2022年9月27日火曜日

思い出のアルバム14:神社Ⅲ(近世3)~カミとホトケ

 

皇居・大嘗宮(撮影日2019.12.3)


近世の神(3):東照宮から伊勢神宮へ

前回で述べたように、徳川幕府の権威と継続の基盤を作ったのは、家康の二人のブレインであった。一人は天台宗の僧・天海で、家康を東照宮に祀り、寛永寺を江戸の鬼門の守りとするなど宗教による保護を強化した。もうひとりは臨済宗の僧・崇伝で、キリシタン禁教令の草案や武家諸法度、寺院諸法度、禁中並公家諸法度などを起草し、宗教統制の基を作った。

こうした基盤の上に、パクス・トクガワーナといわれる泰平の世が約260年続いた。家康には、吾が邦は「神国」であり、神を敬い、仏を尊び、儒教を学ぶという三教一致の思想があった。そこには前回に述べた「天道思想」があり、諸宗教を統一し、相対化していくベクトルが働いた。

あわせて、仏・神・儒一致の背景には反キリスト教があったと考えられる。神の国においては、神仏が正法であり、キリスト教は邪宗とみなされた。徳川幕府により、キリシタン禁教から鎖国へと進み、ヨーロッパ文化の窓口は長崎のオランダ商館に閉じられ、ヨーロッパの宗教は封印された。

一方で、外来文化としては、禅僧を中心に中国(明朝)文化、儒教の移入があった。江戸時代の儒教は宗教というより、儀礼を伴わない、世俗的な道徳、倫理、行動規範として主に武士に受け入れられた。

江戸時代のカミ・ホトケは、仏教、神道、儒教の多層的な展開のなかで、将軍・幕府から天皇・朝廷まで、そして民衆に至るまで多様な広がりをもって、大きく変容していった。


1.神仏から神儒へ

(1)仏教の役割

徳川幕府は、仏教に大きな役割を与えた、それはキリシタン禁圧のためであった。具体的には、寺請制度により、イエ単位で檀家ー檀那寺の関係を作り、宗門改めとして、キリシタンでないこと、また不受不施派でないことを改めさせた。したがって、すべての日本人がこの仕組みに従うことになり、それは庶民、武士はもちろん、天皇から、神職までが仏教徒になったことになり、いわば仏教が国教となったともいえる。

仏教は幕府の統制の下、保護され、経済的にも安定し、また檀家寺と檀家・民衆との距離が近くなったこともあり、民衆教化に努めた。たとえば、鈴木正三は、島原の乱後に、『破切支丹』を著わし、キリシタン批判を徹底させた。また、『万民徳用』においては、士農工商のそれぞれが自らの職分を尽くすことが、そのまま仏法だと説き、職業倫理の確立を図ったとされる。(封建的身分制度を定着させるものという否定的見解もある。)

臨済宗の中興の祖ともいわれる白隠は、民衆に優しい言葉で仏教の教えを説くとともに、「禅画」といわれる絵により、その教義を説いた。こうした民衆レベルでの仏教の活動には、諸国において何千体もの木彫りの仏像を彫った円空や木喰の活動などがある。どちらも遊行僧であり、円空は荒削りで野性的な仏像を、木喰は微笑を浮かべた温和な仏像を彫り、諸国を行脚し各地に奉納した。

また、僧侶の養成機関として「檀林」をつくり、仏教の学問的研究と教育が行われた。(これが今の仏教系大学に引き継がれている。)

しかしながら、幕府の統制下の保護された安定は、仏教の活性化には至らず、葬式仏教と揶揄されるように、ある意味停滞したといわれる。ただし、葬式仏教が現代にも引き継がれ、寺院の存在価値になっていることは重要である。

(2)神・儒から国学へ

神道においては、諸社禰宜神主法度が出され、全国の神社、神職を統制した。中世以降勢力を付けた吉田神道が、その統制の本家の位置に立ち、ほぼすべての神社等を統制する役割を担った。ただし、朝廷から位階を受けていた神社である、伊勢、賀茂、出雲、稲荷、春日、宇佐などは、吉田家の管理下には入らなかった。

