2022年10月29日土曜日

秋麗(あきうらら)


秋もだんだん深まってきました。陽気のいい天気になり、公園まで足を延ばしました。

秋の陽ざしを浴びて、黄色く色づいたイチョウの葉、池に映って不思議な模様を描いています。

小鳥や鵜もやってきていました。

こんな時期を「秋麗(あきうらら)の候」と言うようです。























2022年10月27日木曜日

思い出のアルバム15:神社Ⅲ(近代)~カミとホトケ

 

前回は、近世、江戸時代のカミ・ホトケとして、儒教(学)が神道と結びつき、さらに漢意(からごころ)を排し古意(いにしえごころ)を重視した国学がうまれ、平田篤胤の復古神道となり、幕末の尊王攘夷運動に結びついていった思想的な流れをみた。一方で、民衆レベルでは、現世利益をもとめ、各地の寺院や、伊勢神宮などへの巡礼が盛んとなり、また庶民の間から生き神として新宗教が生まれるなど、多様なカミ・ホトケのあり方をみてきたが、ついに、ペリーの来航を契機に徳川慶喜は、1687年大政奉還を行い、260年続いた徳川幕府が幕を閉じ、明治維新となる。

今回は、近代、明治維新以後のカミ・ホトケの姿について、天皇崇敬に基づく「国家神道」を中心としてみていくことにする。

1.明治政府の宗教政策:国家神道の形成

大政奉還のあと、新政権は矢継ぎ早に天皇の詔や太政官布告などを出して、新たな国家のビジョンを掲げ、そのシステムの構築に向けて大きく動き出す。

(1)王政復古の大号令 1867

京都で、お札が降り、「ええじゃないか」の掛け声で民衆が乱舞したのは、大政奉還を朝廷に上奏した直後であったという。民衆は世の中の大きな変化を感じ取っていたのだろうか。大政奉還の後、討幕派による政変が起こり、維新政府により、明治天皇の勅令として「王政復古の大号令」が発出される。

これにより、幕府とともに摂関制も廃絶し、「諸事神武創業之始ニ原ツキ」、新たな出発を宣言した。

復古の「古」とは、神武創業の時を指すことになった。明治維新の復古をどこに求めるかは流動的で、中山忠能、三条実美らは建武中興(1334年の後醍醐天皇の親政)に求めたのに対し、岩倉具視(玉松操の思想を後ろ盾に)の意見である「神武創業」が通ったとされる。

復古が、神話的な神武創業に原点を求めたことにより、これまでの政治システムおよび宗教システムがラディカルにとらえられ新たなビジョンが求められた。

(2)祭政一致の布告1868年3月13

祭政一致の太政官布告には、「此度 王政復古 神武創業の始めに 諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候」と述べ、王政復古のビジョンに基づき、祭政一致の政治のシステムが求められた。神武創業時の政治体制である(とされた)「祭政一致」が示され、古代律令制になぞらえた太政官・神祇官が制度として再興され、「おいおい所祭奠も興せらるべき義」と述べ、祭祀がこれから復活していくことを明らかにしている。

また、「あまねく天下の諸の神社、神主、禰宜、祝、神部に至るまで向後右神祇官附属におおせ渡さるる間」と述べ、すべての神社、神職は、天皇のもとにある神祇官の所属とすることを宣言している。したがって、江戸時代には、吉田家、白川家の届け出ていた免許などの特権は無くなるだけでなく、従来の神社、神職すなわち神道そのものをリセットすることが含まれていた。

しかしながら、この神祇官も、神社等をまとめることには至らず、神祇官1870年→神祇省1871年→教部省1872年とつぎつぎに体制変更され、祭政教一致は頓挫してしまう(かに見えた)。

