2021年1月18日月曜日

東京異空間34:永青文庫・細川庭園と亮朝院

 

ツワブキ

永青文庫で開かれていた「美術の殿様」展を観に行った。その後、隣接している「肥後細川庭園」を回って、高田馬場に向かった。途中、面影橋辺りから坂を上がったところに、「亮朝院」という日蓮宗の寺院があった。

 

1.永青文庫

永青文庫は、細川家に伝来する美術品や刀剣、歴史資料などを所蔵・展示する美術館である。ここで「美術の殿様」展として、所蔵する名品が展示された。中でも興味があったのは白隠の禅画と近代日本画の菱田春草の「黒き猫」である。「黒き猫」は、春草の代表作として良く知られている作品で、柏の落ち葉が散る中、その幹に黒い猫が座って、じっとこちらを見つめている、不思議な秋の景色を描いている画である。(重文になっている)

 

入口で、どういうことか、そんな黒い猫がいて、こちらをじっと見ていた。招かれるように美術館に入っていった。

菱田春草「黒き猫

永青文庫の黒き猫

永青文庫は、細川家の広い屋敷跡の一角に建てられており、現在の建物は細川侯爵家の家政所として昭和初期に建てられたものだという。その部屋がそれぞれ展示室となっていて、お殿様気分?で名品を見ることができる。

永青文庫

永青文庫・石門
永青文庫


2.肥後細川庭園

永青文庫に隣接して肥後細川庭園があり、近年、改修整備され公開されている。

庭園は池泉回遊式庭園になっており、行った頃はツワブキの黄色い花が池の周りに咲いていた。ゆっくりと散策するには絶好の場所だ。

 

このあたりは、江戸中期以降は旗本の邸地になり、江戸末期には清水家や一橋家の下屋敷であった。そして幕末には肥後の細川侯の下屋敷に、明治には細川家の本邸となったところだという。

 

訪れたときには、まだ紅葉には早かったが、秋が深まると、池の周りのモミジやハゼノキが真っ赤に紅葉し、その姿を水面に映し出すという。また庭園の横には神田川が流れていて、春になると、桜の並木が川面に映り、花が散れば花筏となって流れていくのを見ることができる。肥後の殿様も、そんな景色を楽しんだのだろうか。

ツワブキ



肥後細川庭園







肥後細川庭園

シュウメイギク


ナンテン



肥後細川庭園入口

3.亮朝院

細川庭園を出て、神田川を渡り高田馬場に向かうと、面影橋あたりに路面電車が走っている。都内唯一の路面電車「都電荒川線」で、早稲田から三ノ輪橋間を走っている。まだ乗ったことはないが、一度乗ってみたいと思っている。

そこから坂を上がっていくと山門に「如意山」という扁額が掲げられたお寺が見えた。中に入ってみると、ちょっと変わった顔した狛犬、そして両脇には一対の仁王像・石像がある。本殿には「七面大明神」とある。なかなか由緒あるお寺なんだろう、と思って、帰ってから調べてみた。

 

寺の名は、正式には「如意山亮朝院栄亮寺」といい、日蓮宗の寺院で、江戸時代に、この地に建てられた。江戸名所絵図には「高田七面堂」として載っていて、一般には「赤門寺」と呼ばれ七面信仰が江戸に進出した嚆矢の寺だという。

 

七面信仰は、日蓮が開いた身延山久遠寺の守護神として、また法華経を守護するという七面大明神を祀る七面山を本地とする信仰である。


亮朝院は、七面大明神の御祈祷所として江戸城大奥と深く結びついて信仰を広めていったという。

その、江戸城大奥女性と七面大明神との信仰的な結びつき、家康の側室養珠院お万の方が女人禁制であった七面山を初めて踏み分けたことに端を発する


お万の方は女人成仏が説かれる法華経の熱心な信徒で、法華経の守護神である七面山へ、当時はまだ女人禁制であったこの山へ初めて登詣した女性であった。

お万の方は、日蓮が誕生した小湊に近い千葉・勝浦の生まれで、熱心な日蓮宗の信者であったので、浄土宗である家康に対しても筋を通したという勇気ある女性だったようだ。


お万の方の強い七面信仰をはじめとして、日蓮宗の僧による病気平癒、延命息災などの現世利益の加持祈祷により、七面大明神の霊験は大奥の女性たちに広まり、七面大明神のお守り、護符等が大奥女性に注文されたという。


こうして江戸城大奥女性の信仰が広がるなか、亮朝院は大奥の老女近江局を通じることによって、三代将軍家光以来、代々将軍家の武運長久の祈願所となり、元禄14年15年と2回にわたり桂昌院(綱吉の母)の参詣を得る五度に興隆したという。


