| 藤戸石 |
京の旅の三日目は醍醐寺に向かいました。醍醐寺というと豊臣秀吉の「醍醐の花見」でもよく知られています。境内は広く、三宝院エリア、五重塔をはじめとする伽藍エリア、霊宝館エリアの大きく三つのエリア分かれます。
三宝院では、「枕流亭」が40年ぶりに特別公開されていました。まずは三宝院を拝観します。
(*はネットから借用したもの)
1.三宝院
三宝院は1115年、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建された、醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊である。その名の由来は、仏教の三つの宝である「仏・法・僧」を意味する三宝にちなんでいる。あるいはまた、勝覚が師事した三人の高僧(定賢・義範・範俊)に由来するとも言われている。
応仁の乱などの戦火により荒廃したが、安土桃山時代に醍醐寺を立て直したのが、第80代の座主に当たる義演准后(ぎえんじゅごう)である。もともと三宝院は「灌頂」という儀式を行うための場所として仁王門附近に位置していた。
当時、義演は「金剛輪院」を改修し、そこに居住していた。豊臣秀吉の絶大な庇護を受けて醍醐寺を再興し、金剛輪院の建物や庭を座主の居住するに相応しい風格のものに作りかえた。その結果、金剛輪院は座主の居住する「三宝院」の名を受け継ぎ、かつて金剛輪院があった現在の場所へと拠点を移し、今に至っている。
現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物で国宝となっている。
| 三宝院・入口 |
2.建物
(1)玄関
三宝院の玄関前には、みごとな枝垂れ桜の木がある(このときは桜の時期ではなく見過ごしてしまった)。 三宝院の白壁の前に満開に咲き誇る、樹齢約170年とも言われる名木「太閤しだれ桜」 である。この枝垂れ桜をモチーフとして描いた奥村土牛の《醍醐》が有名である。
奥村土牛はこの作品の制作について、次のように語っている。
「《醍醐》は昭和38年、小林古径先生の七回忌の法要の帰りに京都へ寄り、三宝院前の土塀のしだれ桜に極美を感じ写生をし、何時か制作したいと考えて居りました。」
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| * 奥村土牛《醍醐》 |
| 三宝院・玄関、左側手前に枝垂れ桜 |
| 三宝院・玄関 |
(2)葵の間
玄関から入って最初にある3つの応接室(葵の間、秋草の間、勅使の間)の中で最も大きな部屋である。入り口に最も近いため、3間の中では最も格下の「下段の間」とされており、床の高さも他の2間よりわずかに低く造られている。
奥へ進むにつれて高くなる床の構成になっており当時の対面儀礼の形式を知ることができる。
部屋の襖に、京都の三大祭りの一つである賀茂祭(葵祭り)の下鴨神社から上賀茂神社へ向かう行列の様子が描かれていて、部屋の名に由来する。
(3)秋草の間
表書院は、主に儀式や応接に使われており、秋草の間はその中でも、よりプライベート、もしくは特定の方を迎える空間として機能していた。
部屋の襖絵や壁画に、萩、芒(すすき)、葛、女郎花(おみなえし)など、秋の七草をはじめとする秋草が美しく描かれていることから名付けられた。
(4)勅使の間
天皇の使者である勅使を迎えるための専用の間として使われた。 勅使が訪れる際は、「唐門」から入り、庭園を横切ってこの「勅使の間」へと至るのが正式なルートとされている。
室内の襖には、江戸時代の絵師・長谷川等伯一派の手による「竹林花鳥図」が描かれている。
(5)表書院
表書院はもともと、慶長4年(1599年)の「醍醐の花見」に関連して勅使を迎えるために整備された。庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築である。
建物内は「下段の間(揚舞台の間)」「中段の間」「上段の間」の3つに分かれている。下段の間は畳を上げると能舞台になる構造になっており、秀吉の能楽への傾倒が伺える。中段の間は、下段の間で行われる能や狂言を鑑賞するための、座敷としての役割を持つ。上段の間は庭園を見渡すための貴賓席として機能する。
上段の間の襖絵は四季の柳を主題とし、中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作といわれている。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれている。
(6)純浄観
