2025年9月19日金曜日

東京異空間344:プロパガンダ・ポスターなど@東京国立近代美術館&昭和館

 

昭和館

「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館では、これまで観てきたような絵画のみならず、当時のポスターや雑誌、新聞、絵葉書など、いわゆるプロパガンダに使われたビジュアル・メディアも展示されていました。とくにポスターは、その原画が戦争画を描いた有名な画家たちによって作成されています。

展示されていたポスターの多くは昭和館の所蔵となっており、撮影不可となっていました。昭和館は九段下にあり、竹橋の近美からはそれほど遠くないので行ってみました。昭和館では「社会を映す、動かす ポスターにあらわれる国策宣伝の姿」という特別企画展が開催されていました(9月7日まで)。

今回は、これらプロパガンダ・ポスターなどを中心に見ていきます。

1.プロパガンダ・ポスター

展示されていたポスターと昭和館にみるポスターの標語をピックアップしてみた。

(1)ポスター

展示されていた作品のうち、昭和館所蔵のものは撮影不可であったが、昭和館のホームページから検索してみることができる。

(参照):

昭和館デジタルアーカイブ

「社会を映す、動かす」展@昭和館


「紀元二千六百年記念 日本万国博覧会」ポスター(中山文孝) 

1940(昭和15)年に開催されるはずであった万国博覧会(いわゆる「幻の万博」)ポスターの公募で一等を受賞。中山文孝(1888-1969)はグラフィックデザイナーのパイオニア的存在。



「挙つて国防 揃ってラヂオ」陸軍省・海軍省・内務省・逓信ポスター 



ラヂオ体操の会 



「臣道実践」大政翼賛会国民生活指導部センター(画・安田靭彦)

「義経参着」の姿を描き、必死の決心で立ち向かうことを示す。



「第38回陸軍記念日 撃ちてし止まむ」陸軍省ポスター(画・宮本三郎) 

「撃ち終えるまで(=敵を打ち破るまで)やめない」という強い意志を表す。 『古事記』の神武天皇が東征の際に詠んだ「久米歌」の一節に由来する。


「満州へ!!」拓務省ポスター  



「国民総決起」大政翼賛会・翼賛政治会ポスター


「強く育てよ御国のために」厚生省体力局ポスター



「護れ興亜の兵の家」軍事保護院(画・川端龍子) 





「かやは麻」/日本紙業株式会社ポスター(画・多田北鳥)

かや(蚊帳)を防弾楊の網に見立て、戦争ごっこをして遊ぶ子供の姿を描く。多田北鳥(1889-1948)は、日本のポスターデザインの先駆者と言われる。



「家庭も小さな鉱山だ 鉄鋼製品を総動員!」大政翼賛会ポスター


「進め一億火の玉だ」大政翼賛会ポスター 


国民精神総動員 雄飛報国乃秋(竹内栖鳳)522585 天壌無窮 (画・横山大観) 


雄飛報国乃秋(画・竹内栖鳳)

天壌無窮 (画・横山大観)

「聖戦四年記念」ポスター (藤田嗣治) 聖戦四年七月七日 



「空襲!!備へよ防毒面」東京・藤倉工業株式会社 

藤倉工業は、落下傘、防毒面、航空機用タイヤ、救命浮舟などを製造していた。


(2)標語

昭和館に展示されていたポスターの標語をピックアップしてみた。

「民心興れば国難去る」文部省(画・飛田周山 書・渋沢栄一)昭和4年



「敵の巨艦を海底に!敵の領土に日の丸を!」情報局  



「撃沈!撃滅」内閣情報局 昭和17年

「見たか戦果知ったか底力」 大政翼賛会・日本宣伝文化協会 昭和17年頃 



「進め一億火の玉だ」  


「明るく戦はう」大政翼賛会・商業報国会 昭和17年

「勝って兜の緒を締めよ」陸軍省 昭和13年

武将の北条氏綱が息子に宛てた遺言「五箇条の訓戒」の一節であり、成功した時こそ慢心せず、注意深く行動するべきだという教訓。現代でもスポーツなどの場面で使われることがある。



