金剛山正福寺 |
先に北山公園で花菖蒲を見た後、正福寺(正式には「金剛山正福寺」)に行きました。正福寺には、2019年9月に訪れたことがありますが、その時は地蔵堂内部の仏像は拝観できませんでした。今回は、地蔵菩薩像、そして千体地蔵といわれる仏たちを拝むことができました。
(参照):
東京異空間321:花菖蒲@東村山・北山公園(2025/6/9)
1.正福寺
正福寺は、北条一族の入宋僧・無象静照(1234-1306)が師の南宋径山寺・石渓心月を勧請開山として草創したという。寺伝では、東村山に鷹狩りに来た際に北条時宗が大病にかかり、命すら危ぶまれたその夜、夢に地蔵が現れ「この丸薬を飲めば良くなる」と丸薬を差し出したという。夢の中でその薬を飲んだ時宗は、翌朝、目が覚めると回復し、自分を救ってくれた地蔵の供養のために開創したと伝わっている。
2.地蔵堂
地蔵堂は正福寺の仏殿で、1933(昭和8)年の修理の際、応永14年(1407)の墨書が発見され建立年代が確定され、また、山号の金剛山、当初から地蔵菩薩を本尊としていたことも明らかになったという。
地蔵堂は、鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝わった禅宗様建築で、同時代の鎌倉の円覚寺舎利殿と規模、様式がよく似ている。四隅が上方に大きく反った屋根がその特徴を顕著に示している。そのほか、堂内に日光を取り入れる欄間が、波型の装飾が施された「弓欄間」であることや、窓枠の上部が丸みを帯びたデザインの「花頭窓」であることも、禅宗様の特徴を表している。
こうしたことから、禅宗様仏殿の代表作のひとつとして、1952(昭和27)年に国宝に指定された。東京都にある国宝の建造物としては、 2009年に指定された旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)があるが、それまでは正福寺地蔵堂が都内唯一の国宝建造物であった。
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(参考)鎌倉 円覚寺舎利殿(国宝) |
扁額「国宝千体地蔵堂」 |
弓欄間 |
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弓欄間 |
弓欄間 |
花頭窓 |
3.山門
正福寺の山門も、建築様式は禅宗様で、1701(元禄14)年 に建立された。大きさは桁行十尺(3.03m)、梁行十尺、高さも十尺となっていて、屋根は切妻造で 、江戸時代の伽藍の遺構を示す貴重な建築物とされる。
山門から地蔵堂 |
4.地蔵菩薩立像
地蔵堂には、本尊の地蔵菩薩像が安置されている。台座内の墨書から、文化8(1811)年に再興造立され、慶応3(1867)年に修理されたことが判明したという。
地蔵菩薩像は、頭を剃髪し、袈裟を着て、左手に宝珠、右手には錫杖を持っている。像の高さは1.2メートル(4尺)程、檜材による寄木造りで、玉眼を嵌め入れ、肉身部は金泥塗り、衣部は漆箔仕上げとなっている。
5.千体小地蔵尊像
堂内には、本尊・地蔵菩薩像の両脇に小さな約900体もの木製の地蔵菩薩像が祀られていることから、別名、「千体地蔵堂」とも称されている。当時の人々は願い事があると地蔵堂にある像を一体借りて家に持ち帰り、願いが叶うと、別に一体を添えて奉納してきたといわれる。大きさは15〜30センチメートルのものが多く、裏書には奉納者の名前、年号が墨書されており、年代は正徳4(1714)から天保11(1840)年かけてのものが多く、奉納者は地元はもちろん、所沢、国分寺、小金井、清瀬、立川、武蔵村山など近在の主に農民が奉納しており、北多摩地域を中心に、広く信仰されていたことが分かるという。
地蔵堂の横に、いまも新しい小地蔵尊が並ぶ棚が造られている。
地蔵堂の横にある棚に並べられた新しい千体地蔵 |
新しい千体地蔵 |
6.貞和の板碑
山門から境内に入ってすぐ左手にある小さな小屋の中に、「貞和の板碑」がある。秩父長瀞を産地とする秩父青石でつくられた板碑*で、南北朝時代の1349年のもので、大きさは高さ285cm、幅55cm、都内最大といわれている。
