2021年2月3日水曜日

東京異空間35:隅田川に架かる橋

 

勝鬨橋

隅田川を浜離宮から浅草まで水上バスでさかのぼった。途中、いくつもの橋の下を通っていった。隅田川に架かる橋の風景とともにその歴史の一端をみてみる。

 

1.隅田川の橋

浜離宮から隅田川を上る船に乗って、浅草まで行く途中には、16の橋が架かっている。まず見えてくるのはレインボーブリッジだが、これは東京湾に架かる橋なので、隅田川に架かる橋を下流から順に、挙げててみると次のようになる。

 

築地大橋→勝鬨橋→佃大橋→中央大橋→永代橋→隅田川大橋→清洲橋→新大橋→(首都高6号高架橋)→両国橋→(JR総武線鉄橋)→蔵前橋→厩橋→駒形橋→吾妻橋→(東武スカイツリーライン鉄橋)

 

このうち江戸時代に架けられた橋は5つ。古い順に、千住大橋(上流に位置し、今回は通らなかった)、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋、となる。

江戸幕府は、東北方面の治世に出向くため、最初に千住大橋を架けた。その際、仙台藩伊達政宗に材料となる高野槙を寄進させている。

その後は、隅田川には江戸の軍事防備上、千住大橋以外の架橋を認めなかった。しかし、1657年の「明暦の大火」を契機に防火・防災目的のために両国橋を架橋し、さらに両国から浅草間に新大橋、永代橋、吾妻橋を架けた。もちろんこれらは木造であり、明治に入ると、お雇い外国人の指導により、西洋式木橋がつくられ、明治後期になると近代的な鉄橋が造られた。しかし、関東大震災により多くが焼失し、新たな鉄橋に架け替えられた。

 

いまは、それぞれの橋の形、色など様々なデザインで、古くからある橋は重要文化財などに指定されている。、しかし、総武線や東武鉄道が通る鉄橋に加えて、橋の近くを高速道路が大きくカーブするなどしていて、橋の景観をゆっくり楽しむのは難しいかもしれない。

そこで、いくつかの本を参考に江戸時代に架けられた橋を中心に隅田川の橋の風景を垣間みてみる。

浜離宮 乗り場

レインボーブリッジ
船内

モノレール

御座船

レインボーブリッジ

お台場・フジテレビ

レインボーブリッジ

レインボーブリッジ

レインボーブリッジ

築地大橋

築地大橋

勝鬨橋

勝鬨橋

佃大橋

佃大橋

新大橋

新大橋





永代橋(奥の橋)

隅田川大橋

清洲橋

清洲橋

首都高6.7号高架橋


新大橋







大川端リバーシティ

新大橋

新大橋

総武線鉄橋

総武線鉄橋

吾妻橋

吾妻橋

「エメラルダス」

東京スカイツリー

東武スカイツリーライン鉄橋

東武スカイツリーライン鉄橋

浅草 降り場

リバーウォークから

2.隅田川~異界への道   

そもそも、橋とは、「端」をその語源とする。地域の境界、「端」を表わす言葉であった。隅田川の橋は、縁(エッジ)を超えた「異界」への道であり、生と再生を行き来する道であった。江戸っ子たちが多く集まった場所へ橋を渡って、その聖なる空間と俗なる空間が入り混じったところをみてみよう。

 

まずは吾妻橋を渡ってみる。

吾妻橋を渡ると、隅田川の堤の桜がある。八代将軍吉宗の時代に植えられたという。桜は、一気に咲き始め、満開となり、あっという間に散ってしまう樹である。いわば、生と死が背中合わせになっていて、縁(エッジ)にふさわしいのが桜である。中沢新一は『アースダイバー』の中で次のように語る。

「隅田川の岸辺は世界の縁(エッジ)であり、その縁の向こうには、死の世界でもある異界が広がっているという民衆的な想像力が、堤の両岸におびただしい本数の桜の植樹を促したのである。世界の縁では、この世の生と異界の死が入り混じっている。」

 

吾妻橋は、江戸っ子たちを桜が並ぶ異界に踏み入れてくれる橋になっている。一方で、橋(端)の手前には「浅草寺」がある。浅草寺は、縁起によれば、その昔、漁師が網にかかった観音像を祀ったことにはじまるとされる。観音様が水中から出現するということから、川そのものが聖なる空間であった。

そうした宗教的空間である境内には、芝居小屋、見世物小屋や茶屋などが並ぶ遊興街が形成され、様々な商いをする門前町もでき、聖なる空間に接して俗なる空間を構成していた。江戸時代の盛り場といえば浅草と両国であった。(今の渋谷と新宿のように)

 

次に、その両国橋に聖なる空間と俗なる空間を見てみよう。

両国橋は、明暦の大火(1657年)の際に、隅田川を渡れずに多くの人が焼死したということを教訓に防災対策と江戸郊外の開発を目的にして架けられた。

四代将軍家綱は、多くの焼死者を手厚く葬るため、両国橋の近くに寺社地を与え、無縁仏の冥福を祈る御堂を建てた。これが「回向院」の始まりだという。これによって両国橋は参詣客の表参道となり、まさに生と死を行き来する橋となった。

