2025年9月12日金曜日

東京異空間342:戦争画と戦争責任~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館


これまで戦争画、戦争協力画を観てきました。今回の展覧会を観たことをきっかけに戦争画について色々調べたところ、興味深い絵画があることが分かりました。天皇・皇后を描いた三点が1943年の第二回大東亜戦争美術展に出品されたが、戦後はその行方は不明となっているということです。

この消えた三点の絵画についてと、これら戦争画を描いた画家たちの戦争責任の問題について調べてみました。

1.天皇・皇后を描いた三点の戦争画 

(1)三枚の戦争画

1943 12 月8日から翌年1月9日まで、上野の東京都美術館で開催された「第二回大東亜戦争美術展」に出品された三枚の絵画は、他の作品とは別に会場中央の特別室で展示されていた。その3点とは、①藤田嗣治《天皇陛下伊勢の神宮に御親拝》、②宮本三郎《大本営御親臨の大元帥陛下》、③小磯良平《皇后陛下陸軍病院行啓》 という昭和天皇・皇后を描いたものである。

藤田嗣治《天皇陛下伊勢の神宮に御親拝》

藤田が描いたのは、19421212日、昭和天皇が戦勝祈願のために伊勢神宮に参拝した時の様子である。天皇が伊勢神宮に参拝したことはこれまでなく、史上初めてのことであった。この時の写真をもとにこの絵は描かれた。藤田は、その制作について次のように語っている。

「未だ史上に御前例もなき往戦下の御親拝を謹写の光栄に浴し、自分の微才を顧みて、只々恐縮いたしたのでありますが、画家としての栄誉はこれに過ぐるものはなく、斎戒沐浴のうちに、一心不乱、全精神を傾けつくして謹写し奉った次第です」

なお、この天皇が伊勢神宮を参拝した1212日午後1時 22分は、翌年から「一億総神拝の時間」と決められ、内地のみならず満州や戦地においても一斉に伊勢神宮に向かって遥拝することが決められた。

藤田嗣治《天皇陛下伊勢の神宮に御親拝》


宮本三郎《大本営御親臨の大元帥陛下》

宮本は、大本営の会議に親臨した天皇の様子を描いている。描くにあたり、宮内省から会議の写真を見せてもらったほか、当日の装いを再現した会議室を三日間写生したり、参列の陸海軍の参列者に直接会って写生した。次のように制作したことを語っている。

「御写真をみせて頂きましたほかに、宮内省の特別の計らいで、会議の御室を会議の御当日そのまゝの装ひで、三日間写生しさせて頂きました。(・・・)

絵としては構図がハッキリ定まっている点に難しさがあり、私もその天衣苦心したのですが、藤田嗣治君が伊勢の神宮から頂いてきて下すった注連縄を画室に張り巡らし、戦後二箇月半精魂を傾けて謹写致しました」

宮本三郎《大本営御親臨の大元帥陛下》

昭和天皇御前の大本営会議の様子(1943429日付朝日新聞掲載)

小磯良平《皇后陛下陸軍病院行啓》

小磯が描いたのは、1942124日に皇后が、臨時・東京第一陸軍病院を訪れたときの模様である。制作について次のように語っている。

「ただ御写真が一枚しかありませんでしたので、ニュース映画を見せてもらひ、また御案内申し上げた人々の次々の動作などを知るためフィルムの一齣々々を焼きつけてもらひ、これらを参考にして、一ときの動きを謹写すべく苦心しました・・・尊い情景を謹写しますことは、私としては全く初めてのことであり、身に余る光栄に存じています」

小磯良平《皇后陛下陸軍病院行啓》

三人の画家は、いずれも写真をもとに、構図や人物を変更することなく、細部を精密に描くことによっていかに史実の記録であるかのように描くことを求められていた。その制作にあったっては斎戒沐浴するなどの制作態度や精神性が求められた。

(2) 第二回大東亜戦争美術展

これら三枚の絵が飾られた「第二回大東亜戦争美術展」は、次のような展覧会であった。

太平洋戦争開戦2周年を記念して194312 月8日から翌年1月9日まで上野の東京都美術館で開催された。

その後、大阪・京都・福岡・佐世保を巡回する。

主催・・朝日新聞社、後援・・陸軍省・海軍省・情報局、

協賛・・日本美術報国会・陸軍美術協会という軍部・政府・美術界・メディアの全面的なバックアップがあった。東京での入場者数・のべ15万人に及び、大変な盛況ぶりだったことが伺える。

