2020年6月25日木曜日

東京異空間23:保谷にあった民族学博物館Ⅰ

「民族学博物館発祥の地」のパネル
1.「民族学博物館発祥の地」を見つけた!
新しい散歩のコースでも、とグーグルマップを見ていたら、保谷駅方面に「民族学博物館発祥の地」とあるのを見つけた。保谷にも、こんな歴史的、文化的なところがあったのか!?
早速、出かけてみた。かえで通りに面した歩道に、「民族学博物館発祥の地」と書かれたパネルが建っていその碑文は次の通り。
民族学博物館発祥の地
 かつてここ(西東京市東町1丁目11番地)には,日本初の野外展示物を含む民族学博物館がありました。その設立に物心ともに多大な貢献をしたのは,渋沢敬三と高橋文太郎,今和次郎でした。
 渋沢敬三は,視察したヨーロッパの博物館をヒントに同志の先頭に立ち,1937(昭和12)年,三田の自邸アチックミューゼアムから収集した民具等をここに移し,民族学研究所そして民族学博物館をつくりました。旧保谷在住でアチックの一員・民俗学研究者高橋文太郎は,広大な敷地の提供・工面(当初は約30,000㎡の計画,その後縮小),民家の寄付などの協力をしました。民家研究者・考現学提唱者の今和次郎は,博物館の全体構想図を描くとともに民家の移築などに尽力しました。
 1939(昭和14)年に開館した博物館は民家などの建物を野外に配置する一方,民具等を屋内に陳列し,戦中戦後は一時中断したものの,一般市民に公開されました。
 しかし時代を先取りし常民の生活に着目した博物館は,維持経営に行き詰まり,1962(昭和37)年閉館しました。
 民具等の標本約47,000点は国に寄贈され,文部省史料館を経て現在の国立民族学博物館に引き継がれています。また野外展示物の一つ高倉は,東京・小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存します。
 この地に常民生活文化の発信源があったこと,またその探求・教育普及に精魂傾けた渋沢敬三たちの功績,これらを忘れさることなく後世に伝えるため,これを建てます。
2009(平成21)年11月
高橋文太郎の軌跡を学ぶ会記

碑文にあるように、渋沢敬三のコレクションのあった三田の自邸アンチックミューゼアムを移し、ここに民族学博物館(以下、「保谷民博」という)が、1939年(昭和14年)につくられた。

戦中、戦後を経て、「保谷民博」は1962(昭和37)年閉館したが、そのコレクションの中核は、現在、大阪万博の跡地に建てられた国立民族博物館に引き継がれている。

「保谷民博」に多大な貢献をしたのは、渋沢敬三と高橋文太郎,今和次郎の三人だという。
さらに興味をもって、この碑文に書かれている「保谷民博」のこと、そこに「3人の男の夢」が紡がれたことを中心に、いろいろ調べてみた。
「民族学博物館発祥の地」のパネル


歩道の横に置かれているパネル

2.「保谷民博」設立の経緯
まずは、「保谷民博」の設立にいたる経緯をみてみた。

渋沢は、すでに学生時代から、三田綱町にあった邸内の物置の屋根裏に集めた民具を中心に陳列し,「アチックミューゼアム(英語で「屋根裏の博物館」の意)と呼んで、収集、整理、研究を行っていた。そこでは、「同人」と呼ばれた研究者があつまり、チームを組んで共同研究を進めていた。
渋沢は、このアチックミューゼアムを発展させ、国立の博物館を建設すべしという構想を抱いていた。

折しも、皇紀2600年(1940年)の祝賀記念事業としてオリンピックと万博が計画されていた(いずれも幻に終わったが)。
博物館の歴史をたどると、世界で最初の博覧会であるロンドン万博のあとにヴィクトリア・アルバート博物館がつくられた。日本で最初の博覧会は、1872年(明治5年)に湯島聖堂大成殿で開催されたが、これが「文部省博物館」として、日本最初の博物館の誕生とされている。それが、現在は上野にある東京国立博物館の創設であった。これ以降も、万博で展示されたものを納める施設として博物館を造られることが多かった。1970年に開かれた大阪万博のあとに国立民族博物館ができたのもその一例といってよい。