亮朝院は、こうした将軍家との密接な関係を強調するとともに、現実的な願いを充たしてくれる守護神として七面大明神霊性と御利益広く一般庶民にも説いたので、七面信仰が江戸に広まったという。

 

ふと立ち寄った寺院、亮朝院について調べてみると、江戸の大奥の女性や、庶民への信仰が広がっていた歴史を垣間見ることができた。

都電荒川線

「如意山亮朝院栄亮寺」

亮朝院・狛犬と仁王像

狛犬

狛犬

仁王像・石像

仁王像・石像

亮朝院・本堂

亮朝院・龍神

亮朝院・鐘楼

目白台の肥後の殿様の屋敷には秋を見つめる黒猫がいて、そこから神田川をわたると、亮朝院の狛犬と仁王様が遠く江戸の世界を見つめる「東京異空間」があった。

シュウメイギク


2021年1月16日土曜日

東京異空間33:二つの禅寺~泉岳寺・東禅寺

泉岳寺・赤穂義士記念館

東禅寺・三重塔

品川にある二つの禅寺を訪ねた。一つは赤穂浪士の墓のあることで知られる泉岳寺。もうひとつはイギリス公使館宿のあった東禅寺、こちらは知る人ぞ知るというところか。

1.泉岳寺

泉岳寺は、曹洞宗の寺院である。浅野家の菩提寺であったことから赤穂浪士四十七士の墓があり、いまでもお線香をあげる人が絶えない。

中門をくぐると、右手に大きな像が立っている。大石内蔵助良雄の銅像である。つづく山門には「泉岳寺」と白く書かれたの扁額が掛けられている。そして正面が本堂である。左手に回ると、「首洗い井戸」との看板がある。吉良上野介の首級をこの井戸で洗い、主君・浅野内匠頭の墓前に供え、本懐成就を報告したところだという。さらに進むと、義士墓入口の門がある。この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門であったものを明治時代に移築したものだという。中には、浅野内匠頭の墓、大石内蔵助の墓をはじめ、赤穂浪士の墓があり、お線香の煙があたり一帯に漂っている。

 

大石内蔵助の墓標に刻まれていることを書き写してみると、

 

浅野内匠頭家来大石内蔵助良雄

忠誠院刃空浄劔居士

元禄十六癸末歳二月四日行年四十五逝

 

とあり、戒名に「忠誠」が入り、「刃」と「劔」の両方の文字が入っていることがわかる。また45歳で逝ったことも。元禄16年は1703年である。

 

墓地を下っていくと、「赤穂義士記念館」という立派な建物がある。その入口に「義」の文字が掲げられている。

「義」とは、人としてふみ行うべき道、利欲を捨て、道理にしたがって行動すること、と辞書にある。

元禄から約150年後の幕末になると、尊王攘夷論が展開され、「大義」に基づく行動として、動乱を引き起こすとともに、明治維新という大きな政治的・社会的革新を求める運動となった。そうした幕末に引き起こされた事件があったのが、次の東慶寺である。

 

なお、泉岳寺には、僧侶の養成所である学寮があり、吉祥寺・旃檀林学寮、青松寺・獅子窟学寮と統合して、いまの駒澤大学に発展した。

泉岳寺・中門


泉岳寺・大石内蔵助銅像

泉岳寺・山門

泉岳寺・山門

泉岳寺・山門から本堂

泉岳寺・山門から本堂

泉岳寺・山門

泉岳寺・本堂

泉岳寺・本堂

泉岳寺・本堂

泉岳寺・本堂

泉岳寺・首洗い井戸

泉岳寺・首洗い井戸

泉岳寺・義士墓入口

泉岳寺・浅野家墓

泉岳寺・浅野内匠頭の墓

泉岳寺・大石内蔵助の墓

泉岳寺・義士たちの墓

泉岳寺・赤穂義士記念館

2.東禅寺

東禅寺は、臨済宗妙心寺派の寺院である。泉岳寺の近くにあるが、こちらは訪れる人が少ない。そもそも、このお寺は非公開となっていて、山門をくぐって静寂な参道をとおり本堂前まで行っても、ひっそりとしている。しかし、本堂の横には三重塔が建つなど立派なお寺である。

ここを「知る人ぞ知る」と、言ったのは、維新の時にここに仮のイギリス公使館が置かれ、そこを襲撃する「東禅寺事件」が起きたという歴史を知る人は知っているだろう、ということからだ。


