2023年11月29日水曜日

東京異空間159:東大・本郷キャンパスⅥ~学知の空間

 

ジョサイア・コンドル像

これまで、本郷キャンパスの建物、内田ゴシックからモダニズム建築、現代建築などを観て来ましたが、キャンパスには三四郎池(育徳園)以外にも、銀杏並木やケヤキ、クスノキなどの大樹があり、また銅像やモニュメントなど学知の空間が広がっています。

1.博物館

(1)学術標本

総合研究博物館は、香山壽夫の設計により1984年にできた。ここには大学創成期を含めた学術標本が収められ、現在では約300万点を超える数に達しているという。常設展のほか特別展ともに一般に公開されている。植物、鉱物、動物、魚類、人類、医学などあらゆる分野の学術標本が詰まっている。中に入ると、大きな牛やニワトリの剥製など、びっくりするような標本もあり、興味が尽きない。

ここ本郷の本館のほかに、小石川分館、インターメディアテク(JPタワー)にも博物展示がされている。

総合研究博物館・香山壽夫の設計

三彩鬼瓦

龍頭形装瓦器

ニワトリの剥製・左右の足の色が異なる突然変異個体

馬・牛の剥製





(2)モニュメント

キャンパスには色々なモニュメントが置かれている。博物館の入り口付近には、伝アインシュタインのエレベーター、沖ノ鳥島のサンゴ礁の岩塊、建物の柱頭部分など、不思議なものが転がっている。アインシュタインのエレベーターとは、1922年にアインシュタインが来日し、東大で特別講義をしたときにこのエレベーターに乗ったということから名付けられている。しかし、エレベーターが設置されたのは1924年ということで、あくまでも伝承ということのようだ。

沖ノ鳥島のサンゴ礁は、2007年に国土交通省が採取し、調査を行った後、東京大学総合研究博物館に寄贈されたものだという。

東洋文化研究所の建物の入り口には2頭の獅子が構えている。東洋文化研究所は、東洋文化を綜合的に研究する研究所として1941年に設置された 。

工学部1号館前の広場に置かれているケースに入ったペンシルロケット。このペンシルロケットは、東大生産技術研究所の糸川英夫教授が中心となって開発した全長23㎝の小さなロケットで1955年に発射された。糸川英夫(1912-1999)は日本の宇宙開発・ロケット開発の父と呼ばれる。

またその横にある「おおすみ」は、1970年に東京大学宇宙航空研究所が鹿児島の大隅半島で打ち上げた日本最初の人工衛星である。この成功で、日本は、ソ連、アメリカ、フランスに次ぐ4番目の人工衛星打ち上げ国となった。

伝アインシュタインのエレベーター

沖ノ鳥島のサンゴ礁の岩塊

建物の柱頭部分

建物の柱頭部分

建物の柱頭部分

明治に造られた医学部薬局のレンガ積みの基礎

東洋文化研究所・入口に2頭の獅子

東洋文化研究所入口・獅子

ペンシルロケット・糸川英夫

人工衛星「おおすみ」

(3)マンホール

明治19年に帝国大学令が出され「帝国大学」となった。その後、明治30年に京都にも大学が設置されると、「東京帝国大学」と称するようになる。戦後は「帝国」という言葉が消滅し、「東京大学」となるものの、マンホールの蓋に帝国大学の文字が残る。

「東京帝国大学」のマンホール


「東京帝国大学」のマンホール

2.銅像

本郷キャンパスには15体ほどの銅像があるという。そのうちの8体を観てきた。『銅像時代』という著作もある木下直之は、銅像の大きさを知る手っ取り早い方法を書いている。それは足(靴)の寸法を測ることだという。濱尾新が60.5センチ、古市公威は45センチ、コンドルは39センチで、濱尾新像がキャンパス内では一番大きいことになるという。

