2020年8月7日金曜日

東京異空間26:保谷にあった民族学博物館Ⅲ~今和次郎の「破門された夢」

これまで、「保谷民博」にかける渋沢敬三の「博物館の夢」、そして高橋文太郎の「埋もれた夢」をそれぞれみてきたが、もうひとり「保谷民博」をつくるに大きな貢献をした今和次郎の夢はどのようなものであったか、をその活動から見ていきたい。

1.野外博物館の構想

渋沢敬三は民族博物館をつくるにあたって、そのグランドデザインを今和次郎に依頼した。今が描いた「日本民族博物館全景」という俯瞰図が残されている。これは、博物館の完成予想図というものである。


博物館は、本館の展示室(地上3階、地下1階)、と別棟の研究所(地上2階)、そして「野外展観」という野外博物館とで構成されている。

このうち本館の建物の設計については、今の弟子であった蔵田周忠により設計され、地上3階、地下2階の鉄筋コンクリート造りとしている。展示室は、ガラスを使った展示ケース、照明、暖房などを含めたトータルのデザインをしている。


また今がデザインした「野外展観」には、近畿、中国、東北、信州、西多摩、甲州などの「農家」と、九州五箇所、飛騨白川、岩手二戸郡などの「民家」、そして当時の植民地であった台湾、南洋、南鮮、北鮮などの「家屋」が置かれている。これらは、敬三らアチックの同人たちが民俗調査を行い、生活を再現するために家の中のすべてのモノ、民具を収集した所でもある。なお、「農家」「民家」「家屋」とそれぞれ使い分けられていることにも注目しておきたい。


こうした建物群の周りには、養蚕のための桑畑などが描き込まれている。これは同じ蚕を飼うスペースを持っていても、その工夫のあり方によってさまざまな形の家があり、屋根の形が変わることについても理解できるように構成されている。


さらに、これらの建物に付属する樵小屋、炭焼小屋、水車小屋、船小屋など小規模な建物が配置されている。


加えて、倉、小祠や石仏、井戸、厠といった「建築外の建築」といわれるものが配置されている。


このように今が描いた理想的な野外展示は、ありのままの生活をあらわすものとして、次のような視点を持った展示の仕方だという。

「民家とともにその生活環境を含んだトータルな生活の場と捉えている視点、民家一戸に置かれた生活用具のありのままの姿をあらわそうとする視点、そこにくらした家族の姿をあらわす視点によってつくられ、さらに実演を構想にいれていた展示を考えていたと想われる。」 (青木俊也「生活再現展示の思考」)


このグランドデザインの発想は、敬三がロンドン滞在中にみたスウェーデンのスカンセン博物館、ノルウェーの野外博物館、また今和次郎も欧米視察でみたこれらの博物館がそのもとになっている。今和次郎は、1930年にスカンセンやノルウェーの野外博物館を訪れているが、その視察の前に敬三がスカンセン博物館のガイドブックを送り、ぜひ見てくるようにとアドバイスをしていたものであった。今は、「スウェーデン及びノルウェーの戸外博物館の印象は、あの方法こそ最高のものである」といっている。


そして、この野外博物館は今和次郎が取り組んできた「民家」研究の集大成と言えるものであった。この生活のうつわとしての「民家」に敬三の収集研究した生活の用具として「民具」が一緒になる場が、「民族博物館」であった。それが彼らの夢でもあった。


しかし、すでに前のブログでも見たように、国立の民族博物館としては実現せず、展示館は鉄道省工事現場事務所として使われていた建物、研究所は東武鉄道仮事務所の建物、いずれも木造バラックの建物を移築したものであり、野外展示には、高橋文太が所有し空き家となっていた農家を移築した「武蔵野民家」(木造藁葺平屋)、今和次郎の設計による「絵馬堂」(木造杉皮葺)、稲荷の小祠などが配置されたのみであった。(なお、戦後になって北海道から「アイヌ住居」、奄美大島から「高倉」を移築している)


