2022年7月28日木曜日

思い出のアルバム8~塔1・関西編

 

                 京都・東寺・五重塔

これまでに撮った五重塔、三重塔などの塔を整理してみました。といっても、2017年以降に撮ったもので、Googleフォトに入れていたものの中から選び出したものですが、それでも、かなりの数がありましたので、関西編と関東編の2回に分けてアップします。


1.塔について

塔は、インドの仏教の開祖・釈迦の廟で、仏舎利を納めた「ストゥーパ」を音訳した「卒塔婆(そとうば)」を略して塔婆、あるいは塔と呼んだものである。日本の寺院では高い建築物として、五重塔、三重塔、多宝塔などが建てられた。また、中世から近世以降には、死者の追善供養として、五輪塔、宝篋印塔、板碑、墓塔、板塔婆などの供養塔ができた。これらは石造であることが多い。

この高い建築物のほうを「塔」と呼んでいる。仏教が日本に伝来してきた6世紀中ごろは、塔が寺院の中心的な建築であった。そのことは、飛鳥寺の伽藍配置が塔を中心として3方に金堂が配置されていることからもわかる。

その後の伽藍配置の変遷から塔の位置を見ておくと、

飛鳥時代は四天王寺に見られる、門、塔、金堂、講堂が南から一直線上に並ぶ四天王寺式といわれる配置で、法隆寺の旧若草伽藍も同様である。

法隆寺式では、中門を入ると、金堂と塔が並ぶ伽藍配置となり、本堂と塔が同格となっている。

白鳳時代、薬師寺になると、一基だった塔が二基となり金堂の前に並ぶ、二塔一金堂式になる。塔はたんに舎利を祀るだけでなく、伽藍を一層、荘厳にする建築へと変容していった。

奈良時代になると、東大寺の伽藍配置にみるように、塔は金堂など中心の堂宇が建つ回廊内から出てしまう。伽藍は一層大きくなり、金堂に安置された仏像の崇拝に中心が移っていった。

平安時代になると、浄瑠璃寺にみるように、浄土式の池泉庭園を設けた伽藍となり、阿弥陀堂を彼岸とし、塔は此岸とした浄土の世界を表す配置となる。山岳寺院では、室生寺のように小さな五重塔が奥の山を切り開いて建てられた。

塔の高さをみると、奈良時代、聖武天皇によって全国に国分寺、国分尼寺が造られ、その総本山である東大寺には、かって100メートルほどの高さがある七重塔が東西に建てられていた。さらに平安京の法勝寺には九重塔まで造られたことがあるという。多重塔としては、談山神社の十三重塔が現存している。

仏教が伝来し、高層の塔を中心とした伽藍は、その偉容さから、信仰だけでなく、見た目にも大きな衝撃であっただろう。それは、戦国時代に造られた天守閣を中心とした城も、さらに明治時代の西洋建築が与えたインパクトも同じようなものであっただろう。いずれも高さが大きな権威を象徴する建築物でもあった。

塔は、上から下まで貫く「通し柱」ではなく、塔の各層とは連結しない独立した「心柱」によって建っているので地震には強い構造となっている。逆に落雷による火災などには弱いといえる。

東寺のように心柱を大日如来とみなし、心柱の周囲に密教の仏を安置している。塔そのものが祈りの対象となっている。

また、多宝塔は、真言宗の寺院によく見られる建物で、大日如来を安置していることが多い。円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を載せた形の塔を「宝塔」と呼ぶ。この形式の「宝塔」は徳川将軍家の霊廟などにも用いられ ている。

こうした歴史的な寺院の塔だけではなく、東京タワーなど、ランドマークともなっているタワー(=塔)も東西に分けてとり上げた。写真とともに、それぞれの塔をみていく。


2.奈良の塔

(1)法隆寺2017.4撮影)

法隆寺の五重塔は、現存する最古のもので、その建築年は定かではないが、日本書紀にある法隆寺の火災が起きた670年以降とされている。

日本で記録に現れる最初の塔は、日本書記に書かれている585年に蘇我馬子が飛鳥の大野丘に建てた塔だという。また遺跡として確認できる最初の塔は、593年建てられた飛鳥寺の塔である。

