東京国立近代美術館で開かれている「記録をひらく 記憶をつむぐ」展を観てきました。この展覧会は、戦争記録画を含む近美のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成され、美術に蓄えられた記録をもとに新たな戦争の記憶を紡ぎだすことを試みています。なかでも、一番観たかった作品が、 《大東亜戦皇国婦女皆働之図》です。
1.《大東亜戦皇国婦女皆働之図》
この絵は、300号(縦1.9m横3m)の大画面2枚に、女性が男性に代わって戦時労働に従事する姿、いわゆる「銃後」の姿が21シーンずつ、計42シーンが描かれている。
1943年12月に陸軍省より「銃後」をテーマとした絵画制作の依頼を受け、1944年3月に完成し、同月開幕の第三回陸軍美術展(東京都美術館)に出品された。カンヴァスの裏に記された制作目的には、女性が「銃とる男性にかはってあらゆる部門に皆働する情況」を、「後々の記録の一助」のために描いた、とある。
描いたのは、「女流美術家奉公隊」に所属する女性画家44名(2枚あわせて。5名が両方に参加)による共同制作とされる。下絵は奉公隊の委員長の洋画家・長谷川春子(1895-1967)の指示により、桂ゆき(1913-1991)が担当した。桂ゆきは、新聞などに載った銃後の女性の様々な仕事をしている写真を切り取って、大きな紙にベタベタ全部貼り付けた、いわばコラージュの手法で画面を構成したという。
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長谷川春子 |
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桂ゆき |
「女流美術家奉公隊」というのは、1943(昭和18)年、陸軍報道部の指導の下、女性アーティストら約60名によって東京で結成された。洋画だけでなく日本画、彫刻、工芸まで広く女性が参加し、首都圏のみならず関西圏で活動していた者たちも所属した、女性アーティストを網羅した一大ネットワークであった。
「女流美術家奉公隊心得」と題したスローガンを引いておく。
一、我等女流美術家の魂をこの仕事に残せ。
一、日本の女の真心を我等の手を通じて現せ。
一、日本の男と同じお腹から生まれた我等なり。
お互いに協力しませう。
責任を持ちませう。
個人的野心あるべからず。
なお、《大東亜戦皇国婦女皆働之図》は、春夏の部、秋冬の部の油彩画二部作となっているが、当初は三部作として計画され、油彩画とは別に日本画が隊員11名により制作された。しかしながら、もう一点は行方不明で、写真などもないため、どのような作品だったかはわからないという。
描かれた女性たちの銃後の姿、42シーンを吉良智子著作により、順に見ていく。
(参考):
吉良智子著『女性画家たちの戦争』平凡社新書 2015年
吉良智子著『女性画家たちと戦争』平凡社 2023年
《大東亜戦皇国婦女皆働之図》右、春夏の部、左、秋冬の部 |
《大東亜戦皇国婦女皆働之図》春夏の部 |
《大東亜戦皇国婦女皆働之図》秋冬の部 |
①救護訓練/防空訓練:街路樹の左側は担架を持って救護活動をする女性、右側はホースやポンプを使って消火活動をする女性。
②製図:製図は女性向けの仕事とされ、女子画学生が動員されることもあった。背景は工場へと出勤する女性たちが描かれている。
③海外報道調整室(か?):画面右上に、二人の女性がヘッドホンをつけて、通信機器を操作している。彼女らが向かう機械には「伯林」、「ジャカルタ」と書いてある。遠景には送電塔が並ぶ。
④戦闘機生産:戦闘機の前方部分をモンペに草履をはいた女性が組み立てている。戦闘の主力戦が戦艦から航空機にシフトするなか、戦闘機の生産は最重要課題であった。
