2019年12月29日日曜日

東京異空間19:日本銀行~東京駅・辰野金吾

日本の近代建築の父といわれる辰野金吾の没後100年を記念して、日本銀行貨幣博物館と東京ステーションギャラリーで開かれていた展覧会を見て来ました。
もちろん、あわせて日本銀行本店、東京駅などの建物を撮ってきました。
 
辰野金吾の設計による日本銀行本店
〇日本銀行本店
辰野金吾は、政府が招いたお雇い外国人、ジョサイア・コンドルに師事し、明治12年(1879年に工部大学校を首席で卒業し、イギリス留学を経て、工部大学校でコンドルの跡を継いで教授として建築教育に力を入れたそのため、これまでコンドルの影響が大きいとされてきたが、それ以上に大きな影響を受けたのが、英国留学中の師、建築家ウリアム・バージェスであった。また、フランス・イタリアをかってのグランド・ツァーと同じように各地の建築を視察旅行を行ったことが大きな影響を与えたという。
とりわけ、バージェスが標榜する〈美術建築〉概念に強く共感し、建築は人の手が造り出す精度の高い美術的な装飾が施されることで完全性を獲得する、という建築観日本に移植することを生涯をかけて実践していた
<美術建築>という概念は、ちょっと分かり難いが、<工場建築>、すなわち単に効率性を重視した箱もの建築、といったことを対比する概念として考えると、その違いがわかるだろう。

辰野金吾は、日本を代表する公共的建築である日本銀行(明治29年1896年竣工)、中央停車場(東京駅)(大正3年1914年)、帝国議会議事堂(国会議事堂)を建設設計することに強い意欲を持っていたという。
そのひとつ、日本銀行本店を建てるにあたっては、欧米の銀行を視察し、銀行の持つ重厚さ、堅牢さを学んできた。さらに建設途中に起こった濃尾震災(明治24年)をきっかけに、当初は石造りだったものを設計変更して煉瓦造り石張りにして、耐震性をさらに高めるなど、全身全霊を込めてこの建築の設計に取り組んだという。その結果、関東大震災でも、火災は起きたものの建物が崩れることはなかった。
また、日本銀行の各支店の建物にも弟子である長野宇平治などとともに携わっている。日銀小樽支店の建物(明治45年1912年竣工)も、そのひとつであり、北のウォール街と呼ばれた小樽が一番繁栄した時代をしのばせるものとなっている。
日本銀行本店の前には常盤橋が架かっているが、そのたもとに澁澤栄一の銅像が建っている。像は朝倉文夫によるもので、きりっと日銀本店の方向を見つめている。
辰野は、日本銀行を手がける前に、澁澤栄一の邸宅を設計している。日本橋兜町にあった邸宅で、迎賓施設として建てられた(明治21年1888年)。その当時の写真をみると、ヴェネツィアン・ゴシック様式で建てられており、邸宅の前を流れていた日本橋川の風景と相まって、まさに水の都ヴェネチアの雰囲気となっている。辰野にとって、澁澤のパトロンとしての力も大いに与ったようだ。











常盤橋公園に立つ渋沢栄一像

きりっと日銀本店を見つめる

日銀本店の前には三井本館(昭和4年1929年竣工)、その横には三越日本橋本店(昭和2年1927年)のビルがある。それぞれ関東大震災により被災し、その後、現在に残る建物は新たに建設され、三井本館はアメリカの設計事務所が、三越は横河民輔が設計をしている。
辰野金吾の建築とは異なるものの、どちらも<美術建築>といえる時代を感じる荘厳な建物である。
明治以降、建物は上へと高くなり、さらに塔を載せるようになった。商業、金融などの建物は角地に建てられ、建物の角に高く聳える塔をのせた。これは覇者としてのシンボルともなった。
建物の近代化とは裏腹に、三越の屋上には三囲神社(三井家の守護社で、向島に本社がある)の分社が置かれている。
神様を祀る神社の後方を見上げると、三井本館の横に最新の高層ビル三井タワーが建っている。古来から近代、そして現代を映しているようだ。
 
