| 赤レンガの銀行 |
先に見た、高岡御車山を保有する10か町を「山町」といいます。高岡城下の旧北陸街道沿いに発展した商人町で、山町筋は土蔵造りの伝統的建造物が多く残る町です。街並みに残る伝統的建物を観ていきます。
2.山町筋伝統的建造物
(1)山町筋の由来
高岡開町と商人町の形成:
1609年(慶長14年)、加賀藩2代当主の前田利長が高岡城を築城して開町した際、北陸道沿いに近隣の城下町から商人たちを呼び寄せて商人町を造ったことが始まりである。
1614年(慶長19年)に利長が亡くなった後、江戸幕府による一国一城令により高岡城が廃城となり、家臣達も金沢へ引き上げたことにより城下町として栄えた高岡の町は荒廃が進んだ。そこで3代・前田利常は、高岡町民に町外転出禁止を命じ、廃城になった高岡城に藩の米、専売品である塩の蔵を建て、中心的地集積地とし流通拠点に、魚介鳥類を河原町の問屋に集め、藩内の流通拠点に、砺波地方特産の布製品の検印をすべて高岡で受けるようにするなどした。 また利長が町発展のため、1611年(慶長16年)金屋町を鋳物(銅器)生産の町として開いたが、利常はこちらの生産・流通にも力をいれるなど、商工業の振興に力を入れ城下町から商工業都市として発展し、加賀藩の中で金沢に次いで栄えた。
明治の大火災から再建:
1900年(明治33年)に大火災が起こり、高岡の町の約6割、山町筋の家屋ほとんどが被災した。その中でも元々土蔵造りであった2軒の家屋が焼け残ったため、その後旧北陸街道沿いとその周辺の建物は土蔵造りで再建された。 明治の大火から再興した町には、明治中期から昭和初期までに建てられた土蔵造りや真壁造りの家屋のほか、家屋前面を西洋風にした家屋、赤レンガ造りの銀行などが今も残されている。
(2)旧高岡共立銀行(赤レンガの銀行)
大正3年に建てられた、富山県内唯一の本格的なレンガ造り建築物で、擬ルネッサンス様式のモダンな外観で富山県内では唯一現存する本格的な洋風建築とされている。
建物の設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺潤吉が担当した。
(3)富山第一銀行高岡中央支店
かつて、この場所には、大正〜昭和初期に全国の銀行建築を数多く手掛けた建築家・関根要太郎の設計により、昭和初期に建てられた「不動貯金銀行高岡支店」が存在していた。 旧建物が取り壊された後、2004年に富山第一銀行が「高岡中央支店」を新築する際、この地区(山町筋)が「土蔵造りの町並み」に指定されていたことから、かつての街の記憶を継承するため、旧不動貯金銀行の意匠を意識して外観がデザインされた。
(4)高岡郵便発祥地
明治5年(1872年)、日本の新式郵便制度発足(1871年)の翌年に、現在の高岡市木舟町(津川商店の敷地隅)に「高岡郵便取扱所」が開設されたことが始まり。明治期を通じて、郵便だけでなく電信も取り扱う「郵便電信局」へと発展した。時代の変化に伴い組織の独立や併合を繰り返しながら、地域の重要な通信拠点としての役割を担い続けた。 1902年(明治35年)に郵便局が同じ山町筋の御馬出町へ移転したため、最初に郵便事業が始まったこの地に歴史を記念する発祥の石碑が建てられた。
(5)菅野家住宅
菅野家住宅は、明治時代の高岡の繁栄と復興の象徴とされる、極めて精巧かつ重厚な土蔵造りの町家である。
菅野家は、江戸時代末期から明治初頭にかけて、日本海を往来する北前船交易や北海道との通商で莫大な財を築いた高岡の豪商(廻船問屋)で、代々「伝右衛門」の財閥名を襲名した。 5代・菅野伝右衛門らは、1889年(明治22年)に高岡銀行を設立、1903年(明治36年)には高岡電灯を創立するなど、高岡の近代化と政財界をリードした。
1900年(明治33年)、高岡の市街地を焼き尽くす「高岡大火」が発生し、菅野家も被災した。しかし、大火直後に当時のお金で約10万円という巨費(現在の数十億円相当)を投じて現在の主屋が再建された。この強固な耐火町家の建築が、周辺の「山町筋」全体の土蔵造りの街並み形成を牽引することになる。
