| 日本カメラ博物館 |
沢田教一と一ノ瀬泰造@日本カメラ博物館と報道写真家沢田教一のまなざしー「戦禍を生きる人々」@JCIIフォトサロンを観てきました。一ノ瀬は、沢田より10歳近く離れていますが、それぞれ戦場カメラマンとしてベトナム戦争を撮り、カンボジアで亡くなりました。
| 沢田教一と一ノ瀬泰造@日本カメラ博物館 |
| 「戦禍を生きる人々」@JCIIフォトサロン |
1.沢田教一(1936-1970)
青森の出身、同級には寺山修司がいた。青森の三沢にある写真店で働き、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンに憧れる。
1964(昭和39)年、ベトナム戦争を取材していた*岡村昭彦に「いまからベトナムに行ってもおそくはないだろうか」と相談し、ベトナム取材を決心する。
1965(昭和40)年、自費でベトナムに渡り取材を始めた。この時期はベトナム戦争が全面戦争に発展した時期である。
*岡村昭彦(1929-1985)ベトナム戦争を撮影した報道写真家。『LIFE』(1964年)に「醜いベトナム戦争」という写真特集が掲載された。
岡村や沢田が戦場カメラマンとして活躍した1964年は、日本では東京オリンピックが開催された年である。戦争の記憶が風化されつつあった当時の日本と戦火にあるベトナムとのギャップが彼らをベトナムに向かわせる動機になっていた。
| 沢田教一 |
| 岡村昭彦 写真集 毎日新聞社 1965年 |
2.一ノ瀬泰造(1947-1973)
佐賀県武雄に生まれる。高校時代は野球部に所属し甲子園に出場した経験を持つ。1966年、日大芸術学部写真学科に入学する。学園紛争や反戦運動の新宿駅騒乱(1968年)などを撮る。
1971年 フリーランスの戦争カメラマンとして活動を開始し、インド・パキスタン戦争へ向かい、翌年にはベトナム戦争が飛び火して戦いが激化するカンボジアに入国し、ベトナム戦争、カンボジア内戦を取材する。
一ノ瀬が、戦場カメラマンとしてベトナム戦争に向かうようになった動機としては、日本人戦場カメラマンである岡村昭彦、沢田教一、*秋元啓一、*石川文洋などのベトナム戦争の写真を見て、彼らの活動に触発され、 遅れてきたカメラマンとして、激動の時代を記録したいという強い思い があったとされる。
*秋元啓一(1930-1979)
朝日新聞のカメラマンで、1964年、作家・開高健とともにベトナム戦争へ特派された。1965年、開高との共著『ベトナム戦記』を刊行。
*石川文洋(1938-)
1965~68年、ベトナム共和国の首都サイゴン(当時)に滞在し、フリーで従軍し、戦場取材をおこなった。1969年から朝日新聞社の所属し、1972年には戦時下の北ベトナムを取材。1979年にはカンボジア大虐殺を取材した。
| 一ノ瀬泰造 |
3.「 安全への逃避 」と「安全へのダイブ」
沢田は、1965 年に撮影した写真「安全への逃避」が世界に配信され、翌年*ピュリツァー賞を受賞した。また、「安全への逃避」と連続して「泥まみれの死」が *世界報道写真大賞を受賞した。
「安全への逃避」の写真のキャプションは次のように書かれている。
「南ベトナム、クイニョン:住んでいる村が激戦に巻き込まれた時。つい先日、米爆撃機による空爆から逃れるために、住民のベトナム人母と子どもたちが川を渡る。空爆の狙いは、村から米海兵隊目がけて発砲してくるベトコン狙撃兵を倒すことだった。女と子どもらは爆撃が始まる前に避難するように命じられた。(1965年9月10日)」
受賞後、沢田は撮影地を再訪し「幸せに」との言葉を添えた受賞した写真と、賞金30万円のなかから6万円を家族に渡したと伝えられる。
また、当時8歳の少女が、後に語るところでは、朝食の準備をしていると自宅近くでナパーム弾の爆撃が始まり、家族や近所の人々とともに川に飛び込んだところ、撮影していた沢田に助けられた。周辺にいた米兵の一部は銃を向けていたが、発砲はされなかった。沢田はその後も村を何度か訪れて子供たちにケーキを配り、沢田の死亡の知らせが伝わると村中が悲しんだという。
なお、「安全への逃避」の写真集は、先に観た記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館に展示されていた。ベトナム戦争・反戦のコーナー、『戦場 沢田教一写真集』毎日新聞社 1971年
(参照):
東京異空間344:プロパガンダ・ポスターなど@東京国立近代美術館&昭和館(2025/9/19)
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| 沢田教一「安全への逃避」 |
| 沢田教一 写真集 |
一ノ瀬の「安全へのダイブ」は、1972年にUPI通信社の月間最優秀賞に選出された作品で、米国の新聞にも掲載された。爆撃を避け、穴の中に飛び込むベトナム兵の瞬間を切り取った、戦場の緊迫感を伝える写真である。
どちらの写真にも「安全への・・・」というタイトルが付けられている。
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| 一ノ瀬泰造「安全へのダイブ」 |
