「保谷民博」に関わった渋沢敬三、高橋文太郎、今和次郎について、それぞれの夢、その活動をみてきましたが、その中で、写真、カメラがよく使われていることに興味を持ちました。民俗学者としての彼らは、日本各地を旅して民俗、民具、民家を蒐集するフィールドワークにおいて、歩く、見る、聴く、そして「撮る」ということが重要でした。
そこで、1.三人と写真について、2.保谷と写真(家)について、3.民俗(学者)と写真(家)について、知りえたことを書いておきたいと思います。
1.敬三・文太郎・和次郎、三人と写真
(1)渋沢敬三と写真
渋沢敬三は、早くから写真だけでなく映像に興味を持ち、横浜正金銀行からロンドンに駐在したときに(1922年大正11年~1925年大正14 年)、16mm カメラ、シネコダックを購入している。これは、シネコダックモデルBにF1.9レンズを付けたもので1923年に発売されている。£31で購入したという。
帰国後、このカメラで 台湾~沖縄への出張の時(1926大正15年)から、記録映画の撮影を開始した。その後、民俗採訪記録として奥三河の「花祭」を撮影するなど、多数の映像を残している。
敬三は、自ら映像をよく撮っているが、写真のほうは自ら撮ったものは意外に少ない。しかし、写真については、アチックミューゼアムから刊行した著作に多くの写真図版を取り込み、「民具」の概念を確立するなど、新たな民俗学を展開するため、ビジュアル資料として活用している。アチック(のち日本常民文化研究所)から出版された次の3冊に、どのように写真が使われているかを見てみる。
・『民具図彙』と『民具問答集』
そのはじめが『民具図彙』の企画で、これは、すでに述べたように敬三の方針「ティームワークのハーモニアスデヴェロープメント」の一つとして、高橋文太郎を委員長として進められた。収集した民具の写真集として出すつもりであったが、行き詰まりが発生したとして、これを中止した。この経緯について、敬三は次のように述べている。
「解説せんとする我々が民具に対して持つ智識の如何にも貧弱であることを自覚したことであった。・・・之が民具としての物的存在でなく、人との交渉、家との交渉、村との交渉と云う風に生きた民具として見る時我々はあまりに何者も知らないことに寧ろ唖然としてしまったのであった。」(『民具問答集』の「まへがき」昭和12年)
そこで、民具の写真を付けて、日常的に、体験的にこれを用いる人に質問し回答を得るようにしてまとめたのが、『民具問答集』であった。収録している民具の一つ一つに写真があり、これらの民具について使用者(あるいは寄贈者)からの、名称、由来、製作・使用方法等についての回答文を付けている。その点数は117点に及ぶ。
・『所謂足半(あしなか)に就いて』
足半草履という民具を、そのつくりがわかるようにレントゲン写真を撮って並べた図版を挿入している。
敬三は、この本の後書きで、担当者、協力者などに感謝する文を書いているが、それによると「レントゲン写真は、癌研究会の松尾象一氏の苦心の作であり、他の挿入写真は殆ど全部木川半之丞氏の作」となっている。
また、上野の西郷さんの銅像の写真が挿入されていて、履いている草履の鼻緒が右縄(ミギナワ)となっている事を示している。これについて、「西郷隆盛銅像の写真撮影に際しては東京市井行公園課長の御好意に対し深謝したい。」と述べている。
そのほか写真以外にも、「蒙古襲来絵詞」「春日権現霊異記」など絵解きの図版を載せて「足半」の解説に役立てている。
(敬三は、字引と同じようにに「絵引」というものが作れないものかと企図するなど、写真のみならず、いろいろな視覚的マテリアルを重視した。後に、『絵巻物による日本常民生活絵引』角川書店1965-68年となって刊行された。)
・『おしらさま図録』
主に遠野地方での「おしらさま」を蒐集した太田孝太郎のコレクションを見た敬三は、「思わずこれは民間の正倉院ものだと口走った程である。」と、その時受けた印象を述べている。おしらさまについては、すでに柳田国男らの論考があるが、その実態について知る人は少ないことから、この「神の本然の姿を明らかにする一助」として本図録を作成したと刊行の趣旨を述べている。
約40体のおしらさまの図録に加え、その分析、解説にあたっては、宮本常一が一つ一つを調査し測定し判定しており、さらに使われている布については染物の専門家にもみせて、科学的根拠をもったものとした。
写真は、木川半之丞の撮影によるもので、おしらまの真黒な本体に書かれた文字をだすため赤外感光板を用いるなど、かなりの苦心が払われたという。さらに、その「原板を出来るだけ忠実に再現せしめたプロセス者の技術と苦心は感謝したい」と述べ、当時の最高技術をもって印刷した精緻な図版45枚を載せている。
