2024年5月17日金曜日

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

 

東洋文庫ミュージアム・入口

東洋文庫ミュージアムで開催されていた「キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジア」をテーマとした貴重な本を観てきました。そのなかで、特に印象に残った次の3冊を取り上げてみたいと思います。

『破提宇子(はだいうす)』恵俊(ハビアン) 1620

『島原天草日記』松平輝綱 1638

『破吉利支丹』鈴木正三 1662

東洋文庫ミュージアム・館内

東洋文庫ミュージアム

東洋文庫ミュージアム・オリエントホール

東洋文庫ミュージアム・オリエントホール

東洋文庫ミュージアム・エントランス

東洋文庫ミュージアム・2階通路

東洋文庫ミュージアム・2階通路

東洋文庫ミュージアム・モリソン書庫

東洋文庫ミュージアム・モリソン書庫

企画展示「キリスト教交流史」

企画展示「キリスト教交流史」

企画展示「キリスト教交流史」

1.『破提宇子』恵俊 1620成立 1868年刊

「キリスト教交流史」をテーマにしたこの展示は、キリスト教がアジア、そして日本に広まっていった歴史を貴重書でたどる企画である。キリスト教は、はじめは陸路、シルクロードを通って東に広まってきたが、大航海時代になると、海路を使って宣教師たちもアジアの地域に次々とやってきた。日本にはフランシコ・ザビエルが1549年、鹿児島に上陸し、キリスト教を布教したことは、よく知られている。

日本でのキリスト教はキリシタン大名も現れるなど急速に広まり、日本人で修道士(イルマン)となる者も出てくる。その一人が不干斎ハビアンである。ハビアンは、大徳寺の禅僧で、恵俊という名であったが、1583年に洗礼を受けハビアンと命名された。その数年後、イエズス会の修道士(イルマン)となり、天草のコレジオ(神学校)で日本語を教える傍ら、同地で『天草本平家物語』を編纂した。京都に戻ると、『妙貞問答』を著す(1605年)。 これは、妙秀と幽貞という2人の尼の問答形式で記され、キリシタンである幽貞が神道・儒教・仏教を批判し、キリスト教の教理を説いて妙秀を入信に導くという内容である。仏教、神道、儒教という当時の主流であった宗教を相対的にとらえ、比較宗教論をふまえ、キリスト教を擁護したとされ、その内容については、従来から様々に議論されている。

ところがハビアンは、1608(慶長13に棄教して、一転してキリスト教批判の立場をとるようになった。晩年の1620(元和6年にはキリスト教批判書である『破提宇子』(提宇子「デウス」を破却する意)を著した。棄教の動機などは、日本人としてのイルマンの処遇に不満があったとか、女性問題があったなどと言われているが、いまも明らかにはなっていないようだ。

1621年(元和7年)、長崎にて死去。

このように、ハビアンの洗礼(1583年)~修道士(イルマン)~『天草本平家物語』(1592年) ~『妙貞問答』1605年)~棄教(1608年)~『破提宇子』(1620年)~死去(1621年)という主な生涯を見ると、この時代のキリスト教布教から秀吉・家康・秀忠による禁教という流れに、ハビアンは乗っていたように思われるが、ハビアンの棄教は、本格的に禁教の取り締まりが厳しくなる前のことである。

禁教の流れを追っておく。

1587年: 秀吉の禁教令「バテレン追放」

1596年:秀吉は再び禁教令を出す。フランシスコ会の教徒たちを捕らえて処刑した(日本二十六人聖人)。サン・フェリペ号事件」

1612年:江戸幕府は「岡本大八事件」をきっかけに江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して禁教令を布告する 。

1613年:家康が新たなバテレン追放令を作成 。「伴天連追放之文」(崇伝の起草)はキリスト教を統一された日本の宗教(神道、儒教、仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした 。

1616年:幕府(秀忠)は最初の鎖国令 「二港制限令」 を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示した。 。

1622年:「元和の大殉教」。長崎でカトリック教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件。

1637-8年:島原の乱。島原藩主が改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、大規模な反乱・内戦。

ハビアンが棄教したのは1608年であるから、徳川幕府の禁教令が出る前であり、厳しい弾圧があったとは考えられない。それから12年後に『破提宇子』1620年を著すが、その間の消息はわかっていない。