同展には天皇・皇后を描いた3枚の絵画のほか、海軍省から貸下げられた作品をは じめ約 370 点が展示された。このうち戦争記録画といえるものは海軍の20点の作品が展示されている。

当時行われた類似の戦争美術展の中でも特に大規模な展覧会であり、天皇・皇后像3点が会場中央に作られた特別室に展示されていた。

大東亜戦美術2』3点が収められている豪華な画集

(3)天皇・皇后の役割の象徴

三枚の絵は、タイトルが示すように、昭和天皇と皇后の「①祈る=御親拝、②統率する=御臨席、③癒す=行啓」姿を描いたものであり、これらの象徴する姿は戦後も引き継がれている。

「祈る」天皇は、終戦記念日に全国一斉にテレビ中継される「全国戦没者追悼式」で黙禱する天皇・皇后の姿として、継承されている。

また「癒す」皇后は、地震などの災害被害者などを見舞う天皇・皇后の姿として継承されている。

「統率する」天皇は、戦後の新憲法により象徴としての天皇となり、いまは国会の開会式に臨場し、お言葉を述べる姿に重ねられるだろう。

(4)消えた三枚の絵画

しかしながら、この3点は GHQ の接収リスト153 点の中にも含まれておらず、東京国立近代美術館の「戦争記録画」コレクション153点にも当然存在しない。また、宮内庁や三の丸尚蔵館で所蔵しているという話もなく、そもそも太平洋戦争時、 献納されたはずの美術品の記録が一切存在しないという不思議な状況になっている。

第二回大東亜戦争美術展において象徴的な役割を果たした3点の「記録画」 は何処へいってしまったのだろうか。現在、この3 点の絵画の所在は不明である。敗戦に伴い、誰かに焼却されてしまったのだろうか?

これら三枚の絵は、戦後、美術史からも、また画家個人の画業からもほとんど削除され、消されている。この点について、北原恵は次のように書いている。

「おそらく、天皇がアジア・太平洋戦争に関与する図像は、昭和天皇の戦争責任の議論にも繋がりかねないものとして戦後、意識的/無意識的に排除され忘却されてきたのだろう。戦争中、戦争翼賛のために開かれた美術展で頂点に君臨した天皇・皇后像は、敗戦後、「戦犯」が天皇の身体から切り離されたのと同様消し去られ、「戦争記録画」と名指しされた絵画群のみが美術の戦争責任を引き受けさせられたかのようである。」

これらの絵が、どこかに秘匿されていて、いずれ発見され公開されることを期待したい。

(参考):

「消えた三枚の絵画」北原恵 『戦争の政治学』所収 岩波書店 2005

戦争記録画と消えた3枚の天皇・皇后像 増子保志、加藤香須美 2016

2.画家たちの戦争責任

戦後になるとすぐに戦争画を描いた画家たちの戦争責任を問う声が上がる。ここでは、「美術家の節操論争」と呼ばれる事件と「画家たちの戦犯リスト」をとりあげる。

(1) 美術家の節操論争

敗戦から二か月後、1945(昭和25)年1014日、朝日新聞の投書欄を発端に、画家たちの戦争責任を問う「美術家の節操論争」と呼ばれる論争が起きた。これはかつて戦争を描いた画家たちが今度は進駐軍を慰労するための展覧会を企画しているというとの誤報から生じた事件である。

まず、画家の宮田重雄が朝日新聞の投稿欄に、「美術家の節操」と題して、次のように藤田嗣治らスター画家の「無節操さ」を厳しく糾弾した。

曰く藤田嗣治、曰く猪熊弦一郎、曰く鶴田吾郎。これ等の人たちはひとも知る、率先、陸軍美術協会の牛耳を採って、戦争中ファシズムに便乗した人たちではないか。まさか戦争犯罪者も美術家までは及ぶまいが、作家的良心あらば、ここは暫く筆を折って謹慎すべき時である。今更どの面下げて、進駐軍への日本美術紹介の労などとれるか(略)新日本の出発のために、芸術家の負うべき使命は大きいのだ。須らく節操あるべし」