⑤田植え:食糧増産のために米を欠かすことはできない。しかし戦争の長期化により最もダメージを受けたのは働き手を兵隊にとられた農村だった。
⑥女流美術家奉公隊の行進:太陽の下、地平線から伸びている道を行進する女性たち。先頭の女性は旗を掲げており、そこには「女流美術家奉公隊」と書いてある。つまり、制作者としての自らの姿を絵の中に描き込んだのである。
遠景には一匹の牛を引く人が描かれており、どこか大陸的な雰囲気を漂わせている。
⑦傷痍軍人の慰問:慰問に来た女性がアネモネの花束を、背筋を伸ばして緊張した傷痍軍人に贈っている。
⑧化学工場/栄養士(か?):右側の女性は乳鉢で薬品をすり合わせ、隣の女性は薬品瓶を手にしている。左側の白い割烹着を着た女性は、背景にフライパン、皿、釜が見えることから軍事工場などに提供される給食をに担う女性、栄養士か。
⑨旋盤工:頬を赤くした女性が、懸命に旋盤を操っている。旋盤作業は代表的な女性の戦時労働であった。
⑩砲弾生産:画面左側に、カーキ色の作業服と白いはちまきをつけた女性が手前の砲弾を扱っている。砲弾の生産も、また女性が携わっていた。
⑪銃剣生産:真剣な面持ちで銃を持つ女性は、完成品の銃の検査であろうか、奥には立てかけられた銃を見ている女性がいる。
⑫女性鼓笛隊の行進:満開の桜の下を女性鼓笛隊が行進している。先頭の女性は隊を先導し、二列目の女性は日の丸の旗を振り、三列目は二人の女性が小太鼓を叩き、四列目以降は横笛を吹いている。
⑬養蚕:画面左は、桑の葉を摘んでいる様子、右は、屋内の蚕に摘み取った桑を与える様子が描かれている。戦時下においては落下傘などに使用される絹を確保するため、軍は養蚕を奨励、統制した。
⑭農業(か?):作物が植えてある畑の前でリヤカーを使う女性、リヤカーに積まれたものは後ろの畑で採れた作物か。
⑮造船:ここでは二種類の船が造られている。奥では鉄鋼の船、手前は木製の船。メインは木製の船で、マストを正面からとらえ、組まれた足場で働く女性と地上に置かれた木材を扱っている女性が描かれている。鉄鋼不足による造船の困難と短期間で造れることから木造船が奨励された。
⑯炭鉱(選炭):選炭とは掘ってきた石炭に泥や石も混じっているので、それらを取り除く作業のことをいう。このような選炭には戦前から女性が携わっていた。選炭婦となる女性は主に労働者階級の人々で生活のため厳しい労働に従事していた。なかには強制連行された朝鮮人、中国人も多数含まれていた。画中に描かれた女性たちには、そうした朝鮮人、中国人のイメージが重ね合わされているようだ。
⑰麦刈り:画面手前は、刈り取った麦を馬の背に積んでおり、画面奥では、麦刈りの最中である。この絵では労働する女性が描かれているが、実際には根こそぎ動員で、児童にまで及んでいた。
⑱水運による物資の運搬(か?):女性二人が船から積み荷を降ろしている。手前の女性は肩に荷物を載せて運ぼうとしている。腕は力強くたくましい。積み荷が何かは袋で包まれているためわからないが、おそらく生活物資が農村部から都市部に運び込まれているのだろう。
⑲漁業:浜での陸揚げ作業か、あるいは市場での仕事に従事している。魚を見ると、青魚が中心だが、二匹の鯛と数杯のイカが水揚げされているのが見える。高級魚ではなく、栄養のあるイワシやサバなど大衆魚を一匹でも多く出荷しようとしていた。男性が出征した漁村では魚を獲るメインの漁のみは村の残った数少ない男性がやり、魚を運ぶといったその他の業務は女性に任された。
⑳塩業:二人の女性が塩田で塩を作っている。このやり方は入浜式と呼ばれるもので、満潮時より低い海岸に海水を入れ、天日で海水を蒸発させた後、砂を集めてかん水を作り、煮込むことによって塩を得る。