法隆寺の伽藍は、五重塔が金堂と並ぶ配置が特徴である。塔の内陣には、東西南北それぞれに塑像の群像が安置されている。とりわけ北面にある釈迦の入滅を悲しみ、号泣している弟子の姿はリアルで印象に残る。

なお、心柱の下に舎利容器が納められている。

法隆寺・五重塔と金堂

(2)興福寺2017.32017.4撮影)

興福寺の塔は、京都・東寺に次いで、日本で2番目に高く、約50メートルあり、奈良県内では最も高く、その次に高いのは東大寺の大仏殿の約49メートルである。

興福寺は、藤原氏の氏寺で、710年平城京遷都に際し、藤原不比等によりこの地に移され、興福寺とされた。五重塔は、平安以降、度重なる火災などにより焼失し、現在ある塔は、1426年に再建されたものである。

さらに、明治に入り、神仏分離令(廃仏毀釈)、さらに寺領の上知令によって、興福寺の塔も売りに出されるという事態となった。 五重塔は二十五円で売却され、買主は金具をとるためにこれを焼こうとしたが、付近の町家が類焼を恐れて反対し、そのために五重塔は残った、という。しかし、興福寺の公式HPでは、五重塔売却の話自体が、「あくまでも伝承の域を出ない」としている。

いずれにしても、こうして残っており、猿沢池に映る五重塔は、しだれ柳とともに奈良を代表する景観となっている。

興福寺には、五重塔とともに、三重塔もある。北円堂よりも下にあるため気づかない人も多いようだ。しかし、こちらの塔も国宝となっている。鎌倉初期に再建されたのが現存の塔であり、高さは19メートルほどであるが、軽やかで優美な姿である。

興福寺・五重塔

興福寺・五重塔~猿沢の池

興福寺・五重塔~県庁から

興福寺・三重塔

(3)室生寺2017.11撮影)

室生寺の五重塔は、800年頃に建立されたもので、現存する五重塔としては法隆寺に次ぐ歴史を持っている。高さは約16メートルほどであり、屋外に建つ五重塔としては日本最小である。

土門拳の写真が、この五重塔の美しさを知らしめたといえるだろう。とりわけ石楠花が咲いている時期、階段の下から五重塔を見上げる姿はベストショットとなる。

しかしながら、一番素晴らしい景色は雪の室生寺であると寺の老師に言われた土門拳は、何度も通った室生寺だが、その雪景色だけはどうしても撮れずにいた。58歳で二度目の脳出血を発症し、車椅子による生活を余儀なくされていた。1978年の2月に橋のたもとにある旅館橋本屋で、雪を待つも降らず、「あと一日」という翌日の朝、雪が舞った。急いで、弟子が車椅子の土門を担いで撮影した。それが土門にとって、最初で最後の雪の室生寺であったという。土門拳の写真に対する執念の凄さを物語るエピソードである。

一方、奈良を撮り続けた入江泰吉は、奈良在住という地の利を生かし、雪が降ると、室生寺に駆け付けた。何枚もある写真の中で選らんだのが「吹雪の室生寺山内」という、雪に埋もれた五重塔を木の枝から雪が落ちる瞬間を撮らえた一枚であった。サーッと雪が落ちる音までが聞こえてきそうな情感を漂わせる五重塔の景色である。

その美しい五重塔が無残な姿になってしまったのが、1998年の台風で、そばにあった高さ50メートルもある杉の大木が倒れ、小さな五重塔の屋根に直撃し倒壊寸前になった。幸い心柱を含め塔の根幹までは損傷せずに済み、その後、2000年にかけて修復工事を行い、元の美しい姿が甦った。

室生寺・五重塔

(4)長谷寺2017.32017.11撮影)

長谷寺は8世紀前半の創建とされ、本堂には十一面観音を祀る。本堂の前には、京都・清水寺と同じく懸造の舞台がせり出している。ここから眺める五重塔は、秋は紅葉と相まって美しい姿である。

そもそも長谷寺にあったのは三重塔で、いまの五重塔のすぐ近くに三重塔跡があり、その礎石が残っている。この三重塔は慶長年間に豊臣秀頼によって再建されたものであったが、1876年(明治9)に落雷により焼失している。