これに対し、同じ朝日新聞の1025日付に、藤田嗣治「画家の良心」、鶴田吾郎「画家の立場」を書いて、次のように反論した。

元来画家というものは真の自由愛好者であって軍国主義者であろうはずは断じて無い。偶々海戦の大詔渙発せらるゝや一億国民は悉く戦争完遂に協力し画家の多数共に国民的義務を遂行したに過ぎない」(藤田嗣治「画家の良心」)

「戦争に便乗したと言っておられるが、去る八月十五日停戦前までの殆ど凡ての日本国民は 戦争の為に軍と政府に協力したではないか。また戦争画を措いた画家が再び平和に戻ったか ら他の方面を措いて節操を曲げたと言うのも間違っている。・・・戦争中に戦争画を描き平和裏に平和な主題を描くのは当たり前だ、我々は思想家にあらず画家なのだから描きたいものは何だろうと描くのだ」(鶴田吾郎「画家の立場」

どちらも、ほとんど開き直ったような発言とも受け取れる。

これに関連して、藤田らよりも若い世代である松本竣介は次のような「芸術家の良心」を投稿したが、これは採用されなかった。

目糞が鼻糞を笑ふとは今日に始つたことではあるまいが、「似而非文化」石川達三、「美術家の節操」宮田重雄、「画家の立場」鶴田吾朗、「画家の良心」藤田嗣治、四氏の文章の中には看過できぬものが多分にある。

終戦前、十年二十年の間に何らかの意味で指導的立場に立つた人達、文化の先頭を切つた人達が、日本の敗戦は自分の責任ではない等と言ふことを、われわれ若い時代の者は拒絶する。・・・芸術家に与えられた栄誉は個人的なものであった。 それを徴用工や復員兵士同等である言ふ至つては言語道断である。(略)

戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか、アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争絵画をつくることだ。・・・詳しくはわれわれに実質的に言論の自由が約束される時を俟ってする。」(松本竣介「芸術家の良心」)

松本竣介は、大平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941(昭和16)年4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことで知られる。

《立てる像》 1942年 神奈川県立近代美術館 

凛とした青年の姿が、強い意志を感じさせ、時代に抵抗し、未来に向けた画家自身の姿のように見える。しかし、見方によっては、いよいよ決戦の時へと向かう兵士たちの緊張感のある顔、強い意志を描いた「戦争協力画」とも見える。

というのは、松本も、1941(昭和16)年に《航空兵群》を制作し、二科九室会「航空美術展示会」(銀座三越)に出品しているからである。この兵士の緊張感と《立てる像》の強い意志と重なり合うところがあるようにも見える。

なお、松本自身は聾者であり、兵役につくことはなかった。

《立てる像》

《航空兵群》


いずれにしても、直接的な論争としてはただ責任をなすりつけ合っただけで立ち消えになった。

(2)画家たちの「戦犯リスト」

1946年4月に結成された「日本美術会」が主導した戦争責任の追及もあった。美術会は戦争責任を負うべき者のリストを公表した。そのうちの「自粛を求める者」13名)には、横山大観をはじめとする次のような画家たち8名その理由とともに挙げられた。(他5名は軍人、官僚などである)

なお、「日本美術会」は、19464月に洋画家の内田巌を書記長として創立された左派系美術家による団体であり、日本民主主義文化連盟 の連合組織の一つ。

「自粛を求める者」

横山大観

芸術報国会会長、美術界に於て建艦運動、飛行機献納運動等を率先して提唱し軍国熱醸成に力を尽した。又神秘的選民思想排外主義思想を 絵画化して国民をギマンするに力があった。国家神道の鼓吹者。

児玉希望

美術及工芸統制会理事長、美術報国会理事、商業資本官僚軍閥らと結び物質的統制を通じて美術の自由な発展を妨害し美術界のファショ的体制を築に努力した。美術及工芸統制会の直接的指導者。

藤田嗣治

創作活動に於て最も活発に積極的に軍に協力した。又文筆に於ても軍 国主義的言論をもって活躍した。その画壇的社会的名声は軍国主義的 運動の大きな力となり国民一般に与えた影響も極めて大である。