「英霊を偲び遺族を護りませう」軍事保護院 昭和14年

「湧き立つ感謝燃え立つ援護」軍事保護院 昭和17年

「肇国二千六百年心合わせて興亜に進め」生盛薬剤株式会社 昭和15年

「新日本民一億の総進撃」生盛薬剤株式会社 昭和17年頃 

「一億」とは当時日本が統治していた台湾や朝鮮の人口をあわせた数である。本土の人口は7000万人程度であった。

「おねがいです。隊長殿、あの旗を射たせてくださいッ!」 大政翼賛会 昭和17年


このような雑誌のページを切り取ったスタイルは、軍事工場や隣組の掲示板に張られ、「壁新聞」と呼ばれていた。この壁新聞は、一二月八日、大東亜戦争一周年記念の宣伝の一つとして発行された。最初の掲出場所は、銀座某化粧品店ショウウィンドウであった。

レイアウト・山名文夫、挿絵・栗田次郎、作字・岩本守彦で、その文章は大政翼賛会の外郭団体に所属していた花森安治の手によるものではないか、という説があるという。

山名文夫(1897-1980)は、グラフィックデザインの先駆者。資生堂の広告デザインで知られる。

花森安治(1911-1978)は、生活雑誌『暮らしの手帖』を創刊した(1948年) 戦後、花森は『暮しの手帖』で「男はいいわけをするな」と書き、一切の弁明をしなかったという。

「貯蓄スルダケ強クナルオ国モ家モ」大蔵省・日本宣伝技術家協会(図案・山名文夫・高橋春人)昭和17年   



230億我らの攻略目標」大蔵省・日本宣伝技術家協会 昭和17年 

国民貯蓄230億の目標に向けて兵士が邁進する姿を描く。



「挙げよ貯蓄も大戦果!」大蔵省・都道府県・日本宣伝技術家協会 昭和18年

「空だ男のゆくところ」内閣情報局(画・藤田嗣治) 昭和16年 



「挙つて国防 揃つてラヂオ」 陸軍省・海軍省・内務省・逓信省 昭和13年 

「国防と長期建設にラヂオ」陸軍省・海軍省・内務省・厚生省・文部省・逓信省 昭和15年頃 



2.戦争画とポスター

(1)社会的効果

戦争画などの絵画は、当然、一品ものであり、美術館に展示され、各地を巡回したとしても、それを見る人の数は限られる。一方、ポスター、雑誌、新聞などは、それこそ何万枚、何十万枚と刷られ全国津々浦々に配布され、多くの人の目に触れることになり、その社会的効果、プロパガンダ効果は大きい。

(2)純粋芸術と商業美術

また、絵画は、戦争画がいくらプロパガンダの性格を持つとしても、純粋芸術を求めるものであるのに対し、ポスター等のデザインは商業美術として、発注者側の意図を強く反映し、よりプロパガンダ効果は大きくなる。

(3)画家とデザイナー

ただし、こうしたポスターなどのデザインに絵画の有名画家たちが手掛けることも多くあった。絵画を描いた画家たちの多くは、戦後も活躍し、よく知られているが、ポスターのデザインなどを手掛ける人は、ほとんど一般には知られているとは言えない。

また、画家たちの戦争責任を見たように、戦後、多くの画家たちは、自らの戦時中の作品等にはあえて触れない傾向が強いのに対し、グラフィック・デザイナーは、むしろ、軍部、官公庁からの仕事を受けたことが誇りになり、戦争責任を語ることはないことが多いという。というのは、当時の官尊民卑のもとでは、これらの作品を官公庁から依頼されたことが自らの存在、名声を高めることにつながっていたからだとされる。

(4)懸賞募集

これらの官公庁のポスターの作成に当たっては、懸賞募集が行なわれ、当然、賞金と名声を目当てに応募する人も多かったという。懸賞募集をすることで、より認知度を高めるという当局の思惑ももちろんあった。ポスターの題材としては戦費調達のための国債・債券の発行、貯蓄の奨励などの金融関係が多かったようだ。なお、応募作品の審査には、有名画家たちが務めているものもあった。