いまの五重塔は、1954年に戦没被災者の慰霊として、建立されたものである。本堂の観音に対し、こちらには大日如来を本尊としている。

長谷寺・五重塔

長谷寺・五重塔

(5)岡寺2018.5撮影)

岡寺は明日香村の岡山の中腹にあることから付けられた名で、龍蓋寺が建立当初の正式名である。悪龍を石で蓋をして厄難を取り除いたことから、ついた名で、そこから日本最初のやくよけ霊場として鎌倉時代には信仰が広まったという。

創建は、8世紀前半とされるが、今とは別の場所あったとされる。三重塔も、その旧境内にあったが、1472年の大風により倒壊した。その後、長く再建されることなく、1986年(昭和61)に再建されたのが現在の三重塔である。

岡寺・三重塔

(6)浄瑠璃寺2017.4撮影)

浄瑠璃寺は、行政上は京都府であるが、地理的には奈良から近い。建立年代については、定かではなく、1178年に京都一条大宮から移築されたとの記録があり、平安時代後期と推定されている。

境内は浄土式庭園を形成しており、境内の中心に池があり、そこには小島が設けられ弁財天が祀られる。池を挟んで東側に三重塔が薬師如来を安置し、西側の本堂には九体の阿弥陀如来を安置する。薬師如来は、東方浄瑠璃に住み、現世の苦しみを除く仏であり、阿弥陀如来は西方極楽浄土で来世に導く仏である。三重塔のある東岸は「此岸」、本堂のある西岸は「彼岸」で、池に映る九体の阿弥陀如来を拝むことで浄土に導かれる、という仏の世界を表している。

三重塔は高台に建ち、池を通して本堂を見下ろす位置にある。高さは16メートルほどで、興福寺の三重塔よりも小ぶりであるが、朱の柱と白い壁の色彩をまとい美麗な姿である。

浄瑠璃寺・三重塔

浄瑠璃寺・三重塔

(7)海龍王寺2018.5撮影)

海龍王寺は、平城宮の東方に位置し、隣接する法華寺とともに、かっては藤原不比等の邸宅であったところである。遣唐使として中国に渡った玄昉が、新しい仏法と国の平安をもたらすことを願い、光明皇后によって創建されたというが、正確なところはわかっていない。

西金堂内に五重小塔が置かれていて、一見すると模型ではないかと思えるほどの小ささで、高さは約4メートルしかない。この小塔は、模型ではなく正式な五重塔として造られ、西金堂は、この小塔の覆屋とする説もある。ただ、塔内には仏舎利ではなく、法華経8巻が納められている。小型ながらも細部は薬師寺の三重塔と類似していて、8世紀前半、奈良時代の建築とされ、国宝となっている。

なぜこのような小さな五重塔が造られたかについては、邸宅という限られた敷地内に大寺院の伽藍形式をとり入れるため、東西両塔を備えた形式を持ち込むべく、東西の金堂に小塔を納めたと考えられている。なお、東金堂は明治初年に焼失している。

海龍王寺・五重小塔

(8)談山神社2018.5撮影)

談山神社は、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後、その遺骨の一部をここ多武峰山頂に改葬し、678年、十三重塔と講堂を建て、妙楽寺と称した。さらに701年、鎌足を祀る神殿を建てたことが談山神社の始まりとされる。

645年、中臣鎌足と中大兄皇子が乙己の変の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」と呼んだことから、この名がついたとされる。

現在ある十三重塔は、1532年に再建されたもので、高さ約17メートルあり、圧巻である。現存する木造の多重塔としては唯一のものである。多重塔としては、東大寺の七重塔、京都・法勝寺の九重塔があったとされるが現存していない。

ただ、この十三重塔は、楼閣型ではなく、屋根が密に重なって、屋根と屋根との間にはほとんど空間がない。

なお、明治の神仏分離令までは、神と仏が一体となった神仏習合であり、妙楽寺と呼ばれていたが、神仏分離により、妙楽寺が廃され談山神社となった。その際、本尊の阿弥陀三尊像は、近くの安倍文殊院に移され、なぜか釈迦三尊像として安置されている。

