藤田嗣治 《血戦ガダルカナル》 1944年 |
2.戦争画(戦中)
東京国立近代美術館(「近美」と略)の一室には、戦争画(戦争記録画という)が展示されている。戦争画は、戦争遂行のためのプロパガンダの一環として、国家の発注によって描かれた、戦争を題材にした一連の絵画をいう。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、1938年、陸軍の報道部が中村研一、向井潤吉、小磯良平、脇田和といった洋画家たちに戦争記録画の制作を公式に委嘱、同年には「大日本陸軍従軍画家協会」が結成された。この動きを受けて海軍も石井柏亭、藤島武二、藤田嗣治らに戦争記録画の制作を依頼した。1939年には従軍画家の数が200名を超え、この頃から軍の委嘱による公式の戦争画が「作戦記録画」と呼ばれるようになり、終戦までに200点にものぼるものが描かれ、発表されたといわれている。完成した作戦記録画は軍に納められ、「第一回聖戦美術展」(1939)、「大東亜戦争美術展覧会」(1942)、「陸軍美術展」(1943)などの美術展で展示され、国民の国威高揚に寄与したとされる。
敗戦後、「作戦記録画」の主要作品はGHQによって接収され、1970年に「無期限貸与」という名目で日本に返還され、現在に到るまで東京国立近代美術館が153点の管理に当たっている。 「無期限貸与」とは、国のルールとして、いったんアメリカの財産になったものを「寄付する」ことができないことから、「永久にレンタル」するということになったという。
近美の一室では、この戦争画(戦争記録画)を定期的に入れ替えて常設展として展示している。訪れたときは、次の6人の画家の9点の作品が展示されていた。
(1)藤田嗣治(1886-1968)
《ソロモン海域に於ける米兵の末路》 1943年
《血戦ガダルカナル》 1944年
パリで画家として活動していた藤田は、1938年からは1年間、小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発し、、翌年の7月に藤田はパリを離れ日本に帰国した。その後、太平洋戦争に突入した日本において、陸軍美術協会の理事長に就任することとなり、戦争画の制作を手掛けた。
陸軍報道部から、国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号、200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。
近美の作品検索で「藤田嗣治」を検索すると、戦争画は14点を数え、一番多い。戦後は「戦争協力者」と非難され、フランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。
今日では、世界のフジタとして高い評価を得ており、よく知られている作品は「乳白色の肌色」で描かれた裸婦像などである。
藤田嗣治 《ソロモン海域に於ける米兵の末路》 1943年 |
藤田嗣治 《ソロモン海域に於ける米兵の末路》 1943年 |
藤田嗣治 《血戦ガダルカナル》 1944年 |
藤田嗣治 《血戦ガダルカナル》 1944年 |
藤田嗣治《カフェ》1949年 ポンピドゥー・センター蔵 |
<追加>
(2)宮本三郎(1905-1974)
《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年
《シンガポール陥落》 1944年
宮本は、1938年渡欧、パリを中心に滞在し、ルーヴル美術館で摸写をするほか、各地の美術館を見学するが、翌年、第二次世界大戦の勃発に伴い帰国する。1940年に陸軍省嘱託として、藤田嗣治、小磯良平などと共に中国へ従軍し、数々の戦争記録画を制作した。1943年、《山下、パーシバル両司令官会見図》で帝国美術院賞を受賞、《海軍落下傘部隊メナド奇襲》で朝日賞を受賞する。当時、朝日新聞社は、戦争画の美術展を多く主催していた。
近美の作品検索で「宮本三郎」を検索すると、戦争画は7点を数える。
戦後は、人物を主たるテーマとして制作し、晩年には花と裸婦を主題にした絵画を多く制作している。
宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年 |
宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》1942年 |
宮本三郎 《シンガポール陥落》 1944年 |
宮本三郎 《シンガポール陥落》 1944年 |
(3)小磯良平(1903-1988)
《カリジャティ会見図》 1942年
小磯は、 1928年、フランスに留学。ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとし、多くの作品を手がけたことで知られる。1941年には群像画の傑作《斉唱》を発表している。
1938年から1年間、陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国・上海に渡り、帰国後戦争画を製作した。小磯自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦後は画集に収録しなかった。戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む、と晩年に語っている。
近美の作品検索で「小磯良平」を検索すると、戦争画は5点を数える。
小磯良平 《カリジャティ会見図》 1942年 |
小磯良平《斉唱》1941年 兵庫県立美術館蔵 |
(4)田村孝之助(1903-1986)
《アロルスター橋突破》1944年
戦時中は1940年に中国北部、1942年にビルマ、フィリピンなどに従軍する。1941年、大日本航空美術協会の発起人に名を連ねている。 戦争美術関係の展覧会に多く出品している。
近美の作品検索で「田村孝之助」を検索すると、戦争画は5点を数える。
田村孝之助 《アロルスター橋突破》1944年 |
(5)向井潤吉(1901-1995)
《四月九日の記録 バタアン半島総攻撃》 1942年
《バリットスロン殲滅戦》1944年
向井は、1937年、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍。1938年に、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、向井も会員となり戦争画や外地の風景を描いた。
近美の作品検索で「向井潤吉」を検索すると、戦争画は4点を数える。
戦後は、古い民家の絵を好んで描き続け、「民家の向井」と呼ばれた。
向井潤吉 《四月九日の記録 バタアン半島総攻撃》 1942年 |
向井潤吉 《四月九日の記録 バタアン半島総攻撃》 1942年 |
向井潤吉《バリットスロン殲滅戦》1944年 |
向井潤吉《バリットスロン殲滅戦》1944年 |
向井潤吉《バリットスロン殲滅戦》1944年 |
《六月の田園》1971年 世田谷美術館蔵 |
(6)山田新一 (1899-1991)
《仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業》 1943年
山田は、台湾で生まれ。1918年東京美術学校卒業後、京城(現・ソウル)に移住し、朝鮮美術展や帝展に出品した。1928年に渡欧し、フランスで佐伯祐三 らと学ぶ。。1930年京城に戻り終戦まで拠点とした。1938年、陸軍美術協会員、朝鮮軍報道部美術班長で北支に派遣される。その後、1944年まで中支、台湾を回っている。終戦直後は、GHQからの依頼で戦争記録画の蒐集を行った 。
終戦後、ある日、京城の陸軍報道部に保管されていた聖戦美術展の作品のうち68点について部長が山田に 「この絵を速やかに焼却せよ」と命令した。ところが山田は「燃えるのは一瞬でも、絵を描く苦労は大変なものです。私に預けてください」と答え、作品を韓国内の美術家たちに分散、保管させた。山田のとっさの判断で作品は焼却処分を免れたという。
近美の作品検索で「山田新一」を検索すると、戦争画は2点ある。
山田新一 《仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業》 1943年 |
戦争画については、まだ語られることは多くないと思うが、近美における作品の展示が、次第に評価され、藤田嗣治をはじめ、それぞれの画家の代表作のひとつともいわれている。
また、軍の委嘱による公式の「作戦記録画」は、写実性を重要視したことから、洋画家が多く用いられたが、日本画家も描いている。川端龍子、山口蓬春、吉岡堅二、福田豊四郎などの日本画家も「作戦記録画」を描いている。
今日では、現代アートにおいても、会田誠がこれらの作品から触発された「戦争画 RETURNS」という作品シリーズを発表している。
(参照):会田誠《紐育空爆之図》(戦争画 RETURNS )1996 年については、
東京異空間237:美術展を巡るⅡ-1~日本現代美術私観@東京都現代美術館(2024.10.28)
<追加>6室:戦争画の展示
<続く>
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