| 鯱や雪割を付け、雷紋を施した大きな箱棟 |
| 正面庇廻り |
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(6)旧室崎家住宅 旧室崎家住宅は、明治36年(1903年)に建てられた高岡屈指の商家建築である。 |
室崎家は明治初年にこの地に移り住み、昭和20年(1945年)まで綿糸や綿布の卸売業を手広く営んでいた高岡を代表する豪商であった。現当主の転居に伴い、土蔵造りの町家の歴史的価値を後世に伝えるため、高岡市が資料館として整備・公開している。
(7)筏井家住宅(いかだいけ)
筏井家は、山町筋の他の豪商たちと同様に、この地域で代々、綿糸などの卸商を営んでいた商家である。
筏井家住宅は、大火直後の1903年 (明治36年)に建てられた。 2階の窓に付く観音開きの土扉は、全て開けられた時に隣りどうしの扉が一体化して納まるように設計されている。屋根には採光のための天窓が付いている。
外壁全体が、深く落ち着いた黒漆喰で塗り固められている。これは火災の熱から木造の骨組みを守るための非常に厚い防火壁となっている。
(8)塩崎家住宅
塩崎家は江戸時代の享保年間(1716〜1735年)に指物屋として創業した非常に歴史のある老舗。江戸中期に金物屋を興し、明治時代には高岡の地場産業である「高岡銅器」の製造・輸出や卸売業で大きく発展した。現在は計量・計測機器の専門商社となっている。
主屋の建築は1909年 (明治42年)。明治33年(1900年)に高岡で発生した大火の後、防火のために当時の山町筋で流行・推奨された重厚な「土蔵造り」として建てられた。
昭和9年(1934年)〜10年(1935年)にかけて行われた都市計画による道路(昭和通り)の拡幅工事に伴い、交差点の角地にあたる間口を2間分斜めに切り取られる(隅切)ことになり、その削られた断面を埋めるための改築工事の際、当時の流行であった近代的・西洋風の看板建築として仕上げられた。
右側の明治期の土蔵造りと、左側の昭和初期の洋風建築という、2つの時代の建築様式を兼ね備え、都市の変遷を表す建造物として貴重な建物とされる。
| 右角は大野屋 |
(9)井波屋仏壇店(旧・林屋茶舗 高岡支店)
明治38年(1905年)に建てられた。もともとは金沢の老舗茶商であった「旧 林屋茶舗」が高岡支店として建設した店舗がじまり。その後、このモダンな歴史的建造物を「井波氏」が買い求め、現在は高岡の伝統工芸を象徴する仏壇店(井波屋仏壇店)として営まれている。
この建物も洋風の外観を見せつつ、構造や側面はがっしりとした漆喰壁の土蔵商店の造りになっている。店の土間部分は2階から吹き抜けで、四周に回廊が付いている。 正面の意匠は鋳物製の唐草模様で飾る大きなアーチ窓を置き、洋風に仕上げるなど、山町筋では独特の建造物となっている。
(10)棚田保寿堂
「棚田保寿堂(棚田薬局)」は、江戸時代から続く創業200年以上の歴史を持つ老舗の薬商。2階に掲げられている「薬肆」という古い看板は「くすりし」と読み、薬を商う店を意味している。
屋根の箱棟や、2階の格子窓、観音開きの土扉など、明治期の商人の粋と財力を結集した堅牢な建物である。
(11)大野屋
1838年(天保9年)、初代である大門屋吉四郎が、それまで営んでいた醸造業から菓子業へと転じたことが始まり。現在の当主で9代目を数える。
高岡市は、加賀前田家2代当主・前田利長公による高岡開町以来、茶の湯の文化が深く根付いている町です。大野屋はこの豊かなお茶文化に寄り添い、百数十年以上にわたり職人の技と商人魂で和菓子を作り続けている。引札、中央に「明治十六年癸未略暦」とある。
| 大野屋 |
| 引札、中央に「明治十六年癸未略暦」とある。 |
| 菓子木型 |
大野屋で、お土産のお菓子を買いました。
つづいて、旅行の最終目的地、瑞龍寺へ向かいます。