神社とはいえ、神仏習合の寺院の建築が残され、十三重塔がまわりの建物の中にあって、一段と映えて建っている。

談山神社・十三重塔

談山神社・十三重塔

(8)円成寺2019.3撮影)

円成寺は、真言宗の寺院で、平安時代中期の創建された。その後、応仁の乱などにより多くを焼失したが、ほどなく再興された。

再建された多宝塔は、1920年(大正9)に鎌倉の長寿寺に移され、観音堂として改築されている。現在、円成寺に残るものは1990年(平成2)に再建されたものである。

この多宝塔に、かっては運慶の初期の代表作である大日如来像(国宝)が安置されていた。もともとは、本堂にあったが、多宝塔に移され、いまは新しくできた相應殿に移されており、多宝塔にはレプリカが置かれている。

いまは近くで運慶の大日如来像を拝することができるが、多宝塔にあるレプリカもガラス越し見ると、オーラを放っているように見えた。

多宝塔は、奈良市内では、この円成寺の塔のみである。前段で述べたように、多宝塔は真言宗の寺院にみられ、多くは大日如来を安置している。

円成寺・多宝塔

3.京都の塔

(1)東寺2017.112020.11京都タワーから撮影)

東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められ、そのため教王護国寺とも呼ばれる。823年には空海に下賜された。真言密教の道場として本格的な伽藍が整えられ、南大門、金堂、講堂、食堂、北大門が南北に並び、東南に五重塔、西南に灌頂院が配されていて、創建当時の伽藍配置を伝えている。

なお、平安京には羅生門を挟んで、ほぼ左右対称に東寺と西寺が官寺として建立されたが、西寺は戦国時代中頃まであったとされるものの、今はその礎石と史跡を示す石碑のみとなっている。

西寺は、東寺以上の伽藍配置をしていたともいわれ、五重塔も建てられていたが鎌倉時代には焼失し、その後再建されなかった。

東寺の五重塔は、空海の没後9世紀末に建てられたが、落雷などにより何度も焼失し、現在の塔は、江戸時代、徳川家光の寄進により再興された5代目となる。

高さは、54.8メートルと木造塔としては日本一の高さである。塔の内部は両界曼荼羅などが描かれ、心柱を中心として諸仏が並ぶが、ここには大日如来像は置かれていない。というのは、心柱を大日如来とみなしているからである。

東寺の講堂には、大日如来を中心に諸仏を配置し立体曼荼羅の世界をビジュアルに表しているといわれるが、この五重塔もまた、密教の曼荼羅の世界をあらわしている。

残念ながら、塔の内部は特別な日のみの公開となっている。しかし、秋には夜間ライトアップされ、紅葉に照りかえる五重塔は美しい。

また、京都タワーからは、日本一高い塔である東寺の五重塔を近くにみて、遠くには日本一高いビルである大阪の「あべのハルカス」を眺めることができる。

東寺・五重塔

東寺・五重塔~京都タワーから

(2)清水寺(2020.11、京都タワーから撮影)

清水寺といえば、京都観光の目玉の一つといってもよいだろう。有名なのは本堂前の懸造りの「清水の舞台」である。

清水寺は、平安京遷都以前からの歴史を持つ778年の創建とされる。三重塔は847年の建立だが、10回を超える大火災により堂宇を焼失し、その度に再建してきている。現在の塔は1632年に再建されたもので、高さ約31メートルで、三重塔としては日本最大級である。

塔内には、大日如来像が祀られ、柱や壁には仏画が極彩色で描かれている。

京都タワーからは、東山の緑をバックに三重塔、本堂の舞台など清水寺の堂宇を一望できる。

清水寺・三重塔~京都タワーから

(3)八坂の塔(法観寺)

清水寺と八坂神社の間に位置する「八坂の塔」は、京都らしい景観としてよく知られている。しかし、正式名称はあまり知られていないが、「法観寺」といい、こちらも平安京遷都以前からの寺院で、渡来系の八坂氏の氏寺として、7世紀に創建されたという。