(1)濱尾新(1849-1925

明治26年に帝国大学の第3代総長に就任する。その後、入閣して文部大臣を務め、再び、明治38年に東京帝国大学の第8代総長となり、以後7年間総長職を務めた。正門のデザインや銀杏並木、大講堂に至る施設の配置は濱尾新のアイデアが反映されたものといわれている。

銅像は、没後7年目の1932年に建立。ソファーに腰をかけ、足を組んでリラックスした姿は古市公威像も手がけた堀進二の手によるもの。安田講堂と三四郎池の間の道に面して、安田講堂を見つめるように置かれている。

建立:1932年。制作:堀進二

堀 進二(ほり しんじ1890-1978)は、新海竹次郎に師事する。1928年(昭和3年)より、東京帝国大学工学部建築科の講師を依頼され、1946年まで勤めている。

濱尾新像

濱尾新像

濱尾新像

(2)古市公威(ふるいちこうい 1854-1934

新政府派遣の海外留学生としてフランスに渡り、欧州の進んだ土木・工学を学んで帰国。内務省の技師として職務に就くかたわら、東大講師として教鞭を執る。後に工科大学の初代学長に就任。日本初の工学博士でもある。

堀進二製作による像は、杖を持ちソファーに腰をかけた姿を描いており、穏やかな表情が印象的である。正門を入って左、工学部11号館横に置かれている。

建立:1937年。製作:堀進二

古市公威像

古市公威像


(3)山川健次郎(1854-1931

明治維新後に国費留学生に選抜されて渡米。エール大学で物理学を学び、学位を得て帰国。東京大学設立後は、外国人教授の助手を経て、明治12年(1879)に日本人初の物理学教授となる。明治21年には東大初の理学博士号を得るなど、物理学の普及と後進育成に尽力した。明治34年(1901年)から大正91920)年まで東京帝国大学総長を務め、総長の在任期間は合計1111か月に及び歴代総長の最長在任期間である。
胸像は昭和5年(1930)の製作で、曾孫から大学に寄贈され、台座を新造して安田講堂の真裏(理学部1号館前)に設置された。

山川健次郎像


(4)隈川宗雄(1858-1918
隈川宗雄(くまがわむねお)は、明治16年(1882)に東大医学部を卒業。翌年から6年間ドイツのベルリン大学に留学し、帰国後は帝国大学医科大学教授として生化学などを担当した。
銅像は、医学部総合中央間(図書館)と医学部2号館に挟まれた道沿いに設置されている。

製作:朝倉文夫

川宗雄像


(5)ジョサイア・コンドル(1852-1920

日本政府の招きを受けて明治10年(1877)に来日。日本では工部大学校などで教鞭を執った後に建築事務所を開いて数多くの建築物を手がけるとともに、日本の建築家を育てたことから「日本の西洋建築の父」と呼ばれる。

銅像は、没後2年の大正11年(1922)に、長年の功績を称えて製作が決定し、翌年除幕されました。製作は新海竹太郎で、台座には男女2体の邪鬼(?)も描かれている。台座に彫られた邪鬼から妖怪好きな伊東忠太の設計とも言われているが、これも「伝」が付くようだ。

建立:1922年。製作:新海竹太郎

新海 竹太郎(1868-1927)は、仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、1888年近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが、手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官だった北白川宮能久の薦めもあり、彫刻家志望に転じた 。高村光雲のもとで助手を務めた。朝倉文夫、中原悌二郎、堀進二など多くのすぐれた彫刻家を育てた。甥の新海竹蔵も彫刻家として、医学部の建物の壁のレリーフを制作している。

なお、北の丸公園前にある北白川宮能久親王騎馬像(1903年) を制作している。

ジョサイア・コンドル像

ジョサイア・コンドル像

ジョサイア・コンドル像

ジョサイア・コンドル像・台座

ジョサイア・コンドル像・台座・邪気?

ジョサイア・コンドル像・台座・邪気?


