2022年3月30日水曜日

桜~観て・語り・遊ぶ

 


東京の桜の開花は3月20日、そして満開は27日でした。30日にはもう散り始めていました。


桜の季節、人々は桜を観て、桜と語り、そして桜と遊んでいます。


そんな日常の風景が、今年も。


でも、人々の思いは、これまでとちょっと違うような気もします。


























41日、一転して寒の戻り、桜も面食らっているのではないでしょうか?

散り始めた桜を追加しました。












 

2022年3月25日金曜日

東京異空間58 石仏巡りⅥ~長命寺2・十王と十三仏

十王

「東京異空間57 石仏巡りⅤ~長命寺1・東高野山の境内」(2022.3.7)に続いて、長命寺にある多くの石仏の中で、十王と十三仏について取り上げてみます。

長命寺の奥の院(大師堂)の後ろには、十王像が並び、さらにその奥には十三仏が並んで配置されています。これらの石仏は江戸時代・承応3年(1654)に造立されたものとされてます。

また、本堂の前から鐘楼を囲むように十三仏が並んでいます。こちらは新しく、昭和57-62年(1982-87)に造立されたものです。

こうした十王信仰に仏教の来世観をみるとともに、キリスト教の来世観とも比べてみました。


1.十王信仰

十王信仰とは、人は死後、順次十人の冥府の王の審判を受け、生前の功罪が裁かれるという信仰である。

亡くなった人は七日ごとに以下のように、冥府の王の審判を受けるとされる。十王に裁かれる一方で、対応する本地仏(カッコ内の仏)が、そこから救ってくれるという慈悲、救済を合わせもっている。

審判では、亡き人の生前の行いを裁くというだけでなく、その判定材料は主として死後における遺族が行う追善であると説かれる。追善供養は、故人に対してというよりは、本地仏に対して亡き人の供養が成就できるように祈ること、すなわち、十三仏に導かれ浄土への道が開かれるよう祈願することとされる。

十王信仰は、そもそも三回忌までであったが、室町時代になって、七回忌、十三回忌、三十三回忌が加わり、十三仏信仰が広まった。仏教が葬式儀礼を行うようになり、庶民にも広がっていくと、亡き人に対する遺族の追善供養が大切と説かれ、寺との関係が長く続くようになった。

 

初七日:秦広王(不動明王)

二七日:初江王(釈迦如来)

三七日:宋帝王(文殊菩薩)

四七日:五官王(普賢菩薩)

五七日:閻魔王(地蔵菩薩)

六七日:変成王(弥勒菩薩)

七七日:泰山王(薬師如来)

百カ日:平等王(観世音菩薩)

一周忌:都市王(勢至菩薩)

三回忌:五道転輪王(阿弥陀如来)

七回忌:蓮華王(阿閦如来

十三回忌:祇園王(大日如来)

三十三回忌:法界王(虚空蔵菩薩)

 

この中でも、とくに閻魔王と地獄の話が広まり、地獄絵が描かれ、熊野十界曼荼羅のように熊野比丘尼が各地に出向き、絵解きなどが行われ、庶民の心理に地獄の恐怖を植えこんだ。それによって一方で、人々に勧善懲悪という考えを深め、社会道徳の確立に大きな役割を果たしたともいわれる。

 

3.最後の審判

「審判」というと、キリスト教の世界では「最後の審判」がある。

世界の終末において、神=キリストは復活し、審判を下して人間を永遠の天国か、永遠の地獄に振り分けるといのが「最後の審判」である。この様子を描いたものとして、よく知られているのはバチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの「最後の審判」である。そこには、再臨したイエスは中央で右手を上げて審判を下しており、向かって右側には地獄に落とされる人々、左側には天国に召される人々が描かれる。救われた人々は歓喜に湧き、地獄に落とされる人々は醜悪な悪魔に食いつかれ壮絶な様子が描写されている。

一方、仏教の世界では、釈迦の説いた正しい教えが世の中でまったく行われないとする末法思想が、日本では平安末期から浸透し、十王信仰も人々の間に広まった。こちらは審判を下すのは、神でなく冥府の王たちとされ、地獄が残酷に描写される反面、本地垂迹説により十三仏(本地仏)が救ってくれるという両面を持っている。

キリスト教では、地獄も永遠とされるが、仏教では転生輪廻の考えにもとづき、悟りを開くまで六道の世界に生まれ変わりを繰り返すという。

ミケランジェロの「最後の審判」 システィーナ礼拝堂

4.天国と地獄 ・ 浄土と地獄

審判を受け、キリスト教では天国と地獄に振り分けられ、仏教では浄土と地獄(六道)を巡ることになる。それぞれの死後の世界をダンテの『神曲』と、源信の『往生要集』で、どのように描かれているかを見てみる。

ダンテの『神曲』では、天国、地獄、煉獄と三つの世界が描かれている。地獄の世界は、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成されて描かれる。下に行けば行くほど狭くなり、受ける刑罰の苦しみは増大していくことになる。

 

地獄の門…「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記されている。

第一圏…洗礼を受けていない者が行く地獄。

第二圏…肉欲の罪を犯した者が行く地獄
第三圏…大食いの罪を犯した者が行く地獄
第四圏…金をため込んだ者と浪費の激しい者が行く地獄
第五圏…怒り狂った者が行く地獄
第六圏…異端者が行く地獄
第七圏…暴力の罪を犯した者が行く地獄
第八圏…悪意を持って罪を犯した者が行く地獄
第九圏…裏切りを働いた者が行く地獄