*「おしらさま」とは、桑の木で作った1尺程度の棒の先に人の顔や馬の顔をかいたり彫ったりしたのに、布切れで作った衣を多数重ねて着せたもので、「家の神」、「蚕の神」「馬の神」とされる。
(2)渋沢家と写真
渋沢敬三は、アチック同人との民俗の研究において、民具というモノ、その写真、映像、絵図など視覚的マテリアルを重視したが、一方で、渋沢家の写真、映像を撮り続けた。
とくに、渋沢栄一を撮ること、渋沢栄一を顕彰する映像記録を遺すこと、さらには渋沢家にたくさんいた書生や女中を含めた渋沢「家」を撮ること、それを記録として残すことに努めた。それは、学者ではない、実業家としての敬三の使命であったとも思える。
渋沢家に、『柏葉拾遺』と『瞬間の累積』という二つの写真集がある。
・『柏葉拾遺』 中山正則編 1956年 柏窓会
これは渋沢敬三の還暦記念につくられた明治30年代から昭和31年にわたる渋沢家の写真集である。約110ページの冊子で渋沢家の家族の集合写真から栄一の永眠の姿など、400枚以上の写真が収録されている。親類、関係者に配られた(非売品)である。
なお、『柏葉拾遺』に収録されている敬三の肖像写真は写真家・木村伊兵衛が撮ったものである。
・『瞬間の累積』 渋沢敬三編 慶友社1963年刊
もう一冊が『瞬間の累積』で、父・篤二の三十三回忌供養のため、敬三により編集刊行された写真集である。
この書名の由来について、本書のあとがきで敬三は次のように述べる。
「明治二十六年ともなれば早撮り写真という言葉も廃たれて、写真機は蛇腹のある暗函で三脚をつけてゴムのシヤッターでうつした時分です。ガラス製の乾板はイルフォード、印画紙はピーオーピーと決まっていたように思います。その頃から明治四十三年にかけて、五百五十枚のこの写真集は、当時の写真機のシャッターで、平均五十分の一秒でうつしたこの写真の全体をあわしてもわずか十一秒間のもので、題して『瞬間の累積』としたのであります」
(*ピーオーピーとは、POP印画紙のこと。ゼラチンに光に感じる塩化銀を混ぜ、紙に塗って乾かし、ネガを密着させ太陽の光で焼き付け、現像の必要ない、いわゆる日光写真。この印画紙は19世紀末には工場で大量生産され、「P.O.P.(Printing Out Paperの略称)」と名付けられ売り出された。 )
父・篤二は、深川に邸宅があったころ、1893年(明治26年)から約20年間、写真に凝り、「たんなる家族だけを写したのでなく、一種の、今でいえばルポルタージュの写真の先駆者というくらいに各方面のことを被写体にして」いた。
ちなみに明治26年の始まりは大磯の鴫立沢の西行堂と西行坐像であった。この年、篤二は熊本第五高等中学を在学一年にして中退したばかりであった。篤二は蒲柳の質で、少年の折に母を失い、穂積陳重に嫁いだ姉・歌子に育てられた。その頃から穂積一家とよく大磯に行き、写真に凝りだしたのはその時分からであるという。
1899年(明治32年)に、姉・歌子の夫・穂積陳重に同行して欧米を旅行するが、ロンドン着後2週間目にステレオスコピック社で 「写真器械」(双銀鏡型写真器械)を購入している。それ以後も、1907(明治 40)年ごろに、はじめてイーストマン・コダックのロールフィルムの手提げ機が現われると、すぐそれに移るなど、つねに最新のものを求めようとしていたという。
やはり、『瞬間の累積』のあとがきの中で、敬三は、父・篤二について次のように述べている。
「父には、穂積、阪谷、尾高などの重要な親類がありましたが、なかなかこの間に、今の言葉でいうと、父の争奪戦が、ごく明らさまでなしに行なわれておったらしいので、父はそれを嫌ってついに逃避をしてしまいました。明治四十一、二年からは、前からやっていた義太夫にも凝っておりました。写真の方は四十三年まででプッツリ切れて、それ以後のアルバムはありません。そんなわけで、余り実業界で働くことも大してしないで閑居の生活に移ってしまいました。」
こうした篤二の性格もあり、栄一から廃嫡され、それにともなって、孫の敬三が栄一の渋沢家を継ぐことになったのである。
この父・篤二の三十三回忌供養のための『瞬間の累積』の企画が、それは同時に敬三にとっての死出の旅路への土産となった。1963年10月死去。
こうした渋沢栄一を顕彰する写真、映像などは、「渋沢青淵翁記念実業博物館」(のち「日本実業史博物館」と改称)として、近代の産業化を担った人々の生活まで視野を広げた実業史の博物館として構想されたが、やはり実現には至らなかった。
一方、民具や民家などと、その写真、映像、絵図といった視覚的マテリアルを組み合わせることによって、常民の生活文化を綜合的に観察、理解できる場としての民族博物館の構想も、やはり敬三の「夢」となってしまった。
