2026年7月27日月曜日

高岡を歩く1~瑞泉寺と井波彫刻(1)

 


金沢から富山・高岡に向かう途中、南砺市井波に立ち寄り、「瑞泉寺」を訪ねた。瑞泉寺は正式名称は「真宗大谷派 井波別院瑞泉寺」といい、 室町時代の1390(明徳元年)に本願寺第5代綽如(しゃくにょ)上人によって開かれ、北陸の真宗信仰の要として、また名高い「井波彫刻」の発祥地として630年以上の歴史を刻んできている古刹です。

まずは、瑞泉寺の歴史と、伽藍などを見ていきます。

1.瑞泉寺の歴史

(1)室町時代:創建と勅願所としての始まり

1390(明徳元年)、綽如上人が朝廷の難解な外国国書を解読した功績により、後小松天皇による一寺寄進を受け勅願所として建立された。 綽如上人は加賀や越中など6カ国から浄財を募り、この地を真宗拡大の拠点とした。

勅願所の石碑


「瑞泉寺」という名は、綽如上人が京都へ向かう途中、乗っていた馬が足で地面をかいたところ、そこから清らかな水が湧き出たという泉「臼浪水(きゅうろうすい)」にちなんで、「瑞兆(良いことが起こる前兆)の泉の寺」という意味を込めて「瑞泉寺」と名付けたという。寺の創建時に人々に寄進を呼びかけた『瑞泉寺勧進状』 に「此地に霊水あり、故に瑞泉寺と称す」 と記されている。

さらに、一説には、この霊泉(井戸・湧水)の南側に開けた町であることから、「井の南」が転じて「井波(いなみ)」という地名になったとも言われており、寺の名と町の名前が「水」を通じて深く繋がっている。

(2)戦国時代:一向一揆の拠点

瑞泉寺の周囲には大規模な寺内町が形成され、本願寺直系の重要布教基地となり、全盛期には170以上の末寺を支配した。

また、 守護大名や他の勢力との激しい抗争の中、瑞泉寺は強固な要塞として機能し、一揆の重要拠点となった。

(3)江戸時代:大火の試練と「井波彫刻」の誕生

1763年 (宝暦12年)の大火により、瑞泉寺の壮大な伽藍は一度すべて焼失してしまう。

お堂の再建に向けて、京都の本願寺から御用彫刻師の前川三四郎が井波へ派遣された。 前川が地元の宮大工4名に京都の高度な彫刻技術を伝授したことで、現在の伝統産業である「井波彫刻」の礎が築かれる。

(4)明治~大正大火と伽藍の再建

1879年(明治12年)にも再々度の大火に見舞われたが、優れた技術を持つ井波大工たちの手によって再び現在の伽藍が建設された。

1885年 (明治18年)に落成した本堂は木造建築の寺院として北陸最大級を誇り、大正時代に再建された太子堂も日本最大級の規模を有している。

瑞泉寺の歴史を、「一向一揆」「太子信仰」「井波彫刻」という三つの観点からあらためてみてみる。

2.瑞泉寺と一向一揆

(1)瑞泉寺の開創と北陸布教の拠点化(14世紀末〜15世紀)

瑞泉寺の開創:1390年、本願寺第5代綽如上人が、後小松天皇の勅願を受けて越中井波の地に瑞泉寺を開創し、これが北陸における浄土真宗の強力な基盤となる。

本願寺との緊密な連携:8代蓮如が吉崎御坊(福井県)を拠点に北陸布教を本格化させると、自身の次男である蓮乗(れんじょう)を瑞泉寺の第3代住持として配した。これにより、瑞泉寺は本願寺直系の重要布教基地となる。

(2)越中最初の一向一揆と領国支配の確立(15世紀後半)

田屋川原の戦い(1481年):加賀の守護・富樫政親による弾圧から逃れてきた門徒を瑞泉寺が保護したことで、地元の福光城主・石黒光義や天台宗の医王山惣海寺の連合軍と衝突した。瑞泉寺は五箇山や他郡の門徒からなる約5,000の軍勢を率いて、石黒・惣海寺連合軍を撃破した。

砺波郡の支配:この勝利により、瑞泉寺は周辺の反真宗勢力を駆逐し、勝興寺とともに越中砺波郡における実質的な支配体制を確立した。

加賀一向一揆への参戦(1488年):勢力にのった瑞泉寺の門徒は、加賀の門徒とも合流し、高尾城を取り囲んで富樫正親を自刃に追い込んだ。これにより加賀に「百姓の持ちたる国」が誕生する契機を作った。