ハビアンはその著の序で次のように述べる。「一旦豁然として識得するに、言を巧みにして理に近づけ、教ゆるに真すくなし。しかうしてかの徒を出なり」

「一旦豁然」というように、突然、目覚めて、よく知りえたことは、言葉巧みに理に近づけているが、教えるところの真理は少ないと、いわば禅の悟りにように述べている。

そして、同じく序の最後に「江湖の野子 好庵」(世間で生活する一人の俗人)として生きるという宣言をする。ここでいう「野子(やし)」とは、田舎の人、粗野な人ということで、そのあとに自らを「好庵」としている。「庵」を好むというのも、世捨て人、僧侶などが好む庵=草葺きの家ということで、一人静かに生きていくということであろう。

ハビアンは、『妙貞問答』で、仏教、神道、儒教を批判し、キリスト教を擁護したが、そのキリスト教をも批判し、ついには神も仏も捨て、「野子」として生きるという、選択をした。

しかしながら、同じ序で、「ある親友が私を諫めて言うには、『過っては改むるにはばかることなかれ』という孔子の言葉を引き、既に学んだダイウスの邪法について書き、これを論破すれば、邪法を破斥し、正しいことを明らかにする功徳になるばかりはなく、新しいことを知る手引きとなるものであると。これを承知し、これを成し遂げようとして、『破提宇子』と題してこの本一巻を書いた」と言っている。

この「親友」というのは、長崎奉行の長谷川権六だとされる。長谷川権六は、懸賞金をかけて未信者の射幸心を煽り、修道者を密告させるという「訴人褒賞制」を行い、キリシタン禁圧に努めた人物である。つまり、ハビアンが、『破提宇子』というキリスト教批判書を著したのは、長崎奉行の長谷川権六から依頼され、時の将軍・秀忠への献上することにあったとされる。

そこで、『破提宇子』の七段では、次のようにキリスト教は日本を奪わんとするものだと批判する。「王法を傾け仏神を亡し、日本の風俗をのけ、提宇子、己が国の風俗を移し、自ら国を奪んとの謀を回らすより外、別術なし」(王法を傾け、仏神を滅ぼし、日本の風俗を排し、ダイウスは、自分の国の風俗を移し、みずから国を奪おうとの謀略を回らしていること以外の何ものでもない)

こうした、キリスト教批判書であるにもかかわらず、最後に「ハビアン誌之」 と記し、本名である日本名でもなく、キリシタンのイルマンであった頃の「ハビアン」で著している。それは、本名も出自も、禅僧名さえも失われ、キリスト教を棄てたあとまで、「ハビアン」としか名前の残存しない宗教人の屈折した足跡なのだろうか。 「野子、好庵」として生きるということも、できないということだろうか。

それとも、この書は、キリシタン名による排耶のプロパガンダとして書かれたことを明確にしたものだろうか。

実際、明治政府は、明治8年まで禁教令を継続していたが、開国により宣教師たちが多く入ってくるなどキリスト教抑制のため、排耶書としてハビアンの『破提宇子』を復刻した。展示されている『破提宇子』は「1868年刊」とあり、ちょうど明治になるときに刊行されたものである。

『破提宇子』恵俊(ハビアン)

2.『島原天草日記』松平輝綱1638年 書写年不明

川越藩の二代藩主である松平輝綱、当時18 が、父・信綱に従って島原・天草一揆を鎮圧するために従軍した時の日記である。江戸を出発し、約3万7千人の一揆群が立てこもる原城下に陣を構え、城が堕ちたのちに天草、長崎、平戸を見聞して江戸に戻るまでの記録となっている。鎮圧後、原城に残っていた一揆軍の人々は斬首された。このときの壮絶な様子を、輝綱は「あまつさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」 (童女にいたるまで死を喜び、斬首された。それは普通の心にできることではない。信仰が深いからだろう)と記している。

島原・天草一揆(島原の乱)は、原因の一つに島原領主の松倉重政が、苛烈なキリシタン弾圧を行ったため「立帰りキリシタン」が武器を持って蜂起した、といわれている。「立帰りキリシタン」とは、いちど棄教したが再び信仰するようになった者をいう。島原では有馬氏、天草では小西氏というキリシタン大名が治めていたが、禁教令により廃絶され、このときは、島原は松倉氏、天草は寺沢氏となっていた。新たな領主によりキリシタンの弾圧が始まり、迫害により多くが棄教したが、その後十数年経ってから「立ち帰」り、再度改宗した者が一揆を構成していた。彼らは、僧侶や神官を攻撃し、キリシタンでない民衆に対しても信仰を強制し、同意しない場合には殺害も辞さないという行動をとった。そして、天草四郎というカリスマを一揆軍の総大将とし決起した。

3万7千人ともいわれる一揆軍に対して、島原藩の軍などでは対応しきれず、事態を重く見た幕府は、老中・松平信綱を総大将にして熊本藩など周囲の藩の軍を加え、12万の討伐軍を送り込んだこの総攻撃で原城は落城し、天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされては鎮圧された

