先に「東京異空間23:保谷に民族博物館があった」で見てきたように、「保谷民博」をつくるにあたって、渋沢敬三、高橋文太郎、今和次郎の三人が大きく貢献した。三人の男たちの博物館にかける「夢」とその活動を見てみよう。
祖父・渋沢栄一の像 |
保谷に民族学博物館「保谷民博」を建てることを牽引したのは、渋沢敬三の「博物館の夢」である。
渋沢敬三は、渋沢栄一の孫にあたり、経済人として、また文化人としても大いに活躍した人である。その活動範囲は幅広いが、ここでは敬三が抱いた「博物館の夢」とは、どのような夢なのか?どのように夢を実現しようとしたか?といったことについて、その生涯を追いながら見ていきたい。
1.アチックミューゼアム(屋根裏の博物館)
敬三は1896年(明治29年)に生まれ、少年時代から深川の渋沢邸にあった潮入りの池の魚を熱心に眺めるなど、魚、昆虫、化石などに熱中していたという。
仙台二高の進学にあたっては、生物学者を志して、農科を選択しようとした。しかし祖父・栄一から跡継ぎを期待され、農科を諦めるよう嘆願され英法科に入った。
その後、東京帝国大学経済学部に進み、卒業後、横浜正金銀行に入行した。
このころから、三田の綱町の渋沢邸の物置小屋の屋根裏に仲間とアチックミューゼアム(屋根裏の博物館)をつくり、最初は玩具を集めていたが、次第に「民具」をコレクションした。
明治以降、新たに財を成した実業人の多くは、茶の湯に親しみ、茶道具、書画骨董のコレクションをはじめ数寄者とよばれたが、渋沢栄一は茶の湯を嫌ったという。だからなのか、孫の敬三は、動植物や化石など、さらにダルマや凧などの玩具のコレクションに熱中し、アチックをつくってからは、「民具」という、いわばガラクタだが、庶民の生活用具を集めるようになった。
敬三は、アチックを立ち上げた時(1921年25才)、「人格的に平等にして而も職業に専攻に性格に相異つた人々の力の総和が数学的以上の価値を示す喜びを皆で共に味ひ度い。ティームワークのハーモニアスデヴェロープメントだ。自分の待望は実に是れであつた。」と、志を同じくする人々との共同研究に大きな意義を見出している。
アチックに集まった人たちは研究員というより、「同人」と呼ばれたことにも、その考えが反映されている。
また、アチックミューゼアムに集められた「民具」も、個人で持っているのではなく、公の学会に寄贈し、研究され、さらには国立の博物館として展示、公開されることをはじめから望んでいた。
そうした博物館の構想は、ヨーロッパで見てきた美術館、博物館の経験が大きいとされる。
2.博物館の夢
横浜正金銀行に入行後、ロンドン支店に勤務(1922年:26才)することになり、アチックの活動は休止したが、滞在中にはヨーロッパ各地の美術館、博物館を見て回った。とりわけデンマークのスカンセン野外博物館などに強く興味を持った、という。この経験が、「民族博物館」建設の夢につながっていった。
当時植民地であった台北の博物館を見た後(1926年:29才)で、建物は小さく、中身も不十分だと批評したうえで、次のように博物館建設の強い意志を述べている。
「およそ、博物館は御申し訳や虚栄心で建てるべき筋合いのものでない。その国民全般の学問に対する真摯な尊敬こそ、博物館建設ならびにその利用の真の原動力であらねばならぬ。」
さらに続けて、
「翻って我が東京市を省みる時、甚だ以て恥入らざるを得ぬ。わが国民の手にて世界人類に対して少しは貢献したと云ってよいくらいの博物館の建つときは果たして何時であろうか・・・国民はこの点に関して百年河清を待つべきでない」
ここには、当時のナショナリズムの高まりを背景にしているとしても、学問に対する真摯な尊敬を原動力として博物館をつくりることが、世界人類への貢献につながるという強い信念を表明している。
博物館を国民の手でつくるという夢の実現のため、皇紀二千六百年記念事業として国立の民族博物館をつくることを提案したのは、1936年、敬三は40才の時、第一銀行の常務取締役であった。
こうした強い信念が、前回にアップした「保谷民博」をつくることの原動力となった。しかし、望んだような国立の民族博物館は実現せず、土地も建物も構想の半分以下となり、バラックの建物にアチックの民具等のコレクションを移管した私設の博物館となった。
後年、敬三は、この「保谷民博」の結末を「一場の夢と相成候」といっている。しかし、自らの「民族学」を実現する装置が博物館であり、晩年に至るまで、博物館に対して強い思いを持ち続けていた。
4.見果てぬ夢
民族博物館以外にも、渋沢が構想した博物館は実現はしなかったものも含めいくつもある。
(1)「日本実業史博物館」:
1933年、37才のとき、祖父栄一の生誕百年を記念し、その威徳を顕彰するとともに近世経済史を展望することを目的とする博物館を提唱し、渋沢邸のある飛鳥山に建設するよう実行に移す。しかし、戦時経済統制の強まり等により竣工には至らなかった。その後も「日本実業史博物館」の名称により、その設立に向け資料の収集および展示・収蔵のための施設の設置場所の模索が続けられたが、ついに実現されることはなかった。
(2)「延喜式博物館」:
敬三は、漁民の生活の研究テーマとして、魚名の方言の収集と整理を行い『祭魚洞雑録』(1933年37才)及び『日本魚名収攬』を出版する。また、西伊豆の三津浜に静養中に膨大な漁民の古文書資料を見つけ、それを整理し『豆州内浦漁民史料』として出版するなど、漁民の民俗について研究を進めている(1932年36才)。
