| 瀧尾神社・南鳥居 |
泉涌寺の塔頭・即成院から瀧尾神社に行きました。この神社は、知る人ぞ知る神社といってもいいのではないでしょうか。初めて訪れました。
1.瀧尾神社・由緒
創建年代は不詳であるが、平安末期に書かれた『源平盛衰記』に「武鶏ノ社」という記述があることから、この頃には存在したとされる。しかし、応仁の乱によって焼失し、吉坂に移って「多景の社」と改称して鎮座していた。1586年に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したことに伴って現在地に遷座した。その後、宝永年間(1704〜1711年)、幕府の命令による社殿修理の際に現在の「瀧尾神社」に改められた。
2.瀧尾神社と大丸創業者・下村彦右衛門
瀧尾神社は、大丸百貨店を創始した下村彦右衛門(1688-1748)が厚く信仰してきたことから「大丸稲荷」とも呼ばれている。
伏見に住んでいた彦右衛門は、京の都への行商の際、毎日欠かさずこの社に参拝していた。後に商売が繁盛したのは神社のご加護によるものとし、社殿の寄進や整備を行った。現在の本殿や拝殿などの社殿一式は、1839年(天保10年)から翌年にかけて、下村家が当時の金額で2500両(現在の約5億円相当)という莫大な費用を投じて整備したものである。
ちなみに、彦右衛門は「福助人形」のモデルとなったとされる。 人々は彦右衛門を「福の神のような人」と呼び始め、「福助」の愛称が定着した。そこで、伏見稲荷の人形師が、彦右衛門をモデルにした伏見人形を作ったところ、大人気となり「福助」の名前が全国に広がったといわれている。
3.南鳥居
南鳥居から入る。南鳥居(一の鳥居)は細い路地(五葉の辻子)面しているが、本殿や拝殿が南を向いて建てられているため、こちらが「表参道」の顔となる。
4.拝殿・龍の彫刻
拝殿が舞台のようにあり、その天井いっぱいに龍の彫刻が飾られている。、江戸時代後期の彫刻家・九山新太郎の手による全長8メートルの木彫りの龍は、 あまりに写実的で躍動感があったため、当時は「龍が夜な夜な近くの今熊野川へ水を飲みに行く」と恐れられ、逃げ出さないように金網が張られたという伝説があるそうだ。
拝殿に上がって見ることもできるが、周りから見ても、その迫力に圧倒される。
なお、九山新太郎の手による彫刻は、拝殿のみならず、本殿を取り囲む回廊などにも見られ、境内全体が「彫刻の美術館」と言われるほどである。
5.本殿・十二支の彫刻
本殿は、天保10年(1839年)、下村家(大丸)の多額の寄進によって
北山貴船奥院御社の旧殿を移建、一部改築した。貴船神社では、上賀茂神社の造替周期に合わせて本殿の建て替えが行われていて、その際、解体された旧社殿を、下村家の援助により瀧尾神社へ移し、改造・再建したとされる。
本殿にも、九山新太郎による彫刻が飾られている。鳳凰、獅子、獏などの霊獣、本殿を取り囲む回廊に沿って十二支の動物、その他に、水鳥、鳳凰、鶴、尾長鳥のほか、麒麟や犀、さらにはリスやブドウといった植物まで見ることができる。これらの動物の多くには、目にガラスなどをはめ込む「玉眼」の技法が施されており、生き生きとした表情となっている。
6.摂末社
本殿の右側奥には、鳥居があり、 摂末社が祀られている。これらは、下村家による1839年の整備の際に、境内を総合的な信仰の場とするため、各地の霊神を勧請したものである。
(1)三嶋神社
三嶋神社は、平安時代、後白河天皇により社殿が建立されたことに始まる。しかし、2000年に、かつては広大な境内を持っていたが、負債により土地と社殿を手放さざるを得なくなり、近隣の瀧尾神社境内へ遷座した。現在、瀧尾神社にあるのはこの時の「祈願所」 である。なお、 その後2002年に、地主の厚意により、旧社地の一角に小さな社殿が再建された。ちなみに、京都の三嶋神社はここから1.7~1.8キロほどの場所にある。
