2023年10月28日土曜日

東京異空間155:東大・本郷キャンパスⅡ~赤門と正門

 

赤門・本郷通りから

前回に述べたように東大本郷キャンパスの地は、加賀藩前田家の上屋敷であったことから、その当時の建造物として、赤門が残されています。いまでは赤門イコール東大といってもいいようなシンボルとなっていますが、東大の正門は、その横にあります。今回は、赤門と正門を観ていきます。

1.赤門

加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門である赤門は、1827(文政10)年、第12代藩主・前田斉泰(まえだなりやす)が11代将軍・徳川家斉の娘、溶姫(やすひめ)を正室に迎えるにあたって建築された門である。

当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際には朱塗りの門を創建するという慣例があった。大名家に嫁した将軍家の子女が居住する奥御殿を御守殿(ごしゅでん)あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を朱塗りにしたところから、表門の黒門に対して赤門と呼ばれた。(ちなみに、上野の東京国立博物館には、「黒門」と呼ばれる、旧因州池田屋敷表門 が置かれている。)

江戸時代には、赤門は焼失しても再建を許されないという慣習があったため、大名屋敷にあった赤門はほどんどが残っていない。加賀藩上屋敷もたびたび火災にあったが、幕末ということもあり、溶姫も明治元年まで存命であったこともあり、明治以降も奇跡的に災いを免れたことから現存し、この赤門が往時の原型を残す唯一の門となっている。

赤門中央部は、「薬医門」と呼ばれる建築形式で、屋根は瓦葺きの切妻造となっている。屋根の上部にある棟瓦には徳川家の葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋である梅鉢がかたどられている。赤門の左右には、唐破風造の番所が置かれ、その左右に海鼠壁の塀がある。

なお、「薬医門」とは、 2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門で、本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け、患者の出入りを楽にした医家の門として用いられたので、この名前があるという。

この赤門は、震災、戦災を潜り抜け、いまでは東大を代表するシンボルとなっている。しかし、2021年から耐震性の問題により閉鎖されていて現在は通ることはできない。

赤門

赤門・唐破風造の番所

赤門・薬医門

赤門・薬医門

赤門

海鼠壁の塀

赤門・構内側から

赤門・キンモクセイが咲く

赤門・構内側から

赤門番所・構内側から

赤門・構内側から

赤門・銀杏並木側から
*追加(2023.11.8再訪)



2.正門

明治19年に、大学令を受け帝国大学が本郷の地に開校するが、当初は赤門が正門の役割を果たしていた。明治28年頃には現在の正門の位置に、木造の柵と柱、扉からなる「仮正門」が置かれた。その後キャンパス内の整備が進むなかで、あらたに正門の建設が計画された。

現在の正門は明治45年、当時の東京帝国大学第8代総長濱尾新の考案のもと、建築学科教授伊東忠太の基本設計、営繕課長山口孝吉の施工管理により建設された。

明治45年に図書館で行われた卒業証書授与式の際の天皇陛下行幸をもって開門したことから、正門の高さは、正門の行幸の際の騎馬儀杖兵の槍先を考慮したためともいわれている。

正門は冠木(かぶき)門という伝統的な形式で、冠木の最上部のデザインは吉兆を表す瑞雲から昇る朝日がかたどられている。また、門扉の模様は、青海波と縦格子、唐草模様で構成されている。
一方、門柱は鉄骨の柱を花崗岩で張り上げており、両側の門衛所は煉瓦壁と白丁場石でできていて、全体として東大の正門にふさわしい重厚な趣がある。

当初の中央門扉、冠木は腐食が進んだため、昭和63年に取り外され、修復後、平成4年より構内で保管されている。現在の門扉、冠木はその際に、新たに設置されたアルミニウム合金製のレプリカとなっている。

なお、伊東忠太の設計にかかわる建造物として、本郷キャンパスにあるのは、この正門と、工学部1号館前にあるジョサイア・コンドルの銅像の台座である。銅像は新海竹太郎による。伊東忠太は、当時の帝国大学工科大学の出身で東大建築学科の教授も務めているが、東大関係の設計はほとんど手掛けておらず、この正門と銅像の台座の2点と数少ない。