中村研一

同上。

鶴田吾郎

軍需生産美術伾身隊長、新京美術院教授、其の他多くの反動軍国主義的団体に関係し且つその組織者としての役割を多く果した。作品活動 に於ても最も積極的に戦争の煽動に尽し軍国熱を煽った。

長谷川春子

女流美術家奉公隊長、女流作家界に軍国的統制を敷いた前記運動の組織者、作品活動に於ても最も積極的にファショ的似而非美術の製作に従事した。

中村直人

軍需生産美術伾身隊の組織加担者、新京芸術院の組織に参画、彫刻界 に於ける最も積極的な軍の協力者。

川端龍子 

満州事変以来ファショ的画因を標幟として進出、「太平洋三部作」をは じめとし、創作活動に於いてファシスト的美術家の先頭をきり、戦争熱醸成につとめた。又帝国主義満州統治政策の美術部面を分担し、新京芸術院の設立者となった。


このリスト作成に最も影響を与えたのは GHQによる公職追放の動きである。194614日、GHQ は日本政府に「公職追放令」を通達し、追放の範囲をAからGまで7項目に規定して19485月までに20万人以上を追放した。美術家や文化人たちを怯えさせたのが、最後のG項「その他の軍国主義者や極端な国家主義者」である。それは「軍国主義政権反対者を攻撃した者。言論、著作、行動により好戦的国家主義や侵略の活発な主唱者たることを明らかにした一切の者」とされ、日本由党総裁鳩山一郎その他、村山長挙(朝日)や正力松太郎(読売)ら新聞・雑誌の社長や、菊池寛、山岡荘八ら文化人も対象となった。

GHQ が公職追放令を発令すると、美術界でも G 項に誰が該当するのか、名前が挙がるようになった。美術評論家の荒城季夫は、『読売新聞』で「戦争中ファシズムに便乗して陸軍美術協会の牛耳をとつたその幹部あたりが該当するのではなかろうか」と述べて藤田嗣治の名前を挙げている。

(3)画家たちの戦後

戦争画を描いた画家たちは、どのようにその責任を語り、どのように新たな道に進んでいったのか。

藤田嗣治

藤田は戦時中は陸軍美術協会会長を務めていたこと、また戦後もGHQの命令により、戦争画を収集したことなどもあり、美術界から藤田一人に戦争責任を押 し付けられ苦境に立たされた。同じころ、リストを作成した「日本美術会」の書記長であった内田巌は藤田のもとを訪れ、美術界での活動自粛を求める通知を言い渡したとされる。

こうした追求から、藤田はGHQの民政官であるフランク・エドワード・シャーマンの手助けにより、特別にビザを得てアメリカに渡った。出発の前の記者会見で藤田は次のように、しゃがれた声で述べたという。

「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界的水準になってください。」

アメリカに渡って、約一年後にはパリに移り、その後、フランスの国籍を取得し、カトリックの洗礼も受け、日本に戻ることはなかった。

美術界では、藤田嗣治という格好のスケープゴートを作り出し、国外に追放して、戦争責任は雲散霧消してしまった。

(参考):

『なぜ日本はフジタを捨てたのか?』富田芳和 静人舎 2018

横山大観

横山大観は、GHQにより「戦犯容疑者」として取り調べを受けることになり、この時ばかりは大いに狼狽したという。ところが、一度の弁明で容疑が晴れると、気をよくした大観は、これを機会にGHQとの関係を築き、マッカサー元帥夫人からの制作依頼を受けるほどにもなった。

1948(昭和23年3月大観は谷崎潤一郎、和田三造との鼎談の中で次のように語っている

「戦争中いろんな役目を背負わされてはいたが、別に戦争をやったわけではなし富士山や桜などを描いてばかりいたのだから追放などになるはずはないと思っていたよ」

富士山を描いて、その売上金により軍用機4機に「大観号」という名前まで付けた画家としては、あまりにも無責任な発言である。

そして、戦後も国体の象徴としての富士、旭日を積極的に描き続けた。「国破山河在」、終戦により国家体制が「破れ」ても「山河在り」それが大観の富士であった。

大観に対する戦争責任、作品に対する批判も時代とともに風化していき、むしろ、数多くの回顧展の開催や画集の刊行など、国民的日本画家としての地位を獲得していった。

(参考):