(3)五箇条の御誓文1868年3月14日

「祭政一致」の布告の翌日、新政府は「五箇条の御誓文」を打ち出す。五箇条をつぎに引用しておく。

1.広く会議を興し、万機公論に決すべし

2.上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし

3.官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦うまざらしめん事を要す

4.旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし

5.智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

内容は、新たな国家づくりにむけた国是ともいうべき極めて重要な宣言であるが、注目すべきは、このあとに続く勅命である。

「我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ。 」

現代語訳

「我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。」

天皇自らが新政府の基本方針を「天地神明」に誓うという形式で、臣民に向けて下した言葉である。天神地祇に新政を誓うという儀式は、京都御所の正殿である紫宸殿に設えた祭壇の前で、執り行われ、天皇の代理である三条実美が神座の神々に向かって御誓文を読み上げた。天皇は、その年の正月に元服(15歳)したばかりであり、少年といってもよい年代であった。この儀式の演出は、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などによるものとされている。

この「御誓文」には、最後に300人以上もの新政府の官僚、公家、諸侯の「執筆加名」がなされたという。

こうした儀式を行うこと自体が天皇による「祭政一致」の具体化であった。すなわち、明治天皇を神武天皇に 天皇の「大変革」を神武の創業に重ね合わせる内容とされる。(のちの憲法発布式1889年も同様に神武建国に重ね合わせている。)

明治政府の中央集権的な政権の核に天皇を置くこと、すなわち「天皇親政」と、天皇自らが祭祀を行うこと、すなわち「天皇親祭」が呼応して、天皇の政治君主化と最高祭主化が並行して進められ、祭政一致の具体化が進められることになる。

(4)神仏分離の布告(神祇事務局達 1868年3月17日)

「祭政一の布告」から4日後、神祇事務局からの達として「今般王政復古、旧弊御一洗あらせられ候につき」とあるように、「旧弊」すなわち神仏習合を「一洗」するように命じた。

これに続いて、およそ10日後に、同じく神祇事務局達として「神仏判然令」1868年3月28日が出ている。こうした通達が次々と出され、神仏分離が進められた。

先の「祭政一致の布告」により神社・神職は神祇官のもとに統括され、国の儀式(祭祀)を行う場とされたことから、神社・神職のリセットが必要となった。それは、また維新政府の原点である「王政復古」であり、これまで長く続いた神仏習合の歴史から外来である仏教を排し、古代に復し、いわば純粋な神道が求められた。

具体的には、神社に仕える僧形の別当や社僧には還俗を命じ、「八幡大菩薩」や「牛頭天王」、「山王権現」といった仏教用語を神号とすることや、仏像を神体とすることなどの禁止を全国に布告した。

こうした布告、神祇官事務局達により、廃仏毀釈の運動が各地で起こり、多くの仏像や仏具などが破壊、焼却の憂き目にあってしまった。これに対し仏教寺院側から政府に対する突き上げもあり、政府としては沈静化を図る羽目になった。

祭政一致の布告や神仏判然令など一連の宗教政策を主導していたのは、津和野藩の藩主・亀井茲監(これみ)と福羽美静によるとされている。なぜ小藩の津和野藩からこうした指導者が出たかというと、やはり隣の長州藩の木戸孝允の後援によるところが大きかったようだ。

政府の宗教施策は、これまでの神仏習合といった複雑な前近代の宗教文化を一変させ、仏教が檀家制により国教であった江戸時代から、神道が国教となるべく起こした、いわば上からの強硬な宗教改革であった。

神仏習合から仏教色を排し、新たな神道を国の中心に据えたことから、これまで仏教寺院が担っていた葬式については、神葬祭を、また宗門改めについては氏子調を、神社側に担わせることとなった。

もちろん、宮中においても神仏分離が行われることになる。たとえば、天皇の即位の際に行われる「即位灌頂」は密教儀式であり、平安時代から続けられていたが廃止された。また、皇族の位牌は黒御所に祀られていたが、これも泉涌寺に移管した。泉涌寺は、これまでは皇族の菩提寺であったが、仏式の葬儀から神式に替わったことにより、山稜に祀られることになった。