(3)「井波城」への要塞化と周辺大名との死闘(16世紀)

城郭伽藍(井波城)としての機能:一向一揆の激化に伴い、瑞泉寺の境内は巨大な堀や堅牢な石垣、土塁に囲まれた「城郭伽藍(井波城)」へと変貌した。宗教施設でありながら、数万の門徒兵を収容・指揮できる強固な要塞となった。

高岡門横の石垣

石垣

上杉謙信との戦争:戦国時代、越中へ進出してきた「軍神」上杉謙信に対し、瑞泉寺は勝興寺とともに激しく抵抗した。謙信の圧倒的な武力の前に一時は東越中を制圧されるなど苦戦を強いられるが、武田信玄や本願寺本山と結び、ゲリラ戦や頑強な籠城戦で対抗し続けた。

(4)織田信長・佐々成政との対立と陥落(16世紀後半)

石山合戦への参戦:1570年から始まった本願寺(顕如)と織田信長との「石山合戦」において、瑞泉寺は本山の命に従い、信長包囲網の一角として越中から兵を挙げて抗戦した。

佐々成政による焼き討ち(1581年):1580年に本山(顕如)と信長が和睦した後も、顕如の長男・教如を支持する越中の一揆衆は抵抗を続けた。これに対し、信長の命を受けた佐々成政が井波へ大攻勢を仕掛け、激しい戦闘(井波の合戦)の末、瑞泉寺は門前町3000軒とともに焼き払われ、ついに陥落した。住持らは五箇山などへ退避を余儀なくされた。

(5)豊臣秀吉による保護と一向一揆の終焉

豊臣秀吉の介入と再興:信長の死後、天下人となった豊臣秀吉は、敵対する佐々成政を牽制するため、瑞泉寺の一揆勢力を利用しようと接近した。秀吉は瑞泉寺に対して「禁制(保護令)」を発布して寺領を安堵し、寺の再興を認めた。

一揆の解体:秀吉の強力な統治(刀狩りや兵農分離)に組み込まれることで、瑞泉寺は「武装した政治・軍事集団(一向一揆)」としての役割を終え、純粋な「宗教寺院」へと回帰していった。その後、江戸時代には前田家の加賀藩の庇護を受け、現在の壮麗な姿へとつながる「井波彫刻」の文化を発展させていくことになる。

3.瑞泉寺の太子信仰

真宗寺院でありながら、日本最大級の「太子堂」を構えるなど、突出して深い聖徳太子信仰(太子信仰)の歴史を持っている。 この一見不思議に思える関係の背景には、「浄土真宗の教義」、「瑞泉寺の開創と宝物の由来」、そして地元の「井波彫刻(職人信仰)」という3つの深い歴史的つながりがある。

(1)浄土真宗と聖徳太子の深い関係

浄土真宗において聖徳太子を敬うのは、宗祖である親鸞聖人自身の強い信仰に由来する。親鸞が京都六角堂に参籠した際に、聖徳太子の*夢告を受けたことを機に、信仰を確立ことにちなみ太子信仰を重視した。

*「六角堂の夢告」

比叡山を下り、京都の六角堂に籠もった際に授かった、親鸞の人生における最大の転換点とされる夢告である。

建仁元年(1201年)45日、親鸞29歳の時。 100日間の参籠を決意し、95日目の明け方に救世観音(太子)が現れる。 煩悩を断てぬ修行者(親鸞)に対し、太子が「私が美しい女性の姿となって(女犯の)愛欲を受け止め、臨終の時には極楽浄土へ導く」と告げた。

その意味は、形式的な修行や戒律に縛られず、凡夫のまま救われる「他力」の道を示唆したもの。これにより親鸞は迷いを払い、法然上人のもとへ赴く決意を固めたとされている。

(2)瑞泉寺の開創と天皇から下賜された宝物

綽如による開創(1390年): 綽如が瑞泉寺を建立した当時、この井波の地にはもともと土着の太子信仰が根付いていた。綽如は「真宗の教えと地元の太子信仰を融合させ、ともに歩もう」と考えてこの地を選んだとされている。

後小松天皇からの下賜: 綽如が宮中で難解な外国の国書を解読した功績により、後小松天皇から特別な宝物が授与された。これが、瑞泉寺の至宝である「聖徳太子二歳像(南無仏太子像)」と、太子の生涯を描いた「聖徳太子絵伝(八幅の掛け軸)」である。この八幅揃いの太子絵伝を所蔵するのは、全国でも法隆寺周辺(橘寺など)や限られた古刹のみであり、瑞泉寺が国家的にも太子信仰の重要拠点と認められた証となった。

