武蔵ケ辻に出ました。ここには、北國銀行の建物があります。さらに進むと近江町市場があり、そこで食事をしました。
1.武蔵ケ辻
(1)由来
「武蔵ヶ辻」の由来は諸説あり、加賀藩政時代に町人の武蔵庄兵衛が住んでいた、など人名に由来しているという。また、「辻」は迷路を表し、金沢城下の三叉路を形成していて、香林坊などに通じており、古くから交通の要所であった。
(2)歴史
藩政期に、金沢城の大手門に近かったことから、城下町の重要な中心地として栄えた。
1721年には、浅野川口と犀川口にあった2つの魚市場が統合され、現在の近江町市場の位置に移転したことで、経済・物流の拠点としての地位を確立した。
近代になると、1930年(昭和5年)に「三越金沢店(現在の金沢エムザの前身)」が開業し、南側の片町・香林坊エリアと並ぶ「金沢の二大繁華街」として競い合うようになった。当時は路面電車(市内電車)も行き交い、買い物客で大変な賑わいを見せていたという。
2.北國銀行
北國銀行の武蔵ヶ辻支店となっている建物は、村野藤吾の設計によるものである。
(1)沿革
1932(昭和7)年:前身である「加能合同銀行本店」として建設された。
1943(昭和18)年:3行(加能合同、加州、能和)の合併により北國銀行が設立され、初代の本店となる。
1958(昭和33)年:本店の移転に伴い、現在の「武蔵ヶ辻支店」へと改称された。
2007(平成19)年:周辺の再開発により一時は解体計画もあったが、金沢市や市民の保存要望により残されることになった。その際、建物を基礎ごと移動させる「曳家(ひきや)」技術を使い、5日間かけて金沢駅側の方向へ約20メートル移動・転回させ、現在の形で保存・再生された。
(2)建物
昭和を代表する建築家・村野藤吾の独立初期のモダン建築である。正面にはゴシック建築を思わせる巨大な3連の船底型アーチ窓がそびえ立っている。これは発注者の祖先が北前船問屋だった歴史に敬意を表したデザインだという。外壁には渋い風合いのスクラッチタイルが敷き詰められ、アーチ窓の内側には精巧なブロンズ製の飾り格子がはめ込まれている。
(3)村野藤吾(1891-1984)
村野藤吾 は、丹下健三とともに、戦後の日本建築界を牽引したといわれる。代表作には、日生劇場(1963年築)がある。
村野藤吾の建築の特徴は、戦後の合理主義や機能主義(直線のモダニズム)とは一線を画した、「人間の身体感覚に寄り添う、有機的で華やかな装飾性と柔らかな曲線表現」にある。丹下健三との対比をすれば、丹下健三が「構造や国家の理想を掲げた直線とコンクリートのモダニズム」だったのに対し、村野藤吾は「個人の身体感覚や生活に寄り添った曲線と職人技のヒューマニズム」とされる。
3.近江町市場
(1)沿革
1721年 (享保6年):加賀藩の御膳所(厨房)として、金沢城下にあった袋町の魚市場と竪町付近の魚市場が現在の青草町周辺に統合・開設されたのが始まり。開設時に近江の商人たちが多く関わっていたことや、近江商人が主導して市場を形成したことからその名がついたと言われている。
1904年 (明治37年):「官許 金沢青草辻近江町市場」として公共市場の認可を受け、それまでの加賀藩御用達から一般市民の生活を支える商業拠点へと姿を変えた。
2009年 (平成21年):地階から地上5階の複合商業ビル「近江町いちば館」が開業し、伝統的な市場の雰囲気と現代的な都市機能が融合した。
現在は、鮮魚や青果、飲食店など約170店舗が軒を連ね、とくに新鮮な海鮮丼や食べ歩きグルメを楽しむ観光客で連日賑わっている。
| 近江町いちば館 |
(2)加賀料理
市場のなかにあるお店で加賀料理をいくつか頂いた。
| 蛍烏賊の沖漬け |
| かにの甲羅焼 |
| 金沢おでん |
| 治部煮 |
| 海鮮 |
| 海鮮丼 |
| 能登牛 |
つぎは、金沢から富山・高岡に向かいます。途中、井波に寄りました。