三嶋神社では鰻が神の使いとされており、非常に珍しい「鰻信仰」の社で、鰻鰻が描かれた絵馬を奉納し、 安産や子授けを願う。二匹の鰻(うなぎ)は子授け祈願を、三匹の鰻(うなぎ)は安産祈願を象徴している。
(2)妙見宮
北極星または北斗七星を神格化した「妙見菩薩」を祀る。 運命を支配し、長寿や福徳を授ける神として、商売の更なる繁栄と長きにわたる家運を祈願して祀られた。
(3)瀧尾天満宮
学問の神である菅原道真公を祀っている。下村家が商売において「賢くあること」を祈願し、事業のみならず家運隆盛や教育、知恵を求めて勧請した。
(4)金刀比羅宮
大物主神を祀る、香川の金刀比羅宮から勧請した。海上安全の神であり、江戸時代には「こんぴら参り」として庶民の信仰が絶大であり、商売の運気を上げる(特に交通・物流の安全)目的で祀られた。
(5)大丸繁栄稲荷
江戸時代、下村彦右衛門が自身の商売繁盛を願って伏見稲荷から勧請した。
(6)愛宕神社
火伏の神である火産霊神(ほむすびのかみ)を祀る、愛宕神社から勧請した。 呉服屋にとって火事は最大の脅威であり、社殿、および店舗(大丸)が火災に遭わないようにという切実な祈りから祀られた。
7.陰陽の石
もともと東山区の渋谷街道沿いにあった三嶋神社が、平成12年(2000年)に瀧尾神社の境内へ移された際、三嶋神社の本宮(旧地)の表鬼門から出土したとされる「陰陽石」も一緒に移設され、現在の場所に安置された。
8.絵馬舎
絵馬舎には、大丸にかかわる大絵馬などが掛けられている。(また、建物の柱木鼻には丸山の彫刻がほどこされていたが、残念ながら、絵馬舎の建物とその彫刻は撮り漏れてしまった)。
(1)大丸創業者の奉納絵馬(江戸時代・宝暦年間)
のれんに大丸の商標である「丸に大」のマークが記された店舗の様子が活気とともに描かれている。
(2)大丸京都店の写真絵馬(昭和3年)
1928(昭和3)年に撮影された大丸京都店の建物。
大丸が、京都・四条高倉の場所に店を建設したのは、明治45年(1912)のこと。しかし、大正10年(1911)、この店舗は火災で全焼してしまう。それから数年、仮店舗での営業が続いたが、大正15年(1926)に4階建の東館を建設し、つづく昭和3年(1928)には6階建の壮麗な店舗を建設した。いわゆる「御大典記念」(昭和天皇の即位)であった。なお、この建物は大阪店も設計したW.M.ヴォーリズの設計になるもの。
「大丸」の名の由来をみてみると。1717年に京都伏見で創業した際、創業者の下村彦右衛門は、京都の夏の伝統行事である「五山送り火」の「大文字」にちなんで屋号を「大文字屋」 とした。看板に「大」の字を「丸」で囲んだ商標(大丸マーク)を使用したことが「大丸」の呼称につながる。このマークには、「大」の字は「一」と「人」を組み合わせたもので、「丸」は天下・宇宙を表現し、「天下第一の商人」であれという創業者の意志が込められている 。
(3)神や女神を描いた絵馬
瀧尾神社の主祭神である大己貴命(おおなむちのみこと、大国様)や、妃神の田心姫命(たごりひめのみこと)にまつわる女神を描いた絵馬が納められている。
(4)「少年一字書」
昭和7年(1932)4月に、角熊嘉一郎という人が奉献した「少年一字書」と題した絵馬 。ここに書かれているのは、「孝経」の有名な一節で、儒教の道徳として重んじられる「孝」の概念を示したもの。
9.手水舎
手水舎の柱上木鼻には龍だけでなく、蝙蝠や花、鳥など、緻密で繊細な木彫り彫刻が施されている。
10.西鳥居
瀧尾神社における鳥居は単なる入口ではなく、神域と俗世間の「結界」としての役割を果たしており、南と西の鳥居が独自の配置で構成されている。
西鳥居は、豊臣秀吉の移転以降、町の整備とともに東福寺方面や周辺の町から参拝する際の、いわば「横の入口」となる。ちなみに、下村彦右衛門が伏見から行商へ向かう際、毎朝欠かさず参拝していたのは本町通(西側)からであったとされてい る。
西鳥居を出ると、東福寺駅に向かうことになりますが、この際ということで、東福寺にも寄ることにしました。