しかし、こうした懸賞募集も常態化してくると、主催者側が期待するような応募作品は質量ともに落ちてくる。さらに戦局が悪化してくると、物資の不足、資金の不足から、ポスター制作そのものがごく限られたものになっていった。

(参考):

『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争』田島奈都子 編 勉誠出版 2016

『戦争がつくる女性像』若桑みどり ちくま学芸文庫 2000

3.雑誌・新聞・絵葉書等

(1)戦中・翼賛

ポスターの他にも展示されていた、戦時中の戦意高揚等のためのプロパガンダを次のように分類してみた。

美術書

『靖国之絵巻』

陸軍省・海軍省編『靖國之絵巻』陸軍美術協会 1941年

陸軍省・海軍省編『靖國之絵巻』陸軍美術協会 1941年


陸軍省・海軍省編『靖國之絵巻』陸軍美術協会 1943年


『靖国之絵巻』は、靖国神社の大祭記念として編集された。編纂者は陸軍省・海軍省で、発行者は陸軍美術協会である。 『靖国之絵巻』には、当時、作戦記録画の制作に関わった多くの画家たちの作品が収録されており、そのなかには藤田嗣治、中村研一、宮本三郎、向井潤吉などの洋画家はもとより、横山大観、鏑木清方、川合玉堂などの日本画家など、日本の絵画界の大家が多数含まれている。

國學院に所蔵されている『靖国之絵巻』がデジタル化されていて閲覧できる。

https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/index.html

『聖戦美術展集』朝日新聞社 1939年

山田米吉編『海軍館大壁画史』海軍館壁画普及会 1942年
1937年に原宿に設置された海軍館には「壁画室」があり、大型の戦争画が常設されていた。

画・鬼頭鍋三郎「雪と氷の島」アッツ島

上:「南京空襲」川邊至 下:「柳州爆撃」中村研一『第5回大日本海洋美術展集』朝日新聞社 1941年

画・吉岡堅二 陸軍美術協会編「南方画信」第二輯 陸軍美術協会出版部 1942年

画・藤田嗣治「アッツ島玉砕」写真協会編、情報局監修『銃後の戦果』目黒書店1944年


写真・グラフ雑誌

『写真週報』

『写真週報』は、内閣情報部により刊行されていた週刊のグラフ雑誌である。「写真による啓発宣伝のきわめて強力なるを想い」、「簡単にいへばカメラを通じて国策を分かりやすく国民に知らせようといふ趣旨」で発刊されていた。

内容は「新年號 」、「海軍記念日」、「支那事変」、「紀元二千六百年」、「満洲國」、「食糧増産・街の鑛脈 」、「都市防空」、「大東亜の建設」、「大東亜戦争」、「戦力増強」、「衣料・貯蓄」などの特集が組まれた。写真は、木村伊兵衛(創刊号の表紙)、土門拳、林忠彦、入江泰吉など、戦後の写真界をリードするようになる写真家たちが担当した。また、公募等により、一般読者の写真作品も掲載された。

発行部数は、毎週十万から五十万部発行されていたという。しかも、一冊を回覧しており、一冊当たり10.6人で見ていたというから、少なくとも毎号150万人ぐらいが目を通していたことになる。

写真は、当時はまだ白黒であったが、その宣伝効果については。第二号の冒頭で、「映画を宣伝戦の機関銃とするならば、写真は短刀、よく人の心に直入する銃剣であり、何十万何百万と印刷されて配布される毒瓦斯である」と述べている。

内閣情報部は、『写真週報』などを発行し、国策宣伝を行い、いっぽうで検閲など情報統制も強化していた。

『写真週報』は、次のサイトで閲覧することができる。

https://www.jacar.go.jp/shuhou/home.html#sesou

(参考):

『「撃ちてし止まむ」太平洋戦争と広告の技術者たち』難波功士 講談社選書メチエ 1998

「軍事郵便」特集『写真週報』第45号 1938年12月21日

「楽劇は続く」『写真週報』第67号 1939年5月31日

「上海陸戦隊」『写真週報』第92号 1940年1月3日

左:「ラジオ体操の本格的な講習会『写真週報』第258号 1943年2月10日
右:「ラッフルズ博物館に入る」『写真週報』第250号 1942年12月9日

「ラッフルズ博物館に入る」『写真週報』第250号 1942年12月9日
「ゴムが足りない 砂糖が少ないと言って すぐ南を口にしてはいけない
南方建設は我々の生活の中にある」