『横山大観』古田亮 中公新書 2018

「戦争美術とその時代」河田明久『画家たちの「戦争」』とんぼの本 新潮社 2010

宮本三郎、小磯良平、向井潤吉など

宮本三郎

宮本は、戦後、故郷の石川県に引きこもり、GHQによる責任追及を恐れて怯えた日々を送ったという。

それでも、宮本三郎は、優れた写実力を基礎として、戦争画から、時代の変化に合わせて作風を変え、その生涯を通じて人物画、風景画、そして晩年の裸婦画など、多彩で豊饒な芸術世界を築き上げた。晩年には、画家自身の情感や生命の躍動を、裸婦や動植物に託した官能的な絵画世界を創り上げた。

向井潤吉

向井は、戦後次のように、戦争画をふりかえって述べている。

「それまで日本の油画というものは勝手な仕事をしていたけれども、あの戦争画を契機として、写実が新しく考えられるようになり、もう一ぺん根本から勉強しなけ ればいけないというように思われだしたんだ。事実、かなり写実力を持てるようになったんですよ、みんな。これが今後どう伸びるだろうかと思っていたところが、終戦と同時に 御破算になっちゃったんだけどね。」

戦後の向井は、宮本と同じように、写実力を支えとして、油彩画で日本の風景を捉え直すという浅井忠ら明治の洋画家が取り組んだ仕事を引き継ぎ、、失われつつある各地の茅葺屋根の民家を精力的に描いた。

小磯良平

GHQから東京近代美術館に無期限貸与として戻ってきた戦争記録画153点の修復が終わり、 画家と遺族の承諾のあった絵を一括公開する企画が立てられたが、政府と一部遺家族の反対圧力により公開予定の前日になって突然官庁の判断で中止が決定された。この時、小磯は次のようなコメントを新聞に寄せている。

「展示するがどうかと打診があってから、嫌だなあと思っていたが、公開が取りやめになったのなら私としてはうれしい。」

同じく、戦争画が日本に戻ってきたころ『週刊読売』など各誌で特集記事が掲載されたが、小磯は、週刊読売の「特集 失われた戦争絵画 20 年間、米国 にかくされていた太平洋戦争名画の全貌 」において次のように語っている。

「本誌:小磯先生、なにか思い出話を・・・・。

小磯:あまりいい思い出はありませんね。わたしのは会見というんじゃない。ビルマ の式典ですね。ちょっといま考えてみると、なにかつくりごとみたいな感じで。ああ いうどさくさですから、あまりいま、楽しい思い出として、お話しできないような感 じですね」

小磯は戦争画について語ることを厭い、むしろ、画家自身がその作品の存在を抹消しようとするかのように、展覧会においても、それらの公開を拒否し続けた 。

戦後、画家自身が戦 争画について多くを語らず、むしろ、画家自身がその作品の存在を抹消しようとして、その公開や画集などへの掲載を厭う傾向にあった

太平洋戦争中、画家の多くが戦争記録画を描いた。しかし、藤田嗣治が日本を去った後、他の画家たちは何事も無かったかのように戦後の活動を再開した。日本の画壇は戦争記録画から目を背け、あるいは戦争記録画を描いた事を意図的に触れず、自身の作品履歴からも削除し、活動し続けた画家も存在した。

小川原脩(おがわらしゅう)

戦争画を描いたが、戦後は郷里に引きこもり、ひっそりと創作を続けていた画家がいる。小川原脩という、あまり名も知られていない。

小川原は、1911(明治44)年、北海道・倶知安に生まれる。東京美術学校を卒業後、福沢一郎らと出会い、1939年に結成された美術文化協会の創立メンバーとなり、シュルレアリスム絵画への道を歩んだ。しかし、軍の規制が厳しくなり断念、その後、軍の命令により戦争記録画を制作する。

平成7年のインタビューで次のように語っている。

〇警察からにらまれていたシュルレアリストの団体に所属していて、なぜ戦争記録画を書くことになったのか、という質問に対して:

福沢一郎、瀧口修造の二人が逮捕されまもなく召集令状が来た。この2度目の召集で満州に送られたが、また胸を患い召集解除になり東京に戻ってきた。その頃、陸軍報道部の先輩から「陸軍に協力する絵を描け」と言われたことがきっかけとなった。ただ、殺し合いや撃ち合いといった人間を主題とした絵はやりたくなかった。もっと機械的な物、飛行機なら俺にも描けるぞ、と考えた。

