西園寺公望による命名「荻外荘」 |
荻窪にある近衛文麿の旧邸宅であった荻外荘(てきがいそう)に行ってきました。荻外荘は、約10年の復元保存期間を経て2024年12月9日に一般公開されました。
「建築としての荻外荘」と「歴史としての荻外荘」という二つの観点からみてみます。
1.建築としての荻外荘
建築としての重要な点は、この建物を設計したのが、伊東忠太(1867-1954)であること。義兄にあたる東京帝国大学医学部教授にして、大正天皇の侍医頭も務めた入澤達吉(1865-1938)の別邸「楓荻凹處」(ふうてきおつしょ)として昭和2(1927)年に建てられた。
伊東忠太は、数多くの設計を手掛けているが、多くは寺社建築であり、個人の邸宅の設計は4件程度である。浅野総一郎「紫雲閣」、大倉喜八郎「祇園閣」、山縣有朋「古希庵」、そして入澤の「「楓荻凹處(楓荻荘)」であり、貴重な建築と言える。
これが近衛文麿に譲渡されたのは昭和12(1937)年、第一次近衛内閣が組織された年である。 購入後に近衛の後見人であった元老・西園寺公望によって「荻外荘(てきがいそう)」と命名された。
荻外荘・模型 |
2.歴史としての荻外荘
歴史としての重要な点は、この近衛文麿の私邸において、戦前の重要な国策の決定が行われた政治的な場であったこと。近衛文麿(1891-1945)は内閣総理大臣を三度務め、この邸宅において、東亜建設秩序の建設を確認した1940年(昭和15年)の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対策について協議した1941年の「荻外荘会談」などが行われ、戦争路線の方針が決定された。そして、日本の降伏後、1945年12月16日に近衛はこの私邸の書斎で、自決した。
第一次近衛内閣の昭和12年(1937年)から近衛が自決した昭和20年(1945年)までが日本の運命を決めた期間となる。その歴史の重要事項をみておくと、次のようになる。
〇昭和12年(1937年) 第一次近衞内閣
・盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まる。
・国家総動員法の公布
〇昭和15年(1940年) 第二次近衞内閣
・荻外荘で「荻窪会談」が行われる。
・日独伊三国同盟締結
・大政翼賛会の結成
〇昭和16年(1941年) 第三次近衞内閣
・荻外荘で「荻外荘会談」が行われる。
・近衛内閣の後、東條英機内閣となる。
・真珠湾攻撃により、太平洋戦争が始まる。
〇昭和20年(1945年)
・原爆投下される。
・ポツダム宣言を受諾する。
・終戦の詔書放送がされる。
・近衞文麿が荻外荘で自決する。
近衛文麿の思想と行動を描いた岡義武は『近衛文麿』岩波新書のサブタイトルに「運命」の政治家と付けている。それは近衛が毎日新聞の記者に語ったという次のような言葉から引いているのだろう。
「戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終われば戦争犯罪者だと指摘される。僕は運命の子だ」。
近衛は、戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判を受ける事は堪え難い事である、として青酸加里により自殺した。時に54歳であった。
(参考):
『近衛文麿ー「運命」の政治家ー』岡義武 岩波新書 1972年
近衛の死後に、吉田茂がここを借りて私邸代わりに住んでいた時期(1947-48)があった。 近衛とは個人的にも親しかった吉田はある日、なぜ荻外荘に住むことに決めたのかを来客から尋ねられ、平然と「ここにぼくが寝ていたらそのうち近衛が出てくるだろうと思ってね」と言ったという。
近衛文麿 |
蔵に置かれている制服 |
1940年、荻外荘(客間)で行われた荻窪会談。左から近衛文麿時期総理、松岡洋右次期外相、吉田善吾海相、東条英機次期陸相
近衛文麿 |
吉田茂 |
〇荻外荘
・外観
・玄関
・応接室
応接室床・龍のタイル |
応接室床・龍のタイル |
・来客用手洗
・客間
会談が行われた椅子・テーブル |
近衛家の家紋「牡丹」 |
・広縁
・書斎
・茶の間・居間
荻外荘を訪れた日は、偶然にも、12月16日、近衛がこの邸宅の書斎で自決した日でした。とはいえ、吉田茂のように、「そのうち近衛が出てくるだろう」なんてことは思いもしないことでした。
建物のことだけでなく、歴史的な振り返りもできる場所でした。
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