五重塔は、平安以降、戦乱や落雷などにより何度も焼失、再建を繰り返し、現在ある塔は、1440年、足利義政の支援により再建されたものである。

塔の高さは46メートルあり、東寺、興福寺の塔に次ぐ高さを持つ。心礎は、創建当初のものが残っており、塔内には大日如来を中心に五智如来を安置している。

「八坂の塔」と「京都タワー」という二つの塔を眺めることができるスポットが高台寺付近にあった。

八坂の塔

(4)祇園閣(2019.11撮影)

八坂神社の近くにあるこの望楼は、上に祇園祭の山鉾を乗せている。これは、1928年に建築された大倉財閥の大倉喜八郎が別邸に建てたものである。高さは約36メートルあり、屋根は銅板葺きで、金閣、銀閣に次ぐ「銅閣」として洒落て造った塔である。

大倉は、祇園の鉾の形をそのまま建築し、街を一望できる高閣として京都の名所にしたという思いを設計者の伊東忠太に伝えたという。京都の町の中では、やはり奇想の建築にみえる。

因みに、伊東忠太が設計した京都の建築としては、平安神宮(1895年)、豊国廟(1896年)、西本願寺伝道院(1912年)がある。

祇園閣

祇園閣

(5)鞍馬寺(2019.11撮影)

鞍馬は、牛若丸が修業をした地として知られている。鞍馬寺は、鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)により、開山したという。8世紀末ごろに創建されたが、その後幾度も焼失、再建を繰り返したが、1945年(昭和20)に本堂などが焼失し、現在の堂宇はいずれもその後に再建されたものである。

多宝塔は、もとは本堂の東側に建てられていたが、1957年にケーブルカーの開通とともに、「多宝塔礼堂」という仏堂が駅舎を兼ねて造られた。鞍馬寺は、参拝者の便のためケーブルカーの運営を行っており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者となっている。そのケーブルカーの終点が多宝塔駅である。

鞍馬寺・多宝塔

4.大阪、和歌山、大分の塔

(1)四天王寺(2019.3撮影)

四天王寺は、飛鳥寺と並び日本における最古の仏教寺院のひとつで、聖徳太子の建立という伝承を持ち、「太子の寺」といわれる。

四天王寺の伽藍配置は、南大門、中門、塔、中金堂、講堂が一直線上に並ぶ、「一塔一金堂」式で、四天王寺式伽藍といわれ、一番古い様式といわれていたが、飛鳥寺の発掘によりその伽藍様式が確認され、定説が覆った。

五重塔の創建は593年だが、その後やはり焼失・再建を繰り返し、今の塔は8代目となる。近年では、1934年(昭和9年)の室戸台風による倒壊し、再建したものの、また1945年(昭和20年)の大阪大空襲により焼失し、1959年(昭和34年)に、鉄筋コンクリート造りで再建された。

しかしながら、現在の建物も創建当時(飛鳥時代)の様式を忠実に再現しており、古代の建築様式が今に残っているという。それを可能としたのが、現存する世界最古の企業といわれる金剛組である。

金剛組は、578年に四天王寺建設のために百済から招かれた宮大工の一人が創業し、以来、四天王寺のお抱え宮大工となった。創建当時の四天王寺の工法が金剛組の組上げ工法として引き続いて生きているという。

とりわけ、室戸台風で倒壊した際には歴代初の女棟梁・金剛よしえが第38代目となり、「命がけ」で再建を果たし、「昭和の国宝」といわれるほどの高い評価を得た。しかし、その塔はわずか5年で、空襲で焼失してしまった。火の海を前にして、よしえは「目の前で我が子を失ったようだ」と嘆いたという。さらに試練が続き、四天王寺は再建に当たり木造ではなく耐火性に優れたコンクリート建築を求め、他の大手建築会社に依頼した。そこで、金剛組はコンクリート工法を学び再建を任されることになった。

四天王寺がいまも当時の姿を蘇らせているのは、金剛組のこうした努力の歴史があったからといえる。

四天王寺・五重塔

四天王寺・五重塔

(2)那智・青岸渡寺(2020.2撮影)