(3)高橋文太郎と写真
アチック同人の中でも、写真を得意とし、よく撮っていたのが高橋文太郎だった。アチックの『民具図彙-写真集』のプロジェクトに委員長というリーダー役を担ったのも、得意な写真の腕を見込まれてのものだったかもしれない。
また、文太郎の著作にも、自ら撮った写真を多用している。
・『武蔵保谷村郷土資料』1935年 昭和10年刊行
武蔵野の風景、農家、農具、人物など、47点もの写真・図が使われており、そのタイトルを記しておく。
藍玉製造に要せし用具、*藍玉手板帳、上保谷字上宿(昔時文化の中心地)、保谷氏先祖の墓碑、上宿一の交易品、ナンジャモンジャの木、中村安五郎氏、上保谷字上宿(如意輪寺のマツバ)、上保谷字坊谷戸、*板碑、春駒、猿廻し、高橋孫左衛門氏間取図、同炉辺、節分に挿す柊、農具(北新田)、農家の物置と仕事場、青物市場より帰りたる處、農具(北新田)、農具(ウマ)、萱圍の内部、稗倉、サツマビツ(甘藷櫃)、寒獨活焼と獨活櫃、*北新田農家(高橋岩次郎氏宅)、高橋卯之助氏方間取図、土間より見たる座敷(高橋岩次郎氏宅)、台所、柏木甚五郎氏方間取図、エビス棚・アボヒボ・繭玉、土間より見たるカツテ、増田弥平次氏方間取図、繭玉、饂飩作り、蚕影神掛図、屋根葺用具、麥打の用具、麥打(下保谷字新田)、麥打(上保谷字上宿)、下保谷の子供達、大根のサキボシ、農家の食物、農具市にて、上保谷又六丁場の「念佛申し」、*七夕の短冊・馬・供へ物(下保谷字新田)、*同(下保谷坊ケ谷戸)、*キドギツチョ(昆虫)。
*6点は木川半之丞の撮影
写真の中でも、土間から室内を撮影したものなど、かなり暗いところでも撮っていて、苦心の撮影だったと思われる。ただ、農家の間取などは、さすがに写真に撮るわけにいかず、図面で説明している。
・『秋田マタギ資料』昭和11年刊行
本書は、本文の前に、巻頭口絵として写真が22点載せてあり、その後に各写真についての「写真解説」が続く。その例として、最初の「ヲコゼ」の写真をみると、なぜ山に海の魚、オコゼが、と思うが、その解説には、「狩猟に出かける時マタギが魔除けとして持参したものである。・・・ヲコゼは山の神さまの喜ぶもので山(狩)に持参した、里では取出すものでないと信じて居る」という民俗的意味を説明している。ご丁寧に図鑑掲載されている「おにおこぜ」のことだとまで説明している。(このヲコゼの写真だけが木川半之丞の作)
続く21点の写真のタイトルを記しておく。多くが雪国の景色を背景にした民家、民具、そしてそこに暮らす人々の姿であり、すべて文太郎自らが撮った写真である。
部落の全景、家紋を表せる民家、マタギ姿一、マタギ姿二、マタギ姿三、マタギ用具一、マタギ用具二、マタギ用具三、マタギ姿四、秋田犬、熊の頭・ムササビの生皮、庚申社、枝にかけた占のカギ、マタギの古老、橇曳の女、部落の女、藁製の種子入と荷橇、部落の子供達、凧を揚げる子供達、マタギ姿五、マタギ姿六。
このうちの「マタギの古老」については、「当年七十九歳の佐藤栄太郎老人、昔のスカリで、生存者の中、最古参の者。今は老齢のためマタギはしないが、斯う云う老人からマタギの呪文を聴くことが出来る。」と解説し、聞き取りの相手を明らかにしている、また写真だけでなく「マタギ文書」も活字化して載せている。
当時、カメラは小型化していったにしても、まだフィルム、現像を含めた写真機材そのものが高価であったころに、多くの写真を撮り、それを著作に活用している。もちろん、文太郎が大地主の長男という富裕層であったこともあるが、それを民俗研究に写真というビジュアル資料を活用していくというのは、渋沢敬三と同じ志向であり、アチックでの共同作業の中で培われていったのだろう。
(4)今和次郎と写真
今和次郎の場合は、東京美術学校図按科を出ているだけあって、スケッチが巧みであった。そのウデを見込まれ、柳田国男のもとで、地方の農村などを周り写真ではなく、多くのスケッチをものにした。むしろ、民家の間取などを表わすには、写真よりもスケッチのほうが便利だった。次のように、カメラにたとえて比較し、スケッチの便利さを強調している。
「スケッチは便利である。眼は広角レンズにも望遠レンズにも自由がきくし、じゃまものをよけて主眼点だけをかけるし、場合によっては実計から立面図にかき起こせる。」1938年「奈良・白毫寺の民家」より
今和次郎は、民家採集、バラック採集、そして考現学として銀座の街風俗を描くなど、スケッチそのものが方法論であった。しかし、その今が、欧米視察に行った際(1930年)に、最新のライカを購入している。ドイツ・ベルリンから夫人に送った絵葉書に次のように書いている。
