| 雲龍院 |
泉涌寺の塔頭のいくつかを巡ってみました。
1.雲龍院
朝、着いた大門の近くに雲龍院がある。この日は休みになっていた。
1372年、南北朝時代の後光厳天皇の勅願により、竹林院如浄を開山として創建された。皇室の菩提寺: 後光厳・後円融・後小松・称光の四代の天皇の菩提所とされ、皇室から篤い帰依を受けてきた。
本堂「龍華殿」本尊は薬師如来像を安置している。
| 勅使門 |
2.今熊野観音寺
泉涌寺の大門を出て、下り坂を右に入ると、今熊野観音寺に到る。途中、観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる川である今熊野川に架かる 赤い「鳥居橋」が見える。
(1)鳥居橋
古くからこの地には熊野権現社が鎮まっており、その鳥居が近くにあったことから「鳥居橋」と呼ばれるようになったと伝えられる。かつては、神社とお寺が一体であった「神仏習合」の時代の名残を感じさせる神橋としての役割も持っていた。
(2)今熊野観音寺
①由緒
弘仁年間(810-824年)に弘法大師空海が唐より帰国後、熊野権現を勧請して創建。その際、弘法大師がこの地で熊野権現の化身である老翁から「末世の衆生を救え」と、一寸八分の十一面観世音菩薩像と宝印を授けられたのが始まりとされる。大師は自ら一尺八寸の十一面観世音菩薩を刻み、授かった一寸八分の像をその胎内に納めて本尊としたという。
当初は「観音寺」と称していたが、熊野の那智の滝に似た霊地であったことから「今熊野」と名付けられ、その後、周囲に熊野の地名が広がったと伝えられている。後白河法皇が熊野権現を勧請した際、紀州熊野に対して「今熊野」、山号を「新那智山」と命名した。
②本堂
この建物は、1712年に宗恕祖元律師によって建立された。本尊の十一面観世音菩薩は、後白河法皇が持病の激しい頭痛をこの観音様に救われたという伝説から、「頭の観音様」として、「頭痛封じ」や「ぼけ封じ」の仏様として篤く信仰されている。 本尊は秘仏とされる。
③大師堂
お堂に祀られる弘法大師は「東山大師」といわれる。
④子護(こもり)大師
弘法大師空海が子供たちを温かく見守る姿を写した石像。
⑤五智水
弘法大師が錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出したことから「五智水」と名付けられた。
⑥鐘楼
この梵鐘の鋳造は古く,、太平洋戦争の時に供出された。しかし観音様のご加護によって元のままの姿で残されており、不思議な縁により現在の位置に戻ったという話である。
⑦医聖堂
本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔。 この「医聖堂」には、医界に貢献された杉田玄白、緒方洪庵など多くの先人が祭祀されている。
(3)願かけ地蔵
今熊野観音寺から参道に出て戒光寺に向かう途中に朱塗りのお堂がある。中には石仏と周辺には石が積んである。「願かけ地蔵」というようだ。この地蔵尊は、「一生に一度だけ、心からの願いを叶えてくれる」という信仰を集めている。お堂の足元には、参拝者が願いを込めて一つずつ石を積んだ多くの小石が積まれている。
3.戒光寺
(1)由緒
1228年、後堀河天皇の勅願により、猪熊八条の地に曇照(どんしょう)律師によって開かれた。 応仁の乱で堂宇を焼失した後、一条戻橋付近への移転などを経て、1645年に現在の泉涌寺山内に移った。
| 模型の三重塔 |
(2)本尊・釈迦如来立像
釈迦如来立像は、像高約5.4メートル(光背を含めると約10メートル)もあり、釈迦様の身長が一般人の2倍である「一丈六尺」 であったという伝説に由来する 「丈六さん」の愛称で親しまれている。あまりの大きさのため、本堂を作ってから安置することは叶わず、像を安置した後に本堂を造ったという。鎌倉時代の名仏師、運慶・湛慶親子の合作と伝わる。
江戸時代に後水尾天皇が暗殺の危機に遭った際、この仏像が天皇の身代わりとなって首に傷を受け、血を流して天皇の命を救ったという伝説が残っていて、喉もとから血が流れているように見えることから、「身代わり丈六」と呼ばれている。
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| * 釈迦如来立像 |
(3)弁財天
境内に祀られている弁財天は、日本最古の弁財天像の一つとも言われ、京都七福神巡りの第二番札所として信仰を集めている。
一般の琵琶を持つ弁才天のご利益は芸能・学問にまつわるが、ここの弁財天は手が八本ある八臂像であり、古来より商売を営むものが「お金の融通をつけて下さい」と願をかけることから「融通弁財天」と呼ばれ芸能・学問に限らずあらゆる願いを叶え、金銭の融通もつけて下さるという。
(4)子育て地蔵尊 ・おたすけ大師