青岸渡寺は、那智大社に隣接して位置しているように、熊野那智大社と一体化した神仏習合の修験道であった。明治の神仏分離令により、熊野三山の二つ(本宮大社、速玉大社)では仏堂はすべて廃されたが、那智大社は西国三十三書の第一番札所であり、ひとまずは破却されずにおかれた。1874年(明治7)に信者らにより那智大社から独立し、天台宗の寺院として「青岸渡寺」と名付けられ復興した。

三重塔は、戦国時代1581年に焼失していたが、1972年に再建された。塔の内部は、一階に不動明王、2階に阿弥陀如来、3階には千手観音が祀られ、各階の壁には仏画が描かれている。

那智の滝の前に建つ三重塔は、他では見られない最高の撮影スポットであり、何回もシャッターを押した。

青岸渡寺・三重塔と那智の滝

青岸渡寺・三重塔と那智の滝

青岸渡寺・三重塔

(3)大分臼杵・龍源寺(2017.10撮影)

大分臼杵にある龍源寺は、1600年に創建された。暴れる龍を昇天させて開基したという伝承があり、龍源寺という名がついている。

三重塔は、臼杵の宮大工が、奈良や京都の古寺をめぐり、その長所を取り入れて1858年に完成させた。高さは21.8メートルあり、内部には聖徳太子の像が安置されている。

明治に入り、西南戦争により本堂は焼失したが、この三重塔や山門は難を逃れた。九州に残る二つしかない江戸時代の三重塔である。

三重塔のみならず、五重塔も含め九州には古くからの塔が少ない。九州を代表する古寺である大宰府・観世音寺も、創建当時あった五重塔は、いまはその礎石が残るのみである。

なぜ、九州には、寺の数はあるものの、塔がこれほど少ないのだろうか。廃仏の気風や、宗派や信仰のあり方など、なにか九州特有の要因があるのだろうか。

龍源寺・三重塔


5.滋賀の塔

(1)長命寺(2020.11撮影)

長命寺は、琵琶湖畔にある標高333メートルの長命寺山の山腹にあるため、808段の石段の参道を登る必要がある。(いまは本堂近くまで自動車道がある)

この寺も聖徳太子の伝承を持ち、太子が武内宿祢の長寿にあやかり、長命寺と名付けたという。その名の通り参拝すると長生きすると言い伝えられている。また、西国三十三所の31番札所で、30番札所の竹生島宝厳寺から、かっては船で上陸して参拝したという。

境内のやや小高い所に建つ三重塔は、1597年に再建されたもので、桃山時代の建築様式を備えた貴重な建物とされる。塔の内部には須弥壇があり、大日如来像と四天王像を安置している。

長命寺・三重塔

長命寺・三重塔

(2)金剛輪寺(2020.11撮影)

金剛輪寺は、西明寺、百済寺とともに湖東三山と言われ、紅葉の名所となっている。金剛輪寺は平安末期の創建とされているが、1573年、織田信長の兵火により被害を受けるも、現存する本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。

本堂の横の一段高い場所に建つ三重塔は、織田信長の兵火はまぬがれたものの、近世以降は相当に荒廃し、現在の塔は1975年から修理復元されたもので、復元にあたっては西明寺の三重塔などを参考にしたという。

金剛輪寺・三重塔

(3)西明寺(2020.11撮影)

湖東三山の一つ、西明寺の塔は、鎌倉後期の建築とされ、総桧造りの優美な塔であり、国宝となっている。

塔内には、大日如来像を安置し、極彩色で描かれた壁画は、法華経の極楽世界を表している。

琵琶湖周辺の寺院は、比叡山延暦寺のお膝元ということから天台宗が多いが、天台宗では法華経を根本仏典としており、そこには「塔を建立するこものは悟りを得ることができる」と説かれていることから、塔が建てられていることが多い。

また、日蓮宗も法華経を信仰することから、池上本門寺(東京)、法華経寺(千葉)などに五重塔が建っている。

西明寺・三重塔

西明寺・三重塔

(4)常楽寺(2020.11撮影)

常楽寺は、長寿寺、善水寺とともに、湖南三山(湖東三山に対して)のひとつになっている。和銅年間(708-715年)に、東大寺を開山し、大仏を建立した良弁によって創建されたとされる。