「正式に命令されたわけではないが、正直にいえばお国のために軍に協力しようという、そういう考えも自分の中にあった」

〇終戦後、故郷の北海道・倶知安で暮らしている気持ちを聞かせてください、という質問に対して:

北海道に戻って1年ほど経って、僕のいた「美術文化協会」から突然除名の通知が来た。戦時中、僕ひとりがうまい汁を吸ったと見られたんでしょうね。・・・たしかに当時の僕は目立っていたと思う。その意味では自責の念もある。いつだったか、東京で福沢一郎さんのお祝いのパーティがあって、久しぶりに北海道から出ていった。昔の仲間がずいぶん集まっていたんですが、「こんにちは」といっても、ほとんどの人に無視されてしまう。ある人は「なんだ、生きていたか」と言って僕の前をスーッと通り過ぎて行くんです。屈辱でした。・・・そんなこともあって、僕は長らく沈黙していたんですが、数年前に宇佐美承さんが『池袋モンパルナス』の取材に見えて僕のことを書いた。その時、自分を呪縛していたものが何か解けたような気持になったんです。僕以外にも同じ団体の仲間が実は戦争画を書いていたことを初めて知ったんですよ。・・・最近はようやく自分なりに気持ちの整理がついてはきました。でも、本当のところ、まだ重いものが残っています。

「どう戦争と向き合い、どう描いたのか。その経験が戦後どう結びついてきたのか。それを掘り下げたい」

戦争画を描いた画家が、自らに真摯に向き合い、その苦悩、自責の念がいつまでも残っているという重たさを感じるインタビューである。

小川原脩

小川原脩《群れ》


小川原脩《群れ》1977

この一匹の寂しそうで孤独な犬をさして、小川原は言う。「やっぱりそれは僕かなあ。あまり僕は群れに対して尻尾を振ったことがないからか。やるならやれ。俺は俺の道を行くよということかもしれない。」と。

戦時中、「犬も戦士」であると認識されていた。だからこそ、田河水泡の「のらくろ」は、日本兵と重ね合わされた。戦争は <の論理で <を圧殺する。

小川原脩の戦争画3点

《成都爆撃》 《アッツ島爆撃》無期限貸与作品として東京国立近代美術館が所蔵 

 《バタン上陸に於ける小川部隊の記録》行方知れず

《成都爆撃》

 《アッツ島爆撃》

《バタン上陸に於ける小川部隊の記録》

(参照):

東京異空間340:戦争画~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館(2025/8/29)

(参考):

『画家たちの「戦争」』とんぼの本 新潮社 2010

長谷川春子

長谷川春子は、画家たちの戦犯リスト「自粛を求める者」8名のうち、女性画家としてはひとり名ざしされている。長谷川は、先に展覧会で観た《大東亜皇国婦女皆働之図》を描いた「女流美術家奉公隊」の隊長である。「女流美術家奉公隊」という名前もいかにも戦時中を思わせ、勇ましいが、彼女の活躍ぶりも、当時の女性としては抜きんでているものがある。彼女の略歴を追ってみる。

(参照):

東京異空間339:《大東亜戦皇国婦女皆働之図》~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館2025/8/21

・1895 年、東京で弁護士を父に 7 人兄弟の末っ子として生ま れた。日本画を鏑木清方に、油彩画を梅原龍三郎に師事し、恵まれた環境のなかで育った。

・1929 年フランスに渡ると藤田嗣治と交流して個展も開催。帰国時にシベリア鉄道で大陸を一人で横断し、建国間近の満洲を見て感動した。

1932 年、さっそく日本軍の協力を得て大連・新京・奉天・ハルピン・内蒙古などを廻った。それは戦争と関わった画家として早い行動だった。

・1937年、日中戦争が始まると、長谷川はすぐに新聞社と雑誌の特別通信員として中国北部や蒙古に、拳銃を肩にかけてズボン姿で向かった。

・1938 年、大日本陸軍従軍画家協会が結成されると、その発起人にただ一人の女性として名を連ね、その第一回展に戦争画を出品した。

・1939 年には陸軍省の派遣で中国南部や海南島や、フランスの支配下にあったインドシナを廻り、これらの体験を雑誌や聖戦美術展や陸軍美術展などで次々と発表した。

・1943 年2月に陸軍報道部の指導の下で、洋画を中心に、日本画、彫刻、工芸に携わる女性画家たち約50 名を集めて、「女流美術家奉公隊」を結成した。桂ゆきや三岸節子も隊員であった。