三井本館:米国の設計事務所による



三越日本橋本店


建物の角に立つ塔は覇者のシンボル

三越日本橋本店の屋上にある三囲神社

三越の三囲神社:後ろには三井タワーがそびえる

〇中央停車場(東京駅)
辰野金吾の手によるもう一つが中央停車場(東京駅)(大正3年1914年)である。当初はドイツ人技師フランツ・パルツァーが設計したが、その和洋折衷のデザインは受け入れられず、辰野金吾のお鉢が回ってきて、より西洋風の建築が受け入れられた。
なお、辰野はすでに万世橋駅舎(明治45年1912年)を手がけていた。赤レンガ造りの豪華な駅舎で、中央線のターミナルとして賑わった。しかし、東京駅ができたことから利用が少なくなり、震災の被害もあり廃駅となった。いまも御茶ノ水駅と神田駅の間にその遺構一部がマーチエキュートと名付けて公開されている。
辰野にとっては、これがいわば試作品になったようなもので、東京駅も赤レンガに鉄骨を入れたより堅牢な駅舎となった。
ところで、東京駅は、アムステルダム中央駅を模倣したものだと、まことしやかに語られることがあるが、辰野がアムステルダムを訪れた記録はなく、オリジナルな「辰野式」といえる。
なお、現在みられる東京駅は、2012年に辰野金吾が設計した当初の姿に復元されたものである。
辰野金吾設計の東京駅模型

ドーム柱頭:「西暦2012年」を示すローマ数字「AD MMXII」

レンガと鉄筋による重厚な造り


八角形のドーム








八角形のドームの天井に取り付けられた8羽の鷲や8つの干支のレリーフも、当時の意匠を見事に復原されていこのドームの8つの干支のレリーフにはエピソードがあり、4つの干支(子卯午酉)が足りないことが長らくの謎であったが、東京駅と同時期に改修が進められていた辰野の故郷・佐賀県の「武雄温泉楼門」、足りない干支があり東京駅とあわせ一組のものだという。これは辰野の遊び心のひとつではないかという。
この武雄温泉楼門は、辰野が手掛けた和風建築の一つで、ほかにも奈良ホテル、南天苑(大阪)がある。
干支のレリーフ



辰野金吾は、「辰野堅固」と言われるくらい重厚で過剰なほど堅牢な西洋建築を多く手がけた。その数は200棟を超え、そのうち25棟が現存しているという。
その<美術建築>の例としては、銅像の台座がある。九段坂公園にある品川子爵銅像臺、東京駅の前にある井上子爵銅像臺など彫刻家(像は本山白雲の作)との共同して手がけている。なお、現在東京駅丸の内側に置かれている井上勝像は朝倉文夫の作による。
品川弥二郎銅像:台座は辰野金吾の設計による

井上勝:日本の「鉄道の父」といわれる。

当初(1914年建立)は本山白雲の作、台座は辰村金吾による。2017年に再建。

さて、3つのうち残る帝国議会議事堂(国会議事堂)はどうなったのか?その設計は、当初、大蔵省とつながりのあった妻木頼黄(つまきよりなか)になるところ、辰野が設計コンペを提案し、自ら審査員となった。しかし、このコンペは波乱ずくめとなった。妻木が病に倒れて亡くなり、辰野までもがスペイン風邪でこの世を去ってしまった。明治建築界の大御所を立て続けに失ったコンペは遅れに遅れ、議事堂は昭和11年にようやく完成を見たが、結局、設計者があいまいなままに建てられた、という。
(まさか、「速やかに、設計図面等はシュレッダーにかけた」わけではないだろうが??辰野が国会議事堂を手がけていたら、もっと堅固な政治がなされれきたのではないだろうか、というのは妄想か?)
辰野金吾の息子で東大仏文教授になった辰野隆は、「実に彼は男なりき。善き父なりき。」と評している。また、家訓として「建築家になるな」と述べたという。こうした言葉は、建築と格闘してきた生涯の重みを感じさせる。