その後、京都から東京へと都が遷ることになったが、それでも、皇太后らは私的には平安時代から行われていた仏教信仰は変わらず、泉涌寺から念持仏を取り寄せ皇居内で日々信仰したり、泉涌寺に病気平癒の加持祈祷を命じたりしていたという。また宮や公家たちは京都に別邸、屋敷を残し、しばしば滞在し、泉涌寺、大徳寺、二尊院などの菩提寺で法要に参列し京都の名所に遊んだという

上からの宗教改革は、公家であろうと、庶民であろうと、人々の信仰レベルの精神基盤まで変えることは難しかったということだろう。

(5)東京奠都の詔1868年7月17

東京を新たな都とするに当たって、天皇は、つぎのように「万機親裁」を宣言した。

「朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン・・・」

江戸を東京と称するとしているが、この「称」には、ほめるたたえる「あ ()ぐ」 という意味があり、単なる改称を意味するのではなく、天皇が親臨するきわめて重要な地であるから、江戸のランクをあげ 「称」て、京都 と同格の、東の京-東京 とするという意味を示しているという。すなわち、天皇が東京に入ることによって、徳川家に替わり新たな政治権力者となることを表明したのである。

この東京奠都に当たり、朝廷内の反対論を抑えるため、京都から東京への「遷都」ではなく、「奠都」、すなわち位置を定めるとした。また、東京への移動を「東京行幸」とし、9月に東京に入った。その様子は次のように描かれる。

920日、天皇は京都を出発 した。供奉する者3300人余。東海道沿道各地の高齢者、孝子(親孝行な子)や職業出精の者を褒賞 し、あるいは災害にあった者に金品が与えられ、その総計は 11000人余、総額 11300両余にのぼった。熱田では農民の稲刈りを見、菓子を与え、大磯海岸では地曳網を見、漁民がタライに入れて差出した魚に喜んだ。つとめて民衆に接 しようとする、そして慈愛深い 存在であることをアピールしようとする天皇がそこにあった。

1013日に江戸城着。これを東京城 と改めるとともに皇居とした。東京の民衆は、数日間仕事を休んで、下賜 された酒を飲み、歌いかつ踊 り狂って、天皇を熱狂 して迎えたという。

翌年、婚儀のため京に「還幸」し、3月に再び東京に戻る途次には、伊勢神宮へ天皇として歴史上初めて参拝した。 かって家光が上洛した際に、30万の軍事パレードで武威を誇示したのに対し、この天皇の伊勢参拝は新たな神威を示すデモンストレーションであった。

東京城は、今回は、皇居ではなく「皇城」と呼ばれた。すなわち、天皇の住む所である(皇居)だけでなく、新政府の中枢機関であった太政官も東京城内へ移され、政治の中心地であることを示した。

なお、天皇は、最初の東幸の際に草薙剣を祀る熱田神宮、武蔵国一宮であった氷川神社にも参拝している。

なぜ、東京が新たな都として選ばれたのか。維新前は、徳川将軍も江戸を離れて京都、大坂に居た。また各藩の志士たちも京都に集まっていて、京都はこれまでの公家文化の都市ではなく、政治都市となっていた。各有力藩は京都の寺院を本陣としていた。このまますすめば京都が政治の中心となることもありえただろう。東京奠都の前にいくつかの遷都論が主張されていた。

1868年正月に、大坂への遷都が大久保利通によって建白されている。この大坂遷都論において、大久保利通は京都の因習を絶ち、天皇親政を実現するのにふさわしいとして大坂への遷都を建白した。大久保の狙いは、遷都を機会に行うべき宮廷改革の実現にあった。建白書は次のように激しく述べる。

「数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し ・・・、右の根本推窮して大変革せらるべきは、遷都の典を挙げらるるにあるべし。」

