2023年6月29日木曜日

東京異空間130:大名庭園を歩く7~ニューオータニ

 

ホテルニューオータニ

清水谷公園の向かい側にあるホテルニューオータニに行ってみました。ここには日本庭園が造られています。

1.大名庭園の沿革

江戸時代のはじめ、ここは加藤清正の下屋敷であったが、改易の後、彦根藩井伊家の中屋敷として使われた。明治になり、これまでの大名屋敷の一部は新たに京都から移ってくる宮家の邸宅となった。この地は伏見宮邸となり、邸宅は、宮内省内匠寮の技師片山東熊が設計を担当した。最盛期には洋館、和館のほか、土蔵・附属建物45棟、官舎13棟が並び立つ大規模なものであった。これらの建物はすべて戦災により焼失し、和館に面して設けられていた日本式庭園のみが遺構となった。しかし幼少期をこの邸で過ごした伏見博明は、その庭園も「ほとんど当時の名残りをとどめていませんよ。庭のなかで残っているのは、池だけです。あの滝とかはその当時ありませんでした。」と回想している。(『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』伏見博明 中央公論新社 2022年)

戦後、伏見宮家がここを手放すにあたり、外国人の手に渡ろうとしたのを、ホテルニューオータニ創業者である大谷米太郎が、「この由緒ある土地を外国に売り渡すのは惜しい」として 買い取って自邸とし荒れ果てた庭も改修した。

東京オリンピックをひかえて東京のホテル建設が急務となり、大谷米太郎が、ここに、ホテルニューオータニを建設した。

大谷米太郎(1881-1968)は、富山県に貧農の長男として生まれ、日雇い人夫などをしていたが、力自慢であることから大相撲の力士となった。幕下で引退し、酒屋、鉄鋼業などにより利益を得、戦前は鉄鋼王ともいわれた。戦後の一時期は朝鮮戦争による特需などにより億万長者となった。当初はホテル業は考えていなかったが、東京オリンピックの開催が決まった後、当時のオリンピック担当大臣の川島正次郎からホテル建設を頼まれて決意したという。

タワー

タワーとガーデンコート

ガーデンコート

大谷米太郎像・朝倉文夫作


2.ホテルニューオータニ庭園

庭園の見どころは、なんといっても落差6mの滝である。ホテルの部屋からも眺められるように造られている。滝の上には清泉池があり、赤い太鼓橋で渡ることができ、滝口も見ることができる。池には、加藤清正時代から残っているとされる大木の化石が松とともに据えられている。建物前には、佐渡の赤石などの庭石を配した枯山水を配している。園内には、大きな石灯籠や塔が多く据えられ、茶室も造られている。

ホテルの庭として、大滝、池、橋を見どころとした回遊式庭園が訪れる人を楽しませてくれる。




滝口

赤い太鼓橋

赤い太鼓橋

大木の化石

清泉池にはカモも

清泉池

赤石を配した枯山水

石灯籠と塔

かなりの高低差がある


大きな石灯籠


近江彦根藩井伊家屋敷跡の標識

ザ・メイン

彦根藩井伊家の屋敷であったニューオータニから尾張藩徳川家の敷地であった上智大学のある四谷のほうに向かって歩いていくと、高台から地下鉄丸ノ内線の電車が通るのが見えました。ここの部分は地下鉄ではなく「地上鉄」となっています。

江戸時代には、紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の大名屋敷があった「紀尾井町」で、大名庭園の面影を見ることは、難しいようですが、その歴史を垣間見ることはできたようです。

地下鉄丸ノ内線・四谷


東京異空間129:大名庭園を歩く6~清水谷公園

 

清水谷公園・心字池

地下鉄の赤坂見附で降りて、高速道路の下を通り、お濠にかかる弁慶橋を渡ると、かつて「赤プリ「と呼ばれた赤坂プリンスの跡に再開発された「東京ガーデンテラス紀尾井町」の建物が見えます。その横に清水谷公園があります。

1.大名庭園の沿革

清水谷公園のある紀尾井町は、その名の通り、江戸時代の紀伊藩、尾張藩、井伊家のそれぞれ屋敷があったところで、紀伊徳川家と井伊家の境から清水が湧き出していたことから「清水谷」と呼ばれた。

このあたり一帯は、清水谷公園のある彦根藩井伊家中屋敷跡は現在「ホテルニューオータニ東京」、紀伊藩徳川家上屋敷跡は「東京ガーデンテラス紀尾井町」、尾張藩徳川家中屋敷は「上智大学キャンパス」がそれぞれ建っている。 また、紀伊徳川家中屋敷の敷地は「迎賓館」、「赤坂御用地」となっている。