㉑海女:沿岸で海藻や魚介類を採取する海女を描いている。海女の仕事は、戦中に限らず伝統的に行われてきた漁村女性の労働であった。
「女流美術家奉公隊合作」の文字がある |
①畜産:前景では、一人の女性が羊の番をしており、柵の向こう側では牛たちが牧草を食んでいる。畜産は日本では近代に入ってから本格化し、特に羊毛は主に軍服の材料として使われたため国策として飼養が奨励された。
②手旗信号の訓練:こちらに背を向ける女性の指導員を手本に、人々が白と赤の旗を手に手旗信号の訓練に励んでいる。手旗信号の訓練は本格的な軍事訓練よりも簡単にできるため、性別や年齢を問わず、戦意高揚の意味も込めて各地で行われていた。国民学校では女子児童も行っていた。
③稲刈り:十二人の女性が稲刈りに精を出している。富士山のふもとに描かれたこともあいまって「瑞穂の国」の印象を強く与える。<春夏の部>の⑤田植えと一対のモティーフとなっている。
④供木:稲刈りをしている横の河を三枚の筏が流れている。一番手前の筏には女性4人が乗っている。河の向こうには蒸気機関車が走る。供木という山から木を伐り出し、燃料や建築資材、軍需産業用に都市部へと運ぶ作業だと推定される。
⑤軍事訓練:広い草原で三種類の訓練が行われている。左では軍人の指導による竹やり部隊の行進、右では銃の教練、奥では人間に見立てた藁の的を竹やりで刺している。そして彼女たちを見守るように日の丸がはためいている。兵士になることはなくても、戦意高揚のため女子に対する軍事訓練はしばしば行われていた。
⑥家内労働:囲炉裏を囲んで五人の人がいる。手前右では女性が何かの作業を行っている。その左では女性が藁で日常生活に必要な道具を作っている。奥では軍服を着た男性が飛行機の模型を使って右隣に座る軍帽をかぶった少年に飛行機について語っているようだ。子供のそばで老婆もともに男の話を聞いているように見える。家庭において飛行機の話をすることは軍事への関心を高めることとして奨励されていた。
⑦共同炊事:七人の女性が割烹着姿で料理の支度をしている。四人の女性が鍋の置かれた台を囲んで一つの大鍋をかき回している。右では、樽を扱っている女性と仕込みをしている女性がいる。共同炊事は農村部において農繁期に、燃料費節約と手間を省くために奨励され、数戸が配給米を持ち寄って当番制で炊飯し、家族数に応じて分配していた。
⑧落下傘製造:赤い服にモンペを着た三つ編みの女学生が機械を操作し落下傘を製造している。落下傘は飛行機関係の装備として必要不可欠だった。落下傘の材料は絹であり、<春夏の部>には⑬養蚕が描かれているのも、軍需産業で非常に重要だったことを示す。
⑨千人針:一番左の割烹着の女性、そのとなりの赤ん坊を背負った女性、右端の羽織を着た女性が残りの女性たちに千人針への協力を求めている。千人針とは、文字どおり千人の女性が一枚の布に赤い糸で一針ずつ球止めを縫ったもので、出征兵士の武運長久や安泰を願うお守りとして、兵士はこれを腹部に巻いて戦場に出た。その起源は、日清・日露戦争までさかのぼると言われ、当時は迷信として当局は取り締まったが、瞬く間に女性たちの間に広まった。夫や息子、兄弟の応召が決まると、街頭に立って道行く女性たちに協力を頼む女性の姿は町のいたるところで見られた。
⑩靖国神社へ参拝する従軍看護婦:左側は、召集されて神社に参拝する従軍看護婦たち、右側は、神酒をとる従軍看護婦の姿が描かれている。ここの神社は靖国神社で、応召する看護婦は出征前に必ず参拝に訪れていた。
神酒をとる従軍看護婦 |
⑪託児所:前景では保母らしき女性二人が就学前くらいの小さな子供たちを遊ばせている。中景では女性に甘える子供、後景では女性と女児、その周りで走る三人の子供たちが描かれている。都市部でも農村部でも子供のいる既婚女性の労働力を引き出すために、託児所が設けられていた。