敬三は、「ひとまずこうしておけば、やがて本格的なものを作りうるだろう」と考えてスタートしたものであったが、その間の経緯について、つぎのように述懐している。

「現保管場所を撰定したるはちと甘き夢を見たる為に候 それは少なくとも民族学的標本に於いては堅牢なる建物内に展観保存を要すべきは勿論乍ら一部はオープングラウンドミュージアムに致し度各地の民家大の物迄もその儘に移して保存致す方よろしく(中略)たまたま紀元二千六百年記念事業に関連せしめてこの意図を成就せしめんとしたるが為に有之候その為収蔵家屋の急設を要し・・・きわめて貧弱なるバラックなるは御恥ずかしき次第に御座候 此間同地の高橋文太郎の同人としての御骨折も嬉しく存居る所にて、・・・農家は同君により標本として寄贈され今和次郎氏の手を入れられしものに有之候 右記念事業との関連は不幸にして事無く数位致し一場の夢と相成候」(新村出日本民族学協会会長宛て書簡 昭和19年)


「一場の夢」となったものの、保谷につくられた民族博物館は、敬三の言う「オープングラウンドミュージアム」が今和次郎により設計され、武蔵野の農家が移築されたことは、日本で初めての野外博物館として位置づけられ、今和次郎にとっても重要な業績とされる。

(なお「野外博物館」という言葉は、戦後になってから使われる。)

 

2.日本の「民家」から考現学へ


「一場の夢」となった民族博物館に、今和次郎は、どのような経緯から関わり、野外博物館のグランドデザインを描くに至ったのだろうか。彼の活動から見ていこう。


1888(明治21)青森県弘前市で、代々津軽藩の典医をつとめる家の次男として生まれる。渋沢敬三(1896年生まれ)とは8才の年の差。


1907年:19才 東京美術学校(現東京芸大)図按科に入学。ろくに勉強していなかったことから、入学試験のない学校ということで選んだという。「図按科」は、工芸から建築のデザインまで幅広く扱っていた。


1912年:24才 美術学校を卒業し、早稲田大学建築学科助手となる。早稲田大学に私学として初めての建築学科ができ、岡田信一郎の推薦により佐藤功一教授の助手となった。(創設間もない建築学科は、伊東忠太、岡田信一郎、佐藤功一、内藤多仲らの布陣であった。なお、佐藤功一は、大隈講堂、日比谷公会堂などを設計している。)


1915年:27才 同郷の先輩新渡戸稲造により行われていた郷土会に参加し、柳田国男、石黒忠篤らを知る。その後、数年にわたって柳田に従い各地を歩く。(石黒忠篤は、農政の神様と言われ、戦後の農地改革を推進した)


1917年:29才 柳田国男、佐藤功一らによる各地の古い家屋を保存することを趣旨とした白茅会に加わる。


1920年:32才 早稲田大学教授 このころ東大の学生であった渋沢敬三にレコードを聴きに来るよう誘われたのが、最初の出会いであった。


1922年:34才 「日本の民家」を出版


ここまでの活動を整理しておくと、今和次郎は、佐藤功一の影響を受け、建築を学ぶとともに、スケッチの腕を見込まれ柳田国男について、民俗の収集に各地を回り、また石黒忠篤の支援により各地の農家を回ることになった。こうした成果が『日本の民家』として刊行された。


「民家」という概念は、今によって確立されたものである。今は、「民家」に建築としての構造をみるのではなく、そこに暮らす人々の生活、営みを探求することに努めた。

建築家たちからは視野の外に置かれた「民家」(「郷土建築」とも言っていた)を対象に選び、構造物としての民家ではなく、生活の場としての民家を探求した。


また、今は、言葉よりも「スケッチ」、すなわち観察者の眼を大事にした。民家の外形、空間の観察から、そこに住む人々の行動へと、その把握を深め居心地や住まいの心性へと探求を展開していった。柳田国男が「民間伝承」すなわち言葉の探求により「民俗学」を確立していったのとは、方法論の違いだけでなく、その学問領域も異なって行かざるを得なくなり、新たに「考現学」を確立していくことになる。


