2025年8月29日金曜日

東京異空間340:戦争画~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館

 


「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館の《大東亜戦皇国婦女皆働之図》に続けて、「戦争画」について見ていきます。戦争画のなかには「作戦記録画」(「戦争記録画」とも)といわれる絵画が近美のコレクションとなっています。今回は、この作戦記録画を中心にまとめてみました。

なお、近美のコレクション展示でも以前に「作戦記録画」のいくつかを観たことがあります。そのとき観た作品も加えています。

(参照):

東京異空間243:美術展を巡るⅥ-2~MOMATコレクション@東京国立近代美術館2024/11/10

1.作戦記録画と画家

作戦記録画は、陸軍および海軍が画家を戦地へ派遣して取材・制作させた作品群である。大きな画面に戦闘や会談などを主題として描かれた。現地のリアリティを伝えるために、日本画よりも洋画のほうが当時のすぐれた画家たちによって描かれた。

これらの作品は、完成後は陸・海軍に献納され、「聖戦美術展(193941年)」「大東亜戦争美術展(194243年)」「陸軍美術展(19434445年)など全国巡回の展覧会で公開され 、大変な人気を集めた。

展示されていた作戦記録画と主な画家についてみていく。

(1)藤田嗣治

作戦記録画を描いた画家の中で、一番飛びぬけた作品を残しているのは、藤田嗣治であろう。

パリから日本に戻り、1938(昭和13)年、海軍省の嘱託となり、中国・漢口へ従軍。1942(昭和17)年には陸軍南方派遣画家として、マレー方面の取材にあたった。

《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地》 1942

1941128日から始まるマレー作戦の大詰め、翌年211日のシンガポール、ブキ・テマ高地の占領を描いた。傷ついた戦友を抱きかかえた兵士が、はるか遠方を眺めるように促している。彼等の視線の先にはシンガポール市街がパノラマ的に広がり、陥落直前の市街の随所から煙がた立ち上がる一方、画面の左上からは陽光が幾条も差し込み、市街を明るく照らし出している。







《神兵の救出到る》 1944

場所は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシアおよびマレーシアの一部)。現地に駐在するオランダ人の邸宅に、今まさに日本兵が踏み込んだ瞬間が描かれている。壁に掛けられた絵画や調度品からその富裕ぶりが伺えるが、家の主はすでに逃げ出し、縛り上げられた女性(メイド)が怯えるようにうずくまっている。題名が示すように、欧米による植民地支配から東南アジアを解放するため日本兵が「救出」に来た場面のはずだが、怯える女性の様子からは、日本兵もまた脅威でしかないことが露呈しているように見える。









《哈爾哈河畔之戦闘》 1941

1939年7月に満蒙国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いたもの。哈爾哈(ハルハ)河はモンゴル高原北部を流れる川で、モンゴル人民共和国と満州国の間で国境の市を巡って争いがあり、大日本帝国陸軍(関東軍)・満州国軍とモンゴル人民軍・ソビエト労農赤軍の間で戦闘が起こった(ノモンハン事件、ハルハ河戦争)。

この絵の発注者である、予備役中将・荻洲立兵はノモンハンで戦死した部下の鎮魂のために、藤田に制作を依頼した。藤田は4mを超える横長のキャンバスに匍匐前進する日本軍兵士の隊列、手前に戦車と奥の戦闘との対比により、パノラマ的に描いている。







陸軍省、海軍省編『靖國之絵巻』陸軍美術協会 1941年10月

*『靖国之絵巻』は、靖国神社の大祭記念として編集されたもので、陸・海軍省により編集され、陸軍美術協会から発行されており、 当時、作戦記録画の制作に関わった多くの画家たちの作品が収録されている。 

《アッツ島玉砕》 1943

1943529日、アリューシャン列島のアッツ島で米軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事を敵味方入り乱れる死闘として描かれている。全滅は「玉砕」という言葉で美化され、国に準じる行為が軍人の鏡であると報じられ、藤田の絵は陰惨な図であるにもかかわらず、見るものに熱狂的に受け入れられた。ここでは作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成する機能を果たした。その醸成には報道や文学、絵本、歌などのメディアミックスがあったとされる。