(3)歴史をつないだ「太子伝会」と「加賀藩時代の知恵」

「太子伝会」の始まり(1710年頃): 瑞泉寺12代住職の真照が、寺宝の虫干しの際に八幅の絵伝をもとに太子の生涯を語る「絵解き説教」を始めた。これが現在まで300年以上続く伝統行事「太子伝会」となり、毎年7月下旬に多くの参詣者を集めている。

太子講と巡回布教: 江戸時代、隣向の勝興寺と対立し、加賀藩・前田家から領地(知行)を与えられていない「無禄」の寺院だった(加賀藩は、「知行」ではなく触頭という「格」最高権威を与えた)。そのため、寺の維持や再建には門信徒の寄付が不可欠であり、地域に数多くの「太子講」を組織した。明治期の火災で伽藍が焼失した際にも、僧侶が「お太子さん(二歳像)」と「八幅の絵伝」を携えて北陸各地を巡回し、絵解きを行うことで復興資金(お布施)を集め、再建を果たし寺の隆盛を維持した。

(4)「井波彫刻」の職人たちによる太子の信仰

瑞泉寺を象徴する壮麗な彫刻文化である井波彫刻も、太子信仰と切り離せない。

建築・工匠の神様: 四天王寺や法隆寺を建て、日本に木造建築や大工道具(墨差しなど)の技術を定着させたとされる聖徳太子は、古くから大工や職人の世界で「職能の守護神(工匠の祖)」として崇められてきた。

太子堂の建立: 瑞泉寺の再建にあたり、京都の宮大工から技術を学んだ地元・井波の職人たちは、職人の師である聖徳太子への並々ならぬ感謝と信仰を込めた。その熱意の結晶として1918年 (大正7年)に再建されたのが、彫刻の粋を凝らした、日本一の大きさを誇る「太子堂」である。

このように、瑞泉寺における太子信仰は、親鸞聖人が説いた仏教の恩人への敬意から始まり、天皇から下賜された由緒ある宝物、そしてその宝物を守り生かした歴代住職の布教の知恵と、井波彫刻を支える大工たちの職人信仰が重なり合うことで、浄土真宗の枠組みを超えた唯一無二の伝統として今に息づいている。

4.瑞泉寺と井波彫刻

起源(17621777年頃):地元・井波の古刹である真宗大谷派の「瑞泉寺」が何度も火災に見舞われ、本堂の再建を迫られた。そのため、京都の東本願寺から御用彫刻師である前川三四郎が井波へ派遣された。この時、地元の宮大工(番匠屋九代七左衛門ら4名)が彼に師事し、京都の芸術性の高い本格的な彫刻技法を習得したことが井波彫刻の起源である。

彫刻の時代変遷:

江戸時代:主に寺社彫刻(宮彫り)を中心に、大工が彫刻師を兼任しながら発展した。

明治時代以降:町屋の装飾文化の広まりとともに、一般住宅向けの欄間彫刻が主流となり、多くの職人が彫刻専業へと独立した。

現代:1975年に国の伝統等的工芸品に指定され、2018年には「宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波」として日本遺産に認定された。

彫師(職人)の流れ:

宮大工から彫刻専業へ:初期の彫師は寺社を建てる大工(番匠屋など)であった。彼らは「木を読む眼(木の繊維や性質を見極める力)」を持っており、これが精緻な彫刻を可能にする土台となった。

欄間職人としての最盛期:明治・大正・昭和にかけて住宅建築がブームになると、多くの彫師が高級欄間や置物、祭礼用の獅子頭を専門に手掛けるようになり、産地としての規模を拡大した。

現代の多様な作家活動:現在も八日町通りを中心に約200名の彫刻師が活動している。伝統的な欄間のほか、日展などの美術展に出展する芸術性の高い人物像や現代アートを手掛ける木彫家も多く輩出している。

さらに、産地内に「井波木彫刻工芸高等職業訓練校」が設立されており、全国から集まる若者が5年間の厳しい修行を経て、今も伝統の技を継承している。

5.瑞泉寺の伽藍

(1)高岡門

1930年 (昭和5年)に現在の高岡市周辺の同じ信仰を持つ門徒の集まりである「同行衆」による募財(寄付)によって造営された。



(2)山門

1785年 (天明5年)に京都東本願寺の棟梁・柴田新八郎のもとで着工されたが、京都本願寺が火災に遭い引き返したため、地元の副棟梁・2代松井角平常徳ら井波大工が引き継いで完成させた。京都から派遣された名工の技が地元の職人に伝わったことで、「井波彫刻」が誕生するきっかけとなった。
