「ラジオ体操の本格的な講習会『写真週報』第258号 1943年2月10日

左:『写真週報』第268号 1943年4月21日
右:『写真週報』第247号 1942年11月18日

『写真週報』第276号 1943年6月16日

中:「山本元帥の国葬」『写真週報』第276号 1943年6月16日

上:画・藤田嗣治「十二月八日の真珠湾」
下:画・中村研一「コタバル」

『写真週報』第289号 1943年9月15日
「お父さんお母さん ボクも空へやつて下さい」

左上:『航空少年』第21巻大号1944年1月
右下:『写真週報』第348号 1944年11月22日
「今日われらの造った飛行機が明日戦場に神風を捲起すぞ送り出せ魂こめた飛行機を」

下中:「神風特別攻撃隊想像図」

『写真週報』第347号「一機命中に神州を護持す あゝ神風特別攻撃隊 忠烈萬世に燦たり」

『写真週報』第320号 1944年5月10日
「『女などに』と笑った人に今こそ見せんこの腕前」

「壮絶!サイパン白虎隊想像図」画・宮本三郎『写真週報』第276号 1943年6月16日

「陸軍防空学校」『写真週報』第75号 1939年7月26日

「空爆されたら」

『写真週報』第184号 1941年9月3日
「爆弾は炸裂した瞬間しか爆弾ではない。あとは、唯の火事を、君は消さうともせずに逃げだすてはあるまい召集を受けた勇士を、『一死奉公立派に働いてくれ』と君は励ました 一旦風雲急となった時、この都市を、護るのは今度は君の番なのだ。英霊は君の奮闘を待ってゐる」

「都市防空特輯」『写真週報』 


『アサヒグラフ』『満州グラフ』など

『アサヒグラフ』は、朝日新聞社が1923(大正12)年から2000(平成12)年まで刊行していた週刊グラフ誌。日本における写真誌の草分け的存在。

195286日号」において、日本で初めて、広島の原爆被害の写真を誌面に掲載し た。(下記:(3)「戦後・反戦を参照」)

『満州グラフ』は、1933年(昭和8年)に満鉄から創刊された写真グラフ誌。生活・風俗・工業・農業・民族美術・各民族の特集などの多彩な内容で構成され、まさに写真で見る「満洲国」百科。

「大陸は招く花嫁百万」『アサヒグラフ臨時増刊』「国策満州移民の全貌」1938年

「青少年義勇移民」『満州グラフ』第6巻6号1938年6月

「鉄道運営壱萬記念特輯」『満州グラフ』第7巻第9号1939年9月



「民族協和の国」
『満州グラフ』第8巻第1号1940年1月


上:「天下三関の一 娘子関」『満州グラフ』第6巻第4号1938年4月
下:「娘子関の敵塁を突破して」『週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊』「支那事変画報」第8輯1937年11月

「娘子関の敵塁を突破して」『週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊』「支那事変画報」第8輯1937年11月

「天下三関の一 娘子関」『満州グラフ』第6巻第4号1938年4月

『JAPAN IN PICTURES』朝日新聞社

「海外からの写真ー上海南駅のこの写真を1億3600万人が見た」『LIFE』1937年10月4日号

『週刊朝日』1943年6月13日号、『サンデー毎日』1942年6月28日号

『週刊朝日』は、1922年に創刊、『サンデー毎日』も同年に創刊され、最も歴史の長い総合週刊誌だったが、週刊朝日は2023年に休刊した。

書籍

三島章道『皇紀二千六百年奉祝記念国史絵巻』(「講談社の絵本第135号)大日本雄弁会講談社 1940年
     
「グンシンヤマザキブタイ」(『コドモエバナシ』第6巻大2号)1943年12月

下右:大政翼賛会文化部編『詩歌翼賛』第一輯 目黒書店1941年

大政翼賛会文化部は、高村光太郎、北原白秋、三好達治らの詩をまとめた小冊子『詩歌翼賛』、サブタイトル「日本精神の詩的昂揚のために」を付けて刊行した。
大政翼賛会文化部編『詩歌翼賛』第一輯 目黒書店1941年

