2020年3月31日火曜日

日光山5:田母沢御用邸・金谷侍屋敷

神橋から、その下を流れる大谷川(だいやがわ)の上流に、1㎞ほどさかのぼったところにある田母沢御用邸と、金谷ホテルの歴史館となっている金谷侍屋敷を訪れました。
田母沢御用邸

田母沢御用邸は、大正天皇(当時 皇太子)の夏の静養所として、明治32年(1899)に創設された。建物は、地元の銀行家、小林家の別邸が使われ、また赤坂離宮に使われていた紀州藩徳川家の江戸中屋敷の一部が移築された。のちにも増改築が行われ、江戸、明治、大正の建築様式をみることができる。
昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になった。現在は庭園を含め記念公園となっている。
田母沢御用邸・入口

田母沢御用邸











金谷侍屋敷は、金谷ホテルの前身「金谷カテッジ・イン」が、外国人客から「Samurai
House」と呼ばれるようになった。もともとは、武家屋敷であった建物で、明治3年(1870)に日光を訪れたヘボンのアドバイスにより屋敷を改造して「金谷カテッジ・イン」を開業した。ここには、明治11年(1878)、イザベラ・バードも滞在し、おもてなしの素晴らしさを「日本奥地紀行」に綴っている。
今は金谷ホテル歴史館として公開されている。
日本最古の西洋式リゾートホテルとして、いまも金谷ホテルは営業しており、建物だけでなく、洋食、パンなども、よく知られている。
金谷侍屋敷









金谷侍屋敷
  
田母沢御用邸、金谷侍屋敷といった明治からの建物は、日光の社寺とは違い、その庭園と共に、静かで落ち着いた雰囲気に包まれていました。

日光山4:東照宮

               
東照宮は、よく知られているように徳川家康を祀る神社として建てられました。豪華さに目を奪われるとともに、その歴史の一端に目を向けてみました。

家康が元和2年(1616年)に亡くなると、久能山に運ばれ、幕府は東照社を創建した。
家康を神として祀り、「東照大権現」の神号が与えられ、翌年、日光に移された。その際、神号を巡り、「明神」として祀るべきだとする崇伝(吉田神道)と、「権現」として祀ることを主張する天海(山王一実神道)との争いがあった。「明神」は秀吉が「豊国大明神」とされており、これを凌駕する神として「権現」とすべきとした天海の主張が通る。加えて吉田神道により久能山に埋葬されたままでは、権現となっても、秀吉「明神」と同格でしかない、として日光遷座を果たしたのが天海である。
家康を崇敬する三代家光のときに、今見るような絢爛豪華な社殿に造り替えられた(寛永13年1636)。その後、1645年に宮号の宣化があり、「東照宮」となった。
東照「神社」でなく、東照「宮」とするのは、天皇や皇族をお祀りしている神社と同様の格になったことになる。
家康から家光まで三代にわたり徳川家に強い信頼を得ていた天海は、江戸に寛永寺を創建し、増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺とした。また、寛永寺に皇族から住職を迎え、寛永寺の貫主が、日光山主とともに、比叡山・天台座主も兼ねることによって、この時代の宗教的権威を握ることとなった。
家康=東照大権現の本地仏は、薬師如来とされ、寛永寺の本尊は薬師如来となっている。
 一の鳥居

表門

 一の石鳥居

 五重塔

五重塔

五重塔

神庫・燈籠

神庫

神庫 想像の象・狩野探幽作とわれる

神庫・燈籠

神厩舎 三猿

三猿

陽明門



経蔵


陽明門

陽明門



神輿舎

神輿舎


唐門

眠り猫・坂下門

坂下門から奥社へ


奥社・拝殿

奥社・家康墓所




回り燈籠・葵の御紋が逆

回り灯籠 オランダ東会社から奉納



コカ・コーラも徳川家?

杉並木

東照宮は、近年、大修理が行われ、その豪華さが一層鮮やかに際立っているように見えました。
江戸徳川の象徴ともいえる日光東照宮の絢爛豪華な建物の背後に、天海の宗教的力にもとづく、政治的実力がいかに大きかったかも見てとれるように思いました。

東京異空間200:キリスト教交流史@東洋文庫

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