⑫家庭工場:若い女性が子を背負って、部品製作にいそしむ様子が描かれている。家庭工場とは、主婦などを対象に、工場へは通勤せず隣組などのグループ単位で一般の民家において内職をすることを指す。
⑬路面電車・バスの乗務員:画面奥では大勢の群衆が電車に向かって、日の丸の小旗やのぼりを振っている。これは出征兵士を見送る様子を描いたもので、このような光景は日本中のいたる所で見られた。手前は電車から降りる乗客たちで、降り口では女性駅員が切符を受け取っている。
電車の手前にあるのは「木炭車」で、車体の後ろから燃料である木炭を入れて、走るしくみになっていて、ちょうど女性が燃料を入れている。木炭車はエンジンがかかりにくくスピードも上がらず、急な坂道では立ち往生して、乗客が車の後押しをすることもあった。1930年代から使われていたが、一気に広まったのは日中戦争に入ってからだった。戦争の拡大に伴い石油は軍需優先となり、年々規制されるようになった。町には木炭スタンドや木炭を入れる木炭ボーイが現れた。もとは男性の仕事であったが、この絵では女性が木炭を補充している。
⑭小売店販売業:右は八百屋で、二人の女性が働いており、ひとりは野菜をはかりで計量しており、もうひとりはそろばんで金銭の管理をしている。店内の両側には大根、にんじんなどの野菜が並べられている。手前のたくさんの買い物籠は各家庭から出されたもので、配給制のため、決められた量だけ売買することになっていた。左下にはすでに野菜を入れられた籠が並んでいる。店先では赤い頭巾をかぶった少女が隣組の分も引き受けたのだろうか、両手に多数の籠を持って立っている。リヤカーにはニンジンなどの野菜が載せられている。
左は魚屋で、店先に魚が並んでいる。
⑮鍛冶:二人の女性が組んで鍛治を行っている。奥ではどちらかの女性の子供であろうか、少女がその様子を眺めている。これは鍛治という仕事で、柄の長いハンマーを持って立ったまま叩くのを「向鎚」、絵の短いハンマーで座ったまま叩くのを「横座」という。通常、横座は主人がつとめ、向鎚は弟子か妻がつとめる。この作業は両者の呼吸が合致せねばならず、打ちなれた関係が必要となってくる。この絵では、夫や弟子が応召したため、横座も女性がつとめている。
⑯補助翼の羽布張り:名札を付けた若い女性が二人一組になって白い大きな布を縫製している。これは羽布張りという、飛行機の補助翼に透明と涼を塗った羽布を針と糸で縫製する作業である。
<春夏の部>には、④戦闘機生産が対応して描かれている。
⑰炭鉱(坑内):女性が炭鉱に入り、石炭を採掘している。右では採掘された石炭が滑車で運ばれている。そのすぐ右に行動の入り口がある。辺りは一面の雪山である。1928(昭和3)年に女性の坑内労働が禁止された。しかし、日中戦争による労働力不足から政府は1939(昭和14)年に一定条件のもと再び解禁した。
⑱建設業:二人の女性が木材を扱っている。左の女性はノミで木を削り、右の女性は左手に曲尺を持ったまま方に木材を担いでいる。<春夏の部>では、⑮造船で、木材を扱っている女性が描かれている。
⑲金属供出:二人の女性が集められた金属類を整理している。1941(昭和16)年の金属類回収令によって、家庭や学校、職場にある金属が弾丸を作るために供出された。金属供出は、子供のおもちゃから寺院の梵鐘まで及んだ。画中にはバケツや鍋に混じって二宮金次郎尊徳の銅像も見える。各小学校から収集された銅像の後継には陶製の像が置かれた。
⑳理容業:三人の女性理容師が働いている。手前の客は髭を剃られ、残りの二人はハサミ、バリカンで散髪されている。理髪学校に学ぶ女性たちの中にいは未亡人もいた。理容業は1943(昭和18)年に閣議決定された男子就業禁止職種の一つであった。