参考図書
『辰野金吾』河上真理・清水重敦 著 ミネルヴァ書房 2015.3.10

2019年12月25日水曜日

東京異空間18:英霊・慰霊の社

靖国神社、東京都戦没者墓苑、乃木神社と3つの社を巡ってみました。これらの異空間に何を感じるでしょうか。



〇靖国神社
靖国神社は、大村益次郎の発案のもと、明治天皇の命により明治2年(1869年)に「東京招魂社」として創建された。黒船来航(嘉永6年1853年)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を英霊として祀る。
境内にある「遊就館」は、明治15年(1882年)にイタリア人による設計でイタリア古城式で建てられ開館した。日本における最初で最古の軍事博物館である。しかし、関東大震災により倒壊し、伊東忠太による設計で再建され、昭和7年(1932年)に開館した。
関東大震災後の寺社などの再建にあたっては、伊東忠太がその設計に活躍しており、帝冠様式と呼ばれる和洋折衷の建築様式が多く用いられた。また石鳥居も伊東忠太の設計によるという。
新館に展示されている零戦やカノン砲などを見ると、一瞬、戦争を身近に見る思いがして驚いてしまう。ほかにも屋外に大砲や銅像などが展示されている。

第一鳥居(大鳥居)

第一鳥居(大鳥居)


大村益次郎銅像:大熊氏廣による西洋風銅像の最初期の代表作。
戊辰戦争において上野の方角を双眼鏡で見て「官軍すでに勝ちたり」といった姿を表わしているという。

石鳥居:伊東忠太の設計

慰霊の泉

慰霊の泉

第二鳥居

神門から拝殿へ

神門から中門鳥居・拝殿

神門

中門鳥居・拝殿

拝殿



参集殿

戦没馬慰霊像・軍犬慰霊像

靖国会館:昭和9年、国民への軍事知識普及のため遊就館の付属の「国防館」として建設された


遊就館:伊東忠太の設計

遊就館:戦後、富国生命保険相互株式会社の本社事務所として昭和55年まで使用された





遊就館前の鯱

母の像:子供を育て上げた戦争未亡人への敬意を込めて建てられた(昭和49年1974)。
子を抱く「聖母」の姿とみることも。



遊就館・展示室にある零戦

八九式十五糎加農砲


明治15年竣工当時の遊就館:イタリア人によるイタリア古城式の建物




大手水舎

大手水舎

大手水舎

青銅製大燈籠

高燈籠:靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設された

品川弥二郎銅像:台座は辰野金吾の設計による

〇千鳥ヶ淵戦没者霊苑
千鳥ヶ淵の桜並木の通りを歩ていくと、千鳥ヶ淵戦没者霊苑がある。こちらは、国が設置した戦没者慰霊施設で1959年に創設された。
六角堂には、海外で戦没されたご遺骨(37万柱あまり)が納められている。
この六角堂を含め建物は谷口吉郎の設計による。伊東忠太の建物とは違い、静謐な空間に近代的なスマートな建築となっている。
庭園は田村剛によるもので、4000本の樹々が植えられた。「社」に多くの木々が大きく育ち「杜」となっている。

千鳥ヶ淵戦没者霊苑:設計は谷口吉郎






千鳥ヶ淵戦没者霊苑・六角堂

千鳥ヶ淵戦没者霊苑・六角堂に参拝する人の姿

古代の豪族の寝棺を模した陶棺が設置されている

海外で戦没した37万人あまりのご遺骨が奉安されている

4000本の樹木が植樹された


千鳥ヶ淵の道で


〇乃木神社
赤坂にある乃木神社は、乃木希典と静子夫人を祀る神社。乃木夫妻が明治天皇大喪の日に自刃した邸宅の隣地に大正12年(1923年9に創建された。
明治期以降、幕末の志士や軍人など人が神として祀られる神社が建てられた。
乃木神社


乃木家祖霊舎

辻占売り少年の銅像

赤坂王子稲荷神社


拝殿



正松神社:吉田松陰と松下村塾開祖の玉木文之進が祀られている

二の鳥居

拝殿


◎これらの英霊・慰霊の社に、戦争の歴史を身近に感じる異空間とともに、参拝する人の姿に、平和を祈る静謐な空間を感じました。

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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