山門の入口には「イギリス公使宿館跡」という石碑が立っている。

ペリー来航により開国した幕府はイギリス公使館を、東禅寺に仮の場所としておいた。この時代、タウゼント・ハリスの米国領事館が置かれた下田もそうであったが、公的な広い建物として寺院を間借りすることが多かった。ちなみに仮公使館は、アメリカが麻布の善福寺、フランスが三田の済海寺、オランダが芝の西応寺と、それぞれの寺院に置かれた。


ここ東禅寺に置かれたイギリス公使宿館が襲撃された事件が「東禅寺事件」といわれる。それも2度も、一回目は1861年は水戸藩の浪士によって、二回目は松本藩士によって行われた。

 

第一次東禅寺事件(1861年)は、イギリス公使オルコックが、長崎から江戸に移動するにあたり、陸路を通ったということに、尊王攘夷派の志士たちは「異的である外人男子に神州日本が穢された」と憤慨し、公使オールコックらを殺害しようと襲撃した事件である。

浪士たちは、この襲撃の「斬奸趣意書」を懐中しており、それには「今度尊攘の大義に基き決心仕候事に御座候」と、大義のために実行したとある。因みに「義」の反対語が「奸」であり、正道を犯す、邪悪な人、という意味がある。

 

第二次東禅寺事件(1862年)は、松本藩士によって起こされた。藩士の伊藤軍平衛は、この東禅寺警備に自分の藩が多くの人手だけでなく多くの出費を強いられていることを憂いていた。そして再び浪士による襲撃を受けることがあれば、外国人のために日本人同士が殺し合わなければいけない、ならば公使を自ら殺害して、松本藩が東禅寺警備を解任されるようにしようと考えた。第一次事件からちょうど一年後、公使であったジョン・ニールの寝室に侵入したが警備のイギリス人に見つかり乱闘となり、自らも負傷し、自刃してしまった。その遺書には、次のような趣旨が書かれていたという。

国中のため御藩主様の御ためと存じ、異人を討ち取とうと思い狙っていたところ、四方神力の恵みにより、首尾よろしく討ち取ることができました。

御家においては、汚らわしい御勤めをしては、恐れながら第一に御先祖様へ御不忠になるのではないでしょうか。

ここにも藩への忠義、あるいは先祖への忠義の精神が語られている。その行動の正しさは神の力も借りることができた、と強調している。

 

 

イギリス人に対する襲撃事件は、このあと、神奈川の生麦村で、江戸から薩摩へ帰る途中の島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件(1862年)が起こる。

こうした度重なる攘夷派による襲撃事件に対してイギリスをはじめとする諸外国は、それまでの寺院を間借りしたものと異なる公使館の建設を幕府に要望。幕府は、品川・御殿山に攘夷派の襲撃に備えた構造をもつ公使館の建設を決定していた

そこに、ほぼ完成していたイギリス公使館が焼き討ちされされる(1863年)。メンバーは高杉晋作を隊長、久坂玄瑞を副隊長とする13人の長州藩士。その中には明治政府において活躍する井上馨、伊藤博文、品川弥二郎など吉田松陰の教えを受けた若い藩士がいた。

 

ここに挙げたイギリス人への襲撃だけでも、このように何度もあり、しかも水戸藩、松本藩、薩摩藩、長州藩と、各地の藩士が、忠義を掲げて行動した。こうした藩に対する「義」が集約され、倒幕の、そして維新へのエネルギーとなったといえるだろう。

しかし、先祖に対する、また藩主に対する「義」は、しだいに国家に対しての、そして天皇に対しての「大義」となり、多くの若者が死んでいった、戦争という不幸な歴史をたどったことも忘れてはならないだろう。

 

二つの禅宗寺院には、それぞれの歴史にふれ、「義」とは何かをあらためて考えることができた「東京異空間」があった。

東禅寺・イギリス公使宿館跡

東禅寺・山門

東禅寺・山門・仁王像

東禅寺・山門・仁王像

東禅寺・参道

東禅寺・鐘楼

東禅寺・三重塔

東禅寺・本堂

東禅寺・本堂の瓦屋根





東禅寺・三重塔

東禅寺・三重塔

東禅寺・観音菩薩像


東禅寺・三重塔

 

それにしても、東禅寺のイギリス大使宿館であった建物「僊源亭(せんげんてい)や池泉回遊式庭園は、ほぼ当時のまま残っているということだが、残念ながら非公開となっていて見ることはできない。(東禅寺の公式HPもないようだ)

また、品川・御殿山に建てられたというイギリス公使館が焼失せずに残っていれば、江戸作事方大棟梁により、当時日本で手に入る最良の材料を使い、伝統的木造工法で建てられた最初の西洋風建築として、美しい姿を見ることができただろう。「歴史にifはない」というが。

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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