| 兼六園・徽軫灯籠 |
瓢池周辺から、霞が池周辺にまわります。霞が池は園内で一番大きな池で、周囲には徽軫灯籠(ことじとうろう)、唐崎松など、兼六園を象徴する名勝があります。桂坂口から入りました。
1.桂坂口周辺
(1)茶店通り
兼六園の桂坂口と蓮池門口の間にある「茶店通り」は、正式名称を「江戸町通り」という。古くは、このあたりに「江戸町」があったことによる。
①「江戸町」の始まり
1601年(慶長6年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の次女である珠姫が、わずか3歳で加賀藩3代藩主・前田利常に嫁いだ。この際、彼女の身の回りの世話や警護をするために、江戸から数百人もの膨大な数の付き人(お供の武士や侍女など)が金沢へ同行した。彼らを住まわせるために、金沢城の石川門の向かい側に突貫工事で造成されたのが「江戸町」であった。
しかし、1622年 元和8年 )、珠姫が24歳の若さで亡くなると、役目を終えた江戸からの付き人たちは順次江戸へと引き揚げていった。これにより江戸町は不要となり、1631年の「寛永の大火」で周辺が焼失したことも重なり、1659年 (万治2年)には藩の建築・営繕を担う「作事所」が置かれ、この頃には江戸町の外観は完全に姿を消したといわれる。
②茶店としての始まり
1872年(明治5年)、兼六園が一般開放された翌年に茶店の営業が許可された。お茶や団子を提供する「茶店」や「団子屋」 が多い時には50軒以上並び乱立していた。というのは、当時の石川県は財政難で、広大な庭園の維持管理費が不足していことから、県は、「庭園の掃除や管理を自ら行うこと」を条件に、民間へ茶店の出店を広く奨励・許可した。この施策によって、一気に50軒を超える店が集まることとなった。
現在は、12軒(または園内全体で約14軒)のみが営業 している。庭園の管理は行政(石川県)が行うようになり、現在の茶店は純粋な「休憩・お食事処」「お土産など金沢ブランドの発信地」、そして歴史を伝える「観光の案内役」としての役割を担っている。
また、明治当時は店舗の権利売買が自由にできたが、現在は世襲制となっており、親族以外は原則として店を継ぐことができない仕組みで伝統が守られてい る。 ここに並ぶ多くの店舗が1階がお土産店、2階がお食事処・休憩処という造りになっている。
(2)桂坂口
金沢城の勝手口にあたる「石川門」の正面に位置し、江戸時代から藩主や家臣が城と庭園(旧・蓮池庭)を行き来する重要な連絡路としての役割を担っていた。この坂道の周辺に大きな桂の木があったことから「桂坂」と名付けられた。
2.霞が池周辺
霞が池の周囲を歩きながら、徽軫灯籠、唐崎松、内橋亭など様々な名勝を巡る。
(1)霞が池
この池は、江戸時代の庭園技法である「縮景(日本各地の名勝を再現する手法)」が用いられており、日本最大の湖である「琵琶湖」を模して造られた。「霞が池」という名は、広大な水面が春の「霞(かすみ)」がかったような、穏やかで美しい景色を想起させることから名付けられた。
①前田斉泰による大拡張
霞ヶ池は、13代藩主前田斉泰(なりやす)の時代、1837年(天保8年)頃に、それまであった池を以前の3倍の大きさへと掘り広げて現在の形に完成させた。
②神仙思想と繁栄への祈り
この池にも、「神仙思想」が反映されている。海を模した広大な池に不老不死の仙人が住むとされる島を設けることで、藩主の長寿や加賀藩の永続的な繁栄への願いが込められた。
③実用的な「水インフラ」
標高53mの高台にあって、霞ヶ池に水が満たされているのは、約11km離れた犀川から引かれた「辰巳用水」が引かれているからである。それにより、霞が池は単に観賞用の池というだけでなく、金沢城の防御(堀の水源)や、城下町の生活用水・防火用水をまかなう貯水・配水池としての高度な実用的役割も兼ね備えていた。
(2)蓬莱島
霞が池の東岸寄りに浮かぶ、蓬莱島は不老不死の仙人が住む山=蓬莱山を模していることから名付けられた。また、亀の形をかたどった中島で、その形から別名「亀甲島」とも呼ばれる。
霞が池の拡張とともに13代藩主・斉泰によって、竹沢御殿(12代藩主・斉広の隠居所として造られた) )の庭であった築山を、池を掘り上げて島としたものである。
亀頭石:
蓬莱島の南端に据えられた大きな立石は「亀頭石」といわれ、島全体を巨大な亀に見立てた際、「亀の頭」の役割を果たしている。 亀頭石とは反対側の北側には、小さな「五重の石塔」が「尻尾」に見立てて配置されており、島の形を引き締めると同時に、亀の体の終わりを視覚的に示してい る。
| 内橋亭から見る蓬莱島 |
(3)徽軫灯籠(ことじとうろう)