「欧州では最新流行りの型でライカと云うのですが、ベストよりも小型で、シネマのフィルムで写すのです。一回三十枚はつづけて撮れて、三十枚でフィルムは二円五十銭ばかりだから、費用は大してかからなそうです。全部一揃の機械は百二十円ばかりでした。・・・距離をはかるのぞき目鏡がついていて、それでピントを合わせるのです。横にらみの目鏡もついていて、人に気付かれずに写す仕掛けもあります。写る大きさは活動フィルムの大きさの二倍大です。近いところで花や虫を撮るのもついていています。自分で自分の顔を撮れるくらいです。兎に角たいくつしたときの玩具を購ったわけです。玉のあかるさは3.5ですから、余程有効です。」(『今和次郎見聞帖・絵葉書通信-欧州紳士淑女以外』萩原正三編1990年柏書房)
ここで、購入した「ライカ」は、1930年に発売されたレンズ交換可能なライカⅠ(C)型だろうか。ライカⅠ型は1925年に発売されており、連動距離計を搭載したライカⅡ型は、1932年の発売となる。
文中にある「全部一揃の機械は百二十円」というのは、いまの日本円では、どのくらいなのだろうか、当時のドイツは厳しいデフレの時であったから円は強かったのか。
なお、新婚であった今は、1930年3月から1931年1月までの旅行期間、約10か月間、312日に369通の絵葉書を夫人に送っている。一日当たりにすると1.24枚となる。マメな人柄が現れているように思う。
また、文中にある「ベスト」とは、コダックのヴェスト・ポケット・コダックで、一般のポケットより小さいヴェストのポケットにも入ってしまうカメラという意から付けられた。(BESTベストの意ではない)1912年に発売され、小型で安価だったことからベストセラーになった。
2.保谷と写真家
これまで、「保谷民博」に関わった三人、渋沢敬三、高橋文太郎、今和次郎と写真との関わりを述べてきたが、今度は、この地域「保谷」と関わりのあった、福原信三、野島康三という二人の写真家を見てみよう。
(1)福原信三(1883-1948)
保谷駅の南側に「文理台公園」があるが、ここは、もとは東京文理科大学(旧・東京高等師範学校、現・筑波大学)の運動場であったことから、文理大の「大」と「台」をもじって文理台公園と名付けられた。運動場となったのは、高橋文太郎が土地を寄付して「保谷民博」がつくられたのと同じ年、1937年(昭和12年)であった。
(余談だが、この運動場には、当時の有名アスリート「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳や金原勇などが練習に来ていたという。)
文理大の運動場になる以前は、資生堂の社員のための野球場であった。もともとこの辺一帯は高橋家の土地で、文太郎の祖父、源蔵が保谷駅沿線の開発として、文化住宅の建設を始め、文化人や学者などを誘致した。その一人に資生堂の福原信三の秘書であった安成三郎がいた。安成は、建築写真をしていた関係から、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトと懇意であったことから、新居の設計を依頼し、モダンな住宅に転居してきたという(実質の設計は弟子の遠藤新による)。安成は福原が社員の健康のために運動場を探していたので、この地にバックネットもある、かなり立派な野球場を作った。(『保谷市史・通史篇3』による。『娯楽する郊外』三浦展 柏書房2019年を参照した。)
安成三郎は1889(明治22)年秋田県に生まれ。資生堂初代社長の福原信三の個人秘書として三十数年を過ごした。また、柳田国男、今和次郎らの郷土会に参加し大きな影響も受けている。
「福原さんの手」といわれ、福原信三の口述をもとに雑誌や新聞に発表される論文類の殆どを手掛けた。信三が1921(大正10)年、「写真芸術社」を結成すると、その編集を一手に引き受けた。
福原信三は、画家になりたかったが、欧米を周り、パリで藤田嗣治などと交流するうち、自分の才能は絵画より写真にあると自覚する。帰国後は、資生堂の経営にあたるとともに、「写真芸術社」を設立するなど、いわばアマチュア写真家のリーダーとしても活躍する。(資生堂の社長という実業家と、アマチュア写真家という二刀流は、渋沢敬三の実業家と学者という姿にも似ている。)
信三の写真に対する姿勢は、「芸術写真」ではなく「写真芸術」にあった。すなわち、それまで流行していたピクトリアリズム、絵画のような芸術的な写真ではなく、写真の芸術性を追求した。「写真の新使命」という文で次のように熱く語っている。
「前人未踏の処女地、写真芸術生誕の曙光が見えている。吾人青年の双肩に開拓の責任がある。写真を単なる科学の応用とするも、芸術の一分野とするもまた、吾人青年の責任使命に制せられる。」