鎮圧後、原城に残っていた一揆軍の人々はすべて斬首された。その時の様子を輝信が日記に記したのが、展示されていた『島原天草日記』である。なお、カトリック教会は、一揆軍が迫害者に対して武力で抵抗していることから、彼らの死を殉教とは見なしていない。

島原の乱を契機に、幕府はキリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、キリスト教の布教活動が行われないように強化した。具体的には、「訴人褒賞制」によりキリシタンを密告したものに報酬を与えるようにしたり、踏み絵を徹底したり、さらに「寺請制度」による宗門改めを強化していった。またあわせて鎖国政策によりキリスト教の布教を制限し、貿易を管理することを徹底した。これらの政策は明治まで約200年以上続けられることになる。

なお、松平信綱は、「知恵伊豆」とも呼ばれ、キリシタン取締りの強化や鎖国制制を完成させるなど 幕府政権の確立に貢献した。いっぽう、 嫡男・輝綱は、父の没後、幕政にはほとんど関わらず、学問に傾倒し、質素に過ごした という。

『島原天草日記』松平輝綱

3.『破吉利支丹』鈴木正三 1662年刊

島原の乱の後、天草の領主は2回変わり最後は幕府の天領となり、鈴木重成が初代代官に就いた。鈴木重成は、曹洞宗の僧侶・鈴木正三の弟であり、64歳の正三は、弟を助けるために天草に赴き、キリスト教会に替わって寺院と神社を復活させることを献策して、三十数ヵ所の寺社を再興させた。さらに『破吉利支丹(はきりしたん)』を著わして、キリスト教を批判して、仏教の正しさを説いた。この書は天草の各寺院に納められたというが、現存する天草の寺院には、一冊も伝わっていないという。

正三は、『破吉利支丹』のはじめに、「きりしたんの教えに、でうすと申す大仏、天地の主にして、万自由の一仏有」と書き出し、あくまでも「でうす」も「仏」であり、従って「きりしたん」も仏教の一部という理解に立ち、そこから派生した外道に過ぎない、としている。そして、「正しく此のでうすは、たはけ仏也」と叱責する。

ここから、キリシタンに対する残虐な迫害も「公儀よりの御制罰にあらず。彼等天道を掠め奉り、偽りを構え、無数の人を地獄へ引き入れたる、悪逆無道の自業自得」と見られる。つまり、自分たちが悪いから自業自得の罰を受けるのであり、迫害する幕府が悪いわけではない、という。そして最後に「彼等幾度来るとも、天道のあらん限りは、皆々自滅せん事疑いなし。此理を知るべし」(かれらが何度来たとしても天道があるかぎり、すべて自滅することは疑いあるまい、この理ことわりを知るべきだ)と結んでいる。

この『破吉利支丹』は、さきの『破提宇子』とならんで、「排耶書」とよばれ、仏教や儒教の立場からキリスト教を批判するものとして幕末から明治初期まで数多く書かれた。

鈴木正三の生涯は、その前半は武士として、関ヶ原の戦いに加わり(実際には参戦していないという)、その後の大阪の陣に参加するなど武士であったが、戦いの合間にも参禅し、禅語録を学んだ。

そして、1620年、正三42歳(44-5歳という説も)で遁世し出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、正三は主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済んだ。1639年に、座禅中、豁然として大悟した。1942年には、島原の乱で天草に赴いた。後半生は、禅僧として活発な執筆活動を行うとともに、江戸で庵を拠点に布教活動を続け、弟・重成を継いだ実子・重辰を後見し天草の復興にも尽力した。77歳で生涯を閉じた。

なお、天草では、現在も鈴木神社として、重成、正三、重辰の三人が祀られている。

(参考):

『キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジアー』(公財)東洋文庫 2024

『南蛮寺興廃記・邪教大意・妙貞問答・破堤宇子 』海老沢有道訳 東洋文庫14 平凡社 1964

『不干斎ハビアン』釈徹宗 新潮社 2009

『近世の仏教』末木文美士 吉川弘文館 2010

『島原の乱』神田千里 講談社学術文庫 2018

『鈴木正三著作集Ⅰ』加藤みち子編訳 中央公論新社 2015

『破吉利支丹』鈴木正三

『NIPPON』踏み絵図・シーボルト

「日本二十六聖人」長崎

「キリスト教交流史という大きな流れの中で、日本のキリシタンに関わる3冊を取り上げてみました。16-17世紀の激動の時代に、ハビアンは禅僧からキリシタンに、棄教して「野子」になり、排耶書『破提宇子』を著し、鈴木正三は武士から禅僧になり、排耶書『破吉利支丹』を著しました。