「徽軫灯籠」は、霞ヶ池の北岸に佇む、高さ約2.67メートルの2本脚の石灯籠で、兼六園を象徴するスポットである。
現在は短い方の脚を石の上に置いてバランスを保っているが、江戸時代の絵図では両脚とも同じ長さで水中から出ていた。明治時代以降になんらかの理由で片脚が折れたとされる。この偶然によるアンバランスさが、日本庭園の美学である「破調」に通じ、独特の風情をもたらしている。
「ことじ」とは、琴の音を調整する「琴柱(ことじ)」に形がそっくりなことから名付けられた。一般的には「琴柱」と書かれるが、兼六園のものは「徽軫」という非常に珍しく格式高い漢字が当てられている。「徽」も「軫」も、同様に琴の音を調節する部位や美しさを表す意味を持っている。
(4)虹橋
徽軫灯籠や虹橋がある「霞ヶ池」自体が、13代藩主・前田斉泰(なりやす)の時代である1837年(天保8年)に広げる大工事が行われた。その後、1843年(天保14年)頃に周辺の景観が整えられた際、虹橋も一緒に架けられた。 架かる姿が空にかかる虹に似ていることから「虹橋」と名付けられた。
金沢城の建設などにも用いられた地元の名石「戸室石」の中でも、美しい赤褐色をしたものが使われている。
(5)瀬落とし
瀬落としは、隣接する「徽軫灯籠」「虹橋」と合わせて、全体でひとつの「琴」に見立てられている。
徽軫灯籠:お琴の弦を支える「琴柱(ことじ)」
虹橋:お琴の本体である「琴の胴」
瀬落とし:お琴に張られた「琴の絃(糸)」
堰を越えて水が流れ落ちる様子は、まるで白くきれいに張られた「琴の白い糸」のように見えるように、また、水が落下するときに奏でる軽やかで心地よい水の音(瀬音)が、まるでお琴を演奏しているかのように風情を周囲に響かせる。
(6)唐崎松
「唐崎松」は、霞ヶ池の北岸に立つ樹齢約180年のクロマツで、園内屈指の見事な枝ぶりを持つ特別な名木 である。とくに、徽軫灯籠(ことじとうろう)と並び、 金沢の冬を象徴する「雪吊り」の中心として知られている。毎年11月初旬から行われる、「雪吊り」の作業は園内で最も早くこの松から始まる。その様子が冬の訪れとして、テレビなどで紹介される。
13代藩主・斉泰(なりやす)が、霞ヶ池を拡張した際に、近江八景の一つとして古くから名高かった、琵琶湖畔の唐崎神社にある「唐崎の松」の風景を園内に写すため、その松の種子を取り寄せて育てたとされる。
水面にせり出すように雄大に横へ伸びた枝は、長い時間をかけて「鶴が首を伸ばし、羽を大きく広げて今まさに飛び立とうとしている姿」にそっくりになるよう、職人の手によって仕立てられている。
蓬莱島の亀の頭である「亀頭石」は、ちょうどこの唐崎松(鶴)の方角をまっすぐ見据えるように据えられている。これにより、広大な霞ヶ池を挟んで「鶴(唐崎松)」と「亀(蓬莱島)」が互いに向かい合い、視線を交わしている構図が作り出されている。 ことわざにある「鶴は千年、亀は万年」の通り、この2つが1つの視界に収まる配置は、加賀藩主が庭園にかけた「一族の永遠の命」と「加賀藩の永劫の繁栄」を象徴する究極の縁起担ぎ(祝儀の表現)とされる。
| 向かいは亀頭石 |
(7)虎石
虎が前足を低くして吼えている(あるいは伏せている)姿に似ているとされる自然石で、霞ヶ池の北岸、シイノキの木陰の笹薮の中にひっそりと佇んでいる。
この石が置かれている場所は、兼六園から見て「おきな(西北)」の方角、つまり乾(いぬい)の方向(天門)にあたり、風水や陰陽道に基づき、城や庭園の災い・魔が入るのを防ぐ「魔除けの石」としての役割を担って配置されている。
もともとは加賀藩3代藩主・利常が、能登半島の北部から自然石を七尾経由で運ばせたもので、最初は金沢城内の「玉泉院丸庭園」に配置されていたが、後年、現在の兼六園内の霞ヶ池北岸に移された。
(8)内橋亭
この建物は、もともとは、5代藩主・綱紀が造営した「蓮池庭」の馬場に建てられた馬見所(馬術を観覧する建物)であった。 1759年の大火で蓮池庭の多くが焼失した後、11代藩主・治脩の時代(1770〜1780年代頃)に再建・整備された。その後、明治期に琵琶湖にある「堅田の浮見堂」を模して、現在の霞ヶ池の西岸へと移築された。
建物は、池の中に立てられた「掘立て柱」によって支えられており、まるで水面に浮かんでいるように見える。
「内橋亭」という名は、池に突き出た「6畳の水亭」と、岸側の「8畳の間」という2つの建物を、「内部の反橋」で繋いでいる構造が由来となっている。
現在は食事処・お土産処として営業しており、お抹茶や和菓子、お蕎麦などを味わいながら、通路から見るのとは異なる池側からの特別な景色を楽める。
通常、水亭(離れのお座敷)の内部は非公開とされるが、訪れたとき、急に雨が降ってきたことから、縁台ではなく、建物の中で休むことができ、内部を見ることができた。