福原が編集した、アマチュア写真家の集まり「日本写真会」のメンバーの写真を集めた 『武蔵野風物 写真集』 (1943年昭和18年靖文社)という本がある。この写真集は、「失われ行く武蔵野及郷土の風物」をテーマとして作品144点を集めた。その際、「必ずしも課題に拘泥せず、写真的優秀なるものを採択した。」と編集方針を述べている。さらに信三は「はしがき」で次のように写真集の意義を述べている。
「カメラで記録しておくことは、武蔵野の温故知新の糧となり且将来郷土史を研究する人に対し有益なる資を遺すものとして、これは私達がやらなければならない仕事を考えたのであります。」
移り行く武蔵野の風景、風物の写真は、郷土史に役立つという趣旨から、「民俗学」を創り上げた柳田国男に序文を書いてもらっている。柳田国男は、その序文で、写真の効用を次のように書いている。
「以前は写真のやうな親切な技術はまだ無かった。是を自由に利用することは、明らかに現代の幸福である。この恩沢を次に来る人々と分たんが為に、少しでも文化の変遷の上に注意するということは、是も亦今までの世には無いことであった。この書の出現によって、更に世の中は新しくなることを私は信ずる。」
(柳田国男の民俗学と写真の関係については、後で述べることにする。)
文理台公園
文理台公園
文理台公園:この辺りがバックネットだったか
筑波大付属小学校農園・保谷田園教場
筑波大付属小学校農園・保谷田園教場 |
(2)野島康三(1889-1964)
次に、保谷との関わりで取り上げる写真家は野島康三である。
康三は、「保谷民博」の隣に1000坪の土地を高橋文太郎から横山大観の絵と交換して得たという。ただし、ここに自らが住んだわけではないようだ。この年、1940年は、文太郎が「保谷民博」に寄付した土地を撤回し、自らも研究員を辞した年でもある。
野島康三は、中井銀行の頭取を務めた実業家野島泰次郎の長男として1889年に生まれた。(敬三、信三、康三、とみな「三」が付くだけでなく、いずれも実業家の子として生まれたという共通性がある。)
康三は、大学時代から絵を描き、写真を好んでいた。柳宗悦、富本健吉、中川一政、岸田劉生、萬鉄五郎らとも交流を持ち、自らサロンでこうした画家たちの作品を展示する美術コレクターでもあった。(高橋文太郎が後年、『絵画随想』で述べているように美術愛好家として通じていた。)
野島康三は、福原信三とともに日本写真史において、「芸術写真」といわれる、この時代を代表する写真家のひとりで、特に、ソフトフォーカスを使ったポートレートやヌード写真にすぐれた作品を残している。
日本写真史の概略から、この二人が活躍した大正期をみておくと、維新から明治はじめの、写真師による写真館での肖像写真、営業写真から、明治20年代に入ると素人・アマチュア写真家が登場する。1889年(明治22年)には、榎本武揚を会長とする「日本写真会」という素人写真家集団ができ、アマチュア写真家による自然な風景、絵画的な写真が好まれた。大正期に入ると写真の芸術性、写真独自の表現可能性が追求された。この大正期を代表するのが福原信三と野島康三である。
(ちなみに、福原信三が使っていたカメラは、ロンドンのマリオン社の「トロピカル・ソホ・フレックス」というマホガニー製ボディを真鍮金色仕上げしたカメラで、これでセーヌ河畔の情景を撮った『巴里とセイヌ』という代表作が生まれた。)
3.民俗学者と写真家
ここでは、「民俗と写真」という観点から、(1)柳田国男と土門拳(2)濱谷浩(3)宮本常一を取り上げ、それぞれの<民俗>者と<写真>家について述べていきたい。
(1)柳田国男と土門拳の写真論
日本の「民俗学」は柳田国男によって創られた。一方、日本写真史において土門拳は戦前・戦後を代表する写真家の一人である。その二人の立場からの写真の考え方の違いを示す座談会の記録がある。
雑誌『写真文化』の「民俗と写真」という特集が企画された(1943年9月号)。出席者は、柳田国男、土門拳、濱谷浩、坂本万七、田中俊雄(美術研究家)である。
柳田は、濱谷浩の写真を例に取り上げ次のように言う。
「例えば、あなたの初山入りのところで木を伐っているところがありますね。あれは写真を撮られているなということを意識しているものだから態度が違うのです。」
柳田は、濱谷の撮った雪の中を歩く若い猟師の写真に写真家の「演出」的な姿勢を感じたのである。
(この写真は、戦後に出版された濱谷の写真集、『雪国』「民俗の記録--新潟県の正月」1956年にある一枚。)
柳田は、さらに写真に求めるものとして、次のように話をする。
「日本人は五つぐらいの子供からお婆さんにいたるまで、狙っているなと気付いたら、ピッと変ってしまう。ちょっとこう写真機を構えられると、鋭敏に変化してしまう。。何とかあれが変わらずに撮れるものならば宜いと思うのです。」