勢力を得た、吉田神道は、仏教を「果実(天竺)」、儒教を「枝葉(中国)」、神道を「根(日本)」と位置付け、神道の優位性を示すとともに、反本地垂迹を説き、仏教からの独立を志向していた。

また、禅僧たちにより、中国(明朝)の儒教が学ばれ、江戸前期には優れた儒学者が現れた。林羅山、山崎闇斎などは、もともと仏教から転向し、朱子学を学んだ儒学者である。こうした儒学者たちの唱えるところは、儒教の基本が、*「五輪・五常」という人間関係において守るべき道徳を説くことから、泰平の世に戦いに行くことがなくなった武士たちの(いざ戦いに備えての)倫理・道徳として受け入れられた。江戸時代の後期になると、武士は幕府の官僚としての、儒学の知識、道徳を学んだ。そして学んだ下級武士たちが、明治維新に活躍することになる。

*五輪:父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、の五つ。

*五常:仁・義・礼・智・信、の五つ。

儒学者たちは 、こうした倫理・道徳を説くとともに、「現世なくして後生(来世)なし」との観点から仏教に対し批判的な立場を取り、吉田神道とも関わり、神儒習合を主張するようになっていった。

有力な藩主である水戸藩・徳川光圀(朱舜水)、会津藩・保科正之(山崎闇斎)、岡山藩・池田光政(熊沢蕃山)は、それぞれ(儒学者)たちから儒学を学び、神仏習合を排し、領内の寺社を整理するなど排仏論を展開した。

また、松平定信の寛政異学の禁(1790年)によって、朱子学は唯一の幕府公認の学として官学的な位置を確保し、昌平坂学問所(湯島聖堂)が幕府直轄の学問所となる(明治になり、東京大学へと引き継がれることになる。)

とくに山崎闇斎は、これまでの神仏習合から、仏教を排除して「神儒合一」を説き、垂加神道を提唱した。闇斎は、もともとは禅宗を学んでいたが、還俗して朱子学を学び、「居敬」すなわち「心を静かにつつしみととのえる」ことが大切だと説いた。この「敬」を、現実の君臣関係の倫理的態度を根本とした。さらに進めて、君臣関係を天照大神から天皇に伝わる神的系譜への忠節の重視に展開した。すなわち、天皇が統治する道が神道であるとした。それは幕末の尊王論につながっていくことになる。

儒教(学)が、広まっていくにつれ、儒教の外来性から脱却し、固有の「やまと魂」=日本人のアイデンティティとして古事記を発見、解釈した本居宣長の国学が登場する。本居宣長は「漢意(からごころ)」を排し、「古意(いにしえごころ)を重んじるべきとし、『古事記』を聖典化して、天照大神に繋がる天皇の系譜の絶対性を打ち立てた。宣長は、東照神と天照神との関係について、「東照神御祖命御代々の大将軍家へ、天照大御神の預けさせ給える」『玉くしげ』と述べているが、その将軍の媒介を削除してしまえば、幕末の尊王論、大政奉還に直結することになる。

宣長の門人を自称した平田篤胤(1776-1843年)は、死後の世界観について人は死後、大国主命の支配する幽冥界に行くとし、死後の安心を説いた。それにより、国学の宗教化が図られ、それまでの仏・儒を排し、純粋の神道、すなわち国体の尊厳を称揚する復古神道を発展させた。篤胤に共鳴する多くの弟子ができ、幕末の尊王攘夷論者に大きな影響を与えた。明治維新には大国隆正などが新設された神祇官の主流を占め、神仏分離、廃仏毀釈などの動きに大きな役割を果たした。

こうして、幕末の時代思想は、これまでの神仏から神儒に勢力が拡大し、ついには国学、復古神道、すなわち国体の尊厳を唱え、尊王攘夷論が主流となっていった。

湯島聖堂・大成殿(孔子廟)(撮影日2019.10.9)