| 外の縁台 |
| 水亭からみる蓬莱島 |
| 反橋 |
3.栄螺山周辺
内橋亭は前は、霞が池に面し、後ろは栄螺山の緑を背景にしている。
なお、栄螺山は、2024年の能登半島地震による石垣崩落の影響で、現在は立ち入りが制限・閉鎖されている。
(1)栄螺山
12代・斉広(なりなが)が建設した竹沢御殿は、13代・斉泰(なりやす)に取り壊され、竹沢庭の改修が行われた。1837年(天保8年)には、泉水の付け替え、掘り足しの工事が行われ、その掘った排土を用いて、人工の築山よして栄螺山が築かれた。1839年(天保10年)には、山頂に三重の石塔と小亭が建てられた。
栄螺山という名は、山頂へ向かう園路が時計回りにぐるぐると3周半する形に設計されており、その形が「サザエの殻」に似ていることから名付けられた。
| 内橋亭の背景にある栄螺山 |
(2)三重宝塔
13代・斉泰(なりやす)が、1824年に没した実父である12代・斉広(なりなが)の供養として、栄螺山の山頂に建立した。
高さ約6.5メートルを誇る、兼六園内で最も大きな四角型の石塔で、「青戸室石」と「赤戸室石」を巧みに組み合わせて造られている。 加賀藩の石積職人の最高峰である石積方七代目「穴生源介(あのうげんすけ)」父子の作と伝えられている。
塔の基礎部分には、東西南北の四方を守護する4頭の獅子(狛犬)が立体的に彫り込まれており、魔除けとしての力強い意匠が施されている。
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| *三重宝塔 |
(3) 避雨亭(ひうてい)
「避雨亭」は、13代藩主・前田斉泰が霞ヶ池の掘削土で築いた山に、その名の通り急な雨を避けるために造られた傘形の小亭である。盤石を畳んだ上に、唐傘(からかさ)のような形をした独特な屋根が載っている。その屋根の形から、栄螺山は別名「傘山(からかさやま)」とも呼ばれる。
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| *避雨亭 |
*印はネットから借用
(4)育徳園の「サザエ山」
兼六園の栄螺山は、江戸にあった加賀藩の下屋敷「育徳園(現・東大本郷キャンパス)」に存在した「サザエ山」を模して造られたとされる。 兼六園と育徳園(江戸藩邸)との歴史的関係については、前回ふれたが、作庭にあたり共通した神仙思想が見られる。
(参照):
江戸藩邸の育徳園の庭は、4代・綱紀(つなのり)によって、徳川将軍家の「御成」を迎えるために整備された。 その際、現在の三四郎池(心字池)を掘り広げた際の土砂を積み上げて作られたのが「サザエ山」である。比高約6mの築山で、当時は周囲に高い建物がなかったため、山頂からは江戸湾や富士山までをも一望できる絶景の場所となっていた。
ふたつの「サザエ山」に共通する点を整理しておく。
池の掘削土を利用した築山:
どちらの山も、庭園の主役である中心の池、兼六園は霞ヶ池を、育徳園は心字池を掘り下げたときに出た土砂を積み上げて山にして造られた。
螺旋状の山道:
山の周囲をぐるぐると回りながら登っていく構造が共通している。これにより、狭い敷地でも歩く距離を長く感じさせ、登るにつれて周囲の景色が変化するドラマチックな視覚効果を狙っていた。
優れた「眺望」:
兼六園の栄螺山からは霞ヶ池や対岸の唐崎松、その向こうの卯辰山が見渡せる。いっぽう、育徳園のサザエ山からは池を見下ろしつつ、遠くの富士山などを借りてくる「借景」の役割を果たしており、どちらも庭園内随一の展望台である。
「傘(唐傘)御亭」の配置:
山頂には、雨宿りや休憩のために、唐傘のような形をした一本足風のユニークな東屋(避雨亭・唐傘御亭)が配されていたことも共通する。
いっぽう、異なる点はその歴史にある。
まず造られた時代は、江戸の育徳園のサザエ山は江戸初期の寛永年間(1624-44)であるのに対し、兼六園の栄螺山は 幕末に近い1837年(天保期)頃であり200年近くの違いがある。
しかし、育徳園のサザエ山は、 明治以降、東京大学のキャンパス拡張工事に伴い、1890年代に削り取られて消失した。現在は三四郎池のみが残っている。それに対し、国元の兼六園・栄螺山は、その美しい設計思想や遊び心を受け継ぎ、今も金沢の地で当時の大名庭園の粋を伝えている。
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「御江戸上屋敷絵図」 |
*庭の中心にある現・三四郎池の右下にある「サザエ山」
(参考)
『兼六園』石川県金沢城・兼六園管理事務所 監修 北國新聞社 2013年
つづいて兼六園の曲水周辺をめぐります。