柳田は、民俗学の立場から、写真には、「自然のまま」撮ることを求める。これに対し、土門拳は、柳田がいう撮られていることを全く意識しない「スナップ」は不可能であり、撮ったところで「写真からくる迫力」が貧弱な弱い作品にしかならない。だから自然な状態が現れる「或る瞬間」をねらうのではなく、・・・その人らしさを「最大公約数」的に表すように撮るのがよいと思う。」と、写真家として反論していく。
土門拳の「最大公約数」というのは、例えば下駄屋なら下駄屋の職人の「もっとも典型的な態度」というか、その人らしさを「最大公約数」的に表すように撮ることだ、あるいは「一つのものの中に全体を出そうということ」を狙うのがよいと思う、という論理を展開していく。
それに対し、柳田は次のように慎重な中にも厳しい批判を展開する。
「そこにまだ考える余地がありはしまいか。川端龍子、武者小路実篤を撮るのは宜しいですが、下駄屋の職人一人を撮って、これで下駄屋の職人を得たということは問題です。そこには自分を慰める態度がありはしませんか。」
柳田は、自分の関心からすると、対象との関係は「いつもでも(個性ではなく)ゼネラル」なもの、「いつでも伝承というような一般的のものが知りたい」からだと民俗学の立場から土門の考えに反論した。
さらに、そのためには「写真を撮し、あるいは絵を描くひと自身がその対象となる現象を「あらかじめどれだけまで感じ、また会得しているか」が問われるのだと論じている。
柳田が写真技術に期待したのは「個性を探るのではなく、社会文化の研究を対象」をあらかじめ会得したうえで、帰納的に写真を撮ることだった。
戦後、土門は、この座談の対立について『風貌』で、当時自分は「組写真形式による報道写真家」の立場から最低限度の演出の必要性を主張したが、「柳田先生は頑として自説を曲げなかった。僕の言う写真論などには耳もかさなかった。それは飽くまでも民俗学者の立場と要求とに立っていられた。僕はその頑固さに腹を立て、非常に心の狭い人だと思った。その座談会は、写真の基本的な方法論にかんするかぎり、喧嘩別れの形だった。--- それ以来、かれこれ十年が経った。今、僕は社会的リアリズムの立場から、「絶対非演出」の「絶対スナップ」を自ら提唱している。方法論としては明らかに柳田先生に屈服した形である。今度、久し振りに柳田先生にお会いした時、そのことを言って、昔の浅薄な考えを詫びた。「そんなこともありましたねえ」と、先生はなつかしそうに笑っていられた」
なお、写真集『風貌』には、柳田国男の一瞬を撮らえた一枚が入っている。ただ、座談会に出てきた川端龍子、武者小路実篤の肖像写真は入っていない。
(『柳田国男の歴史社会学』佐藤健二 せりか書房2015年、『死者の民主主義』畑中章宏 トランスビュー2019年を参照した。)
柳田が、写真技術に期待した「個性を探るのではなく、社会文化の研究を対象に」帰納的に写真を撮るというありかたは、のちに宮本常一が実践した。宮本については、後に述べることにする。
では、写真家に対する写真論はともかくとして、柳田自身は、写真・カメラに対して、どうだったか、を見てみよう。
柳田の長男・為正の「父と写真」によると、カメラや現像機器、写真術のマニュアル本までそろえていたという。購入したカメラは、「コダックのロールフィルム用カメラやドイツのテナックス アトム版フィルム・パック用カメラ」など、「写真機材は、三脚、セルフタイマーなど付属品、現像皿、メートルグラス、大型クリップ、天日利用式の印画焼き枠などDP用器具」、さらには、「写真術教本『手軽に写せるフィルム写真術』高桑勝雄、『改訂増補 写真のうつし方』三宅克己、いずれもアルス社大正10年版」まで持っていたという。
これだけ揃えていても、柳田自らはほとんどカメラを手にして撮ったことはないようだが、ジュネーブに滞在した際(1922年か)、七月二〇、二二の両日に6回のショットの記録として、「ホテル南崖小径にて、1/10 6.3 好晴樹下、7メートル」などと露出時間、絞り、距離などのデータが記入されたメモが出てきた。為正は、「これでどうやら6回はシャッターを切ったことが判明しました」と述べている。(『柳田国男写真集』岩崎美術社 1981年)
(*「コダックのロールフィルム」は、それまで主流であった写真原板のガラス版から感光乳剤を塗ったロールフィルムがつくられ、1888年「コダック」の商標によって売り出されたカメラ。)
(*「テナックス」は、ドイツのゲルツ(後にツァイス・イコン)のカメラで、柳田が持っていたのは、おそらく「ベスト・ポケット・テナックス」 1912年に発売された6×4.5㎝のアトム判といわれるもの。新聞カメラマンのサブカメラとして使われた名機。)