《サイパン島同胞臣節を全うす》 1945

1944年、サイパン島では日米両軍による死闘が繰り広げられた。戦火に巻き揉まれた住民たちは、島の北端に位置するマッピ岬へと追い詰められ、次々と身を投じたことから、この断崖は後の「バンザイ・クリフ」よ呼ばれるようになる。製糖業が盛んだったサイパン島には沖縄からの移民が多く、民間人の犠牲者の大半は沖縄県出身者であった。藤田は報道記事をもとに、戦闘のなかで集団自決に到った民間人の姿を想像によって描いている。描かれた人物、その表情をそれぞれ見ていくと、それは宗教画のような劇的な描写になっている。

なお、タイトルの「臣節全うす」とは、臣下として守るべき節操の意味。




















ソロモン海域に於ける米兵の末路》 1943 

タイトルがなければこれが戦争画であることすらわからない。ここでの目的は、具体的な太平洋戦争期のどこそこの戦場を描くことではなく、人間が極限状態に置かれるとどうなるのか、という普遍的な問題を描くことにある。藤田は、テオドール・ジェリコーの《メデューズ号の筏》(181819)や、ウジェーヌ・ドラクロワの《地獄のダンテとウェルギリウス》(1822)といったヨーロッパ絵画を下敷きに、自由に想像力を駆使して描いたとされる。この作品は、 第二回大東亜戦争美術展に出品された。



《血戦ガダルカナル》 1944

ガダルカナル島の戦いとは、第二次世界大戦において19428月以降日本軍と連合軍がソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ガダルカナル島での戦いは、すでに日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、日本軍は撤退に向けて動き始めていた。しかし、実際の撤退決定までは1ヶ月以上もの時間を要し、その間にも多くの将兵が餓死していった。 国民にはこの敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。 これは戦闘の地獄絵である。藤田は、勝者と敗者との区別もつかないこの殺戮の場面を、歴史画家のまなざしで描ききっている。




(2)宮本三郎

宮本三郎は、やはりパリから戻り、1940(昭和15)年、陸軍省嘱託となり、中国北部へ従軍し北京を中心に2か月滞在した。1942(昭和17)年には陸軍省の嘱託を受け、シンガポールにて日英両軍の停戦会議を描くよう命じられた。その後も、1943年(昭和18)年にフィリピンやセレベス島へ従軍している。

《本間、ウエンライト会見図》 1944

フィリピン・コレヒドール島での戦果を示すため、19425月の日米軍の会見を描いたもの。会見図というより、後方で撮影する報道班員を中心に据えており、戦争を伝達するメディアの舞台裏がクローズアップされている。





《萬朶隊碑比島沖に奮戦す》 1945
萬朶隊は、富嶽隊とともに陸軍最初の特攻隊として、1944年10月に編成された。フィリピンで特攻を行うべく準備を進める中、移動中に米軍機の攻撃を受け隊長以下主力の4名を失う。その後11月12日に残された部下たちはレイテ湾において米軍の艦隊に突入、任務を遂行した。この時の戦果は過大に報道された。



《山下、パーシパル両司令官会見図》 1942

大平洋戦争の緒戦のシンガポール陥落により、マレーの虎こと山下奉文がシンガポールを攻略し、英国司令官パーシバルに降伏を迫る状況を描いたもの。






『日本の戦記 大東亜戦絵画美術史』日展美術院出版部1965年


《シンガポール陥落》 1944




(3)向井潤吉

向井潤吉は、やはりパリで学んだ後、日中戦争が起きた1937(昭和12)に個人の資格で中国に従軍を志願し、戦争画を積極的に描き始める。1938(昭和13)年には大日本陸軍従軍画家教会の設立に参加する。1941(昭和16)年にはフィリピン、ビルマへと従軍し、東南アジアの熱帯を舞台にした作品も描いた。

《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃》

194249日、日本はフィリピンのルソン島にあるパターン半島を占領した。前景にアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜、中景に日本兵、後景にはフィリピンの避難民が立ち尽くしている。向井はこの光景を「濁流」と形容し、人々がひしめき合う混沌とした様子を描いている。




《バリットスロン殲滅戦》1944







《突撃》《甦民》《難行》絵葉書 

向井は自ら志願して従軍するなど戦争という大きな出来事に積極的に向き合い可能な表現レベルを模索した。《突撃》は敵側から日本兵の姿を捉えた新しい表現を加えたとされる。



