浅草寺の雷門をスタートして、浅草神社、待乳山聖天などその周辺の寺社を巡り、かっぱ橋商店街をのぞいて、入谷鬼子母神に寄り、鶯谷駅まで歩きました。
それぞれの寺社の由緒などを調べてみると、その時代、時代の人々の心情が垣間見えてくるようです。
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浅草寺・雷門の大提灯の底に龍 |
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浅草寺・宝蔵門の大提灯 |
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浅草寺・五重塔と宝蔵門 |
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浅草寺・仲見世通り |
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浅草寺・本堂 |
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浅草寺・お水舎の高村光雲作の龍神像 |
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浅草寺境内・鳩ポッポの歌碑 |
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浅草寺・宝篋印塔:宝暦11年(1761)建立。区内最大の印塔 |
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浅草寺・本堂:後ろに回ると人もぐっと少なくなる |
〇浅草寺・浅草神社
社伝によると、推古天皇36(628)年3月18日のこと、今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像が繰り返しかかった。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めた。これが浅草寺のはじまりという。
真中知の歿後、その子が観音様から夢告を受け、それ以来、祖先神、郷土神を祀る「三社権現社」(檜前浜成、竹成と土師真中知の三人の霊をもって三社)として篤く祀られることになったと伝えられている。
明治の神仏分離令により浅草寺とは別法人となり、「三社明神社」、その後「浅草神社」と改称した。
浅草神社では江戸三大祭の一つ「三社祭」が行われる。 この三社祭の歴史は古く、一説には正和元(1312)年の船祭に始まるともいわれ、江戸期に入って三代将軍徳川家光の社殿ならびに神輿の新たな造営を機に江戸市中の一大イベントとなったという。いまは、観光化され、東京の初夏を代表する風物詩の一つとなっている。
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浅草神社 |
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浅草神社・三社祭の神輿蔵 |
〇被官稲荷神社
浅草神社の後ろ側にまわると被官稲荷神社がある。この神社の由来は、江戸後期の町火消である新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快した。そのお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を勧請し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られている。「被官」とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解されている。
新門辰五郎は勝海舟とも交流があり、その娘、芳は徳川慶喜の妾となっている。
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被官稲荷神社:正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたもの。 |
〇浅草冨士浅間神社
江戸時代、富士山信仰が盛んになり「冨士講」が多く結成されたが、富士山参りできない人のための富士山遥拝所として浅間神社が建てられた、いまは浅草神社の兼務社となっている。
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浅草冨士浅間神社 |
〇待乳山聖天(まつちやましょうてん)=本龍院
本龍院は浅草寺の子院で、待乳山聖天と称される。この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は推古天皇の御世、地中から忽然と出現した霊山で、金龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号「金龍山」の由来となったという。
この地方が大旱魃にみまわれたとき、十一面観音菩薩が慈悲の眼を開き、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)の姿となって、この山に降臨し、苦しむ民を救ったという。これが聖天さまが、ここに鎮座した由来という。
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待乳山聖天・本龍寺 |
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待乳山聖天・本殿 |
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待乳山聖天 |
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待乳山聖天:大根を供えて |
境内のあちこちに巾着と大根のシンボルがあり、本堂では大根を供え(門前に1本250円で売っていた)、本堂前の水鉢は大きな巾着となっている。大根は身体を丈夫にして、良縁を成就し、夫婦仲良く、末永く一家の和合を、巾着は財宝で商売繁盛をもたらす御利益を表しているという。例年1月には「大根まつり」が行われる。
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階段にも大根、巾着のデザイン |
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二股の大根:夫婦和合 |
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巾着:財運 |
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本殿前にも大きな巾着 |
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待乳山聖天・地蔵菩薩 |
〇今戸神社
日本で最初の夫婦といわれる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀っていることから縁結びにご利益があるとされ、また招き猫の発祥の地としても縁結びと結び付けてアピールしていることもあり、女性に人気の神社となっている。
今戸神社の住所が「今戸1-5-22(いいご夫婦)」と縁起の良い語呂合わせもうけているようだ。
境内のあちこちに招き猫と円形の絵馬があるが、これは「縁」と「円」の語呂合わせをかけたデザインだという。
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円(縁)形の絵馬 |
招き猫の話は、武江年表によると、浅草花川戸に住む老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ「自分の姿を作り祀れば福徳自在になる」と告げたので、そのとおりににしたところ御利益を得たこと評判になり、今戸焼の土人形にして浅草寺・三社権現(浅草神社)の鳥居辺りで老婆によって売られ人気になり、その猫が招き猫とも丸〆猫とも言われた、という。
ただし、これは浅草神社との結び付けられる話で、今戸神社が招き猫の発祥というのは、近年になって縁結びと招き猫、さらに今戸焼を結びつけたりしてアピールしたことによるものらしい。
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今戸神社 |
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ご神木の周囲に円形の絵馬 |
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手水舎にも招き猫 |
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「生きている招き猫」といわれている。名前は「ナミ」という野良猫だとか |
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スマホの待ち受けに人気だとか |
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ご神木にも円形の絵馬 |
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今戸神社・本殿 |
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本殿のなかにも大きな招き猫 |
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福禄寿 |
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今戸焼の発祥地とも、沖田総司の終焉地とも |
〇入谷鬼子母神・真源寺
鬼子母神は、ヒンズー教では、子育て、安産の神として祀られ、日本仏教では日蓮宗の寺院で法華経の守護神として祀られることが多い。
「恐れ入谷の鬼子母神」といわれるお寺として知られ、また朝顔市が開かれることでも知られている。
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入谷鬼子母神・真源寺 |
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入谷鬼子母神 |
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入谷鬼子母神:入谷朝顔の浮世絵も |
〇言問橋・東京大空襲慰霊碑
言問橋は、関東大震災後の復興事業の一つとして架けられた(昭和3年1928年竣工)。東京大空襲の際には、浅草側から「川の向こうに行けば助かる」として多くの人が渡ろうとしたが、反対の向島側も火の海となっており、同様に多くの人が対岸に渡ろうとしたため両者が橋の上でぶつかり合い、そこへ焼夷弾、火災旋風が襲い、川に身を投げるなど、川も橋も多くの死体で埋まったという。いまは橋のたもとに慰霊碑が建てられている。
「言問」の由来は、在原業平の詠んだ「名にし負はば いざこと問わむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」という歌に因むという。(諸説あり)
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言問橋からスカイツリー |
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言問橋からスカイツリー |
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言問橋のたもとにある東京大空襲の慰霊碑 |
〇かっぱ橋道具街
調理・厨房器具の専門店が170店以上並ぶ商店街、いまは食品サンプル、包丁などが海外の観光客にも人気となり賑わっている。
「かっぱ橋」のいわれについては二つあり、一つは、侍や足軽が内職として作った雨合羽を天気の良い日に橋に干していたという「合羽」説、もう一つは、合羽屋喜八という人がこの辺りはよく洪水をおこすので、私財を投げうって掘割工事を始めた。なかなか捗らない工事を見ていた隅田川の河童たちがその善行に心打たれ手伝ったという「河童」説。そのためか、いまは、ひらがなで「かっぱ」橋道具街という。
◎浅草周辺の神社などをめぐり、その由緒などを見てみると、江戸・東京の歴史の一端にふれ、現在の賑わいを振り返る異空間に入ることもできるように思います。
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