3)式台門

1762年 (宝暦12年)の大火で焼失後、 1792年 (寛政4年)に棟梁・柴田清右衛門らの手によって再建された。皇室の要人や賓客(勅使)が出入りする専用の門であったことから「勅使門」、扉に菊の紋章が刻まれていることから「菊の門」とも呼ばれる。2005年 (平成17年)の瑞泉寺大法要に合わせ、約200年前の建立当時の姿に復元さた。






(4)本堂

瑞泉寺は1390年 (明徳元年)の建立以来、幾度も火災や兵火に見舞われた。本堂は、1762年(宝暦12年)に全焼した後は1775年 (安永4年)に再建されたが、1879年 (明治12年)の寺内出火により再び焼失してしまう。現在の本堂は、その大火からわずか6年後の1885年 (明治18年)に再建完成したもので、 名棟梁・松井角平恒広を中心とした井波大工たちが総力を挙げ、極めて短い期間でこれほど壮大な堂宇を蘇らせた。




樹齢100年近くの藤棚


親鸞聖人像

親鸞聖人像

太子堂からみる本堂と山門

太子堂からみる本堂の屋根



(5)太子堂

瑞泉寺における聖徳太子信仰(太子講)の歴史は古く、1847年(弘化4年)に最初の太子堂が建立された。しかし本堂と同じく1879年 (明治12年)に焼失。その後、1911年 (明治44年)に起工式が行われ、1918年 (大正7年)に現在の姿で再建された。日本最大級の木造太子堂とされ、延べ134人の井波大工、彫刻師、塗師が7年の歳月をかけて完成させた。























(6)宝物殿

瑞泉寺がたどってきた波乱の歴史と、篤い信仰を今に伝える貴重な文化財・寺宝を安全に保管・展示するために1966年 (昭和41年)に建立された。明治の大火などを免れた、あるいはその後に寄進された数々の名品が厳重に守られている。

主な収蔵品には、開基である本願寺5代綽如上人にまつわる歴史資料や「勧進状」などの古文書をはじめ、井波の彫刻職人たちが技を磨くお手本とした絵画や、伝統行事「太子伝会」で用いられる聖徳太子絵伝などが収蔵されている。

左奥の三角屋根が宝物殿、その手前は太子堂、本堂


(7)鐘楼堂

1791年 (寛政3年)に一度完成したが、やはりその後の大火で失われた。現在の建物は、1933年 (昭和8年)に再建されたもので、本堂や山門と並び、井波大工の極めて高い建築技術を示す北陸随一の大きさを誇る鐘楼である。ここに収められている大梵鐘は、口径約124cm4.1尺)、重量約3,372kg900貫)という圧倒的なスケールを誇り、こちらも北陸随一の規模である。






(8)角力講・土俵

境内に土俵がある。これは、かつての「角力講」の功績と瑞泉寺への奉納相撲の記憶を後世に伝える記念碑的なものである。

角力講は、明治時代後期から大正時代にかけて、焼失した太子堂の再建することを目的に結成された。講は、「太子堂再建寄附相撲」を企画し、地元の草相撲力士や年寄が県内各地の神社仏閣の境内で勧進相撲を行い、多くの見物客から集めた浄財を瑞泉寺へ寄附した。太子堂が無事に完成した後も、角力講のつながりは引き継がれ、毎年818日に瑞泉寺の境内で奉納大角力大会として定期開催される定例行事となった。 加賀・越中・能登から集まる村の草相撲の力士たちにとって、 瑞泉寺の大会で「大関(当時の最高位)」の札を挙げることは一生の誉れであり、この日のために日々猛練習を重ねて大会に挑んだという。 現在も、「瑞泉寺奉納加越能三州合併大角力大会」として、瑞泉寺境内で開催されている。



(9)後小松天皇廟

後小松天皇は、綽如上人の才と功績を認め、褒美として寺院建立の勅許を出した。これが明徳元(1390)年の瑞泉寺の開基につながり、同寺は天皇に認められた「勅願所」となる。 天皇はさらに、自ら彫刻したとされる聖徳太子像と絵伝8幅を綽如上人に授けたと伝えられていまる。こうした深い結びつきと天皇の功績を称えるため、境内に廟(頌徳碑)が建てられた。この廟も、角力講が広く募財を行い、その資金によって1926年(大正15年)に建てられた。





つづいて、山門等の伽藍に施された「井波彫刻」をみていきます。

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