2023年12月25日月曜日

東京異空間167:一橋大学~妖怪たちの棲むキャンパス

 

一橋大学・兼松講堂

一橋大学の学園祭、一橋祭に行ってきました。このキャンパスには伊東忠太の設計による兼松講堂があり、一度行って観たいと思っていました。

ここに棲んでいる伊東の妖怪たちにも出会うことができ、また一橋大学の歴史にも触れることが出来ました。

1.一橋大学の沿革

一橋大学は、1875年、森有礼(18478-1889)による商法講習所が東京銀座尾張町に私塾として開設されたのをはじめとする。設立にあたって森有礼に協力したのは、渋沢栄一、益田孝ら在京の財界人であった。また、商法講習所の設立趣意書「商学校ヲ建ルノ主意」は創設に協力した福澤諭吉が執筆した。

その後、神田一ツ橋に移転し、東京商業学校(1884)、高等商業学校(1887)、東京高等商業学校(1902)と名前を変え、1920年には東京商科大学となった。1930年、震災に伴い一ツ橋の地から、北多摩郡谷保村(現・国立市に移転した。1944(昭和19)年、戦時体制のなかで「東京商科大学」は「東京産業大学」へと名称変更された。改称理由は「商が営利主義を示すという理由」だという。この時期、講堂等は中島飛行機に貸与され軍需工場となり、学生は勤労奉仕を行っている。

戦後、1949年に学生の投票によって一橋大学と改称された。

2.歴史的建造物

国立に移転した一橋大学のキャンパスには、講堂、図書館、本館などが建設された。とくに兼松講堂は伊東忠太による設計で、ロマネスク様式となっている。図書館、本館など、そのほかの建物は、このデザインコードに基づき、文部省建築課による設計で、いずれも講堂竣工から3年後までに建設された。

(1)兼松講堂

兼松講堂は、株式会社兼松商店から創業者・兼松房次郎の13回忌追慕記念事業として寄贈された施設で、伊東忠太の設計により、一橋大学の国立西キャンパス内に建設された(1927年)。

なぜロマネスク様式か

すでにこのブログでも見てきたように、東京大学・安田講堂(内田祥三、1925年竣工)、 早稲田大学・大隈講堂(佐藤功一ら、1927年)、慶応義塾大学・三田大講堂(曾禰・中条、1915年竣工)など多くの大学がゴシックで建てられた。では何故、一橋大学では、伊東忠太はロマネスク様式を採用したのか。

藤森照信によると、大学は中世ヨーロッパの修道院に起源があり、その修道院の建築様式が、ロマネスクかゴシック かのどちらかだった。 ロマネスクは、建築様式としては稚拙なところがあるのに対してゴシックは華やかで、洗練されていることから、多くの大学はゴシックを選んだ。しかし、オリジナルに対する伊東忠太の個人的な思いが、ロマネスクを選ばせた。その個人的思いが、ロマネスク建築にとりいれられている妖怪、怪獣である。伊東は、幼いころから妖怪に強い関心をもち、自らの建築にこうした妖怪、怪獣を多くとりいれた。

なぜ伊東忠太の設計なのか

さらに、なぜ伊東忠太に設計依頼がされたのか、という疑問が生じる。寄付者の兼松の意向があったのか、大学側の関係者からの意向があったのか、いろいろ想像するに、やはり、東京帝国大学の辰野金吾からの建築家の系統があったのではないか。伊東は辰野の弟子であり、この当時は、東京帝国大学の建築科の教授であり、1928(昭和3)年に退職し、早稲田大学の建築科の教授となっている。

いずれにしても、伊東忠太の人脈は広く、山縣有朋(小田原別邸・古稀庵)、大谷光瑞(別邸・二楽荘、築地本願寺)、大倉喜八郎(大倉集古館、祇園閣、京都別邸・真葛荘)、浅野総一郎(私的迎賓館・紫雲閣)、など政財界の一流の人脈、パトロンがあったことから、いずれかのパイプにより設計依頼があったのだろう。ちなみに、兼松講堂が竣工した1927年と同じ年には、大倉喜八郎に関わる祇園閣、京都別邸・真葛荘、大倉集古館が建てられている。

なぜ文部省建築課の設計なのか。

また、講堂以外の建物は、文部省建築課により設計がなされている。これも、なぜ文部省建築課なのだろうか。前身である文部省営繕組織は、明治前期に学校校舎等を建設するため工部省から独立し、山口半六、久留正道など優れた建築家をかかえていた。その後、1907(明治40)年には、東京と京都の帝国大学に技師等が配置されそれぞれ営繕組織が出来、帝国大学の建築にあたった。すでにみたように東京帝国大学のゴシック建築は、教授であり営繕課長でもある内田祥三によって設計された。

しかし、総合大学としての帝国大学とちがい単科大学である商科大学は文部省営繕課の管轄にあったということであろう。しかし、そこには伊東忠太の門下である帝国大学出身者も多くいたのであろう。それは、それぞれの建物にも伊東好みの妖怪が装飾されているからである。