伊東忠太(1867-1954)より後に東大建築学科を卒業し教授、さらに総長となった内田祥三(1885-1972)により関東大震災後の東大キャンパスの復興が図られる。その際、多くの門が鉄筋コンクリートで作り直された。いずれも内田祥三のデザインで、冠木のないシンプルな形式となっている。

次回は、内田ゴシックともいわれる安田講堂をはじめとする建築群を観ていく。

(参考):

『赤門-溶姫御殿から東京大学へ』堀内秀樹・西秋良宏編 東京大学出版会 2017年

『東京大学 本郷キャンパス案内』木下直之ほか編 東京大学出版会 2005年

正門・門衛所

正門・冠木門

正門・門衛所

通りの塀

通りの塀
*追加(2023.11.8再訪)




本郷キャンパスには赤門正門以外にも多くの門があるが、次の二つの門をまわった。

3.龍岡門

旧地名龍岡町から名付けられた。設計は内田祥三による。かつては門扉が付いていたが、道路を広げる際に撤去され、現在は門柱の実となっている。門を入ると左手は中央棟、右手は附属病院になり、バスも通る道となっている。

龍岡門・正面は本部棟

龍岡門・車が通る、奥に附属病院がある


4.弥生門

弥生町にあることから名付けられた。弥生町は弥生式土器、弥生時代の名として知られている。門を入ると、正面に工学部3号館がある。これは内田祥三の設計であったが、取り壊され、内田ゴシックを継承した工学部新3号館が建っている。

弥生門

弥生門

弥生門

弥生門・正面は工学部新3号館


2023年10月27日金曜日

東京異空間154:東大・本郷キャンパスⅠ~懐徳館庭園と育徳園

 

懐徳館庭園

東大本郷キャンパスのホームカミンデイに行ってきました。お目当ては、一年に一回、この日だけに公開される懐徳館庭園。旧加賀藩・前田家の庭園を観たいために行きました。もちろん、よく知られている三四郎池、赤門、安田講堂など郷キャンパスにある歴史的建築物、さらに新たに建てられた建築なども観てきました。また、ブログでは、何回かに分けて掲載したいと思います。

1.懐徳館庭園の沿革

旧加賀藩前田邸が懐徳館となるまでの沿革を追ってみる。

(1)明治期

江戸時代、加賀藩は幕府から、約10万坪のこの地を拝領した。そのうち8万8千坪を上屋敷として構えた。明治に入り、この地は上地となり、1万3千坪が前田侯爵家に与えられた。残り約9万坪がすべて東京大学の敷地となった。

侯爵となった前田家16代当主利為は、先代からの天皇の行幸を願った。侯爵をいただき、皇室の藩屏として、もっとも願うことは天皇の行幸を得ることであった。天皇を迎えるため、利為は、明治38年に日本館(設計・北沢虎造)、明治40年に西洋館(設計・渡辺譲)を竣工させ、その後天皇行幸の内示を得て、明治43年にこの日本庭園を造った。造園は、前田家の庭師を務めてきた二代目伊藤彦右衛門に任せられた。伊藤は、前田家根岸別邸の庭園の材料を主に転用し、また讃岐・小豆島からも多くの石材を集めた。築山の斜面には3段の立体的な構成を持つ滝石組みを設け、水道水を用いて築山の頂部から水を落とした。その下方から流れが始まり、北方の芝生地に面して広がりを見せつつ築山の裾部を大きく巡り、南西の池泉へとつながる。池泉には、京都鴨川から取り寄せた河鹿蛙数十匹を池に放ち、さらに、蛍二万匹を放つなど、迎えるための演出も凝らしたという。

こうして完成した本邸と庭園をもって、また仮設の能舞台(設計・北沢虎造)も造るなど余興のパフォーマンスの準備を整え、明治43年に明治天皇行幸、昭憲皇太后、さらに皇太子殿下・同妃殿下の行啓を迎えた。それを記念した「臨幸碑」が今も築山に残されている。