この時期は、日本写真史からみると、戦時体制が強まり、写真の検閲による統制、とフィルムなど物資の統制が強まり、写真家たちの表現活動はほとんどできなくなった。そうした戦時下にあっても撮り続けたのが土門拳であり、『室生寺』『文楽』『風貌』など、「リアリズム写真」といわれる日本の文化の根源を求める作品を撮った。また、濱谷浩は、『雪国』『裏日本』など、「民俗写真」といわれる日本の風土の原点を撮った作品がある。(いずれも写真集は戦後に出版された。)
(2)濱谷浩の「民俗写真」
濱谷浩は、アチックの同人(市川信次)に紹介され敬三に会って、その謦咳に接し、民俗学へ傾倒するようになった。濱谷24歳、フリーのカメラマンとして本格的な活動を始めたころである。
濱谷の回想録には「私が尊敬してやまないの人は、第一に澁澤敬三先生であった。1939年(昭和14年)にはじめてお目にかかって以来、私は私なりに先生を尊敬し、いわせて頂くなら、私のその後の生き方に大きな影響を与えて下さった。もし先生にお目にかかることがなかったなら私の写真も私の生活も大きく変わっていたに違いない」と語っている。
また、「民俗学と写真と私が結びついた」とも語っており、いわゆる「民俗写真」が、濱谷浩の写真の原点であり、それは「人間が、人間を、理解するために、日本人が、日本人を、理解するために」という言葉であらわされている。
代表作である『雪国』は雪国の習俗(小正月前後6日間の行事)を、『裏日本』は裏日本の風土と人間を写したものとして、写真史に残る名作となっている。
「民俗」をテーマにする写真家としては、濱谷のあとに、芳賀日出男、薗部澄、内藤正敏などがいる。芳賀は、慶応大学時代に柳田と並び日本民俗学の立役者である折口信夫に大きな影響を受けた。
また、内藤は、出羽湯殿山に残る即身仏・ミイラの写真を撮り、それを機に、ミイラ信仰の研究、さらにミイラの防腐処理の分析によって東北に金属技術文化を持った騎馬民族国家が存在したことを明らかにするなど、自らが民俗学者として、すぐれた業績を上げている。
こうした内藤のカメラ・ワークを踏まえて、写真評論家・重森弘淹は、次のように「民俗写真の課題」を指摘している。
「これまでは、各地の民俗の採集、発見、記録に終始して来た。これは基礎的に重要な仕事である。・・・しかし、これからの民俗が日本の精神文化にどのようなものとして在り続けてきたのか、近代化の過程で表層文化からネグレクトされてきた民俗が、日本の基層文化としてどのような意味をもつのか、その意味を探検させるような想像力に富んだ視覚がいま問われているように思う。」(『日本写真全集9-民俗と伝統』総論、小学館 昭和62年)
(ちなみに、写真評論家・重森弘淹は、作庭家・重森三玲の二男である。また、東京綜合写真専門学校を創立し、写真家の育成にも情熱を注いだ。)
(なお、写真史に関しては『日本写真史概説』日本の写真家 別巻、飯沢耕太郎 岩波書店も参照した)
(3)宮本常一の膨大な写真
宮本常一は、渋沢敬三から「わが食客は日本一」といわれ、敬三によって、宮本の民俗学は育てられたといえる。また、渋沢と並び「旅の巨人」と称され、離島を含めた日本各地の民俗採集のため旅をした。
宮本常一は、旅に出ると、歩きながらばかりでなく、汽車やバスあるいは船上からも眼に止まったものがあれば、手あたり次第に写真を撮った。
「ハッと思ったら撮れ、オヤッと思ったら撮れ」と言い聞かせて、若い人たちを見ん象調査に送り出したという。被写体に衝き動かされて写真を撮る、それが宮本が実践した方法論であった。
宮本が使ったカメラは、戦前はコダックのベスト判やウエルターのブローニー判だったが、本格的に写真を撮りはじめた昭和30年代からは、オリンパスペンSを愛用した。オリンパスペンは、36枚撮りフィルムをハーフで使い、倍の72カット撮れるので、宮本の写真スタイルにピッタリであった。
(「オリンパスペンS」はレンズを30mmF2.8とした初代ペンの上位機種、1960年に発売された。価格は8,800円。また「ウエルターのブローニー判」というのは、ドイツのカメラメーカーWerter社のペレルPerle(真珠)で、6×9㎝判の蛇腹カメラ。8枚撮りあるいは12枚撮り。1930年代に生産され輸入された。)
戦前に撮った写真は大阪空襲(昭和20年)で原稿、蔵書とともに焼失したが、昭和30年から昭和55年まででも10万枚もの写真を撮った。その行動は「フィールドワーク、フットワーク、カメラワーク」の三語に象徴される。
宮本の撮った膨大な写真と、あわせて日記を編集した『宮本常一 写真・日記集成』全3巻 毎日新聞刊 2005年という浩瀚な本がある。彼は、都立府中病院で亡くなる5日前まで日記を付けていた。享年73(Ⅰ907-1981年)。