大久保の大坂遷都は実現しなかったが、天皇は大坂親征の行幸を行うこととなり、1868年3月21日(五箇条の御誓文の1週間後)に出発した。これまでの歴代の天皇行幸とは全く違った新たな行幸が行われ、後には、大久保が期待した遷都と宮廷改革が実行されていった。

これに対し、江戸城開城後、1868年4月に前島密は、江戸遷都論を大坂にいる大久保利通に届けた。前島は江戸のほうが、大坂よりも「国際上及び経済上」においても優れ将来性もあると、つぎのように主張した。

「帝都を茲に遷さば、内は百万の市民を安堵し、外は世界著名の大都を保存し、皇謨の偉大を示す。国際上及び経済上の観察に於て、是また軽々に附すべき問題に非ざるなり。 」

ほかにも江藤新平、大木喬任(佐賀藩)は「東西両都」論として、朝廷の権威が行き届いていない東日本を治めるため、東京を天皇が親臨する地として「東の京」とし、「西の京」との両都を結ぶための鉄道が必要だと論じている。(なお、鉄道の開通は明治5年、新橋ー横浜間である)

結局、東京が選ばれたのは、京都における政治空間から、とりわけ御簾の中にいる天皇を御所から脱出させ、新たな政治体制、行動する天皇にするためには遷都(奠都)が必要であり、江戸城が、いわゆる無血開城された現実を踏まえ、江戸を東の京(東京)に格上げして遷すことが選択された。その切り札となったのは、江戸=東京における大名、武家の屋敷の土地があったことだといわれる。つまり、大名、武家の屋敷が京都から移転してくる政府機関や公家、藩士(役人)たちのための土地として使えたことが実現のための大きい要因であった。

また、東京奠都は、これまでの徳川家の権力者の館が、新たな権力者としての天皇の館になるという権力の移行の象徴的な意味合いもあった。

さらに、天皇の「東幸」は、神武天皇の「東征」と重ね合わされ、神武創業は、新天地大和において新たな国家を「創業」したのと同様、明治天皇は東京での新国家建設=創業していかなければならない、ということが重ね合わされているという象徴的な意味合いも読むことができる。

このあとの、東京城の名称等を追ってみると次のようになる。

京都御所→江戸城開城1868年4月11日→東京城186810月→皇城1869年3月→1872年太政官以下の官省庁を造営→火災により赤坂仮皇居1873年→宮城(明治宮殿)1888年→宮城の呼称を廃止し皇居1948年 

これを見ると、いかに政治性を帯びた戦略的空間ができていったか、加えて、この中に天皇崇敬という神聖性をおびた空間が出来上がっていった。

錦絵・東幸「桜田門」

錦絵・氷川神社行幸(右上が氷川神社)


(6)「大教宣布詔の布告」1870

維新後の新政府は、その政治理念を表明したものとして、「王政復古の大号令」、「五箇条の御誓文」を打ち出し、その宗教的政策としては「祭政一致の詔」、さらに神仏分離令などを打ち出したことをみてきた。その流れの中で天皇の東京行幸(東幸)により、江戸が東の京(東京)として新たな政治的都市空間となったことを見てきた。

こうした動きの中で、宗教的国家の基本理念を表明したものとして、「大教宣詔」1870年が出された。この宣布は天皇崇敬を中心とする国家神道の形成にきわめて重要な内容であり、その全文を引いておく。

朕、恭しく惟みるに、天神天祖極を立て統を垂れ、列皇相承け、之を継き之を述ぶ。、祭政一致、億兆同心、治教上に明かにして、風俗下に美し。而るに、中世以降、時に汚隆あり、道に顕晦あり。治教の洽(あまね)からざるや久し。今や天運循環し、百度維れ新たなり(「百度維新」)。 宜しく治教を明らかにして(「宣明治教」)、以て惟神の大道を宣揚すべきなり。因て宣教使を命じ、天下に布教せしむ。汝群臣衆庶、其れ斯の旨を体せよ。」