ただ、こうした国の建物は、神社(当時は国家神道)を除くと、伊東は設計していないことから、大学に昇格した東京商科大学の設計を手掛けたということは、伊東にも大きなものがあったと思われる。

兼松講堂

兼松講堂

兼松講堂・ファサード

ファサード

ファサード

ファサードに置かれた校章・マーキュリー(2匹の蛇ー英知と翼ー五大州に雄飛、にCommercial College の頭文字CC)

鳳凰


獅子

講堂内・ホール

講堂内・ホール

講堂内・通路

講堂内・通路

講堂内・階段

講堂内・通路

講堂・柱の装飾

講堂内・柱の装飾

妖怪「鬼」?

妖怪「怪鳥」?

兼松講堂

兼松講堂

(2)図書館、本館

図書館は、1930(昭和5)年6月竣工。文部省建設課によって設計された。

図書館

図書館・時計塔

図書館・怪獣?

図書館・時計塔の付け柱の左右に怪獣と怪鳥が絡む

図書館・時計塔の付け柱の左右に怪獣と怪鳥が絡む

図書館

図書館・柱の妖怪

図書館・柱の妖怪

図書館・柱の妖怪

図書館・柱の妖怪

図書館・柱の妖怪

図書館前の池の妖怪

池の妖怪


西本館は、1930(昭和5)年12月竣工。文部省建設によって設計 。

本館

本館

本館

本館

本館・階段ステンドグラス

本館

本館・階段ステンドグラス

階段ステンドグラス

本館・植物紋様の装飾

本館・植物紋様の装飾(妖怪にも見えてくる?)

本館

本館から図書館を望む

本館


道路を渡った東キャンパスにある東本館は、1929(昭和4)年11月竣工、文部省建築課設計。「商学専門部本館」として建設された。

東キャンパス・門

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館

東本館・車寄せ

東本館・植物紋様に怪鳥

東本館・植物紋様に怪鳥

東校舎・マーキュリー

東校舎・マーキュリー

東校舎・マーキュリー・タワー

(3)旧門衛所

昭和6年(1931年)竣工。清水組(現・清水建設)施行により完成。木造平屋建ての瀟洒な洋風建築の守衛所。 この建物は、現在、消防器具置き場として使用されている。

旧門衛所

旧門衛所

旧門衛所

旧門衛所・屋根の上に百葉箱

(4)銅像

キャンパス内に置かれている銅像をみてみると、一橋大学の歴史を築いてきた人々の顔をうかがうことができる。。

矢野二郎(1845-1906

大学の草創期である商法講習所、東京商業学校等の校長を長く務め、日本における商業教育の開拓者となった。また、共立女子大学の創設者でもある。

制作者:堀進二。 1931年設置

矢野二郎像

村瀬春雄(1871-1924

東京高等商業学校の教授で、独自の保険学を確立するとともに、*申酉事件で文部大臣の説得に当たるなど母校の防衛に尽力した。また、1895年に帝国海上保険(現・損害保険ジャパン)副支配人に就任し、保険実務と学問を融合させ、日本の海上保険学の祖とされる 。

制作者:堀進二 1964年設置

*「申酉事件」とは

東京高等商業学校は専巧部を設置し大学への昇格を目指していたが、文部省は、東京帝国大学に経済・商業の学科を新設し、専巧部を事実上吸収する方針を決定し、同校の大学昇格を否定した。この決定に激しく反発、学生も総退学の意思を表明したため事態は紛糾した。結局、財界の大立者であり東京高商の商議員でもあった渋沢栄一が調停に乗り出し、文部省側が折れた。これにより、その後の大学への昇格への道が開かれることとなった。1908年から09年にかけての一連の事態を両年の干支である戊申および己酉をつないで「申酉事件」という。

村瀬春雄像

村瀬春雄像

佐野善作(1873-1952

初の生え抜き校長として、東京高等商業学校の発展及び大学昇格(1920年)に尽力した。とくに、1923年の関東大震災により神田にあった校舎が崩壊したため、西武の創業者・堤康次郎とともに、北多摩軍谷保村(現・国立市)に学園都市として開発し、1929年に校舎を移転し現在のキャンパスをつくった。また、佐野が校長を務める間に同窓会である「如水会」の設立等が行われた。 如水会の名称は、渋沢栄一が礼記にある「君子交淡如水」より付けられた。

制作者:堀進二。 1962年設置

佐野善作像

兼松講堂を見つめる佐野善作像

堀光亀(1876-1940

「商業大学必要論」を著わし、東京商業学校の商科大学昇格(1920年)に貢献した。また、日本で初めて海運学を創設した。

制作者:渡辺弘行(18911988、朝倉文夫に師事) 1941年設置

東本館横の堀光亀像

堀光亀像

ここに多くの像を制作している彫刻家・堀進二(1890-1978)は、東大本郷キャンパスにおいても、濱尾新、古市公威の銅像を制作している。また、「渋澤栄一翁像」1916(大正5)年、如水会蔵を制作している。ただし、オリジナルは戦時中の鉄材供出命令により失われており、現在の展示物は戦後原型より復元したレプリカ 。