*ピュリツァー賞報道写真部門
ピュリッツァー賞はアメリカの新聞王ジョゼフ・ピュリッツァーの遺言により、1917年に設立された賞。「報道写真部門」は1942年に設立。フォトジャーナリズムの最先端にある賞 とされる。
日本人の受賞者は、沢田と、長尾靖(1960年)、酒井淑夫(1968年)の3人である。
長尾靖「舞台上での暗殺」
長尾は1960年10月12日、日比谷公会堂で日本社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺される瞬間を撮影した。 狂信的な右翼学生・山口二矢(やまぐち おとや)で、彼は浅沼の心臓に刀を突き刺し引き抜いた。この「決定的瞬間」を、長尾はフラッシュによって鮮明に捉えていた。
なお、ピュリツァー賞の他に世界報道写真大賞も受賞。
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| 長尾靖「舞台上での暗殺」 |
酒井淑夫「より良きころの夢」
酒井淑夫は、同僚であった沢田教一がピュリツァー賞を受賞した後にベトナムへの転勤を希望した。
「より良きころの夢」は、ある黒人兵士がずぶ濡れの砂袋の上に横たわっている。戦友の白人兵士は大雨のなかでもライフルをいつでも使えるよう警戒している。こんな豪雨では攻撃もありそうにないが、そんなときこそ警戒を怠ってはいけないという緊迫感のある様子を撮影した。
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| 酒井淑夫「より良きころの夢」 |
*世界報道写真大賞
1955年、オランダの写真家グループが世界報道写真財団を発足させ、毎年 、世界報道写真コンテストを開催し、最も優秀な写真を撮影したカメラマンに贈られる賞である 。「フォトジャーナリズムで最も権威があり、切望されている賞」とされ、受賞者には1万ユーロが贈らる。
日本人の大賞受賞は、4人。1961年長尾靖(日本社会党浅沼稲次郎委員長刺殺の瞬間を捉えた写真)、1965年 沢田教一 (安全への逃避)と66年ベトナム戦争(泥まみれの死) の2年連続、三上貞幸(成田闘争の写真 )、2020年千葉康由(スーダンのクデターで、政府への抗議を込めた詩を歌う少年たち「まっすぐな声」)
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| 沢田教一「泥まみれの死」 |
4.ライカとニコン
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| (左)沢田教一 ライカM2(右)一ノ瀬泰造 被弾したニコンF |
沢田が愛用したのはライカ、それに対し一ノ瀬が愛用したのはニコンである。
沢田教一にとって、ライカは信頼できる戦場でのパートナーであり、日本製カメラをどんなに勧められても「日本のカメラは写りが悪い」「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」といって日本製のカメラを使いたがらなかったという。
ピュリツァー賞を受賞した『安全への逃避』の写真データは、「ライカM3、135ミリレンズ、トライX、1/250秒、F11」としている
ライカの登場と35ミリフィルムの組み合わせは、それまでの大型カメラに比べて機動性を飛躍的に高め、報道カメラマンが被写体の近くで、気付かれることなく、連続撮影と決定的瞬間を捉えることを可能にした。アンリ・カルティエ=ブレッソンは、「私はライカを発見した。ライカは私の眼の延長であり、もはや私を離れることはない」とまで述べている。
その最初のライカⅠ型が登場したのが1925年、今年で100年となる。沢田が愛用したというライカM2は、1954年発売のM3につづき、 1958年に登場した。ライカMシリーズはレンジファインダーカメラで、光学視差式距離計が組み込まれており、距離測定に連動して撮影用レンズの焦点を合わせられるカメラである。
それに対しニコンの一眼レフカメラでは、ファインダーはレンズを通った光をミラーで反射させて見せるため、実際に写る像をそのまま確認できるという特徴がある。
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| 弾痕のあるカメラ |
一ノ瀬泰造が実際に戦場で使用していたニコンFの中には、被弾して銃弾が貫通した状態で発見されたものがある。これは、戦場での取材がいかに危険であったか、そしてニコンFがいかに堅牢であったかを物語る象徴的なエピソードとして語られる。
ニコンFは、一眼レフカメラで、その堅牢性と信頼性から、世界中の報道カメラマンに愛用され、「報道のニコン」というブランドイメージを確立したとされる。
5.戦場に殉ず
沢田と一ノ瀬は、報道写真家として生き、戦場に殉じた。
沢田は、1970(昭和45)年、 支局長とともに、自動車で取材に向かった帰途、プノンペン近くの国道2号線上で何者かに銃撃され、ふたり共に死亡。翌日に政府軍によって2人の遺体が発見されたが、所持していた愛機のライカや腕時計等の金品は無くなっており、襲撃者に盗まれたものと見られる。犯人については判明しなかっ た。沢田、34歳であった。