㉑郵便配達:三人の女性が赤い自転車を使って郵便物を配達に出かけようとしている。彼女らの背後の看板には「郵便 電報配達 女子職員募集」と書かれているようだ。郵便ポストの前には五人の子供がいて、先頭の少女は投函しようとする小さな子を抱きかかえている。
ポストの前にある案内板には矢印とともに上に「公共待避所」、下に「七人座式」と書いてある。「公共待避所」は空襲時に爆風を避けて、防火活動を始めるまで退避する場所のことをいう。「七人座式」というのは七人が座って入るタイプの待避所であることを意味する。こうした看板は公共待避所に設置するよう義務づけられていた。
上に「公共待避所」、下に「七人座式」とある看板 |
4.その後の《大東亜戦皇国婦女皆働之図》
陸軍省に置かれていた同図は、敗戦後、焼却処分寸前であったところ、元委員長の長谷川春子がそれに反対し、長谷川と懇意にしていた福岡・筥崎宮の宮司の申し出により、筥崎宮に奉納された。長谷川は、次のように語っている。
「戦争中ほど日本の婦人が純粋な気持ちではたらいた時期はめずらしい。ひたすらに働く女性をおなじ若い女性画家がえがいたのがこの絵で、日本女性の歩みの一段面を示した歴史画であり風俗画だ。戦争がわるかったからということでそのまま焼きさってよい作品ではない。」
「春夏の部」は、現在も筥崎宮が所蔵している。「秋冬の部」は、現在は靖国神社・遊就館に所蔵されている。画中に靖国神社が描かれていることから、1962年に筥崎宮から奉納されたとのこと。
なお、奉公隊のリーダーであった長谷川は、戦後、その戦争責任を問われる。日本美術会の「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」において、「自粛を求める者」14名のなかで女性でただ一人挙げられている。 その理由はつぎのようにある。
- 「長谷川春子:女流美術家奉公隊長、女流作家界に軍国的統制を敷いた前記運動の組織者、作品活動に於ても最も積極的にファショ的似而非美術の製作に従事した。」
長谷川は、その後、公の場での活動や女性画家たちのネットワークに関わることは一切な く、美術界からは忘れ去られた。ただ、昭和32年からライフワークとして「源氏物語絵巻」(54帖)を制作し、完成後、やはり福岡市の筥崎神宮に所蔵された。
5.《大東亜戦皇国婦女皆働之図》から思うこと
(1)戦争協力
この図は、間違いなく戦争協力のために描かれたもの。国民全体が軍国主義に覆われてしまった。そこには、新聞・雑誌といったメディアの働きとともに、こうした絵画も、全て戦争協力一色に染めた。異を唱えることのできない状況、その恐ろしさ。
(2)銃後の女性
明治以降、女性は「良妻賢母」が望ましい姿とされた。この絵に描かれた銃後の女性は、家庭の枠から抜け出し、男性に代わって社会参加を求められることになった。戦後は、ますます女性パワーが広がった。
(3)女流画家
この絵を描いたのは「女流美術家奉公隊」のメンバーであるが、女性の画家を指す言葉として、「閨秀」画家といわれるのは、主に日本画家であり、洋画には女性の進出が難しかった時代である。そこで「女流」という言葉が付けられている。しかし、「男流」画家という言葉はない。そこには「二流」という意味も暗に隠されているようだ。
他にもこの絵を観て思うことはいろいろ出てきますが、戦後80年というこの時、あらためて《大東亜戦皇国婦女皆働之図》が「後々の記録の一助」のために描かれた、という言葉をかみしめ、この展覧会のタイトルにあるように、戦争の「「記録をひらく 記憶をつむぐ」機会となりました。
近美の戦争画のコレクションなどによる展覧会については、別にまとめることにします。
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