《大陸に祈る》『主婦の友』第23巻第8号 1939



《マユ山壁を衝く》 1944

戦況が悪化したなかでは、もはや兵士が主役ではなく、それを飲み込む熱帯の植物群に焦点があたっている。





《飛騨立秋》 1962

戦後は、全国を旅し、失われつつある藁ぶき屋根の民家を記録するため精力的に描いた。



(4)小磯良平

渡欧した後、1938(昭和13)年に陸軍報道部の委嘱を受け、上海に渡る。さらに1942(昭和17)年には陸軍省派遣画家としてインドネシア方面へ従軍した。

《娘子関を征く》 1941

1937年の山西戦場における日本軍と中国軍の戦闘の勝敗を決めたのは、忻口と娘子関での戦争であった。河北省との東部省の境に位置する娘子関(ジョウシカン)は太行山脈の隘路にあり、嶮しい山岳地帯を背にした要衝である。193710月、太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。

実際の戦闘場面ではないが、このように日中戦争のターニングポイントとなった山岳戦に赴く兵士を描いたものであり、戦意高揚の目的を十分に果たしていた




《カリジャティ会見図》 1942

同会見は小磯がジャワ島に到着する以前の三月八日蘭印に行われたもので、今村均司令官が蘭印総督であったスタルケンボルグに対して「退場を命じた瞬間を描いた」作品とされている





(5)その他の画家と作品

御厨純一 《ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲》 1942

躍動感あふれる空中戦を絵画にしかできない脚色によって描いた想像図である。




田辺至 《南京空襲》 1940




 硲伊之助 《臨安攻略》 1941



鈴木良三 《衛生隊の活躍とビルマ人の好意》 1944

鈴木良三は、日本赤十字社から作戦記録画の作成依頼を受け、ビルマへ渡って野戦病院に滞在し取材をする。その体験をもとに描いた 。土地の暮らしを守るのが日本兵で、現地の女性は兵士に奉仕するという図式は、作戦記録画において定型化されていたものだ。




山口蓬春 《香港島最後の総攻撃》 1942年 日本画 

1941年に起きた、英国が支配する九龍半島および香港島への日本軍の攻撃を描いている。日本画は油彩に比べ迫真性に欠けるといわれるが、この絵は大和絵風の描写で、陥落三日前の香港島を美しく描き出している。しかし、「美しい風景」は同時に戦争の美化という問題を生じる。




田村孝之介 《佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す》 1944

19421215日、ガダルカナル島の米軍司令部に奇襲攻撃を行った大野挺身隊の3人が出撃前に部隊長と分かれの盃を交わしている場面が描かれている。題名の通り帰還することのない3人にスポットライトのように光が差し込み、当時の人々はこの場面を宗教画の殉教図のように受け止めたとされる。





田村孝之助 《アロルスター橋突破》 1944

イギリス軍の守備をくぐりぬけ、日本軍のオートバイが橋を疾走していく。手間には不意を突かれて振り返るイギリス兵が2名、後方からの攻撃に備えて銃を構える兵士が1名、描かれている。

実際の戦闘では、この直後にイギリス軍が橋を爆破したため、恐慌突破しようとした日本軍は全滅した




鶴田吾郎 《神兵パレンバンに降下す》 1942年(スマトラ島) 

蘭印スマトラ島パレンバンに陸軍落下傘部隊が降下する模様を描く。様々なパターンで想を練った末に鶴田は、抜けるような青空のなかを一様な形態の落下傘が舞い降りていく構図を選択する。それにより見る者の眼を惹く絵画的な効果は強まったが、当時は「見るからに楽天的」など多少の苦言混じりの評も聞かれた。






中村研一 《コタ・パル》 1942年 

対英米開戦を告げる歴史的作戦を描いた作戦記録画である。真珠湾攻撃の一時間前にマレー半島のコタ・パルに上陸作戦は始まっていた。制作にあたり中村は、作戦のあった半年後に現地の海岸を訪れ、綿密な取材をする。その結果、月明かりによる光と闇の対比、敵側からの視点による迫力ある構図といった効果を盛り込むことに成功。這いつくばりながら鉄条網を切断しようとする兵士や手榴弾を投げようとする兵士を迫真的に描き出した。





中村研一《北九州上空野辺軍曹機の体当りB29二機を撃墜す》1945

1944(昭和19)年8月20日、米軍は北九州の八幡製鉄所を標的とした空襲を行った。戦闘のさなか、野辺軍曹が操縦する日本陸軍の戦闘機・屠龍がB-29に体当たりし、2基同時に撃ち落とした。夕暮れ時の空に、日米両軍の戦闘機の破片が舞い散っている。