湯島聖堂(撮影日2019.10.9)

湯島聖堂・孔子像(撮影日2019.10.9)


2.権力者の神から民衆のカミへ

(1)多様な神々の信仰

泰平の世になると、庶民は、来世の浄土ではなく、現世利益を求めた。弁天、大黒天などの七福神、秋葉(防火)、金毘羅(海運)など、また三十三の姿に変化してすべての願いを叶えるという観音信仰、あの世の地獄からも救ってくれるという地蔵信仰、三尸虫(さんしちゅう)が己の罪を天帝に告げないよう徹夜する風習庚申信仰(長命)などなどカミ、ホトケの区別なく、霊験あらたかなカミ・ホトケが求められた。

また、流行神(はやりかみ)といわれる、一時的に流行し、すぐに消えていくようなカミ、例えば歯痛や腰痛といった病、安産、厄除けなど日常的な庶民の悩みを解決してくれるような霊験あらたかなカミがあちこちで現れては消えていった。

カミは必ずしも人格神ではなく、たとえば地震を起こすのはナマズと信じられていたことから、安政の大地震(1855年)のあとには大量の鯰絵が出回り、また鹿島・香取神宮には、暴れる鯰をおさえる要石が置かれ信仰された。

大黒天(神田明神)(撮影日2019.10.9)

地震の鯰を押えるタケミカヅチノミコト(鹿島神宮)(撮影日2020.12.9)

要石(鹿島神宮)(撮影日2020.12.9)

要石(香取神宮)(撮影日2020.12.9)


(2)寺社参り

こうした庶民の信仰心の向上とともに、物見遊山を兼ねた巡礼が流行した。観音信仰である西国三十三所巡りは、東でも坂東三十三所、秩父三十四所が加わり、より多くの現世利益を求め百観音巡りとなった。ほかにも四国遍路、熊野詣、伊勢参り、善光寺参り、など各地で巡礼が行われるようになった。こうした寺社参りのために仲間で講を結んで資金を集め、抽選で代表者が参詣、巡礼するようになった。また、遠くまで出かけなくともご利益を授かれるよう、こうした巡礼地の「写し霊場」を寺院のなかにつくるところも出てきて参詣者を集めた。

庶民の信仰を集めた寺院は、出開帳といわれる寺の秘仏を江戸に出張させ、寄進を集めた。なかでも、成田山新勝寺(不動尊)、善光寺(阿弥陀如来)、嵯峨清凉寺(釈迦如来)などの出開帳は多くの参拝者を集めた。そうした出開帳の場は、江戸の回向院、護国寺、深川永代寺などで行われたが、その場には歌舞伎の見世物小屋や茶店などが開かれ、やはり人々の娯楽、憩いといった遊興の場ともなった。

成田山新勝寺は、歌舞伎役者・市川團十郎(初代)が、跡継ぎを祈願し、長男を授かったことから本尊の不動尊に因んだ歌舞伎を演じたことから、成田山の霊験が広まり多くの参詣者を集めた。その後、七代目も跡継ぎを授かり、また江戸から追放された身をかくまってくれるなど、成田山と市川團十郎との縁は続き、自身の等身大の像を奉納している。

民衆の信仰が、江戸の文化を盛り上げ、浮世絵、歌舞伎、読本、相撲など多様な文化が活性化した。

西国三十三所・一番札所・青岸渡寺(撮影日2020.2.19)

西国三十三所・31番札所・長命寺(撮影日2020.11.23)

西国三十三所・31番札所 近江・長命寺(撮影日2020.11.23)

成田山新勝寺(撮影日2020.12.8)

講の石塔・成田山新勝寺(撮影日2020.12.8)

市川團十郎像・成田山新勝寺(撮影日2020.12.8)