1878年(明治11)には、「維新の三傑」の一人、大久保利通が馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中に、この地で暗殺された。いわゆる「紀尾井坂の変」で、後に暗殺現場に大久保と親交のあった西村捨三、金井之恭、奈良原繁らによって「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられた。(この事件は紀尾井町清水谷で起きたにも関わらず「紀尾井坂の変」と呼ばれている。 )

1884年(明治17)には、北白川宮邸が、ジョサイア・コンドルによる設計で洋館が建てられた。その後、この跡地は朝鮮王朝の李王家に与えられ、英国チューダーゴシック様式の邸宅が建てられた。現在は、赤坂プリンス クラシックハウスとして利用されている。

1890年(明治23)に、この一帯の土地が東京市に寄贈されたのを受け、公園として整備され「清水谷公園」として開園した。

「贈右大臣大久保公哀悼碑」


2.清水谷公園

清水が湧き出たことから清水谷という名が付けられているが、いまは涸れて人工的に復元した心字池と呼ばれる池がある。近くには、やはり復元された清水井戸がある。

また、偕香苑という茶室が建っている。1984年(昭和59)に建てられ、のちに千代田区に寄贈されたものである。

清水谷公園・心字池

清水谷公園・心字池

偕香苑

清水の井戸


清水谷公園というと、庭園よりも、デモや集会の場所として知られていた。196070年代にかけて、学生たちがここに集まり、そのあと行進して機動隊と衝突したりした。シニアの世代には、こちらのイメージのほうが強く印象に残っていると思う。

いまは公園も整備され、手前の「赤プリ」といわれていた赤坂プリンスホテルの跡地は再開発され、東京ガーデンテラス紀尾井町としてオフィス、レジデンスの棟と、先に述べたクラシックハウスなどの複合施設となっている。

紀伊和歌山藩徳川屋敷の標識。赤坂付近

東京ガーデンテラス紀尾井町・パブリックアート


清水谷公園の向かいがホテル ニューオータニです、次にこちらの庭園を散策しました。

2023年6月28日水曜日

東京異空間128:大名庭園を歩く5~毛利庭園

 

毛利庭園・右はテレビ朝日本社

広尾の有栖川宮記念庭園から六本木ヒルズに向かいました。ここには毛利庭園が造られています。

1.大名庭園の沿革

六本木ヒルズの敷地は、江戸時代は長府藩毛利家の上屋敷であった。元禄15年の吉良邸討ち入り後に赤穂浪士10人が毛利家に預けられ、この地で切腹したという。また、のちに陸軍大将となる乃木希典が、長府藩上屋敷の侍屋敷に藩士・乃木希次の三男として生まれ(1849年)、幼年期をここで過ごした。 大正8年には、「乃木大将誕生地」として、旧跡指定を受けた。

明治になると、英吉利法律学校 (現・中央大学)の創始者、増島六一郎(1857-1948)が自邸として取得し、庭園を「芳暉園」と名付けた。

1952年(昭和27年)にはニッカウヰスキーの東京工場となり、1977年(昭和52)には、テレビ朝日が当地を取得した。

その後、2003年(平成15)に六本木ヒルズがオープンし、毛利庭園として整備された。池はニッカ池と通称されていたが、整備の際に、池などは保存のため地下に埋められ、その上に庭園が築かれた。

2.毛利庭園

六本木ヒルズは、高層オフィスビルである六本木ヒルズタワーを中心に集合住宅である六本木ヒルズレジデンス、ホテルであるグランドハイアット東京、テレビ朝日本社ビル、映画館のTOHOシネマなどの文化施設、商業施設で構成されている。毛利庭園は、テレビ朝日ビルの横に造られた。前述したように、ヒルズを整備した時に、それまでの庭園は保存するため地下に埋められたので、今の庭園は新しいものである。デベロッパーである森ビルの「森」と歴史的なこの地の「毛利」との語呂合わせから「毛利庭園」と名付けたという。

庭園は、ひょうたん池とも呼ばれる池を中心とした回遊式庭園となっていて、池には、金のハートが造られていて、現代風になっている。なお、庭石の一部には、大名庭園のものが使われているという。