『小説 海軍』岩田豊雄(獅子文六)・表紙絵・川端龍子

忠霊塔絵葉書

「満鮮の旅」満鉄東京支社/「生命線満蒙・資源と風俗」『犯罪科学』増刊第3巻第5号1932年4月

「露営の歌」薮内喜一郎・詩、古関裕而・曲 新興音学出版社

「露営の歌」は、1937(昭和12)年にコロンビアレコードから発売された軍歌。古関裕而が作曲

婦人雑誌

『主婦之友』

『主婦之友』は、石川武美により、1917(大正6)年に創刊。家庭婦人の日常に密着した実用記事により、その発行部数の多さを誇り、昭和18年には1638800部を発行し、当時の家庭婦人への影響力が大きかった。戦時中は、主に銃後の女性の姿を取り上げた。1988(昭和63)年終刊。



「大陸に祈る」 (画・向井潤吉)『主婦之友』1939(昭和14)年8月号

満州の開拓移民の夫婦と背中に赤ん坊。構図は明らかにミレーの「晩鐘」である。彼等が正面を向いて祈っているのは、祖国・日本である。



「輝く対面」(画・鬼頭鍋三郎)主婦之友1941(昭和16)年5月号


附録など

『家の光』創刊十五周年記念附録「大東亜共栄圏地図」

西部防衛司令部編『家庭防空 第一集』国防思想普及会 1938年


絵葉書、版画

「黎明社前の熱禱」(画・白滝幾之助)

白滝幾之助(1873-1960)は、写実的作品を制作した洋画家。

明治神宮の神殿に夫、父の無事を祈る母子。母親は赤ん坊を抱く。神殿自体は描かれず、母親と女の子が画面の外に向かって頭を垂れている。背後には銃剣を付けた軍人が砂利を踏んで立っている。

この絵は、『主婦之友』1937(昭和12)年12月号に掲載された。


国防館壁画絵葉書

軍事郵便・絵葉書

左:「鮮満支旅の栞」満鉄東京支社1939年/中:「朝鮮満州旅行案内」鮮満案内所1934年/右:朝鮮風俗絵葉書


「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」絵葉書

上:「奉祝美術展」『写真週報』第145号1940年11月30日
下:横山大観「海に因む十題」「山に因む十題」絵葉書

上:「紀元二千六百年三聖地記念絵はがき」
下:「紀元二千六百年ニ輝ク聖地日向」日向観光協会

李樺《吠えろ!中国》『現代版画第14集 1935年

大政翼賛会(作)近藤日出造(画)「敵だ!倒すぞ米英を」大政翼賛会宣伝部1942年
漫画家・近藤日出造は、杉浦幸男、横山隆一らとともに「新漫画派集団」を結成、機関紙『漫画』を大政翼賛会宣伝部の推薦を得て創刊した。ルーズベルトとチャーチルのグロテスクな戯画を得意とした。

リウ・カン『チョプスイ』

終戦後、シンガポールの経験を記録にとどめるようと、画家リウ・カンは自らの体験など日本軍の圧政と暴力を伝えるエピソードをドローイングで描いた。画文集『チョプスイ』とは、様々な野菜と肉を炒め煮にしたアメリカ式の中華料理を意味する。