今が、「考現学」に至ったのは、関東大震災後の東京の復興に目を向けざるをえないようになったことからだった。その間の活動を略歴から記しておく。


1923年:35才 関東大震災。麹町富士見町の借家で被災

         バラック装飾社を設立


1925年:37才 銀座の街頭で初の考現学調査


1927年:39才 新宿紀伊国屋書店で「しらべもの<考現学>展覧会」を開催


1930年:42才 『モデルノロヂオ<考現学>』を出版


今にとっての「民家」は、地方の農家だけでなく、また過去のものではなく、都会の、そして現在の人々の生活の場として捉えられている。その「民家」が関東大震災によって、ことごとく破壊されてしまった。自らの家も被災した今の眼は、震災後の人々の生活空間としての「バラック」に向かう。バラックとは、応急措置として仮に建てられる建築であり、本来の「建築」から外れたものである。しかし、そこにも人々の生活がある、営みがある。だから今は、眼をむけたのである。いや、むかざるを得なかったのである。


震災後の街には応急のバラックによる仮店舗がつぎつぎにつくられた。今らは、「バラックを美しくする仕事一切」をするバラック装飾社を設立する。


さらに復興に向け、生活を改善していく姿に目を向け、銀座の街で人々の風俗を観察し、スケッチし、分析した。

それを「考現学」と名付けた。考古学が、発掘されたモノにより古代の生活を研究するのに対し、人々の服装などモノによる観察から現在の生活の姿、風俗を探求し、未来への生活の改善まで研究していく、それが考現学である。


柳田の「民俗学」の基本がモノではなく口承、言葉によって「過去」の「農村」の人々の生活、営み、すなわち「民俗」を探求するのに対し、今の「考現学」は、モノを観察することにより「現在」の「都市」の人々の「風俗」を探求するという、方法論の違いだけでなく学問領域も異なっている。


ただし、関東大震災は、柳田をも「風俗」の領域に広げさせた。それが『明治大正史世相篇』1931年刊行である。その中の「家と住心地」の章で、次のように語る。

「大正12年の震災は、関東地方の都市と農村において、古い新しいいろいろの家を破壊して、それにからまる旧来の行きがかりを一掃してくれた涙なくしては早期で来ぬ歴史ではあったが、より良き将来を期すべく人々はこの機会を利用したのであった。」


今の民家論は、震災を契機に、こうした思いを共有しながらも、さらに柳田とは異なる方向<考現学>に進んでいった。


今は、後年、この時期の民家~バラック~考現学までの活動をつぎのように振り返って語っている。

「私はつくづく、自分はいま現在のこと、人々が働き、楽しみ、いろいろくふうをこらしているさまに興味をもつ性格だったのだと思う。だからこそ震災後の焼け跡に、つぎつぎと仮小屋がたてられ、人々が焼け落ちたかこのなかから新しい生活をたてなおす姿をみて、ほんとうに感動できたのだし、考現--いまを考え、未来をつくることのひつようを痛感したのであったと思う。私の長い民家の旅をふりかえってみても、同じことがいえる。」『日本の住まい』1972年より

 

3.破門された夢 


ここに、師・柳田国男との関係に事件が起きる。今によれば、「街のしらべものをもっともらしいものにみせかけるのに<考現学>という旗を立てた。それがいけなかった。柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」という。


しかし、この事件については、弟子の竹内芳太郎がたしかめたところ、柳田は「私は別に今くんを破門なんかしていない、彼が自分でそういっているだけだヨ」と応えたという。


つまり、破門は、今和次郎の柳田「民俗学」への訣別宣言だった。破門という言葉を使ったのは、自らを不肖の弟子とすることによって、師に対する礼節と尊敬とを持ち続けようとしたともいえる。