弘法大師が自ら土で造ったとされる「六波羅地蔵」を安置したのが始まりと伝えられている。 平安時代の檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)が、皇子(後の仁明天皇)の病気平癒をこの地蔵尊に祈願したところ、無事に回復したという伝承から「子育て地蔵」として広く信仰されるようになったという。
「子育て地蔵尊」と並んで安置されている大師像は、本尊の身代わり丈六さんと同様に、人々の苦しみや病を代わりに引き受けてくださる、慈悲深い大師として信仰されてい る。
4.法音院
(1)由緒
1326年、無人如導宗師によって創建された。室町時代末期の応仁・文明の大乱の兵火により焼失したが、江戸時代初期の寛文年間(1664~1665年)に覚雲西堂によって再建された。
本尊として一面三眼八臂の不空羂索観音を祀り、人々の救済加護として信仰されている。
(2)鎮守社 三社明神
社殿は春日造りで、春日明神を中心に八幡大菩薩・天照大御神の三社である。この三社信仰は、古来より錦御旗に揮毫される三神号である。
春日社を祀ることから、神鹿の像が置かれている。
| 神鹿 |
5.総門
総門は、東大路通から参道を上がった最初にある、泉涌寺山内への入り口である。泉涌寺の大規模な再建は、徳川家綱の寄進によって仏殿などが整備され、現在の寺観が整えられたが、総門もこの復興・整備の過程で建立されたとされる。
なお、先に見た大門は、総門からさらに参道を進んだ奥に立つ四脚門で、こちらは慶長年間(1596〜1615年)に京都御所の門を移築したもの。
| 泉涌寺・大門 |
6.即成院
総門のすぐ近くに即成院がある。
(1)由緒
992年、恵心僧都・源信が伏見に建立した光明院が始まりとされ、後に平等院を築いた藤原頼通の三男・橘俊綱が山荘として整備し、即成就院(または伏見寺)と称した。
両寺院は、当時の貴族が憧れた「極楽浄土」をこの世に再現しようとしたもので、父・頼通の平等院と子・俊綱の即成院が宇治川を挟んで互いに呼びかけ合うような位置関係に建てられたという。また、俊綱が伏見に堂を建てる際、平等院の鳳凰と向き合うように屋根に鳳凰を飾ったという伝承もあるという。
明治時代に、神仏分離令などの影響により現在の泉涌寺山内の地へ移転した。
| 屋根の上に鳳凰 |
(2)本尊・阿弥陀如来坐像と二十五菩薩像
現世極楽浄土とよばれる即成院内陣の本尊・木像阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩坐像は、藤原期の作(一部、江戸期の作もある)とされ、観音・勢至をはじめ歌舞音曲のすべてが揃い、阿弥陀来迎の歓喜をまのあたりに想わせる御姿の仏像で、絵図ではなく、彫像として制作された貴重な遺例とされる。
俊綱は平安時代の代表的な風流人で文化人でもあり、父・頼通が建立した平等院の精神的な背景、すなわち浄土信仰を引き継ぎ、独自に豪華な二十五菩薩像などを安置したとされる。旅の初日に見た平等院の雲中供養菩薩像 を想い出させる姿である。
| 本堂 |
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| * 阿弥陀如来坐像・二十五菩薩坐像 |
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| * 平等院・雲中供養菩薩像 |
(3)那須与一の墓
源平合戦の屋島の戦いで有名な那須与一の墓所があり、与一が揺れる船上の扇を一矢で射抜いた伝説から、即成院は「的を外さない」寺として、 「願いが的に届く」ようにと合格祈願や心願成就の寺として親しまれているという。
那須与一と即上院との伝承は、次のようである。1185年の屋島の戦いに向かう途中、与一は病に倒れた。その際、伏見にあった即成院の阿弥陀如来に参籠して平癒を祈願したところ、たちまち病が治り、戦場で「扇の的」を射落とすという武勲を立てることができたと伝えられている。与一はその後、阿弥陀如来への信仰を深め、出家して即成院に庵を結び、この地で生涯を閉じたとされ、本堂の裏には彼の墓とされる石造宝塔が建てられている。
| 石造宝塔 |
(4)石像等
①石造五重塔
②石像毘沙門天像
③弘法大師立像
④不動明王像
⑤地蔵菩薩像
⑥犬像
修行中の弘法大師を高野山に導いたという黒と白の犬の故事に由来する像。 また、即成院の本尊である阿弥陀如来は、戌年生まれの人の守り本尊でもある。
⑦鳳凰
山門の屋根の上には鳳凰が飾られている。また山門の扉にも鳳凰の透かし彫りが見える。 こちらも平等院の屋根を飾る鳳凰を想い起させる。
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| 平等院の鳳凰 |
| 即成院・門扉の鳳凰の透かし彫り |
| 即成院・門扉の鳳凰の透かし彫り |
即成院を後にして、次の目的地、瀧尾神社に向かいました。