そうした書籍を見ることによって、その時代のキリシタンに関する本を読み、歴史や宗教を考える切っ掛けとなりました。

かつて、山本七平=イザヤ・ベンダサンは、ハビアンには「日本教」、すなわち「神ではなく人間を中心とする和の思想」、それは日本人のうちに潜在的に染み込んでいる宗教であることを見出しました。また、鈴木正三の思想から、「職業は修行である」という新しい職業観が確立され、日本資本主義の倫理の基礎が築かれたと論じました。

とすれば、現代の日本の在り方の原点(=原典)がここにあるといってもいいのかもしれません。さらに、歴史に学んでいきたいと思います。また、東洋文庫を訪れることによって”時空を超える本の旅”へ。

(参考):

『日本教徒』イザヤ・ベンダサン著、山本七平訳編 角川書店 昭和51

『日本資本主義の精神』山本七平 光文社 昭和54

2024年5月12日日曜日

東京異空間199:緑のオアシス~東大・田無演習林


田無演習林

西武線・田無駅から徒歩15分ぐらいのところに、東大の田無演習林があって、平日は一般に公開されています。新緑の中を歩いてきました。

1.東大・演習林

東大の演習林は、森林や樹木、林業に関する研究と教育の場を提供することを目的として設置されている。

東大演習林の始まりは、1894(明治27)年に房総・清澄に設置された千葉演習林であり、以来、北海道演習林(1899(明治32)年)、台湾演習林(1902(明治35)年)、朝鮮演習林(1912(大正元)年)、樺太演習林(1914(大正3)年)、秩父演習林(1916(大正5)年)、生態水文学研究所(1922(大正11)年、愛知・瀬戸、犬山、静岡・新居町)、富士癒しの森研究所(1925(大正14)年、山中湖)、樹芸研究所(1943(昭和18)年、静岡・伊豆)が次々と設置され、亜寒帯から亜熱帯まで、海岸から亜高山帯までの森林における教育研究の場として活用されてきた。

現在は、北海道から愛知までの広い範囲に7地方演習林を有し、その総面積は山手線内面積の5つ分に当たる32,300 haにおよんでいるという

2.田無演習林

田無演習林は、1929(昭和4)年 に東京帝国大学農学部林学科田無苗圃として林学第二講座(造林学研究室)によ って創設された。

西東京市に位置する田無演習林は本郷キャンパスに最も近い演習林で、設立当初はアカマツやクヌギを主体とした典型的な武蔵野の雑木林であったが、その後、日本各地や海外から多数の樹種や品種が導入された。そのため、非常に多様な樹木が混在している。また、都市に中にある森林として、一般公開されており、緑のオアシスとなっている。

セミナーハウス

ホウショウ(クスノキの変種)

アカマツ

アカマツ・幹

ダイオウショウ

ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャの木)

スギ林

メタセコイア

メタセコイア

ヒノキ林





モミジ

ハンカチノキ

ハンカチノキ

ホウノキ

ユリノキ


ヘビイチゴ


ミツデカエデ

ホウノキ

コミスジ




3.石幢六角地蔵尊

演習林のすぐそばの交差点の脇に、小さいが立派な祠をもった石幡六角地蔵尊がある。

この地蔵尊は6つの別れ道に位置し、各面には六道の救い主である地蔵菩薩が浮彫りされ、脚部には南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道の6つの方向を示す道標が刻まれている。安永8年に建立されものだという。

地蔵は、地獄に落ちて苦しみにあう死者を地獄の入口で救済すると信じられたことから、地獄の入口を村境などにあてはめて、こうした街道の脇に置かれることが多い。

また、「石幢(せきどう)」とは、石でできた幢=旗という意味で、インドではこれを石面に表してストゥーパや仏殿の前に立てた。これが中国から日本にも伝わり、地蔵信仰と結びついて幢,仏龕ともに六角につくられ、一見、石灯籠に似た小型のものが多くつくられたという。

石幢六角地蔵尊

石幢六角地蔵尊

石幢六角地蔵尊・祠

演習林には、枝垂れ桜やナンジャモンジャの木、ハンケチの木など花の咲く木もありましたが、訪れたときには花は見られませんでした。そのかわり、新緑のなかの森林浴でリラックス効果いっぱいでした。

またすぐ近くにあった地蔵尊には、六面に彫られた地蔵菩薩の前に、小さな仏が置かれていて、微笑ましい感じもしました。ランチに寄ったお店には招き猫が置かれていて、こちらも微笑ましい感じがしました。

小さな石仏

招き猫


東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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