| 高岡大仏 |
高岡大仏は、そのお顔が“イケメン”なことで知られているようです。夜にも訪れてみました。
1.高岡大仏の歴史
「高岡大仏」は、大佛寺にある青銅製阿弥陀如来坐像で高さ16m。 その歴史を見てみる。
大佛寺
(1)始まり:鎌倉時代の木造大仏(1221年頃〜)
開創:承久の乱(1221年)を避けて仏門に入った源義勝が、二上山の麓に約5メートルの木造大仏を建立したのが始まりとされている。
移設:1609年、加賀藩主の前田利長が「高岡城」を築城する際、地域の安定を祈願して大仏を現在の場所(大手町)へ移した。その後、長い年月を経て大仏は徐々に荒廃した。
(2)初代と二代:相次ぐ大火での焼失(江戸時代〜明治時代)
現在の場所に移されて以降、木造の大仏は2度の大火で失われている。
初代(1745年建立):極楽寺の等誉上人や弟子の良歓らの発願により、高さ約9.7メートルの金色に輝く木造阿弥陀如来坐像が再建された。しかし、1821年の高岡大火により焼失した。
二代(1841年建立):極楽寺の謙誉上人や仏師の山本与三兵衛らによって、高さ約4.8メートルの木造坐像として再び再興された。しかし、1900年(明治33年)に発生した大規模な「高岡大火」により、周辺の町並みとともに再びすべてが焼け落ちてしまった。
大火の際に奇跡的に焼け残った二代目の「ご尊顔(頭部)」が台座の内部(回廊)に安置されており、激動の歴史を今に伝えている。(後述)
(3)三代:悲願の「燃えない大仏」へ(明治後期〜昭和初期)
相次ぐ火災に心を痛めた地域住民からは「もう二度と焼けない大仏を造ってほしい」という強い願いが湧き上がる。
不燃化の決意:地元の篤志家である松木宗左衛門や荻布宗四郎らが中心となり、火に強い「銅製(青銅)」での再建計画が立ち上がる。これは、江戸時代から盛んだった地場産業「高岡銅器」の技術力を結集させる挑戦でもあった。
26年の歳月:1907年(明治40年)から寄付の勧進や鋳造作業が始まり、幾多の資金難や困難を乗り越えながら、26年もの歳月をかけて1932年に本体が完成、1933年(昭和8年)に盛大な開眼供養が営まれた。
(4)現代:高岡のシンボル
昭和の完成以降、高岡大仏は街のシンボルとなっている。1981年(昭和56年)には高岡市の有形文化財に指定されている。
与謝野晶子の絶賛: 与謝野晶子は鎌倉大仏を「かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」と歌ったが、その後に高岡を訪れ、完成したばかりの大仏を目にして「鎌倉大仏より一段と美男」とたたえたという。
| ホテルから見た高岡の夜景 |
| ホテルから見た大仏 |
| ホテルから見た大仏、奥の緑は高岡古城公園 |
2.台座内部(回廊)
高岡大仏の台座内部(回廊)には、1900年の大火で類焼した2代目高岡大仏の焼け残りとされるご尊顔が安置されている。その他にも多くの仏像や壁面には地獄絵などの仏画13作なども納められている。
(1)二代目高岡大仏の「ご尊顔」(仏頭)
回廊の最も奥に安置されている、最も象徴的な遺物である。
1900年(明治33年)に街を襲った「高岡大火」により、当時木造金箔塗りだった二代目の大仏(天保12年/1841年再建、高さ約10m)は焼失してしまった。しかし、この頭部(ご尊顔)だけは奇跡的に焼け残り、今も台座の中に祀られている。わずかに残る焼け焦げの跡が、火災の歴史と、現在の3代目(青銅製)を「絶対に燃えない大仏にしよう」と市民が立ち上がったきっかけを今に伝えている。
(2)阿弥陀三尊像と諸仏
回廊を入って正面に安置されている。
現在の大仏(3代目・青銅製)は1907年から26年の歳月をかけて造立されたが、この阿弥陀三尊と諸仏は、大仏が完成するまでの長い間、仮の本尊として街の安寧を守り続けたという歴史がある。
| 法然上人像 |
| 賓頭盧尊邪(なで仏) |
(3)十二光仏
大仏の背後にある「円光背(えんこうはい)」の周囲に、本来であれば取り付けられる予定で鋳造された12体の仏像である。