渋沢は、博物館の構想を実現するため、1936年に皇紀二千六百年の記念事業の一つとして、国立の民族博物館を設立の建議を行った。しかし、日中戦争(1937年)が始まるこの時代に国立の博物館を設立するのは国情が許さなかった。そこで、私財でアチックのコレクションと広大な敷地を提供することとした。あわせて、アチックの同人で.もあり、保谷の大地主、高橋家の長男、文太郎がその広大な土地と建物を寄付したことにより、「保谷民博」の設立に向けて進められた。

1939年に「日本民族学会付属民族学博物館」が保谷に開設された。日本民族学会は、1934年に結成された学会だが、設立・運営については渋沢の資金援助によるところが大きく、事務所もアチックに置かれていた。こうして国立の博物館ではなく、民間の博物館として「保谷民博」は誕生した。

3.「保谷民博」の概要
つぎに、「保谷民博」が、どのようなものであったかを見てみよう。

高橋文太郎の寄付による保谷の広大な敷地(約1万坪)を利用して、研究所に加えて、玩具、民具などのコレクションの展示館と、各地の特徴ある民家などを屋外に展示する野外博物館で構成されていた。

野外博物館や展示館については、今和次郎により設計されたが、建物は既存の倉庫などを移築したバラックで、本格的な展示館は設計にとどまった(今和次郎の弟子にあたる蔵田周忠による地上3階地下1階の鉄筋コンクリートの建物の設計図面が残る)。

展示物は、アチックミューゼアムのコレクションを中心として、1.衣食住 2.生業 3.通信運搬 4.団体生活 5、儀礼 6.信仰行事 7.娯楽遊戯 8.玩具縁起物、に分類された「民具」であった。

野外博物館の構想は、渋沢がロンドン滞在中に見学した北欧ノルウェーの民俗博物館やスウェーデンのスカンセン野外博物館によるものとされる。これらの博物館から今和次郎も強く影響を受けていた。

野外博物館には、今和次郎により、その概念が確立した「民家」が置かれた。高橋文太郎の提供による武蔵野保谷にある民家を移築した。たんに建築物を移設するだけでなく、そこに生活を再現することを目指した。現在も各地で見かける文化財としての建築物は、かっての庄屋など建築として優れたものを保存、展示しているが、今和次郎の目指した「民家」とは、そこに生活する人の見える常民の建物であり、生活に使われる民具であった。したがって住まいとしての家だけでなく、「樵小屋」「舟小屋」といった生業のための小建物、絵馬堂、祠や石仏といった信仰のためのもの、厠や肥溜の屋根蓋までも展示することとした。

渋沢は、実際に博物館に置かれた民家に、小学校時代の恩師(国語教師)、芦田恵之助に「貸与、住居せしむ」として、1942年(昭和17年)から、ここで暮らし始め(昭和25年まで)住わせていたという。

ここ「保谷民博」に集められた民家や民具など約2万点余りのコレクションの価値は高く、民族学を研究する外国人は羽田から真っ先にタクシーで保谷を目指した」という話があるくらい、民族学の聖地となっていった。
研究所・展示館・野外博物館


野外博物館の鳥観図

野外博物館・高倉など

4.「保谷民博」の持つ意義
ここで、「保谷民博」の持つ博物館としての意義のいくつかを考えてみたい。

日本最初の博物館である上野の東京国立博物館は、戦前は「帝国博物館」、あるいは「帝室博物館」といわれたように、皇室および国家にかかわる美術・工芸品を展示する施設として運営された(宮内省の所管であった)。それと対極的に「保谷民博」は、「常民」の生活に使われた「民具」、そして「民家」を中心とする野外を含む博物館であった。しかも渋沢が望んでいたのとは結果的には違って、国立ではなく私立、民間の博物館としてスタートした。

どちらも、戦前の日本の近代化、ナショナリズムの高まりを背景としているが、その力点の違い、皇室、貴族といった「上層少数者の文化」に対し、「常民」という「国民大衆多数無名者の人々の生活」文化を保存展示する博物館を立ち上げたのは、歴史的にも大きな意味を持っているといえよう。