その研究過程において、「延喜式」は、水産物に関するデータが豊富に含まれるだけでなく、古代の生活文化の百科辞典ともいえる、古代日本を理解するうえで重要な文献であるとして、「延喜式博物館」の建設を思い描いたが、亡くなるまで、ついに具体的な形になるものがほとんど何もないまま「見果てぬ夢」になった。
敬三は、第一銀行常務から、副頭取(1941年:46才)、日本銀行副総裁(1942年46才)、日銀総裁(1944年48才)となっている時期であった。
(3)「貨幣博物館」:
渋沢は日銀副総裁となると、、田中啓文が50年かけて集めた貨幣コレクション「貨幣館」を譲り受けた(1942年46才)。これが今日の日本銀行貨幣博物館となっている。
(4)「十和田科学博物館」:
戦後になると、渋沢家の執事だった杉本行雄の要請に応え、「古牧温泉」の敷地内につくった博物館である(1953年57才)。
(5)「小川原湖博物館」:
こちらも杉本行雄の要請により、温泉施設内の展示施設として南部地方の民俗資料を展示していた。(1961年65才)
渋沢栄一が開拓した青森の渋沢農場にあったこの二つの博物館は、いずれも現在は廃館となっている。
(6)日本モンキーセンター:
名古屋鉄道が経営する日本モンキーパークの一部を公益化し、名古屋市犬山に創設され、今西錦司らによって京大の霊長類研究の拠点となった。敬三自身が申年であったこともあり、設立に支援し会長に就任している。(1956年60才)。
(7)日本民家集落博物館:
大阪豊中市の公園に飛騨白川郷の民家など14棟が移築された野外博物館、1956年(昭和31)開設。日本で初めて実現した野外博物館とされる。敬三は設立にあたっては顧問に就任し、資金を得るため、財界への寄付協力依頼に努めたほか、開館以降は理事として活動を支援している。
この先駆けとして「保谷民博」に今和次郎の設計により、野外博物館がつくられたが、敬三らが夢見たデンマークのスカンセン野外博物館のような「くらしをそのまま再現した民家」はいまだに実現していない。
(8)その他の博物館設立運動
皇紀二千六百年記念事業は、すでにみたようにオリンピックと万博の開催を祝賀事業の柱としていた。それにあわせ、地方を含め約20の博物館の設立運動があったが、実現したものは少なかった。
その中で実現し、現在もある博物館としては、大和国史館(現・奈良県立橿原考古学研究所付属博物館)、長崎市立博物館、神戸市立森林植物園がある。
さらに戦時体制が進むと、祝賀事業の柱として「大東亜博物館」「国史館」の設立構想が具体化していったが、いずれも敗戦により実現するには至らなかった。
敬三は、大東亜博物館設立準備委員会に名を連ねている。1944年(昭和19年)
戦後になると、国史館の設立運動が復活し、また国立民俗博物館設立運動が起こり、衆議院に要望書を提出している。1953年(昭和28年)
さらに明治百年記念事業(1968年昭和43年に迎える)を契機として、中央は国立として、地方は県立として博物館が20を超える数で建てられた。
こうした博物館設立の歴史の中、「保谷民博」を引き継いだ「国立民俗博物館」が万博跡地にできたのは、渋沢が亡くなって約10年後の1977年のことであった。
また国史館は、紆余曲折を経て、「国立歴史民俗博物館」として千葉・佐倉に建設された。(1983年昭和58年)
5.経済人として
渋沢敬三は、日銀総裁から戦後は、幣原内閣の大蔵大臣になり、敗戦後の経済政策の推進にあたる(1945年49才)。
敬三が生涯かかわった組織の肩書は300を超えるという。その中で、国際電電(株)の初代社長となっている1953年(57才)。ちなみに電電公社の初代総裁は梶井剛であった。
経済人としては、戦前はバンカーとして横浜正金銀行、第一銀行、さらには日本銀行で活躍する一方で、少年のころからの生物学者への夢を、自らの民族学の研究にそそぐとともに、多くの資料を刊行して学界に貢献すること、研究者の仕事を援助・実眼することを使命として持ち続けた。そうした学問と実業を結びつける使命がパトロンとしての行動であり、そのオーガナイザーとしての具体化が「博物館」であったといえよう。敬三は、1963年67才で亡くなったが、その「博物館の夢」は、果てしなき夢として、今も生きている。
日本銀行 |
6.旧渋沢邸の東京へ再移築
敬三が遊んだ深川の渋沢邸、その後三田綱町に移転し、敬三が物置の屋根裏につくったアチックミューゼアムがあった旧渋沢邸は、清水建設の手になるものであった。(ちなみに「保谷民博」の跡地も清水建設の社宅であった。)
この度、清水建設は、旧渋沢邸は清水組二代目当主である清水喜助が手掛けた、唯一現存する建築作品であることから、青森県六戸町に移築されていた旧渋沢邸を譲り受け、江東区に建設するイノベーションセンターに再移築し、歴史資料展示施設として活用するとしている(2022年完成予定)。
また、渋沢栄一は、その肖像が新一万円札の顔になることが決まっている(2024年)。
孫、敬三の業績をみると、つぎの新・新札のときには顔となってもいいのではないか、と勝手な想像をしてしまう。
敬三の定宿「松濤館」から西伊豆の三津浜を望む |
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