造立時の計画変更にともない光背への装着は中止となったが、鋳物の町・高岡の職人たちの手による見事な銅造仏として、大仏の頭部を囲むように回廊内に配されている。
(4)仏画
回廊の壁面を彩るのが、合計13作の仏画である。
独自のキャンバス(神木「七本杉」): かつて高岡駅付近にあり、街の「御神木」として崇められていた樹齢数百年の巨大な杉(七本杉)の伐採木がキャンバスとして用いられている。
地元の画家たちによる競演: 大仏が完成した昭和初期、高岡在住の新進気鋭の日本画家たちがそれぞれ筆を振るいました。櫻井鴻有が描いた「聖徳太子」、伊井慶泉による「迦陵頻伽(かりょうびんが)」、筏井茂之の「三尊像」などが並ぶ。
描かれているテーマ: 仏教の世界観を伝える村 閑歩(むら かんぽ)による「焦熱地獄(地獄絵)」から、仏教の聖人、極楽浄土に住むという伝説の美声の鳥「迦陵頻伽」まで、多様な仏教絵画が並ぶ。昭和の終わりに一度、修復作業が行われたため、現在でも鮮やかな色彩を鑑賞できる。
吉崎嫁おどし 千田 大寛
(5)おりん
吊るされている12個のおりんは、十二支の音をそれぞれ表している。 「あなたの音はなぁ〜に?」という言葉が添えられており、参拝者が自分の干支に割り振られたおりんを実際に鳴らして、美しい音色の違いを楽しめる工夫がされている。
もちろん、このおりんも「高岡銅器」の鋳造技術を駆使して作られた。 全国のお寺や家庭の仏壇で使われるおりんの多くは高岡で製造されているという。
(6)銅板の千羽鶴
この銅板で折られた千羽鶴も、「高岡銅器」の高い技術を駆使して造られたもの。一見すると、美しい金属光沢を持つ普通の折り鶴が集まっているように見えるが、すべて本物の薄い銅板を切り出し、工具を使って手作業で折り込んで作られている。
この千羽鶴が置かれているのは、奇跡的に焼け残った「二代目木造大仏の仏頭(頭部)」の真ん前。かつて火に焼かれてしまった先代の大仏に対し、「二度と火災を起こさない」「職人の技術でこの地と大仏を永遠に守り続ける」という強い誓いと、無病息災・平和への祈りを込めて、同じく「絶対に燃えない金属(銅板)の千羽鶴」が奉納されたという。
(7)「高岡の大仏に寄す」堀田善衛
「高岡大仏に寄す」は、高岡市出身の作家・堀田善衞が、故郷の象徴である高岡大仏へ寄せた詩およびその直筆の額である。内容は「大仏の変わらぬ姿に、故郷への想い」が込められている。全文を引いておく。
町なかの狭きかたえに
身を寄せて
薄き衣に
胸あらわ
カンカンと日の照るときに
汗流し
はだら雪
降り積もるとき 身はふるえ
はるかなる天竺より
この北国の 片隅に来たり座せる 仏の像
座り飽きたるさまもなく
撫肩に 伏目にて 通る人をば 見て守る
さるにても
その日々の流れの長きかな
茫然たり一場の夢
われもまた見守られたるその一人
堀田善衞は1918年、高岡市伏木の由緒ある廻船問屋に生まれた。彼は幼い頃、祖母が木魚を叩く横に座って仏壇を見上げていた記憶を持っていた。詩の中で描かれる大仏の姿には、彼が少年時代に体感した「仏のいる風景」や、故郷のあたたかい記憶が重なっていると指摘されている。
(7)藤子・F・不二雄「まんが道」
高岡の著名人として「ドラえもん」の生みの親である、藤子・F・不二雄がいる。
藤子・F・不二雄(藤本弘
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1933〜1996)は富山県高岡市出身。後に「藤子不二雄」としてコンビを結成する、藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄
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1934〜2022
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富山県氷見市出身)が高岡市に引っ越し、藤本の居る小学校に転校して同じクラスになったことから二人が巡り会い、後に数々の作品が世に送り出されることとなった。
二人は幼少〜青年期の最も多感な時代を高岡市で過ごし、その感性を育んだ物語は藤子不二雄Ⓐの自伝的漫画作品である「まんが道」に記され、二人が良く立ち寄ったとされる「高岡大仏」もこの中に頻出する。