表書院に連なる「純浄観」(じゅんじょうかん)は、豊臣秀吉が1598年の「醍醐の花見」の際に醍醐山中腹の槍山に建てた茶屋(最も大きい建物)を移築したもの。表書院より少し高いところに建っているので、庭を俯瞰する形で鑑賞することができる。
純浄観の下には池が水路のように入り込み、かつては奥宸殿の前に船を浮かべて純浄観の下をくぐるダイナミックな演出がなされていた。
この部屋の襖には日本画家の浜田泰介 により桜と紅葉が対比するように描かれている。
金天目と金天目台
秀吉愛用の金天目と金天目台は、醍醐の花見のあと、秀吉は病に臥し、秀吉の平癒を祈祷した座主義演准后に、褒美として遺されたと伝えられる。木製の椀に薄く延ばした金板をかぶせたもので、台は銅に金メッキをしたもの。黄金の茶室を造った秀吉らしい品である。 通常は霊宝館で保管されているが特別公開されていた。
(7)本堂
藁葺屋根の「純浄観」のすぐ東隣に「本堂」があり、 入母屋造の屋根に桟瓦が葺かれている。周囲は障子窓で囲われていて、採光に配慮がなされている。
お堂の最も奥に鎮座しているのが、本尊、弥勒菩薩坐像で、 1192年に快慶の作とされる。しかし、弟子である行快による、あるいは快慶工房によるという説が有力となっているようだ。 ヒノキの寄木造で 全体に金泥が塗られ、膝のあたりには截金模様が残っている。また、高く結った髪の中に五輪塔が納められているという。弥勒菩薩の髪や胎内に五輪塔を収めることは、死者の供養や、弥勒菩薩を未来の如来として信仰する思想の象徴として、その仏像に「命」や「祈り」を込める役割を持っているとされる。
この像は、後白河法皇追善のために彫られた可能性が高いとされている。

* 本尊・弥勒菩薩坐像 
* 本尊・弥勒菩薩坐像
「酒づくし」の庭
本堂と純浄観の間には、苔と白砂だけで瓢箪、徳利、盃等を表した「酒づくし」の庭がある。 この庭は、秀吉が好んだ豪奢な酒宴の雰囲気を、静かな枯山水の形で表現したものとされる。
(8)聖天堂
本堂西にある聖天堂では、聖天像に温めた油を注いで供養し、人々の願いを叶える「浴油供(よくゆく)」という真言密教の秘法が連綿と受け継がれ、現在も毎朝3時から聖天行者が、聖天像に油を注いで供養する秘法が行われている。
御本尊は、象の頭を持ち、男女が抱擁する姿をした秘仏「大聖歓喜天双身像」が安置されている。これはヒンドゥー教のガネーシャ神をルーツとし、現世利益(夫婦和合、商売繁盛など)に強力な功徳があると信仰されている。
この聖天堂は、長らく「不開の門」の奥に位置する秘境とされてきたが、2025年に初めて一般公開された。
(9)枕流亭
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉による「醍醐の花見」に際し、自身の邸宅であった聚楽第から名石「藤戸石」とともに 移築されたと伝えられているが、一方で江戸時代中期の建築とする説もある。
「枕流」という名は、中国の故事「漱石枕流」(流れに枕し、石で口をすすぐという隠遁者の生活を表す言葉)にちなんでいるとされる。枕流亭は、庭園奥の池のほとりに位置し、三段の滝の音や流れを鑑賞しながら茶を楽しむという、名の通り「流れる水に枕する」の趣を体現する建物である。
茶室の出入り口は「にじり口」が一般的だが、枕流亭は「貴人口」なので、かがまずに出入りすることができる。内部は3部屋に分かれ、南側から上段・中段・水屋の間となっている。柱には棕櫚や栗などの珍しい木が使われている。
なお、聚楽第の遺構としては、この 「枕流亭」のほかにも、西本願寺の飛雲閣などいくつかあるが、今のところ聚楽第の遺構と確実に認められている建造物は大徳寺の唐門だけとされる。
| 枕流亭から庭(藤戸石)の眺め |
| 枕流亭から庭の眺め |
| 棕櫚の柱 |
| 栗の柱 |
(10)奥宸殿
奥宸殿(おくしんでん)は、江戸時代初期に建立されたとされる、三宝院門跡の常御殿(日常の居所)である。
主室には、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」と並び天下の三名棚の一つに数えられる「醍醐棚」があり、花をかたどった透かし彫りが施され、壁に映る影まで計算された繊細な意匠となっている。
狩野素川信政筆 1651年頃 また内部には、狩野派の襖絵や杉戸絵が描かれている。
奥宸殿からの眺めは、純浄観などとともに、庭園の「第2の観賞席」とも言える位置づけで、表書院とは異なる、より俯瞰的な視点から庭全体を一望できる。また、純浄観の床下は池となっており、舟で通って、この奥宸殿の舟着場へとたどり着くようになっていた。
(11)松月亭