(3)民衆からカミに

江戸時代には、一時的にぱっと流行し、すぐに衰えていく、流行神といわれる信仰が庶民に広がった。流行神のなかには生き神として信じられる人も出てきた。たとえば、「於竹大日」というのは、出羽国から出てきて江戸の商人のところで奉公したお竹という女性は、三宝に帰依し、自らの食事をつつましくし貧しい人の救済するなど、慈悲深い生身の如来であるとされ、大日如来の化身として信仰された。

(この例にみる「生き神」は、後で述べる新宗教とは異なり、教団的な組織化に至らず、また大日如来とするように密教系であった。)

また、重税に苦しむ農民のため将軍に直訴し処刑されたという佐倉惣五郎が神として祀られるような義民信仰もあった。(17世紀中ごろ)

さらに、江戸時代も後半になると、地震・火災、飢饉など社会不安も増していった。そうしたなか、新宗教といわれる教祖的な人物を中心に信者が集まり、教団的な組織を形成していった。

如来教は、尾張の農家の女性・きの(1756-1826年)が、突然神がかりして自ら金毘羅と名乗り如来の教えを説くようになり、次第に信者を増やしていった。

天理教は、大和の地主の妻・中山みき(1798-1887年)が、やはり神がかりして、「天の将軍」がみきの身体を「神の社」としてもらい受けると宣言したという。やがて、その神は「てんりんおう(天理王命)と名乗り、みきは「おふでさき」という文章によって神の意を伝えるようになったとされる。

これにみるように、身分制社会で抑圧されてきた女性が、シャーマン的に神がかりし、教祖となる新宗教集団がでてきた。

ほかにも黒住教は、備前国の神職であった黒住宗忠(1780-1850年)による神道系の新宗教である。金光教は、備中国の農民である赤沢文治(1814-1883年)が自らを金光大神と名乗った。こうした新宗教が江戸時代に登場し、明治になると大本教・出口なお(1837-1918年)開祖とする教団が出てきている。

これらの新宗教の神(教祖)は、それ以前の死んだ人が神となるのではなく、「生き神」として、庶民の生活と密着したところに起こり、治病、安産、農産などのカミとして信者を獲得していった。

江戸の後期から明治にかけて大きな転換期をむかえ社会的な混乱期に、こうした宗教的エネルギーが、マグマのように噴き出し、生き神(教祖)は民衆のカミとなった。

これまでの人格神は、菅原道真、平将門や、豊臣秀吉、徳川家康にしろ、功成り名を遂げて、亡くなってからカミとなったが、名も知らずの庶民の中から生き神が出現し、信仰されるという、全く新たな、かつ異質なカミが生まれた。

3.東照宮から伊勢神宮へ

(1)東照宮

すでに述べたように、家康は死後、東照宮に祀られた。今見るような豪華絢爛の東照宮としたのは、三代将軍・家光である。家光は、家康をまさに神として、東照権現信仰が篤かった。そのため、莫大な費用をかけ、豪華な社殿を建てたり、家康の神像を描かせたりした。また、東照「社」の格を引き上げて東照「宮」とし、朝廷から日光への例幣使を創設し、その際、あわせて伊勢神宮への例幣使を復活させた。また、自らが、多くの武士を動員して、いわば軍事パレードを行って日光に参詣すること9回(1623-1648年間)にも及んだ。

このように東照権現=家康を祀ることによって、自らの権力の偉大さを示すとともに、宗教的な権威のもとで、徳川政権の秩序を安定させ、継続させることを願った。

その威光を広めるため、東照宮を勧請して各地にも東照社(宮)が設けられた。徳川・松平一門の大名はもちろんのこと、譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名(岡山、広島、鳥取、仙台藩など)が競って勧請し、500社を超える東照社(宮)が造られたという。しかしながら、金沢藩、秋田藩などは、形式的な崇拝に近い実態であり、あくまでも政治権力の所産であったとされる。

