時代は、火災による焼失を乗り越え、周辺の平地(千歳台)を取り込みながら、現在の広大な庭園へと拡張されていった

    1676年(延宝4年)

      5代藩主・前田綱紀が金沢城に面する傾斜地に別荘「蓮池御殿」を建て、その周辺を庭園化し、「蓮池庭」を造る。これが兼六園の始まりで、現在の瓢池周辺にあた

    1759年(宝暦9年)

      「宝暦の大火」により金沢城下と蓮池御殿、庭園の大部分が焼失。

    1774年(安永3年)

      11代藩主・前田治脩が蓮池庭を再興。このとき、現在も残る茶室「夕顔亭」や「翠滝(みどりたき)」が造営された。

    1792年(寛政4年)

      11代藩主・前田治脩が、蓮池庭の上部にある広大な平地「千歳台」に藩校「明倫堂」と「経武館」を創設。

    1822年(文政5年)

      12代藩主・前田斉広が千歳台の藩校を移転させ、広大な隠居所「竹沢御殿」を築造。

      同年、白河藩主・松平定信の筆による「兼六園」の扁額を授かり、庭園の名称が定まる。

    1837年(天保8年)

      13代藩主・前田斉泰が竹沢御殿を取り壊し、跡地を「竹沢御庭」として再整備。

      霞ヶ池」を掘り広げ、内橋亭を移築、唐崎の松を植樹するなど、現在の壮大な景観の骨組みれた

    1861年(文風元年)頃

      13代斉泰が金沢城内に噴水を設けるための試作として、園内に日本最古とされる自然水圧の「噴水」を設置。

    1863年(文久3年)

      13代斉泰が母(12代斉広の正室・真龍院)の隠居所として、園内に「成巽閣(せいそんかく)」を造営。

    1867年(慶応3年)

      瓢池と霞ヶ池、千歳台の一帯が一体化する大規模改修が完了し、現在の兼六園の姿がほぼ完成した。


明治時代〜現代:市民への開放と文化財としての歩み

明治維新によって国有地となった兼六園は、博覧会会場や近代的な施設が置かれるなど、公共の「公園」へと大きく役割を変えていた。

    1871年(明治4年)

      園内の一部が初めて一般市民に日時限定で開放される。山崎山の下に「異人館」が建設された。

    1872年(明治5年)

      金沢で最初の近代博覧会。兼六園内の「夕顔亭」や「蓮池庭」周辺、旧藩校の「明倫堂」などが会場となる。以後、兼六園は、明治時代に3度の博覧会の会場となり、近代文明の発信地となる。

    1874年(明治7年)57

      太政官布告に基づき、石川県の公園として全面的に一般無料開放が開始。これに伴い、園内に多くの茶店が軒を連ねるようになった。

  1878年(明治11年)102

     明治天皇が兼六園に行幸。

     当日は(旧)藩主13代・前田斉泰、自らが園内を先導し、明治天皇を案内した。

行幸が兼六園に、もたらした歴史的影響

(1)徽軫灯籠ことじとうろう)の改作:明治天皇に披露するにあたり、前田斉泰が灯籠のバランスや庭園の景観的な「見せ方」を考慮し、あえて片脚を短くした状態で据えた、という考察がある。

(2)「日本三名園」選定のきっかけ:兼六園・偕楽園(水戸)・後楽園(岡山)を「日本三名園」と呼ばれるようになったのは、明治天皇が巡幸で訪れ、称賛された3つの庭園がもととなり、のちに三名園として定着したという説がある。

(3)「明治紀念之標(日本武尊像)」の建立:行幸から2年後の1880年(明治13年)にこの「標」が建てられたが、その際、明治天皇から100円、旧藩主・前田斉泰から700円という多額の寄付が寄せられた。

    1880年(明治13年)

      西南戦争の戦死者を慰霊するため、日本最古の屋外銅像とされる「明治紀念之標(日本武尊像)」が建立される。

    1922年(大正11年)

      国の「名勝」に指定される(当初は「金沢公園」の名で指定、1924年に「兼六園」へ名称復帰)。

    1933年(昭和8
      「ラジオ塔」が建てられる。

    1945年(昭和20年)

      戦闘機の燃料とするため、松から松脂の採取が開始され、「松の傷」が残る。

    1969年 (昭和44年)

      明治100年を記念して、梅林が造成された。

    1976年(昭和51年)

      園内の観光化に伴う環境荒廃を防ぎ、維持・保存を徹底するため、それまでの無料開放から有料化へと踏み切る

    1985年(昭和60年)

      国の「特別名勝」に格上げされ、庭園における国宝に相当する最高格付けを得る。

    2000年(平成12年)

      長谷池周辺の整備事業が竣工。明治初期に取り壊されていた「時雨亭(しぐれてい)」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が130年ぶりに再現・復元された。

金沢を歩く11~金沢神社

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