奥宸殿の左奥には、こけら(柿)葺きの入母屋造りの茶室「松月亭」がみえる。その手前には池泉に直接置かれた手水鉢があり、「流れ手水鉢」と呼ばれる。手水鉢のほかに、築山、石組や石灯籠などが配され、表書院側からのダイナミックな眺めとは対照的な、繊細で奥深い庭となっている。
3.庭園
三宝院の庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭である。実質的に作庭したのは賢庭とされる。
庭に配置されている有名な藤戸石などを見ていく。
(1)藤戸石
庭の中心に位置する石組は阿弥陀三尊を表している。中央の大きな藤戸石を「阿弥陀如来」に、左右の小さな石を「観世音菩薩」と「勢至菩薩」に見立てた「阿弥陀三尊」を表わし、阿弥陀如来が極楽浄土へ信者を迎え入れる姿を表現している。
この藤戸石は「天下人が所有する名石」として、細川氏から織田信長へ、そして豊臣秀吉へと引き継がれている。信長は二条城への移送時、石を豪華に装飾して権力を誇示し、秀吉は聚楽第、そして慶長3年(1598年)に醍醐寺三宝院に配置した。 秀吉が「醍醐の花見」の際に庭園を整備させ、その中心として運び込まれたが、秀吉は庭の完成を見ずに亡くなる。そのため、その後は住職の義演が引き継ぎ、この名園を完成させた。
| 枕流亭から見た藤戸石、横から見ると分厚い石であることが分かる |
(2)鶴島・亀島
表書院から庭を見て右手にあるのが、亀島と鶴島であり、この二つの島は、不老不死の地「蓬莱山」を目指す神仙思想に基づいて作られている。亀島は、亀の首を表す「亀頭石」が突き出しており、幹の太い立派な松が島全体を覆っていて、亀の甲羅のように見える。この松は樹齢六百年以上といわれる天下の名木で、亀の「静寂」を表している。
この松は五葉松で、向かって左側の石橋が鶴の首にあたり、今にも鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表している。亀の首を表す「亀頭石」が突き出している
亀島の隣にあるのが鶴島である。島の上には五葉松が植えられており、その根元にある「羽石」によって鶴が羽を広げた姿が表現されている。 この松は五葉松で、向かって左側の石橋が鶴の首・くちばしにあたり、今にも鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表している。
右・鶴島が五葉松、左・亀島が黒松 亀島・前に突き出しているのが亀頭石 鶴島・左下の小さく見える土橋がくちばし
(3)賀茂の三石
庭の手前の枯山水に置かれた3つの石で、京都の賀茂川の流れを表現してい 向かって左から「流れの速いさま」「淀んだ状態」「水が割れて砕け散る様子」を表している。
(4)三段の滝
庭園の東南隅に位置する滝は、上・中・下の三つの段に分かれ、それぞれ「流れの速いさま」「川のよどんだ状態」「水が割れて砕け散る様子」を表し、非常に動的な石組みになっている。三段で構成されているが、あえて二段目が隠れて見えにくい造りになっており、各々の滝の音によって見る者の想像力をかき立てる。
この「見え隠れする三段の滝」の技法は、明治時代の名園である無鄰菴(山県有朋別邸)でも、七代目小川治兵衛によって取り入れられている。
(5)二つの土橋
池に架かる二つの土橋は舟を通せる高さになっており、かつては池泉舟遊式庭園であった。 この二つの土橋には、また庭の中心である「藤戸石」に視線を導くとともに、その奥にある「豊国大明神」が池を隔てた向こう岸、すなわち彼岸や神域へと繋がる象徴的な境界としての意味合いも含まれている。
(4)豊国大明神
藤戸石の背後、庭の奥まった場所に豊臣秀吉を祀る
小さな社がある。秀吉が亡くなった翌年の1599年に後陽成天皇から「豊国大明神」の神号が贈られたのを受け、1600年に阿弥陀ヶ峰の豊国神社より分霊を迎えて祀ったのが始まりとされる。
3.三宝院の出口へ
三宝院の建物、庭園を見終えて、玄関から出る。横には庫裏があり、前には大きな松が植えられている。門から外に出ると唐門があり、通りの向こうに仁王門が見えてくる。
| 豊臣秀吉ゆかりの紋章「五七の桐紋」・浜田泰介作 |
4.唐門
唐門は、天皇の使者(勅使)を招く時のみ開門される「勅使門」として、慶長4年(1599年)の建設され、その後2度の移築を経て、現在の位置になり、三宝院の表書院に続くようになっている。中央の扉には巨大な「五七の桐」、袖壁には「菊」の紋が彫り込まれており、豊臣家の威信を象徴している。 建立当時は門全体が黒漆塗りで、紋の部分には豪華な金箔が施されていた。 2010年に大規模な解体修理が完了し、建立当時の黒漆と金箔の輝きが再現された。
つづいて、三宝院から、金堂、五重塔などのある伽藍エリアを回ります。