時代が下るにつれ、庶民にも参拝が許されるようになったが、参拝できるのは、家康の命日など決められた日に限られていたようだ。後に述べる伊勢参りとは対照的である。

8代将軍・吉宗の時代には、財政再建を目指す政策を展開したため、幕府の権威の回復と自らの正統性を図るため、東照宮信仰を強調した。まずは65年ぶりに日光社参を行う(1728年)とともに、全国の諸大名に勧請された各地の東照宮の所在確認をするよう寛永寺に命じた。それによって勧請の拡大を狙った。寛永寺(天台宗)は、立場を利用し圧力をかけたが、天台宗以外の寺院などについては調査に限界があったようだ。

また、時代が下るにつれ、各将軍は日光社参を中止するなど、その回数は減少し、吉宗以降は、12代家慶が1843年に行うまでの115年間に5回しかなく、その後の将軍は日光社参はしていない。軍事的デモンストレーションをする必要がなくなったとともに、財政的な問題があったと考えられる。

日光東照宮(撮影日2020.3.3)

日光東照宮(撮影日2020.3.3)


(2)伊勢神宮

さきに述べたように、家光は、東照宮への朝廷からの例幣使を行わせるとともに、伊勢神宮への例幣使の復活を認め、東照宮と、伊勢神宮を同格の位置にするよう図った。

また、伊勢神宮で起った、内宮と外宮の優先争いが、幕府も朝廷も巻き込んだ大きな問題となった。伊勢神宮では伝統的に外宮優先であったが、外宮は国常立尊(クニノトコタチノミコト:天地開闢に出現する最初の神)を祭神とし、内宮は天照大神を祭神としていたが、その神格の上下に発展したため、家光は、それまでの外宮の優位を覆し、内宮の優越を認めたという。

家光としては、東照権現を、伊勢の天照大神と同格とし、互いの協力関係を築くことで幕府の正統性、継続性をはかることを意図していたと考えられる。

しかしながら、時代が下るにつれ、東照宮の家康信仰は下降していく。もともと東照宮が神仏習合の山王神道(天海による)に拠っているものであり、伊勢の天照大神の神話体系の中には位置づけられないこと、また吉田神道が儒学が結びつき勢いを増したことなどから、神道理論からも浮いてきてしまった。すなわち、家康信仰はあくまでも、政治的な配慮から成立した信仰であったといえる。そのため庶民にまで広く信仰されるには至らなかった。

(3)伊勢参り(おかげ参り、ええじゃないか)

民衆のカミ・ホトケの信仰は多様な展開をみせたが、なかでも伊勢参りはその規模を大きくしていった。もちろん、五街道など交通網の整備もあったことにもよるが、奉公人や子供までもが主人や親の許しを得ないでお伊勢参りをすることを「抜け参り」と称して、出かけるようになった。とくに約60年周期(1705年、1771年、1830年)で「おかげ参り」が起こり、一年に数百万人が参ったといわれている。「おかげ参り」の語源については、天照大神の「おかげ」で参詣できた、天照大神の「おかげ」で平和な生活を送ることができることに感謝するお参り、といった諸説あるようだが、いずれも天照大神の信仰が広まったことを示している。

さらに幕末、慶応3年(1867年)には、神宮のお札が降ってきたということから、人々は「ええじゃないか」と歌い踊る騒動が近畿、四国、東海地方で起きた。

この民衆による現象を、戦国時代に一向一揆が起こったことと比べると、一向一揆は、来世の浄土を願い、現実の戦いに集団で向かった、のに対し、「ええじゃないか」は世の中への不満の噴出が組織的な行動ではなく、自然発生的に起こったものといえる。そして決定的な違いは、一向一揆は仏教・ホトケの集団的蜂起であるのに対し、ええじゃないかは、神道系・カミの大衆的蜂起であることにある。いずれにせよ、世の中に対する庶民の不安、憤りが抑圧された中で爆発した現象であり、そうした庶民の行動が、時代の大きな転換となり、約260年間続いた徳川政権はまもなく崩壊を迎えることになる。