ここで、「祭政一致」の原則が述べられるとともに、「大教」は、「治教」と同じ意味であり、「惟神の大道」は神道と同じこと、すなわち「大教」で国を治めることが「惟神の大道」であるという「国家神道」の基本理念を述べたものとされる。なお、「明治維新」という言葉は、この文の「百度維新」「宣明治教」に由来するとされる。

また、「治教」とは、この時期から「宗教」ではないというとらえ方になる。この時期に英語のReligionを「宗教」と訳したが、これは江戸時代の宗門、宗旨の教えという意味が引き継がれている。宗門宗旨には邪宗門であるキリスト教や仏教の宗派、神道の宗派が入る。宗門宗旨=「宗教」は、治められる側のことであり、「治教」は治める側の教えであり、宗門宗旨=「宗教」には入らない。というロジックにより「政教分離」の考え方を受け入れ、のちの帝国憲法(1889年)では「信教の自由」を制限付きで認めている。

この大教を布教するために「宣教使」を設け、国学者や神道者を充てた。同じ1871年には、「国家の宗祀」が打ち出され、すべての神社を「国家の宗祀」と定め、天皇の国家的儀礼と祭祀の場へと転換させた。それと合わせ、伊勢神宮を頂点として、すべての神社を官社と諸社に区別し、格付けを行い官社は神祇官、諸社は地方長官の管轄下に置くこととした。したがって、すべての神職は世襲が廃止され、国が選任する官吏(公務員)という身分となった。

しかし、1871年に神祇官は、神祇省に格下げとなり、宣教使も翌72年には廃止される。それに代わって、1872年に教部省が設けられ、神官と僧侶に教導職を任じた。翌73年には教導職の神仏合同の総本山として大教院が芝増上寺に設立される。各県には中教院が置かれ、さらに各寺院、神社などが小教院となった。すなわち、祭政一致が出された当初は、仏教を排して神社を中心に天皇崇敬=大教を広める方向であったが、ここにきて、神社も仏教も合わせた体制で取り組むように方向転換した。しかも、教導職の人材不足のため俳優、講談師、落語家といった説教が得意(?)な人まで採用したという。

その国民教化の綱領として、次の「三条の教則」が1872年に出された。

1.敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事

2.天理人道ヲ明ニスベキ事

3.皇上ヲ奉載シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事

1と3は祭政一致の理念に合致するものであり、神道信仰を広めることになる。2は信仰というより道徳・倫理を説くものである。いずれにしても、諸宗教が合同で、こうした神道優位のもとで教化活動するということは、そもそもに無理があったというべきであろう。このため、仏教界には不満が多く真宗が大教院を脱退してしまい1875年 には解散に至る。その後、1877年に教部省が、1885年には教導職が廃止されて国民教化は名実ともに終焉を迎えた。

この間の動きとして、小教院となった多賀大社(滋賀)の例を見てみると。多賀大社では神仏分離により切り離された境内の旧寺院(不動院)に少教院を設けることを教部省に伺い出ている。これが許可されて明治八年(1875年)三月に開院、講義や説教が行われることになった。ところがその直後の五月三日に神仏合同布教が打ち切られて大教院も廃止が決定する。多賀大社の少教院も僅か数ヶ月で廃止となっており、教化活動はほとんどなされずじまいであった。

このように目まぐるしく変わる宗教政策の背景には、神道と仏教の対立のほかにも、神道においては、当初の祭政一致、神仏分離令には津和野派といわれる亀井茲監(これみ)と福羽美静が、長州藩、木戸孝允をバックに主導したが、その後は、薩摩派が勢力を伸ばし、また、神社側でも伊勢派と出雲派の祭神論争などが起こるなど、それぞれの派閥の勢力争いがあった。