(参照):

東京異空間159:東大・本郷キャンパスⅥ~学知の空間(2023/11/29

東京異空間50発祥の地~学士会館と如水会館(2021/12/26

渋澤栄一翁像・如水会館内

3.伊東忠太と妖怪たち

(1)伊東忠太(1867-1964)の略歴

伊東忠太は1867(慶應3)年、山形の米沢で生まれている。

幼い時から妖怪をみていた。「或る晩、母につき添われて便所へいくとき、不可思議な鳥など蛇などが見えた」と、そしてあれを捕らえてくださいとせがんで母を驚かし困らせた、と後年回想している。

また絵を描くことが生来好きで、生来は画家になりたいと夢見ていたが、父に「苟も男児たるものが国家の為につくす事を考えずに、美術家になろうとは腑甲斐ない料簡である」と、厳として反対されたという。

1878年には、父が佐倉の連隊付き軍医となったため千葉の佐倉に移り、小・中学校(現・佐倉高等学校)に入学している。

1892年、帝国大学工科大学 を卒業し大学院に進む。翌年、「法隆寺建築論」を発表 。

1902-05年にかけて、帝国大学助教授となり、 建築学研究のため3年間留学。中国、インド、トルコをまわり、欧米経由で帰国。東京帝国大学教授となる。

「潜龍」という署名のある若き忠太の作(首の角度など北斎を想わせる)

(2)伊東にとっての妖怪たちとは?

日本から東洋、さらに西洋とまわってきた伊東は、世界の建築と妖怪について次のように述べる。

「日本では建築に殆ど化け物を使はないが支那では盛んに使ふ。殊に屋根飾は化け物だらけである。印度には更に多い、殿堂の壁面に無数の化け物が彫刻されてゐるのがある。西洋では巴里のノートル・ダムの怪獣がよく知られてゐるが、あんなものはいふに足らぬ。」(「化けもの」1925年)と、日本、西洋よりも中国、インドといった東洋に軍配を上げる。それは建築様式も同様なのであろう。明治に入り、西洋化が進み、いっぽうで伝統的な日本様式が忘れられていく中で、そのどちらでもない、新たな様式=妖怪を創造(想像)していくことだといっているようだ。

そして、妖怪たちは、伊東忠太の分身として、建物に住まわせ、建物の様式などを語り、建物の使われ方を確かめ、その建物の将来までを見守っているかのようだ。

キャンパスに棲む妖怪たち














植物紋様も妖怪に見えてくる











(3)その他の妖怪たち

一橋大学キャンパス以外の伊東忠太の建築にみられる妖怪たちをあげておく。

東京慰霊堂(1930年)2019/10/16撮影






築地本願寺(1934年2019/9/21撮影




湯島聖堂(1935年2019/10/9撮影






(参考):

『伊東忠太を知っていますか』鈴木博之 編 王国社 2003

『東京人 特集 伊東忠太』 NO319 201212月号

『建築巨人 伊東忠太』読売新聞社 編 1993

『伊東忠太 動物園』藤森輝信 編・文 増田彰久 写真 筑摩書房 1995

4.国立駅

関東大震災後、一橋大学(旧東京商科大学・佐野善作校長の時)は、西武の創始者・堤康次郎が経営する箱根土地株式会社とともに、学園都市の建設を目指し、神田・一橋にあった校舎を、ここ北多摩郡谷保村(現・国立市)に移転した。なお、震災後の仮移設として、1924年から1933年までの間、練馬・石神井に予科を移転し、その後、1933年から予科は小平に、専門部が国立に移転した。現在、石神井には記念碑が残るのみだが、小平は国際関係のキャンパスとなっている。(いずれも、現在の西武線沿線である。)

この国立駅は、1926(大正15)年に開業した。名前は立川と国分寺の間にあることから「国立(くにたち)」と付けられた。駅舎は、箱根土地株式会社が建設し、当時の鉄道省に寄付したものである。設計者は、フランク・ロイド・ライトに師事した河野傳(つとむ)という人だという。赤い三角屋根に白い壁、正面には浴場窓という半円アーチ状の窓が付けられ、ロマネスク風のデザインとなっている。(解体され、2020年に再建されている)

旧国立駅

旧国立駅

国立にある一橋キャンパスに、伊東忠太による建物と、そこに棲む妖怪たちを観て来ましたが、ここには妖怪が100(頭、匹、妖怪の単位は何でしょうか?)以上も棲んでいるそうです。

よく見れば、まだまだ妖怪に出会えるかもしれません。また、機会があれば、探してみたいものです。

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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