4.「公儀」から「禁裏」へ

(1)朝幕関係:協調~逆転へ

家康は僧・崇伝に起草させた「禁中並公家諸法度」を出し、天皇及び公家に対する統制を図った(1615年)。このあと1627年に、「紫衣事件」という幕府と朝廷にかかわる事件が起きた。この法度の中に、僧に与える紫衣については、あらかじめ幕府に知らせることと定めていたが、後水尾天皇は、これまでの慣例通り、十数人の僧に紫衣を幕府に相談なく勅許した。これに対し幕府は、法度違反であるとして、勅許状を無効とし、抗議を行った大徳寺の僧・沢庵らを処分した。その結果、後水尾天皇は退位した。この事件で、幕府の法度は朝廷の勅許にも優越することを示すことになったが、また同時に朝廷との対立を生じさせることとなった。

さらに、法的な統制に加え、三代将軍・家光は、御代替の上洛の際に30万7000人もの軍勢を引き連れた強力な軍事デモンストレーションを行い、権力の偉大さを天皇・朝廷にのみならず、広く世間に見せつけた。(1634年)

このように、江戸初期には、将軍と天皇の関係は圧倒的に将軍が上であった。また、当時の時代意識からしても、将軍と天皇を「公儀」と「禁裏」と呼んでいたことから、「公」を象徴するのは将軍であったとされる。それが「幕府」、「朝廷」という言葉に変わったのは幕末期であり、それには朝廷の優位が含意されるようになっていたという。

なお、家光は上洛した際に、二条城で後水尾天皇に謁見し、7千石もの院領を献上するとともに、大徳寺などには寄進を行い、紫衣事件で対立した関係を修復した。以降、幕府と朝廷は協調関係になっていった。

しかしながら、天皇の即位儀礼である、大嘗会を復活させ、また禁止されていた行幸を行うなど朝廷の権威がしだいに浮上し、幕末には朝幕関係は逆転していった。

(2)天皇儀礼の復活(朝廷の浮上)

5代将軍・綱吉のときに、応仁の乱以降(1466年)行われていなかった大嘗会の再興を東山天皇の即位に当たって容認した(1687年)。これは、天皇・朝廷の権威を封じ込めるのではなく、法度による統制のもと、朝廷儀礼などを復活させ、公儀と禁裏の協調関係を築いたといえる。しかし、儀礼のうち大嘗祭は認めたものの、祈年祭(五穀豊穣を祈る)、月次祭(国家と聖体(天皇)の安泰を祈る)、などの復活は認めていない(復活は明治になってから)。また天皇の行幸についても認めていない。

このあと、大嘗会が行われたのは、8代将軍・吉宗の時代に、桜町天皇が即位したときになる(1735年)。また、収穫祭である「新嘗祭」も復活させた。このような朝廷の儀式の復活を認めたのは、吉宗の時代には財政再建が進められ、政権の安定を図るために朝廷の権威を強調させる必要が出てきたからと考えられている。(なお、以後、歴代天皇の即位には、大嘗会が行われている)。

家光の上洛に際し、訪問するために後水尾天皇が二条城に行幸した以降、天皇行幸は、天皇の権威を拡散させるために認められていなかった。天皇の行幸が認められたのは、松平定信の時代、光格天皇のときである。このときに、京都大火(1788年)があり、御所、二条城などが焼失した。定信は幕府の威光を示す機会ととらえ、御所造営を行い、火災により一時的に聖護院に避難していた光格天皇の新御所への行幸を認めた。

(この後、行幸が行われたのは幕末になって、孝明天皇が攘夷の祈願のため石清水、賀茂両社に行幸をしたときである)。

光格天皇は、内裏の造営により神嘉殿を設けて新嘗祭などを行うとともに、応仁の乱以降途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の祭礼の再興を図るなど、朝廷の権威の復活に努めた。

また、光格天皇のときに天明飢饉が起こった際に、京都御所の周囲を数万人もの人々が回って祈る「千度参り」が行われた(1787年)。朝廷は幕府に困窮者の救済を申し入れた。これは法度に対する明白な違反であったが、幕府は事態の深刻さから不問に付し、救済を行った。この事件で、朝廷の行動が救済に結びついたということから、天皇はカリスマ性を持つようになっていった。