なかでも、二人が高校卒業を控え、進路や将来に悩みながらも「プロの漫画家になろう!」と固い誓いと決意を交わすロマンチックかつ熱いシーンが、雪の降る高岡大仏の境内をバックに描かれている。彼らにとって高岡大仏は、夢を語り合う聖地のような存在であったとされる。
JR氷見線の「忍者ハットリくん列車」
漫画家・藤子不二雄Ⓐの作品 「忍者ハットリくん」のキャラクターが描かれたラッピング車両。 作者の藤子不二雄Ⓐが富山県氷見市出身であることにちなんで導入された。
3.梵鐘
大佛寺(高岡大仏)境内にある鐘楼とそこにかかる梵鐘(ぼんしょう)は、江戸時代に町民へ時間を告げていた歴史的な「時鐘(じしょう)」であり、 伝統産業である「高岡銅器」の技術と、火災を乗り越えた町民の誇りが詰まった名鐘とされる。
(1)梵鐘(時鐘)の由来
時鐘の始まり(江戸時代) :
江戸時代、時計が普及していなかった頃、高岡の町民に規則正しい生活を送らせるため、1804年(文化元年)に当時の高岡町奉行・寺島蔵人(てらしまくらんど)らの計画したところ、金屋町の鋳物職人たちが「前田利長公以来の手厚い保護に報いるため、私どもが時鐘をお作り致しましょう」と申し出たという。こうして初代の時鐘が造られた。
しかし、この初代の鐘は鋳造後すぐにひび割れてしまった。
高岡鋳物のプライドをかけた再鋳(1806年):
初代のひび割れは、鋳物の町として栄えていた高岡の職人や町民にとって大変悔しい出来事であった。そこで、坂下町の商人であった鍋屋仁左衛門が中心となり、自ら多額の金品を寄付して町民から浄財を集め、工人を督励して再鋳に挑んだ。そして1806年(文化3年)、見事な大鐘が完成した。これが現在、大佛寺に残されている時鐘である。
数々の大火を免れた奇跡:
高岡大仏そのものは、先に述べたように、過去に何度も大火によって焼失と再建を繰り返してきた歴史がある。しかし、この時鐘は明治時代などの数度の火災の際も、町民たちの手によって必死に守り抜かれ、奇跡的に焼失を免れた。その後、大佛寺に寄付され、現在の鐘楼へと安置された。
200年以上経った現在も、毎日午前6時と午後6時の2回、地元のボランティアや関係者の手によって鐘が突かれ、高岡の街に美しい音色を響かせているという。
(2)皆川淇園の銘文
鐘の表面には、江戸時代の高名な儒学者・皆川淇園の筆による銘文が、隙間なく刻まれている。
皆川淇園(1734 ~ 1807)は江戸時代中期〜後期の京都を代表する、門弟3,000人を数えた大儒学者・漢学者。高岡町の町年寄であった富田徳風や寺崎洲らは、京都の淇園のもとへ通って学んだ「直系の門弟」であった。彼らは、「高岡の技術の粋を集めた大鐘には、自分たちの偉大な師である皆川淇園の文字こそがふさわしい」と考え、淇園へ執筆を依頼し、淇園も愛弟子たちの故郷の一大プロジェクトのために、喜んでこれに応じたことから、この銘文が書かれたという。
淇園が書き記した漢詩の核心部分には、「この鐘の音が鳴り響くことで、高岡の町が火災などの災いから守られ、商売が繁栄し、人々が末永く平和に暮らせるように」という、町への祝福と祈りが書かれている。
この時鐘が完成したのが文化3年(1806年)7月。そして、皆川淇園が京都で亡くなったのが文化4年(1807年)5月であり、この『越中高岡時鐘銘』は、淇園がその生涯の最晩年に、高岡の愛弟子たちと町民のために遺した「絶筆に近い傑作」の一つでもあるという。
4.馬頭観音菩薩石像
高岡新西国三十三観音札所の第二十九番札所の本尊。怒りの表情(憤怒相)を表し、頭上に馬の頭を戴いている。
昭和3年に高岡市内の有志や僧侶によって建立され、西国三十三観音霊場から運ばれた砂が埋められていると伝えられている。遠出が難しかった時代に、ここを巡ることで西国巡礼と同じ功徳が得られる場所として大切にされてきたという。
その他にも境内には石仏がいくつかある。
高岡大仏には、この街の人々の信仰とともに、「高岡銅器」という伝統に対する誇りが感じられました。
つぎに、前田家と深いかかわりがある勝興寺を訪ねます。