その『宮本常一 写真・日記集成』の附録に写真家荒木経惟と、森山大道が、宮本の写真について談話を寄せている。
荒木経惟は、宮本の写真について、写真家は、これほど素直には撮れないと語る。
「少年たちを撮ってもいいよね。てんでいいよね。木村伊兵衛でも土門拳でもないしさ。すごく素直に、この少年たちと仲間になれるもんな。土門さんのだと、いやあ、いいシャッターチャンスだなと思わせてしまうじゃない。それを思わせないもの、これは。だからいい。そこなんだよ、魅力は。こんな無意識に、出会った一瞬に酔っちゃって撮りたいよ。そのほうがいいんだよ、絶対いいんだよ。一瞬のうちに、オレなんか、邪心も入っちゃてね、写真なんだか邪心なんだかわかんない。今度、森山さんと新宿を一緒にやるんだけどさ、森山さん、もっと邪心だからね。」
その森山大道も、自分の写真観と比べ宮本の写真の本質を次のように語る。
「写真はアノニマス(匿名性)でアマチュアリズムだと、それは僕の変わらない見解であるけど、そういいながら、結構、プロみたいなことやっている。それはあくまでも原則に過ぎない。しかしこの人は、アノニマスであるとか、アマチュアリスムであるということに、本当に一番近いですね。これをやられたら、カメラマンは口ダシできないあという意味でも、圧倒的なんだね、この人は。」
荒木が一緒に「新宿」を撮る森山を邪心ありと茶化しているが、その森山自身は、もし宮本が「新宿」を撮ったらかなわない、とまで言っている。
「もし宮本さんに都市も同じように撮られたら、僕ら本当にたまらんですよ。じゃあ「新宿撮ってみろ」なんて言ってみたいけどね。でも撮ったら負けたりしてね。え、そこまで撮るの、みたいのを撮っちゃいそうでね。」(『宮本常一の写真に読む失われた昭和』佐野真一 平凡社2013年 の解説)
さらに森山は同じ解説の中で、宮本の写真を戦後の写真史の中に位置づけて論じている。
「僕も含めて写真家が、「写真ってなんだ」といわれて、「なんでも感じたものを撮ればいいんだよ」とよくいう。でも写真家はそれをどこまでやっているか。宮本さんの写真を見ると、それを普通にやっている、楽々とやっている、それを感じますね。」
「戦後の写真の歴史だって、土門拳さんがいて、木村伊兵衛さんがいる。濱谷浩さんがいて、東松照明さんがいる。みんなそれぞれ自分のテーマを設定して、いろいろな表現の方法を使いますよね。もっといろんな方もいらっしゃるけど、それらの写真と、宮本さんの写真を重ね見ないと、じっさいのその時代が残らない。そういう位置の人です。」
「そこには歴史的な時間の在りようとか、そこに生きた人の在りようとかいろんなことがあって、風俗とか、土俗とか、民俗とかを全部含めた上のトータルで見ると、宮本さんが撮った人々と風土には強靭な実存性が露われています。」
宮本は、「写真は記憶の島」と言っていたが、森山には「犬の記憶」という衝撃的な写真があり、自ら「犬の眼」と称して生理的嗅覚をもって「アレ、ブレ、ボケ」を厭わない写真を撮り続けている。
また、荒木は、妻をモデルにして撮った「センチメンタルな旅」でデヴューし、撮影者であるはずの荒木本人が写真集の中に登場してしまう破天荒な「写真日記」を展開する。
荒木、森山の二人とも、スナップショットの名手であり、土門拳、木村伊兵衛、濱谷浩、東松照明という日本写真史におけるスナップ写真の流れに、自らだけでなく、宮本常一も位置付けたといえるだろう。
一方で、柳田国男が、写真技術に期待した「個性を探るのではなく、社会文化の研究を対象に」帰納的に写真を撮るというありかたは、宮本民俗学を、柳田民俗学の枠を乗り越え、漂泊民や被差別民、さらに性などの問題も重視した膨大な著作ももたらした。(未来社から『宮本常一著作集』本巻51+別集2が出版されている。中でも代表作は岩波文庫にも入っている『忘れられた日本人』である。)
宮本の写真と著作は、「日本人の記憶と記録の古層がまぎれもなく定着された」もので、「国家的財産」とまで言われている。『宮本常一に読む失われた昭和』佐野真一、平凡社2013年
これはまた、宮本を「食客」として支援し続けた渋沢敬三の「国家的財産」とも言えるだろう。「夢の博物館」の一部ととも言えるいるのではないだろうか。
<あとがき>
「保谷民博」の記念碑を見つけてきてから、博物館の夢を抱いた、渋沢敬三、高橋文太郎、今和次郎のことを調べてきて、それが今回、その三人と写真、保谷と写真、民俗と写真ということに関心が広がってきました。
ただ、写真を中心としたテーマにもかかわらず、自ら撮った写真を適切にアップできなかったことに歯がゆさを感じています。もっと、いい写真を撮ってアップしていきたいと思っています。
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