令和の即位の儀・大嘗宮(撮影日2019.12.3)

皇居・大嘗宮(撮影日2019.12.3)


(3)朝幕関係の逆転~大政奉還へ

徳川の泰平の世も、12代将軍・家慶の治世(1837-53年)になると、「内憂外患」の時代となる。「内憂」では、財政は悪化し、大塩平八郎の乱など社会不安が増し、「天保の改革」を行うも成果は上がらなかった。「外患」では、はやくもロシアのラックスマンが根室に来航(1792年)し、その後もイギリス、アメリカなどが次々にやってきていた。そして、ついにペリーの黒船来航(1853年)に至る。ペリーのあと、ハリスが来て、幕府(井伊直弼)は、日米修好通商条約を朝廷の勅許を得ることなく締結した(1856年)。その結果、「安政の大獄」が起こり、幕府の権威を大きく低下させたのに対し、尊王攘夷派の動きが激化していった。

幕末に至る幕府と朝廷の関係は、幕府が条約締結に当たり朝廷の勅許を得ようとするなど逆転していった。その象徴的な出来事が1863年、孝明天皇が賀茂社、石清水八幡宮両社に行幸して、攘夷の祈願を行ったことである。これは幕府が朝廷に奏請して行われたものであり、行列は、天皇の乗る鳳輦の後ろに将軍以下、諸大名が供奉したという、まさに権威の逆転を象徴するものであった。

これまで、天皇の行幸を例外(光格天皇)を除き認めてこなかった幕府が、祈願を「奏請」することに至った。祈願は、賀茂、石清水両社、すなわち伊勢に並ぶ皇祖神、守護神、鎮護神であり、もちろん、東照宮(家康)ではなかった。

一方、民衆においても、江戸城ではなく京都御所への「千日参り」が、また伊勢神宮への「おかげまいり」、「ええじゃないか」が、自然発生的に行われた。救済してくれるカミ(・ホトケ)はどこにいるか、庶民は分かっていたということだろう。

そして、王政復古から大政奉還にいたり、明治維新をむかえることになる。そこには天皇という「現人神」が、新たなカミとして登場することになる。

上賀茂神社(撮影日2019.11.20)

上賀茂神社(撮影日2019.11.20)


次回は、近代のカミ・ホトケとして、国家神道を中心に考えてみたいと思っています。



2022年9月24日土曜日

秋に~「花や蝶や」


散歩の途中、彼岸花が咲いていました。そこに、蝶が飛んできて盛んに蜜を吸っていました。

そんな秋の花と蝶を撮ってみました。


1.花や蝶や

ところで、「蝶よ花よ」という子供を可愛がって、大切に育てるという意味の言葉がありますが、これが平安時代には、「花や蝶や」という言葉であったといいます。やはり、花や蝶のように美しく育ってほしいという願いを表しています。

それが、江戸時代になると、「蝶や花や」と順序が逆になったようです。そこから「ちやほや」という言葉がでてきたといいます。意味も「おだてたり、あまやかしたりする」とちょっと変わります。

そして、明治時代になると、「蝶よ花よ」となったといいます。

















赤とんぼ


2.花よ秋よ

彼岸花、キバナコスモス、ハギなど、秋の花が道のあちこちに見ることができます。

フヨウが秋の青空に溶け込んでいます。

夏の花、アガパンサスの花が枯れて種を付けていました。すっかり、夏から秋になりました。















ハギ(白)

ハギ(赤)


アガパンサス


東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

  東洋文庫ミュージアム・入口 東洋文庫ミュージアムで開催されていた「キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジア」をテーマとした貴重な本を観てきました。そのなかで、特に印象に残った次の 3 冊を取り上げてみたいと思います。 『破提宇子(はだいうす)』恵俊(ハビアン)  1...

人気の投稿