また、同じころ柳宗悦によって立ち上げられた「日本民藝館」(1936年開設)との違いをみると、一層「保谷民博」が持つ意義、重要性を確認できるだろう。

渋沢は、「民具」が美しいのは、個々の物がもつ美ではなく物が集合し全体として美しさを感じさせるといった。すなわち「民具」の美は、常民の生活のもつ美からうまれるものだと。それに対し、柳宗悦の「民衆的工藝=民藝」とは、民衆が使う物自体の美であり、その際の美の基準は、柳宗悦の美意識によって取捨選択されたものであって民衆の基準ではない。美の判断が、選択と排除の構造を持つ限り、美は権力である。こう考えると「保谷民博」に集められた「民具」の美の深さを感じ取ることができるだろう。

5.「保谷民博」のその後

渋沢によって牽引され、アチックの同人の協力によって1939年に開館した「保谷民博」だが、翌1940年には、保谷の地に博物館を建てることを望んだ高橋文太郎が家庭の事情により寄付した土地を引き上げ、自ら研究員も辞退した。そのいきさつは詳しくはわからない。

1940年は、皇紀二千六百年にあたるが、結局、博物館は記念事業とはならず、渋沢らが描いた大きな構想は、「甘き夢」となった。

「保谷民博」は学術団体としての日本民族学会の附属として運営してきたが、日本民族学会が、財団法人日本民族協会へ改組する事態となった。これは、文部省の国策機関民族研究所の外郭団体として位置づけるための財団法人化であった。渋沢は博物館を移管せず、そのまま自ら維持する考えであったが、時局の変化は、それさえも困難にした。そのため善後策として、国策の傘の下で、あくまでも博物館と資料の維持を図ることを優先して移管することを決断した。1944年(昭和19年)に博物館は財団法人日本民族協会に寄贈された。

戦時中も、渋沢は博物館の維持に配意し、宮本聲太郎らによって守られ、戦後の再開につなげた。1950年には、野外展示の充実をはかるため、アイヌの住宅の建設を進められた。また1960年には、「奄美の高倉」が建築され、いまは「江戸東京たてもの園」に移築されており、民族博物館に建てられた建物のうち、唯一残るものとなっている。
江戸東京たてもの園に残る高倉

その後も、渋沢は国立の民族博物館の必要性を強く説くにもかかわらず、「保谷民博」のバラックの建物は老朽化が進み、民具等の保管状態にも憂慮すべき状態となってきた。

1962年に新築された文部省史料館の収蔵庫に移管され保存されることになった。アチックから「保谷民博」に引き継がれてきた「民具」が搬出され、「保谷民博」の役目を終え廃止されることとなった。渋沢が亡くなる前年であった。

移管される際に、これらの資料は将来国立の民俗博物館ができた際には移管することとの要望書が添えられていた。

その後、1970年に大阪万博が開かれ、その跡地に国立民族博物館ができたときには、このアチックから「保谷民博」そして文部省史料館と引き継がれてきた「民具」、約4万点余りがコレクションの中核として収蔵された。渋沢が亡くなって約10年後の1977年のことであった。

6.「保谷民博」の現状

かって「保谷民博」があったところは、その後、清水建設の社宅となったが、すでに撤去され、その跡地が塀で囲われている。碑文が書かれたパネルの前は、広い駐車場と当時からある大木が残るのみである。これも「東京異空間」のひとつ、失われた歴史的空間として取り上げた。
清水建設の社宅跡地

清水建設の社宅跡地

清水建設の社宅跡地

駐車場に残る大木

駐車場に残る大木

広い駐車場

かえで通りを行くと保谷駅に

付記:
「保谷民博」に関する色々な資料を読み漁っていると、つぎつぎと興味がわいてきます。渋沢敬三、高橋文太郎、今和次郎の「3人の男の夢」は、続編としてアップしていきたいと思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿

東京異空間249:明治神宮御苑を歩く

  明治神宮 明治神宮へは参拝に訪れることはありますが、明治神宮御苑には入ったことがありませんでした。 10 月下旬に訪れました。 (参照): 東京異空間 81 :明治神宮 ( 内苑)と神宮外苑Ⅰ ( 2023.3.19 ) 東京異空間 171: 明治神宮外苑はいかにして造ら...

人気の投稿