(6)C.D.ウェスト(1849-1913

日本政府の招きで明治15年(1882)に来日。工部大学校講師として機械工学、造船学を教えた。日本においては、産業の根幹となる機械工業の発展と同時に造船と海運の近代化もまた急務であり、チャールズ・ウェストの教壇で学んだ学生の多くがこれらの分野に巣立ち、その近代化に邁進した。 台座には、こうした機械工業、造船などを表わすデザインが4面に渡り施されている。

製作:沼田一雅

沼田 一雅(ぬまた かずまさ1873-1954)は、竹内久一に彫刻を学び、渡仏しセーヴル陶磁器彫刻の研究を行う。

C.D.ウェスト像

ウェスト像・台座

ウェスト像・台座

ウェスト像・台座

ウェスト像・台座


(7)ベルツ(1849-1913)とスクリバ(1848-1905

ベルツは、ドイツ人の医師・医学者で、1876年に来日。最初は東京医学校で生理学と薬物学を教えたが、翌年の東京大学医学部発足に伴って内科学の教壇に立つ。当時の医学教育は、まだ日本人教授が足りなかったため外国人教授に期待するところが大きく、ベルツは産婦人科学まで任されていたという。

スクリバは、やはりドイツの医学者で、1881年から東京大学医学部で外科の教鞭を執った(眼科・皮膚科も担当)。ベルツ同様、当時、日本人教授が不足していた状況で外科教育の発展に残した功績は大きく、退職後は聖路加病院の外科主任も務めた。
銅像は、1907年に日本医学界への貢献を称えて建立された。ベンツ像・スクリバ像ともに台座を備えた胸像で、ほぼ同時期に東大に在籍し教壇に立った2人の像は、並んで御殿下グラウンド脇に設置され附属病院棟を見て座っている。像の解説文には「内科学外科学を教授指導しわが国近代医学の真の基礎を築いた恩人」とある。

建立:1907年。製作:長沼守敬

長沼守敬(1875-1942)は、維新後のイタリア公使館に勤務し、留学のためイタリアに渡り彫刻を学ぶ。東京美術学校で西洋彫刻学の初代教授となった。胸像など日本における近代的な新しい彫刻を生み出し、多くの作品を制作した。

ベルツとスクリバ

ベルツとスクリバ

ベルツとスクリバ

ベルツ

スクリバ


(8)レオポルド・ミュルレル(1824-1893) (18241893) (18241893

ミュルレル はドイツ陸軍軍医で、日本の医学教育の整備とドイツ式医学の普及に大きな影響を与えた。明治4年(1871)に、来日し、解剖学・外科学・眼科・婦人科などを担当した。当時の日本の医学は漢方から西洋医学へと大きく舵を切り始めた頃で、大学教育に先進のドイツ医学の教育を根付かせた功績は大きかったといわれている。
銅像は、ピッケルハウベを被ったドイツ(プロイセン)伝統の軍服姿の胸像で、薬学部の東側の木立の中に置かれている。

建立:1895年。製作:藤田文蔵

藤田文蔵(18611934 )は、明治9年(1876)工部美術学校に入学し,ラグーザに彫刻をまなび、肖像彫刻で知られる。,ラグーザは、工部美術学校の彫刻教師として1875年に迎えられ,本格的な洋風彫塑を初めて伝える。その門下からは大熊氏広(1856‐1934),藤田文蔵(1861‐1934)などが育った。

ミュルレル

ミュルレル


(9)梅謙次郎(1860-1910

銅像ではないが、梅謙次郎の植樹碑が、福武ホールの手前に置かれている。梅謙次郎は、東京帝国大学法科大学長を務めるとともに、和仏法律学校(現・法政大学)の設立、発展に尽力した。民法・商法の起草委員となり,法典整備にも功績を残した。

碑文には、明治44年に博士が生前愛したという木斛(モッコク)を植えたが、関東大震災等により幾たびか枯れるなどしたため、石碑と梅の木とともに、平成22年に新たに木斛(モッコク)が植えられたとある。