1360年に落雷により伽藍を焼失し、本堂は同年再建されるが、三重塔は1400年に再建された。いまは、三重塔を回るように裏山に歩道が整備され、ところどころに石仏が置かれている。本堂、三重塔ともに国宝となっている。

塔の高さは、23メートル弱あり、天台宗の三重塔としては、一番高いといわれていたが、本寺が2022年に天台宗から離脱したため、この表現は当てはまらなくなった。

常楽寺・三重塔

常楽寺・三重塔

常楽寺・三重塔

(5)長寿寺(2020.11撮影)

湖南三山のひとつ長寿寺は、その創建は定かではないが、寺伝によると、奈良時代に聖武天皇が良弁が籠っていたこの地が紫香楽宮の鬼門に当たることから、鬼門封じと皇女の長寿を願い勅願寺として「長寿寺」と名付けて創設したという。

長寿寺にも常楽寺と同様、三重塔があったが、織田信長によって安土城にある摠見寺(そうけんじ)に移築され現存している。

長寿寺には、いまは三重塔の礎石が残っており、戦国時代の琵琶湖周辺の寺院の変遷を物語るものとなっている。

長寿寺・三重塔跡

(6)竹生島・宝厳寺(2020.11撮影)

琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺は弁財天信仰の聖地とされている。江戸時代には神仏習合が一体となり、弁財天信仰と西国三十三所の札所の観音霊場としても大いに賑わった。

弁財天は本来、神道ではなく仏教の守護神である天部のひとつであり、明治の神仏分離令の際にも、本堂を「都久夫須麻神社」とし、宝厳寺を廃寺するよう命令が出たが、寺側は弁財天は神道の神でなく仏教の仏であると主張して譲らなかった。結局、竹生島の信仰施設を宝厳寺と 都久夫須麻神社に分離し、今に至っているが、観音堂と神社本殿は渡り廊下で繋がっているなど、両者はもともと分離不可分もの関係であったことがわかる。

宝厳寺の本堂の横に建つ三重塔は、江戸時代初期に焼失し、約350年ぶりに2000年(平成12)に復元された。

竹生島・宝厳寺・三重塔

6.タワー

(1)京都タワー(2020.11撮影)

京都駅の前に建つ京都タワーは、台座となっているタワービルを含めた高さが131メートルあり、京都市内では一番高い建物となっている。1964年、東京オリンピックの年に開館した。設計は、日本武道館も手掛けた山田守によるもので、山田は、単なる鉄骨による無骨なタワーでは京都の表玄関にはふさわしくないとして、白い円筒状の優雅なデザインを採用したとしている。

このタワーからは京都市内が一望でき、逆に市内からはこのタワーをどこからでも見られ、古都京都のシンボルタワーとなっている。

京都タワー

京都タワー

(2)通天閣(2019.3撮影)

初代の通天閣は、新世界とともに大阪の新名所として1912年に建設されたが、1943年に火災で大破し、戦時下での鉄材供出のため解体・撤去されてしまった。

現在の通天閣は、二代目で1956年に完成した。設計者は、名古屋テレビ塔、東京タワーなどを手掛け「塔博士」といわれた内藤多仲である。翌年から塔の側面に日立製作所が広告を出し、今に続いている。当初は、松下電器に広告を打診したが、社長の松下幸之助の判断でこれを断った。しかし、後年、通天閣とともに、日立の広告が大阪の名物として広く認知されるようになり、幸之助は広告の掲出を見送ったことを悔やしんだという。

通天閣

(3)長浜タワー(2020.11撮影)

滋賀・長浜の駅近くのビルの上に鉄塔が建っている。地元の資産家が長浜にも東京タワーのような名物を作りたいということで5階建てのビルの上に「長浜タワー」と文字の入った鉄塔を1964年(昭和39)に建てた。もちろん、この鉄塔はただの飾りで、電波タワーといった機能を持ってはいない。ただ、地元民に愛され、最近、改修工事が行われている。

長浜タワー


思い出のアルバム9~塔2・関東編に続きます。

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