前田侯爵邸・西洋館

行幸に向け整備された日本庭園と西洋館


旧前田侯爵邸(東京大学大学史史料室所蔵写真、昭和11年撮影)

臨幸碑

(2)大正期から昭和期

その後、関東大震災(大正12年)からの復興を進めるため東大から、敷地を拡張して大学を整備したいと、前田家に本郷と駒場の土地の等価交換を申し出があった。

これに関して、利為は以前より、本郷から本邸を移す構想を持っていたことから、本郷の建物と土地と、東大の所有する駒場農学部の土地との交換を決めた。その際、「本郷の邸は、明治天皇行幸の折の建物などは残し、公共に提供する」ことを約した。

そして、新しく駒場の地に前田邸として、昭和4年(1929)に洋館が、昭和5年に和館が竣工した 。(駒場の前田邸については、「東京異空間126:旧前田家本邸~前田利為」2023/6/25参照)

いっぽう、震災の被害を受けた本郷の西洋館は、大学が震災復興事業に追われる中で放置された。昭和8年になって、前田家から補修費二万円の寄付があり、これを受けて修復工事が行われ、昭和10年にようやく階下のみの使用が可能になった。同時に、『論語』の「君子懐徳」(人の上に立つものは常に徳を心掛けるという意味 )から採り、「懐徳館」と命名された。しかし、昭和20年の東京大空襲で灰燼に帰してしまう。

現在の懐徳館は、大学の迎賓館として、昭和26年になって新たに建設された木造建築である。外観に往時の日本館の面影を反映させ、基礎には西洋館の石材を使用した。また庭園も改変されたとはいえ、全体の敷地構成、庭園の主たる地割・意匠はほぼ作庭当時を継承しているという。

駒場の前田邸・洋館

懐徳館

懐徳館・南原繁の揮毫

懐徳館

懐徳館・室内

懐徳館

懐徳館

石灯籠に前田家の家紋「梅鉢紋」

枝ぶりの良い松

池泉からみる懐徳館

懐徳館庭園

懐徳館

懐徳館庭園

懐徳館庭園・滝組

懐徳館庭園・滝組

滝から池泉へ流れる

懐徳館庭園・滝組

池泉

池泉

懐徳館の門と本郷キャンパスの境

懐徳館と本郷キャンパスの境


2.育徳園の沿革

明治以降の東京大学・本郷にあった懐徳館庭園の沿革について述べたが、それ以前、江戸時代には、この地は加賀藩前田家の上屋敷であり、育徳園という庭園が設けられていた。現在に残るのは、三四郎池で知られる心字池である。育徳園の沿革を追ってみる。

(1)江戸期

1615(慶長20)年、大坂夏の陣の活躍で、加賀藩第2代藩主・前田利常(前田利家の四男)に家康から与えられたのが本郷の土地約10万坪であった。庭園が築かれたのは、1629(寛永6)年のこと で、1638(寛永15)年には、将軍・徳川家光が再度の御成があったため、3 代藩主前田利常が本郷邸に園池を設け庭の大修築を行なった。加賀藩の上屋敷となったのは 1683 年 、4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)がさらに手を入れて、加賀百万石の名に恥じない江戸諸侯邸の庭園中第一という名園が誕生した。これを、綱紀は育徳園と命名した

小亭や奇岩の配置された庭園は、静寂で鬱蒼とした木立に覆われていた模様であり、 とりわけ育徳園の有する林園美が賞賛され築山 として螺旋状の登り道のあるサザエ山が築かれた。また、将軍に献上するための氷を貯蔵する「氷室」も園内に築かれた。

育徳園は主として、藩主が来客を接待する中心的な場として用いられており、庭園内を散策し、御亭で休憩し、その後馬場へ行くという一連のもてなしが行 われていた 。また、加賀藩上屋敷全体からすれば、育徳園には火除け地としての役割も期待されていた。その延焼防止、避難場所、消火用水として心字池の水が利 用されていた。