こうして、二人の学問領域、方法論などの違いが、今を柳田の「民俗学」から渋沢敬三の「民族学」に近づけることになった。


柳田と渋沢の二人の民俗(族)学の違いをあえて比較して見ると、

柳田は、民間伝承に基づき、民俗学を確立したが、文字資料、モノではなく、あくまでも口承によるものであった。一方、渋沢は、「理論づける前にまず総てものの実体を掴(つか)むことが大変大切」として、常民の生活を実証的、実体的に研究するために「民具」というモノ、生活の道具に着目した。

対象とする「常民」という言葉についても、渋沢は「コモンセンス=常識」と訳することから、「コモン・ピープル=常民」という意味で使っているのに対し、柳田の「常民」は稲作に従事する農民として使う場合が多い(柳田の常民概念については、幅広く議論が多いが、ここでは単純化し対立的に捉えている)。


このような方法論的な違いだけではなく、そもそも、民族学(エスノロジー)と民俗学(フォークロアー)の違いが、二人の学問領域の差でもあった。


柳田が「一国の民俗学」を唱えたのに対し、渋沢敬三は、エスノロジー(民族学)とフォークロアー(民俗学)は車の両輪であり、ふたつともやるべきだという考えであった。日本文化を知るには、諸民族の文化を知らないと、なにが日本文化の特質かがわからない。かといって諸民族の研究をするとしてもその民族の人になり切ることはできないのだから、文化の価値判断の基準は自分の生まれ育った民族(俗)文化の尺度ですることになる。だからエスノロジーとフォークロアー両方をあわせたものを「民族学」として考えた。


そもそも、実際に、渋沢と今とが最初の接点を持ったのは、渋沢からのアプローチだった。敬三が、東大の学生だったころ(1920年:24才)、親戚筋の石黒忠篤を介して今和次郎をレコードを聴きに来ませんかと誘ったという。当時、今はすでに早稲田大学建築科の教授になっていた(32才)。

学生であった渋沢が、8歳年上で、すでに早大の教授になっている今に「レコードを聴きに来ませんか」と誘ったのは、敬三の育ちの故、というよりも、今に対しての学問的興味と、それ以上に人間的な関心が強かったからということであろう。


今が、敬三のアチックと関わり合いを持った時期がいつ頃かは、はっきりしないようだが、少なくとも1929年ごろからとみられる。そして、すでにみたように、1930年、今が欧州視察をした際、敬三から渡されていたガイドブックをもって、スェーデンのスカンセン野外博物館を訪れた。ただ、今は、スカンセンよりもノルウェーの野外博物館のほうを高く評価している。


渋沢の博物館の夢は、これら北欧の博物館の見聞をお互いに共有することにより、今の野外博物館のグランドデザインへと具体化が図られた。民族博物館の構想に進む前に、いまではほとんど知られていない小規模な「博物館」がつくられ、そこに今の民家を展示するという夢が注ぎ込まれた。


それが明治神宮外苑にある日本青年会館につくられた「大日本聯合青年団郷土資料陳列所」である。日本青年会館内の3室に設けられた郷土資料陳列所で、1934年から1937年までの4年ほどの短い期間しかなかったため、幻の郷土資料館となった。この小さな陳列室に今は、自らのアイディアを注ぎ込んでいる。具体的には、民家の模型(1/50の縮尺)をつくって展示したのである。今は、ヨーロッパに見た博物館を日本にもつくりたいという思いが、小規模ながらつくる機会を得て、たいへんな熱意をもって、この民家の展示に取り組んだ。


今は次のように、さらなる熱意を語っている。

「この小さな郷土博物館が、やがて大きな日本民族博物館となる日も必ずしも遠いことではないと信ずる。日本を愛するものは、先ず我が郷土を研究し、これを開発することを根本とせねばならぬ。」


実は、この郷土資料館の設立にあたっては、渋沢敬三も深く関わり、アチックの郷土玩具のコレクションを寄贈するなどの支援をしている。この郷土資料館が民族博物館への予備段階でもあった。