いっぽうで、神社の儀は国家の宗祀としたことから、神社、神職の役割は地域共同体の豊穣の願いや疫病などの苦しみを除くといった願いを満たすことではなくなった。

あわせて、神社合祀を進めたため、地方の小神社は整理統合された。また、修験道の禁止、天理教などの民間宗教への厳しい統制が行われるとともに、盂蘭盆会、盆踊り、口寄せなどの民間信仰を、迷信、猥雑などとして禁圧した。こうした動きに対し、鎮守の森を守り、伝統的風習を守ろうと反対したのが南方熊楠、柳田国男などである。



結局、新政府の宗教政策は、うまく効果が上がらなかった。しかしながら、天皇崇拝という基軸は、次第に膨らみ、国家神道といわれるように国教となっていった。それは、先回りして言えば、帝国憲法の発布(1889年)、そして教育勅語の発布(1890年)、さらには軍人勅諭(1882年)によって成し遂げられたといえる。すなわち、神道や仏教といった宗教ではなく、憲法、教育、軍事といった近代システムによって天皇崇敬という基軸が支えられたのである。とりわけ、国民教化の観点からは近代的教育システムによる浸透が大きかったといえる。

多賀大社(滋賀)

多賀大社(滋賀)


(7)大日本帝国憲法1889年発布

帝国憲法により、天皇崇敬を基軸とした国家神道が確立した。その条文をみてみると、次のように第一章が天皇ではじまる。

第一章 天皇

第一條

大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第三條

天皇ハ神聖ニシテ侵ヘカラス

第十一條

天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス


そして第二章で、臣民(まだ「国民」いない)に対し、次のように、「信教の自由」を述べているが、それは「義務に背かざる限り」、すなわち天皇崇敬に背かざる限りにおいてという限定付きである。


第二章 臣民権利義務

第二十八條

日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス


これらの条文の内容以上に、憲法発布の形式に天皇の宗教的権威が示されている。まずは、「皇祖皇宗の神霊」にむけて「告文」が、そして臣民にむけては「勅語」が付されている。

告文

皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク

勅語

 朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス


「告文」では、「天壌無窮」という日本書紀に記される天孫降臨に際し天照大神がニニギノミコトに告げた「神勅」を示し、歴代天皇が永遠に国を治めるべき神聖な任務を負った存在であることの根拠とされる。

なお、「皇祖」とは、天照大神あるいは神武天皇を、「皇宗」は、それ以降の歴代の天皇を意味する。

「勅語」は、その天皇である「朕」が「臣民」に対し、大権に基づいて、他の機関の参与をまたずに、直接に発した意思表示 したのが、この憲法であるとする。


憲法発布の儀式も天皇崇敬の重要なデモンストレーションであった。式は、神武建国に重ね合わせ紀元節・2月11日に行われた。式は、新たに建設された宮城内にある宮中三殿に始まり表宮殿に終わった。その様子は次のようであったとされる。

宮中三殿は大勢の参列者が収容できる2200坪の広さがあり、表宮殿の正殿は外観は日本式入母屋造りだが、内部はシャンデリア、絨毯など西洋式デザインで飾られていた。

天皇は、宮中三殿の際には白絹の束帯に立嬰であったが、表宮殿の正殿では大元帥の軍服姿で現れた。天皇が高御座に昇ると、ダイヤモンドの王冠、バラ色のドレスを煌びやかに高尚につけた皇后が入場した。皇后の参加はヨーロッパの王権授与式を取り入れ「近代化」を強調したものであった。

憲法の原本を枢密院議長・伊藤博文から受け取った天皇は跪く総理大臣・黒田清隆に授けた。その瞬間に君が代が奏され祝砲の一発目が轟いた。天皇が立憲君主に、日本人が臣民に生まれ変わった瞬間であった。