『ライカでグッドバイ カメラマン沢田教一が撃たれた日』青木富貴子 文藝春秋 1981年
『泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集』 講談社 1985年
『澤田教一 故郷と戦場』 羽鳥書店 2016年
一ノ瀬は、1973年11月には友人宛の手紙に「地雷を踏んだらサヨウナラ」と記しアンコールワットへと潜入し、その後消息を絶った。このとき26歳。あのロバート・キャパがベトナムでの取材中に地雷を踏んで亡くなっている(1954年)が、そのことを踏まえた言葉である。
それから9年後の1982年、プラダックの草原に埋葬された一ノ瀬の遺骨が発見された。 後に、1973年11月22日もしくは23日に*クメール・ルージュに捕らえられ、29日に処刑されていたことが判明した。
*クメール・ルージュとは、1970年代にカンボジアで活動した政治組織および武装勢力で、特にポルポト政権下での大規模な弾圧や虐殺を行った。
『地雷を踏んだらサヨウナラ 一ノ瀬泰造写真・書簡集』講談社 1978年
6.フォト・リテラシー
沢田や一ノ瀬の写真は「報道写真」のなかでも「戦争写真」といわれる。「報道写真」というのは、戦前1934(昭和9)年、名取洋之助が立ち上げた日本工房の写真展に当たり、伊奈信男がドイツ語でいう「レポルターゲ・フォト(Reportage Foto)」を「報道写真」と翻訳したことによる。これらの写真は、国策宣伝のプロパガンダとして演出され、利用された。その反省に立ち、土門拳は、戦後、「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げてリアリズム写真運動を展開した。
しかし、スーザン・ソンタグによれば、演出した写真がほとんどなくなるというのは、ベトナム戦争以後だという。沢田や一ノ瀬などがベトナム戦争を撮った写真が、強く人々に訴えてくるのは、戦意高揚ではなく、「反戦」への思いである。日本でも、小田実らの「べ平蓮」(ベトナムに平和を!市民連合) による反戦運動が盛り上がり、また前に観たように岡本太郎による「殺すな」という文字が大きくレイアウトされた意見広告が『ワシントン・ポスト』に掲載された。
(参照):
東京異空間344:プロパガンダ・ポスターなど@東京国立近代美術館&昭和館(2025/9/19)
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| 岡本太郎「殺すな」(『ワシントン・ポスト』1967年4月3日) |
今橋映子は『フォト・リテラシー』という著作において、 「写真は世界を救うか」と投げかけ、「報道写真と読む倫理」を語る。それは例えば、次のような問いかけである。
「写真を撮る人間は、大きな危機や事件を前にして、撮るべきか、救うべきか?
写真を観る人間は、例えば他国の大戦争の悲惨さを目にして、何か行動を起こすか?起こさないとすればその写真は無駄であったのか?」
沢田は、「安全への逃避」の写真を撮り、被写体である少女たちを助けたという。写真家たちが命懸けで撮ったこうした写真を観て、 何か行動を起こすことのできる人は、どのくらいいるだろうか。起こさないとすればその写真は無駄であったのか?と問いかけられる。
さらに、スーザン・ソンタグは、こうした戦争写真が持つ衝撃的なイメージが、かえって人々の感覚を麻痺させたり、消費の対象になったりする危険性を指摘している。
今も、世界の各地で戦争が起こっいる。また、写真だけでなく、テレビ、さらにはSNSなどのネットで多くの映像が流れてくる。そのなかには、フェイク画像も含まれている。そうした現代だからこそ、 単に写真(その他の映像)を見るだけでなく、その写真が持つ背景、意図、編集の有無などを批判的に読み解く能力=フォト・リテラシー が求められる。
(参考):
『フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理』今橋映子 中公新書 2008年
『他者の苦痛へのまなざし』スーザン・ソンタグ みすず書房 2003年
沢田教一と一ノ瀬泰造という二人の戦場カメラマンの写真展を観て、戦争の悲惨さを思うだけでなく、写真の持つ影響力、魅力、さらには写真を観るリテラシーの重要性をあらためて考えることになりました。
いまも世界の各地で戦争が起こっています。次のようなソンタグの言葉をかみしめて、日本にいて平和ボケにならぬようにしなければとも思います。
「現代の期待と現代の倫理的感情の中枢には、戦争は止められないものであるにせよ、一つの逸脱であるという確信がある。たとえ達成できなくても平和が規範である。もちろん歴史を通して戦争がこのように認識されてきたわけではない。戦争が規範で、平和は例外であった。」








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