新聞

『東京日日新聞』号外「満州事変画報」昭和6年10月3日

朝日新聞昭和18年5月31日「アッツ島に皇軍の神髄を発揮」

朝日新聞1943年8月31日「アッツ島玉砕の図」藤田画伯の大作成る

朝日新聞1945年3月19日「畏し・天皇陛下戦災地を御巡幸」


(2)メディア・ミックス

観てきたように、絵画、ポスター、雑誌、新聞、写真、絵葉書など、これらのビジュアル・メディアに加えて、ラジオの普及もあった。

日本でラジオ放送がはじまったのは、1925(大正14)年で、 日中戦争勃発の年、1937(昭和12)年には、ラジオの聴取者が急激に増加している。この年の都市部におけるラジオの普及率は48.2%、郡部では14.3%となった。さらに、 当時はラジオを大音量で鳴らしていたから、商店街や隣家から「もらい聞き」した人数が多数に上ることになり、実際にラジオ放送に接していた人数はこの数字以上だったはずである 。先のポスターの標語などにも見えるように、戦争時下の主なラジオ番組は、ニュースとラジオ体操だった。 ラジオで戦況を追いながら、ラジオ体操によって、潜在的には強い兵士となるための体を作ること、ラジオが国民皆兵の一助となった。

こうした、当時の新たなメディアとして「ラヂオ」が普及し、音楽、レコードも加わり、メディア・ミックスで戦争遂行、国民総動員体制などのプロパガンダが進められた。

「挙つて国防 揃ってラヂオ」国防キャンペーン・ポスター 昭和13年


(3)戦後・反戦

戦後は、広島・長崎の原爆の悲惨さをとらえたもの、さらにベトナム戦争に対する反戦を示すもの、大平洋戦争を振り返るビジュアル・メディアが展示されていた。

広島・長崎の原爆

「記録写真 原爆の長崎」第一出版社 1952年

丸木位里・赤松俊子「ピカドン」ポツダム書店 1950年

『アサヒグラフ』1952年8月6日号「原爆被害の初公開」

永井隆『長崎の鐘』日比谷出版 1949年

「Collier's」1950年8月5日号


ベトナム戦争・反戦

水木しげる「ベトナム戦記」『宝石』1968年12月号

岡村昭彦「写真集これがベトナム戦争だ」毎日新聞社 1965年

沢田教一『戦場 沢田教一写真集』毎日新聞社 1971年

岡本太郎「殺すな」(『ワシントン・ポスト』1967年4月3日)

岡本太郎による「殺すな」という文字が大きくレイアウトされたベ平連の意見広告。この広告は広島の市民グループとの協働であった。「ベトナム戦争はヒロシマを、そしてわれわれ自身の過去のすべてを想いおこさせる」と、日本の戦争体験を平和のアピールにつなげる新たな論理が模索されている。

太平洋戦争を振り返る

終戦20年記念特集「父の戦記」・『週刊朝日』1965年/「戦争中の暮しの記録」・『暮しの手帖』1968年

手塚治虫「ZEPHRUS」『週刊少年サンデー』1971年5月23日号

水木しげる『総員玉砕せよ』講談社 1973年

『週刊少年マガジン』1963年

『あゝ戦友あゝ軍歌』東京十二音楽出版/ジローズ「戦争を知らない子どもたち」シングル盤 1971年

『平和の礎 大東亜戦絵画美術史』
接収された戦争画を掲載した画集「平和の礎」という戦没者追悼の論理が戦争画にも適用された。


宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》『平和の礎 大東亜戦絵画美術史』

「太平洋戦争名画集」『毎日グラフ』臨時増刊 1967年11月

ステレオレコード版『名画 太平洋戦争』集英社 1969年


「戦争と美術 戦争画の史的土壌『美術手帖』1977年9月号/菊畑茂久馬『フジタよ眠れ:絵描きと戦争』葦書房 1976年

「おわりに」

戦時下のポスターなどのプロパガンダをみると、今では考えられないようなスローガンなどが盛り込まれています。雑誌、新聞などのメディアが大量に印刷され、ラヂオという新たなメディアも加わって、すべての国民を戦争に駆り立てていきました。しかし現代においても、新たなメディアであるSNSなどのネットワークを使い、大量の情報が、しかもフェイク情報も含んで日常生活の中に流れ込んできます。戦前のような過ちを繰り返すことのないよう、努力していかなくてはならない、ということを、まさに展覧会のタイトルである「記録をひらく 記憶をつむぐ」ことを、あらためて感じる展覧会でした。

展示を見終わって、出口のところに「おわりに」として、次のようなメッセージがありました。






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東京異空間344:プロパガンダ・ポスターなど@東京国立近代美術館&昭和館

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