その後、皇后と一緒に両陛下は青山練兵場に向かい、両陛下のもと近衛兵の行進を「天覧」した。再び表宮殿にもどり豊明殿での大宴会で、両陛下が主役となる。

憲法制定の奉告は、伊勢神宮、奈良・神武天皇陵、京都・孝明天皇陵、東京・靖国神社、さらに岩倉具視、大久保利通、木戸孝允など王政復古の指導者たちの墓前にも勅使を派遣した。

同様の儀式は、「五箇条の御誓文」(1868年)の際にも行われていたことをすでに 見てきたが、こうした儀式が天皇中心によって行われること(親祭)によって、また西洋の文明を取り入れた衣装や室内のデザインなどの演出によって、そして、なによりも憲法という近代システムが巧みに結びついて、天皇崇敬の基軸が広がっていった。

(8)教育勅語発布1890

憲法発布の翌年に教育勅語が下賜され、憲法の条文は知らなくとも、教育勅語の言葉は暗記させられることになる。1872年に学制が公布され国民皆学を目指す近代教育システムが構築された。教育内容については洋学に偏っていたが、仁義忠孝などの日本的精神を教育すべしという元田永孚(もとだ ながざねらの意見があり聖徳、つまり天皇の教えを組み込んだ。 

修身、歴史教育 唱歌といった科目で学び、学校には御真影が置かれ、校長をはじめとして、教育勅語を唱和したという。したがって、戦前生まれの人は、次のような教育勅語の冒頭や神武天皇以降の歴代天皇の名を暗記していた。

「朕 惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・」

これに続いて、戦争等の非常事態になれば、天皇と国のためにすべてを捧げるべしとし、それが忠良な臣民であるとともに、祖先を顕彰するものであるとして、天皇への忠誠と先祖崇拝を巧みに結合した。

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

もちろん、勅語の趣旨は孝行、友愛、博愛、修学、啓発などの道徳を説くものであり、教育の基本原則であるとともに、天皇崇拝を中心とする国家神道の事実上の聖典といわれるものであった。


(9)軍人勅諭1882

「軍人勅諭」は、山縣有朋の「軍人訓戒」を元に西周が起草し、山縣有朋、井上毅などにより加筆修正されたとされ、通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名まじりの文語体で書かれ、天皇から軍人に直接語られているようになっている。その前文では、次のように語られる。

「朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき・・・」

この軍人精神が、このあと、日清、日露、さらには第二次大戦の敗戦まで続くことになる。そして、戦死した軍人は英霊として靖国神社に祀られることになる。

靖国神社

ここまで、明治維新以降の、「王政復古の大号令」から「大日本帝国憲法」、「教育勅語」などに、天皇崇敬を中心とする国家神道の形成の過程を見てきた。

また、今回はふれられなかったが、欧米からのキリスト教の布教の影響(脅威)や、欧米列国による外交的、文化的影響(脅威)が、こうした宗教政策を大きく左右していた面を見る必要もあるだろう。


次回は、天皇崇拝がどのように国民に受容され、国家神道(国教)となっていったかについて、天皇の祭祀などからみてみることにしたい。

2022年10月20日木曜日

秋晴れ

 

キンモクセイ

秋晴れになりました。散歩するのも気持ちがいい。

コスモス(秋桜)も、十月桜も咲いていました。キンモクセイの甘い香りが漂ってきました。

ミカンや柿など秋の実りもたわわに。


1.コスモス(秋桜)








キバナコスモス


2.ホウキグサ






3.アメジストセージ





4.いろいろな花
オオケタデ

ダリア

サザンカ

ケイトウ

アサガオ




オキザリス

十月桜

十月桜

キンモクセイ
4.秋の実り
ミカン
ユズ
カキ

カキ
5.雑木林













東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

  東洋文庫ミュージアム・入口 東洋文庫ミュージアムで開催されていた「キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジア」をテーマとした貴重な本を観てきました。そのなかで、特に印象に残った次の 3 冊を取り上げてみたいと思います。 『破提宇子(はだいうす)』恵俊(ハビアン)  1...

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