梅謙次郎・植樹碑

梅謙次郎・石碑と後ろに木斛(モッコク)


(参考)

TOKYO銅像マップ 東京大学構内

https://rekigun.net/original/travel/statue/statue-08.html


3.大樹・銀杏並木

キャンパスの銀杏並木はよく知られているが、他にもケヤキやクスノキなどの大樹も多くみられる。建物を区切る広場と銀杏並木、また大樹のもとで憩う学生たちの姿が見られる。

(1)銀杏並木

銀杏並木は、東大を象徴するような木でもある。イチョウは校章にもなっている。作家・橋本治の「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」 というコピーは、東大紛争のさなか、駒場祭のポスターとなった。

本郷キャンパスの正門、赤門から続く銀杏並木は、内田ゴシックの建物群の間を真直ぐに貫き、それぞれ安田講堂、そして医学部本館へと続く。

イチョウは、街路樹としてもよく使われた。それというのも葉が厚く、水分を蓄えるため、防火に役立つということからだ。関東大震災を経験した当時の総長・濱尾新がイチョウの並木を提言したのも、そうした理由からだろう。

銀杏並木

銀杏並木(赤門から医学部本館へ)

銀杏並木

銀杏並木

銀杏並木・正門から大講堂へ

銀杏並木


(2)けやき・楠

ケヤキ並木は、工学部と法文館の間を通っている。広場の横には大樹が立っている。安田講堂前の広場の前にはクスノキが、七徳徳堂の前にも、大きく枝を広げたクスノキが立っている。総合図書館の前にはヒマラヤスギだろうか。工学部広場にはイチョウとケヤキの大樹がある。医学部本部の横にもケヤキの大樹。こうした大樹の下で、学生たちが憩う姿を見かける。

クスノキの大樹・安田講堂前

クスノキの大樹・安田講堂前


クスノキの大樹・安田講堂前

イチョウの大樹・工学部前広場

クスノキの大樹・七徳堂横


(3)楷の木

安田講堂の裏側に小柴昌俊のノーベル賞受賞を記念した楷の木(カイノキ)が植えられている。カイノキというのは、儒学ゆかりの木として、中国では孔子廟には必ず植えられていたため、「学問の木」とされる。 ただ、安田講堂の裏側ということであまり日が当たらず木が育つ環境としては良くないという。悪条件にめげず大樹の育ってほしいとの願いが込められているのだろうか、ともいわれている。

楷の木


4.広場

(1)安田講堂前

安田講堂前の広場の下は、既に述べたように、中央食堂となっている。芝生の下に食堂があるとは一見したところではわからない。また、広場の横にはクスノキの大樹があり、憩いの場ともなっている。

安田講堂前・広場


(2)総合図書館前

総合図書館前の広場には噴水がある。これは関東大震災の経験から防火用水地として噴水が作られた。この広場の下には300万冊が収蔵できる書庫がつくられた。そのため、噴水の底は、ライブラリーの天窓の役割を果たしているという。

総合図書館前・広場

総合図書館前・噴水

総合図書館前・噴水


(3)工学部1号館前

工学部前の広場には、先に述べたコンドルの銅像、ウェストの銅像と、ペンシルロケット、人工衛星「おおすみ」が置かれている。コンドルの後ろにはイチョウの大樹があり、色づき始めていた。

工学部1号館前・広場


(4)医学部本館前

医学部本館前の広場は赤門と直結している。広場には、学生公募による最優秀作である、人が向き合って球を支え、全体でMedicineMを象る彫刻が置かれている。

医学部本館前・Mの彫刻

医学部本館前・広場から赤門


(参考)

『東京大学本郷キャンパス案内』木下直之他 東京大学出版会 2005


東大本郷キャンパスを6回にわたりみてきましたが、明治からの歴史とともに、建築空間と、銅像やモニュメントが多くある学知の空間が広がっていました。

三四郎池(育徳園)の庭石か

文武両道・七徳堂


東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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