六本木ヒルズアリーナ

六本木ヒルズタワー

毛利庭園

毛利庭園

毛利庭園・滝口

毛利庭園・池

六本木ヒルズにある毛利庭園は、江戸時代の大名庭園を思わせるものはありませんが、この地は、地形的にも高低差もあり、複合的なビルとともに現代的な庭園空間を形成しています。

東京異空間127:大名庭園を歩く4~有栖川宮記念公園

 

有栖川宮記念公園

大名庭園シリーズ4として、広尾にある有栖川宮記念公園に行ってきました。また、近くにある広尾稲荷神社で高橋由一の龍の天井画などもを観ることができました。

1.大名庭園の沿革

江戸時代には、盛岡南部藩の下屋敷であった。武蔵野台地の東部は、多数の谷が入り組んだ舌状台地を形成しているが、この地は、そのうちの一つで淀橋台と呼ばれる。その谷と湧水を活かした庭園が造られ、池の位置は現在と同じとされる。

1896年(明治29)に、有栖川宮が霞が関の御殿から移転することとなり、御用地となった。御用地は、有栖川家が断絶すると、高松宮に引き継がれたが、1934年(昭和9)に公園地として東京市に下賜され、開園した。

2.有栖川宮記念公園 

地下鉄広尾駅から、数分で有栖川宮公園の入口につく。ここから登りの台地となり、上には都立図書館があり、その前の広場には、3つの彫刻と、かつての庭石があちこちに置かれている。有栖川宮熾仁親王騎馬像は、明治36年に近代彫刻の先駆者である大熊氏広の作で、三宅坂にあった参謀本部前に設置されたが、道路拡張に伴い、ゆかりのあるこの公園に移設された。「ぼくは少年新聞や」という像は、朝倉響子(1925-2016)の作。広場の中心には舟越保武(1912-2002)の作である「笛吹き少年」が置かれている。

東側の台地から、低地に向かうと中心には大きな池がある。池には中島がつくられ、脇には金沢の兼六園にもあることじ灯籠が据えられている。

池の脇の道を六本木方面に上がっていくと、太鼓橋が架けられている。水面に映り丸く見える美しい橋である。さらに渓流に沿って登っていくと滝が落ちている。庭園は、こうした台地の高低差と湧水をうまく活かして造られている。

登り坂

有栖川宮熾仁親王騎馬像・大熊氏広作

「ぼくは少年新聞や」像・朝倉響子作

「笛吹き少年」・舟越保武作
池の中島、都内では唯一のことじ灯籠

池では釣りをする人も



太鼓橋(1934(昭和9年)に開園した際に設置したもの)

太鼓橋

太鼓橋・優雅な曲線


渓流

滝口

入口(三軒家口)

3.高橋由一の龍図と庚申塚

有栖川宮公園の広尾口とは反対側に少し行くと、広尾稲荷神社がある。ここの拝殿に龍の天井画が描かれている。描いたのは近代洋画家の先駆者である高橋由一(1828-1894)。由一が、本格的な油絵制作に取り組む以前の若い時代に、狩野派の様式を基礎とする水墨技法によって描いた数少ない現存作品の一つで1847年の作とされる。図中には、「藍川藤原孝経拝画」の署名と「藍川」の印章がある。「藍川」は、由一が、狩野派に入門している時期に使用していたもので、狩野藍川孝経の落款を残す現存作品は極めて稀であり、この点でも本図は貴重とされる。

広尾稲荷神社

広尾稲荷神社・本殿

天井画「龍図」・高橋由一作

「藍川藤原孝経拝画」の署名と「藍川」の印章

また、神社裏手の通り側には祠があり、3基の庚申塔が祀られている。3基のうち、中央には元禄3(1690)、左は元禄9年の年号があり、右は摩滅のため年代不詳だが左の2基よりも古い可能性があり、庚申信仰が全国的に盛行している時代の産物であるとされる。

3基の庚申塔

3基の庚申塔

広尾には多くの大使館もあり、外国人も多く住んでいる高級住宅街であります。江戸時代には「広尾原」とも呼ばれ、広大な野原で、百姓地の中に大名の下屋敷や旗本屋敷が点在していたそうです。広尾原は渋谷川が流れ、御鷹場でもあったといいます。そうした地形を活かし大名庭園が造られ、明治には皇族の邸宅庭園となりました。そうした時代の面影の一部を、この公園に、そして近くの広尾稲荷神社に見ることができました。

なお、広尾稲荷神社の前には、かつてNTTの研修センターがあり、何度か来た覚えがありますが、今は高級マンションとなっているようです。

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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