今は、同じく「小博物館の開設に際して」という文の中で、「さる人の理想談を聴いてかかる博物館の意義に痛感した事があった。それは現在の二重橋の大広場に、一方に、我が国の上流の生活を示す物件を収集した博物館を建て、これと相対して他方に、我が国の平民大衆の生活を示す物件を収集した博物館を建て、この両々相まって陛下の統べられる或いは統べられた過去を物語らしめるならば、それは見事ではないか、というのであるが、不幸にして我国には、まだありし我国の大衆生活の様相を示さんと用意を持った博物館の小規模のものもなかったのである。」


今が理想談を聴いた「さる人」とは、渋沢敬三ではないかと想像される。ここで、今は敬三と同じ「博物館の夢」を抱いたのではないだろうか。


今の「破門された夢」が、敬三の「博物館の夢」と重なって、その実現にむけて取り組んだのが「保谷民博」の野外博物館のグランドデザインであったと言えるだろう。


しかし、敬三が、「百年たてば、ここは近代日本を語る正倉院になる」と言い続けたという民族博物館の夢は、すでにみてきたように実現には至らなかった。

            「保谷民博」の俯瞰図
           「保谷民博」の写真(戦後)


 

余話:今和次郎と東伏見


今和次郎のことをいろいろ調べているうちに、今が東伏見駅(西武新宿線)南口にあった長者園という住宅地に住んでいたということを知り、そのあたりのことをメモしておく。


今は、1928年:40才のときに結婚し、翌1929年に自ら新居を設計し、北多摩郡上保谷(現在の西東京市)に転居した。


同じ年に、中島飛行機の社員研究所であったところに、京都伏見稲荷神社の分霊を勧請し、東伏見稲荷神社が建てられた。これに伴って駅名も上保谷から東伏見となった。

(東伏見稲荷神社には、中島飛行機武蔵野製作所で亡くなった人々の慰霊碑がある。なお、かっての武蔵野製作所の場所が、NTT武蔵野研究所である)。


当時の西武鉄道は、この地域の沿線開発の柱として、伏見稲荷神社の勧請とともに、早稲田大学への土地(25000坪)の提供(1925年)をしている。早稲田大学は、この土地を運動部のグランドと合宿所にあて、現在でも東伏見キャンパスとして野球部をはじめ、いろいろな運動部が集まっている。


沿線開発のもうひとつの柱が長者園という住宅分譲であり、早稲田の関係者が多く移り住んだという。早大の教授であった今もこちらに転居した。他にも早大の建築科で、今と同じ佐藤功一の門下であった佐藤武夫(建築音響工学の先駆者)も移り住んでいる。


その佐藤が今の新居について、次のようにちょっと茶化して語ったという。

「曰く、今和次郎は「早稲田一の変人」と言われていたのに家は常識的な郊外住宅である。数千冊の蔵書が積んである18畳の書斎が白壁の洋館として独立しているほかは、大工任せの安っぽいものだ。今先生はおそらくあの器用なフリーハンドで方眼紙にかいて大工さんに渡してしまったのだろう。コールテンの洋服を新宿の夜店で買ってこられる態度でこの家ができたものらしい。そのへんは先生らしくて面白い。もっとも、先生にコールテン理論ががあるように、この家にも相当の理論があるかも知れぬ。今度聞いてみよう。」


今の人柄を垣間見るようなコメントである。一般的に建築家の自邸は、その造形理念や美意識が反映され、代表作となる場合が多いとされるが、今の場合は、それに当てはまらない。残されている自邸のスケッチからは次のように説明されている。「増築を重ねた後は部屋同士が直接つながり、まるでいくつもの建物が集まる村のようでもある。 (中略) 統一された造形理念ではなく、むしろ緩やかな個人と共有の空間の集合という今和次郎の家族観そのものが空間化された結果といえよう。」『今和次郎 採集講義』2011年


残念ながら、この今和次郎の自邸が東伏見のどのあたりにあったのか、まだ確認できていない。これからも散歩をしながら見つけてみたいものである。

              東伏見駅・西武新宿線
               東伏見稲荷神社参道
                東伏見稲荷神社







      早稲田グランド・安部球場
安部球場
乗馬クラブ


早稲田合宿所

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