悪魔大王…神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王

 

ダンテの描く、こうした地獄の世界は、芸術の面にも大きな影響を与えた。ボッティチェリ「地獄の見取り図」は、ダンテの神曲での地獄の世界を描いている。また、ロダンの「地獄の門」(上野・国立西洋美術館の前庭)は地獄に入り口を描いており、中心に置かれているのは有名な「考える人」である。

ボッティチェリ「地獄の見取り図」ヴァチカン教皇庁図書館所蔵

「悪魔大王」は、顔が三つあり、それぞれの顔の下に翼が3組生えている姿で描かれるこれは「ルチフェロ」、「堕天使」、「サタン」などと呼ばれ、神に反逆したため永遠に地獄の氷の中に幽閉される。

仏教での「閻魔大王」は、本地仏は地蔵菩薩であり、人々を地獄から救うとされるのだから、悪魔大王とはかなり異なる者である。これも輪廻転生と終末・復活という来世観の違いからくるものだろう。

「悪魔大王」コッポ・ディ・マルコヴァルド サンジョヴァンニ洗礼堂モザイク画

 また、ダンテ『神曲』「煉獄」とは、天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。

「天国」は、地球を中心として同心円上に各遊星が取り巻く宇宙を天国界とし、恒星天、原動天のさらに上にある至高天を構想していた。この天国は、神や天使がいる世界のこととされ、審判の観念と結合して正しい生活をおくった信者の霊が死後、永遠に祝福を受ける場所というようになった。

一方、仏教の世界おいては、源信の『往生要集』では、最初に六道のうちの地獄について書かれている。それによれば地獄は「五千由旬」の地底にあって、等間隔で八つの地獄が積み重なっている」とされる。由旬とは、距離の単位で、「帝王が一日で行軍できる距離」とか「牛車の一日の行程」などといわれが、いずれにしても想像も絶するほどの距離という。

地獄には、等活地獄黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻(無間)地獄の八つの地獄あり、この順により重い地獄となる。これを八大地獄と言う

これらは、五戒(殺生、盗み、邪淫、妄語、飲酒)を犯した人、そして「五逆」(父母を殺す、仏の身体を傷つけることなど)をした人がそれぞれ堕ちるとされる。『往生要集』は、言葉を尽くして、これでもかというくらいに残酷な世界として地獄を描く。

仏教では輪廻転生という考え方から、往きとし生けるもの、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)を生まれ変わりを繰り、その六道輪廻を超えたところに悟りの世界(四聖:声聞、縁覚、菩薩、仏界)があるとされる。これを「十界」といい、これが仏教の説く世界観である。

キリスト教の「天国」に対応するのは、この悟りの世界、仏のおられる世界、浄土であろう。「十方浄土」といわれ、あらゆる方向に諸仏の浄土があり、そのうち阿弥陀如来がいる浄土を「極楽浄土」といって、最も広く信じられた。阿弥陀来迎図が描かれたように、念仏を唱えれば極楽浄土に導かれると説かれた。

 

このように、キリスト教と仏教では、死後の世界観は異なるが、いずれも地獄は筆を尽くして描かれている。

洋の東西を問わず、人々は現実の世界から地獄を想像し、死後の世界に天国や極楽浄土、といった夢を描き、それを信じたともいえるだろう。


ベアトゥスによる「ヨハネの黙示録注解」の写本黙示録12章の、天で起こった大天使ミカエルと赤い竜の戦いの場面。(BRITISH LIBRARY, LONDON)

長命寺の十王・十三仏の石仏から、地獄の世界、人々の来世観をキリスト教とも対比しながらみてみました。死は、誰でもが迎えることでありますが、それを経験した人はいません。死後の世界を語ることにより、人々に心の安息を与えるのが宗教とも言えるのでしょう。


いま、ロシアの侵略によりウクライナでは、罪のない子供たちも含め多くの人が殺されているという、まさに「地獄」のような現実を目の前にしています。ウクライナの国旗の青と黄色は、青い空と黄色い麦畑をあらわしているといいます。一日も早く、ウクライナに、青空と、黄色の麦畑が戻ることを祈りたいと思います。

また、個人的には、あらためて死とは、生とは、信仰とは、といったことを考える機会になりました。


 石仏:

(1)十王(承応3年(1654)造立)

大師堂の後ろにある十王に囲まれた空間は、審判を下す場で、いわば「お白州」であり、西洋でいえばコート(court=法廷)である。







閻魔王






(2)十三仏(承応3年(1654)造立)


十三仏

不動明王

文殊菩薩

地蔵菩薩

薬師如来

勢至菩薩

阿閦如来


虚空蔵菩薩

大日如来

阿弥陀如来

観音菩薩

弥勒菩薩

普賢菩薩

釈迦如来


(3)十三仏(昭和57-62年(1982-87)造立)

こちらは、本堂から鐘楼を囲んで並んで配置され、初七日の不動明王から順に三十三回忌の虚空蔵菩薩までの十三仏となっている。

十三仏



不動明王

不動明王

釈迦如来

文殊菩薩

文殊菩薩

普賢菩薩

普賢菩薩

地蔵菩薩

弥勒菩薩

薬師如来

観音菩薩

勢至菩薩

阿弥陀如来

阿閦如来

大日如来

虚空蔵菩薩


東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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