・1944 年、「奉公隊」が陸軍省の依頼を受けて共同制作したのが、 戦地の男性に代わって働く銃後の女性労働をテーマにした大作 ≪大東亜皇国婦女皆働之図≫である。

なお、『旧聞日本橋』で知られる作家・長谷川時雨は姉である。 春子は、姉・時雨 が主宰する雑誌『女人芸術』(1928-32)に挿絵や文章を意欲的に書き、文筆も精力的に行い、毒舌家としても知られ た。

ズボン姿の長谷川春子


<戦後>

・1945年、長谷川は女流美術家奉公隊で活躍したメンバーたちとともに敗戦直後から活動を再開した。12月末に早くも東京・三越 で「日本女流美術家協会展」を開いたが、協会の活動は長くは続かなかった。

・194611 月に三岸節子を中心に創立される「女流画家協会」の活動に、中谷ミユキや森田元子らのかつての奉公隊の中心メンバーが合流しためである。

戦時中、長谷川春子は戦争に協力する絵を描くことで女性画家の地位を上げようとし、三岸節子はそれを拒否したことでふたりは決別しており、二人は対照的な人生を歩むことになる。

ふたつの団体は、三岸節子の提唱する「純粋芸術の発表機関」(=女流画家協会)と、長谷川の「一般女性への美術啓蒙運動で、芸術発表に主眼をおかぬ もの」(=日本女流美術家協会展)として差異化され、参加者たち自身も「純粋芸術」(女流画家協会)を選択することによって、 過去の戦争協力の記憶を自ら切断していくことになった。女性画家たちは、戦争の記憶をひきずる長谷川春子や「女流美術家奉公隊」を自分たちと切り離し、自らの活動の場を新たに求めていった。長谷川は、その後、公の場での活動や女性のネットワークに関わることは一切なかった。

(いっぽう、三岸節子は、花を愛し、生涯に渡り描き続けた。また海外を舞台に風景画を描いて、女性画家として高い評価を得ている。)

・1957年頃から 制作を始めた「源氏物語絵巻」を完成させて、《皆働之図》と同じく、福岡の筥崎宮に奉納された。

・1967 年に亡くなる。 長谷川が戦中に戦争画を描いたことは忘れ去られ、死に際しては「誰からもみとられず、ひとりさびしく」自宅で死んだと報道された。

ついに、長谷川春子は、戦中も 戦後も戦争協力を反省する言葉を一度も残さなかった。

左:長谷川春子 右:三岸節子


(参考):

「女性画家と戦争」 北原恵


戦争画を描いた画家たちは、戦後、藤田嗣治に、戦争責任を負い被せて自らの責任追求から逃がれた。そして宮本三郎、向井潤吉などは題材を<戦争>から<平和>に変え自らの技量を基に、芸術性の高い作品を残した。あるいは小磯良平のように、戦中の自らの活動があたかもなかったかのように隠し続けた。その一方で、小川原脩のように真摯に戦争責任に向き合い続けた画家もいる。

いまでも美術史において、これら画家たちの戦争画については多くが語られることはないようだ。その意味でも、今回の展覧会は貴重な企画と言える。

結局、日本の画家たちは、藤田を国外に追放することで、また横山大観にみるように、自らに対する責任追及から逃れてしまった。それは、日本の美術界がアメリカの意向に従うことも意味した。つまり戦時の指導者たちを戦犯として処刑するかわりに、天皇と国民の責任は追及しなかったアメリカの方策が、美術界においても繰り返された。


展覧会をきっかけに、今回は、天皇・皇后を描いた三枚の戦争画、また画家たちの戦争責任について、調べてみました。続けて、展覧会の作品に戻り、戦時中のポスターなどプロパガンダについて見てみることにしたいと思います。

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東京異空間342:戦争画と戦争責任~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館

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