この板碑、かつては小瀬川(現・前川)の橋に使われていて、川面に碑銘をうつしていたことから経文橋、または念仏橋と呼ばれていた。1927(昭和2)年に改修のため板碑を撤去したところ、付近に赤痢が発生したので、これを板碑のたたりとし、橋畔で法要を営み、板碑を正福寺境内に移建したという。
*板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種で、板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとして武蔵型板碑は、秩父産のの緑色片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。 (ウィキペディアより)
本堂の左側にある小屋の中に板碑がある |
板碑 |
7.本堂
現在の本堂は、地蔵堂の奥にあり、本尊は千手千眼観音を祀っている。
8.十三仏像・観音像
地蔵堂と本堂の間の境内には、十三仏*などの仏像が並ぶ。
*十三仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏である。 (ウィキペディアより)
不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦 如来、大日如来、虚空蔵菩薩
(参照):十三仏について
東京異空間58 石仏巡りⅥ~長命寺2・十王と十三仏(2022/3/25)
十三仏 |
不動明王 |
釈迦如来 |
文殊菩薩 |
普賢菩薩 |
地蔵菩薩 |
弥勒菩薩 |
薬師如来 |
観音菩薩 |
勢至菩薩 |
阿弥陀如来 |
阿閦 如来 |
大日如来 |
虚空蔵菩薩 |
十三仏 |
十三仏のほかにも、聖観世音菩薩像が安置されている。
聖観世音菩薩像 |
聖観世音菩薩像 |
その横には、北条家縁の寺であることを示す三つ鱗の家紋が入った鬼瓦 が置かれている。
鬼瓦 |
9.八坂神社
正福寺の山門、地蔵堂の隣りに、神仏習合時代の名残りとして、八坂神社の鳥居と社がある。正福寺建立の際に寺院の守護神として牛頭天王*が奉斎され、「天王社」の社殿が建立されたとされる。正福寺が別当寺となっていた。
1830(文政13)年に成立した『新編武蔵風土記稿』には、天王社について次のように記されている。
「村の南にあり。村の鎮守なり。勧請の年代詳ならず。 ・・・ 神体は銅像にて手に斧を以て立る状なり。長七寸許。社地すべてに松樹蒼鬱としてものさびたり。」
明治になり、神仏分離令に伴い、1869(明治2)年に社号を「天王社」から「八坂神社」へ改称し、御祭神も牛頭天王から素戔嗚尊に改められ、社格は「村社」とされた。現在の社殿は1989(平成元)年に造営された。
*牛頭天王(ごずてんのう)
神仏習合の神で、疫病除けの神として信仰を集めた。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされたため、牛頭天王を祀る信仰を祇園信仰と称する。 総本社は祇園祭でも知られる京都の「八坂神社」で、全国の「八坂神社」「天王社」「須賀神社」などに祇園信仰の神として祀られた。
ところで、東村山という地名については、次のように言われています。
「東村山の由来は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国を中心として勢力を伸ばしていた武士団を「武蔵七党」と呼ばれていた。その武蔵七党の一党として、桓武平氏の流れを汲む村山党があり、村山党は武蔵国多摩郡村山郷に勢力を持ち、当地はその最東端にあたることから「東村山」と名付けたと云う。東村山村が後に東村山町となり、戦後の1964(昭和39)年に東村山市が誕生した。」
また、正福寺のある辺りを野口村と呼んでいたのは、「上野国から国府をめざして狭山丘陵を越えると、最初に広がる平野が当地一帯。「野原の入口」という意味で野口の地名が付いたと云う。」
正福寺という臨済宗のお寺が、地蔵菩薩を本尊としていたことも、武蔵野国の武士や農民たちの生活と信仰に深く関係しているということだと思います。
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