小川原脩 《アッツ島爆撃》  1944

19426月に日本軍はアリューシャン列島のアッツ島を占領する。その際の爆撃の様子を描いた。写真をもとに描いたということで、描写は淡々として派手な爆炎も燃え盛る敵陣も見当たらない。この作品が発表されたのは19443月、つまりすでにアッツ島は米軍に奪還され、日本軍の守備隊は玉砕した19435月よりずっと後のことである。玉砕が国民に知れ渡った後に、それ以前の戦闘を淡々と描いたということになる。




伊原宇三郎 《特攻隊内地機知を進発す》 1944 

1944123日、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特攻隊「殉義隊」とそれを見送る同僚や家族が描かれている。画家・伊原は隊長の敦賀と同郷だったこともあり、出撃前の彼らを取材する際に、彼とその両親に話を聞く機会があったという。見送り人々の中にはその両親もいた。その中には一人こちらを見つめる少女がいる。




ひとり、こちらを向いた少女の視線の先にあるものは?


鈴木誠 《皇土防衛の軍民防空陣》 1945

1945310日の東京大空襲の様子を描いたもの。いわゆる銃後の市民生活を描いている。防災頭巾や女性が手にするバケツ、延焼を防ぐための鳶口といった道具は、物資が不足するなかで重要な防災用具とされていた。戦時下の国民は「隣組」単位でバケツリレーなどの防災演習に取り組んだ。






小河原脩 《成都爆撃》 1945 



松坂康 《ウエーキ島攻略戦(その2)》1942

1941(昭和16)年12月、日本軍は北太平洋のウエーキ島を占領した。大勢の米軍捕虜がトラックで運ばれていく様子を描いている。なお、松坂康は、江戸時代から続き箱根の老舗旅館「松坂屋本店」の家に生まれ、旅館の主と画家という二足の草鞋を履いていた人物である。







山田新一 《暁明の天津附近戦闘》 1944 




山田新一《仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業》 1943 
日本軍は1942年に朝鮮の京城と仁川に捕虜収容所を設置し、シンガポールで投降した英・豪軍将兵の捕虜が収容する。彼らは港湾修興専売局で使役されたという。



なお、近美に所蔵されている「作戦記録画」153点のうち作品数の多い画家は次のようである。

14点:藤田嗣治 (1886 - 1968)

9点:中村研一 (1895 - 1967)

7点:宮本三郎 (1905 - 1974)

5点:小磯良平(1903 - 1988)

4点:鶴田吾郎 (1890 - 1969)

   伊原宇三郎 (1894 - 1976)

   向井潤吉 (1901 – 1995)


2.戦争画の戦後~収集から無期限貸与に

戦後、作戦記録画は進駐軍の依頼を受けた藤田嗣治と山田新一により収集された。収集作業を行った藤田嗣治と山田新一は、先に見たように、両人とも153 点のリス トにある戦争記録画を描いた洋画家である。藤田は戦時中は陸軍美術協会会長として、山田は朝鮮美術界の主導的立場にあり、戦時中は朝鮮軍報道部美術班長であった。なお、藤田は仮病を使ってその任務から逃れ結果、山田がこの任務を引き受けることになったという。

1946(昭和21)年、収集された作品は東京都美術館に収容された。しかし、これらの作品は19451(昭和26)年、GHQにより戦利品として接収され、アメリカへと持ち去られた。その後、写真家・中川市郎がアメリカ国防省管理下の戦争画を発見、撮影し、日本で展示したことにより大きな注目を浴びた。その結果、返還運動が進み、日米の交渉により1970(昭和45)年、日本側に自由な扱いを許す「無期限貸与」(ただ、所有権は現在も米国にある) という形で返還され、153点が東京国立近代美術館に収蔵された。しかし、当初、修復後の約50点について新収蔵品展示の機会に一括公開が予定されたが、1977(昭和52)年、同館はこれらの一般公開を見送った。一括公開は戦争賛美と誤解される、当事者国への配慮などといった理由だった。その4か月後に常設展にて8点のみ消極的公開がされた。

今回は、企画展「記録をひらく 記憶をつむぐ」と常設展に展示された作品と合わせて約30点余りが展示されて、これまでの過去最大であるようだ。

(参考):

『画家と戦争』別冊太陽 河田明久 監修 2014

『女性画家たちの戦争』吉良智子 平凡社新書 2015

『女性画家たちと戦争』吉良智子 平凡社2023

(新版)フジタよ眠れ』菊畑茂久馬 花乱社 2021年

続いて、これら洋画を中心とする戦争画の他に、日本画による作品、さらに直接に戦闘場面を描いたものではないが、戦争協力画と呼べるような作品、そしてそれらを描いた画家たちの戦争責任などについてもみていきたいと思います。

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