加賀藩江戸本郷邸・泥絵

(2)明治期

1867年、明治維新をむかえ、加賀潘の屋敷は官有地へと改められた。育徳園のある区域は 1871年に文部省用地として接収された。その後、1876 年に東京医学校が本郷の地に移転し、翌年には 東京医学校と東京開成学校が合併し東京大学が誕生したが、このころに、残された育徳園の池と 樹叢を大学構内に組み込むことが決まったとされる 。

東京大学の敷地となってから、育徳園の周囲には、急速にさまざまな部局の校舎が建設されていった。1892年の時点ではキャンパス内のレンガ造の建物の総面積は2500坪に過ぎなかったが、 その後の25 年間で 9300 坪に増加した。この時期、本郷キ ャンパスの中には、育徳園以外は未使用の空地をほとんど残さないほど建築物が増えたとされる。 東京大学の医・法・文・理・工それぞれの部局の配置は、敷地のほぼ中央を占める旧加賀藩上屋敷及び育徳園の周辺に広がる。これらの配置は加賀藩時代の敷地の構造に強く則っていたが、建築のスタイルは多様あった。 周囲の様相が変化するに伴い、育徳園もその空間の一部が徐々に侵食され、 庭園内部まで変化が生じた。

1 つ目は、校舎の拡充の過程での、育徳園を構成していたサザエ山と水路の消失である。1897 年からこの近傍に医科 大学衛生学・生理学・医化学・薬物学の 4 教室 3 棟が着工され、その工事の過程でサザエ山は消滅した

2 つ目は、大名庭園から東京大学という土地の役割の変更に伴、氷室と御亭という庭園構成要素の消失である。育徳園の北東部に位置していた氷室は、明治初期まで存在しており、キャンパス 編入後に撤去されたものとみられる 氷室は氷を将軍へ献上用するため の施設であり、御亭は客人の接待のために使われていたという用途を考慮すると、大学キャンパ スになることで結果的に不必要な施設となり、消失した

なお、育徳園の心字池が三四郎池と呼ばれるようになったのは、1908年に朝日新聞で連載された夏目漱石の「三四郎」で、主人公の小川三四郎が散策する舞台として取り上げられたことによる。ただし、いつから三四郎池と呼ばれるようになったかは定かでなく、確認されている中では、1946 8 月の東京帝国大学新聞に初めて「三四郎池」という呼称が使われたとされる。なお、駒場キャンパスには、これに対応して「一二郎池」と呼ばれる池がある。正式には「駒場池」といわれ、明治時代には農学部の養魚場として整備されていたという。

旧加賀藩上屋敷育徳園心字池(前田家18代当主・利祐氏の書による石碑)

駒場の「一二郎池」

(3)大正期から昭和期

1923 (大正12)年に関東大震災が発生し、本郷キャンパスや育徳園に甚大な被害をもたらした。その際、育徳園の心字池と樹林帯は、延焼防止、学生・教職員や近隣住民の避難場所、消火用水として機能した。

震災後にキャンパスの復興計画が検討された。この計画の指揮を執ったのは当時の営繕課長を務めていた内田祥三(後の東京帝国大学第 14 代総長)であった。復興の基本方針は、災害を最小限とするために建物の周りに広い空地を作ること、そして建築物のデザインを統一し、諸施設の配置を秩序立てることであった。そこでは、育徳園はキャンパスの緑地という位置づけをされ、震災からの復興の中で登場した「改変せず保全する」とい う継承された。

育徳園の心字池(三四郎池)

心字池(三四郎池)

心字池(三四郎池)

心字池(三四郎池)

次に、加賀藩前田邸の表門であった「赤門」、そして東大の「正門」を観て、さらに内田ゴシックとも呼ばれるキャンパス内の歴史的建築物を観ていく。

(参考)

育徳園の履歴とあり方 平成 28 1

https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400038393.pdf



東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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