 

また、境内では勧進相撲が行われ、谷風、小野川、雷電などの名力士が活躍して人気が高まった。これが大相撲の発祥となり、明治になって両国に国技館が建てられるに至った。

相撲は、豊穣や豊漁を神に願う神事相撲としてはじまり、江戸期になると、寺社建立のため資金となる浄財を集める勧進相撲となり、興行的要素がしだいに大きくなっていった。仕切りをする際に塩をまくなど、土俵は聖なる空間であり、相撲の勝負を楽しむ俗の空間でもある。

 

両国といえば相撲と同様、納涼花火大会がよく知られている。

両国で花火が特に盛大に行われるようになったのは、享保年間(1733年)といわれ、そのきっかけは、前年に大きな飢饉があり、多くの餓死者が出たり、また疫病が流行りこともあり、そうした死者の霊を鎮め、悪霊疫病退散を祈る水神祭の一環として花火が打ち上げられたといわれている。次々に打ち上げられる花火の光と音が悪霊を払う仕掛けであった。

中沢新一は、隅田川の納涼花火を派手な「迎え火」としてとらえ、次のように、多くの死霊が集まってくるところだという。

「隅田川は、江戸東京下町の中央を流れているにもかかわらず、世界の縁としての川なのである。そのため夏至の季節ともなれば、おびただしい数の死霊が集まってくると想像された。 (中略) 隅田川は世界のエッジとして、こうして多くの死霊を受け入れる、心優しい場所であった。」

 

花火が死者の霊を鎮めるための聖なる空間だとすれば、その花火を見物するために隅田川には多くの屋形船、屋根船、猪牙船などを繰り出し舟遊びに興じる、という俗な空間が同時に繰り広げられた。

歌川広重「両国花火」


 

さらに永代橋にも聖なる空間と俗なる空間が広がっていた。

永代橋の近く「富岡八幡宮」は深川の八幡様として庶民の信仰を集めた。 「江戸三大祭のひとつ深川八幡祭り(水掛祭りとも)が行われる。

祭りは、聖なるもの、俗なるもの、それぞれのエネルギーが高まり発散する場であった。浅草の三社祭も、江戸三大祭りである深川祭もそうした江戸っ子の「いき」を見せる場となった。(江戸三大祭りは、ほかに神田祭、山王祭をいう)

 

また、深川八幡の門前町を活躍の場としていたのが、辰巳芸者である。辰巳芸者は男装をまねて宴席で羽織を着て、「いき」と「侠気」を売り物にして人気を博した。深川の花街は非公認であるがゆえにゆるさもあって、新吉原よりもはるかに上回っていたという。 このように隅田川の橋を渡ったところで、「いき」で「いなせ」な江戸気質、江戸文化が形成された。

 

聖なる空間は、同時に俗なる遊興の場を周辺に発達させていく。そこに船で遊びに行ける深川の花街には深川八幡宮(富岡八幡宮)があり、屋形船などの舟遊びをする両国の花火には無縁仏の冥福を祈る回向院があり、橋を渡って桜の異界に遊ぶと観音様を祀る浅草寺がある。

 

江戸の人々は神社仏閣へお参りに行くついでに、遊びの空間に立ち寄ることができた。幕藩体制の下で日常を生きる人々にとって、自由に羽を伸ばすには、町内の地域社会から抜け出て、都市の周辺に発達してこうした遊興の地にやってくる必要があった。お参りがその口実を与えてくれたのである。その際に、川と橋が、聖・俗入り混じった空間に、また生と死を行き来し、再生する異界に人々を運ぶ重要な役割を果たしていたのである。

 

こうして<聖>と<俗>が都市空間の中で巧妙に混じり合う、「江戸・東京異空間」が生まれた。

 

参考図書:

『増補改訂 アースダイバー』 中沢新一 講談社 

『江戸の盛り場』 竹内誠 教育出版

『隅田川流域を考える』 江戸東京博物館

『東京』 陣内秀信 文春文庫

『東京の空間人類学』 陣内秀信 ちくま学芸文庫

 

3.隅田川絵巻~描かれた橋

江戸時代の隅田川に架かるは橋は、浮世絵にもよく描かれた。有名なのは歌川広重の『名所江戸百景』の中の「大はしあたけの夕立」である。これは新大橋の雨の風景を描いたもので、印象派の画家ゴッホがこれを模写して油絵で描いた。浮世絵が西洋絵画に大きな影響を与え、ジャポニスムが展開された代表的な絵としてよく知られている。

歌川広重「大はしあたけの夕立」・ゴッホの模写


 

昭和の時代に描かれた「隅田川絵巻」というのがある。描いたのは藤牧義夫(1911-1935年)という版画家である。

この画家、この絵巻を知ったのは、『美の巨人たち』というテレビ番組である(2020.2.29放送)。藤牧義夫はこの隅田川絵巻を描いた後、突然、姿を消し消息不明となったという。

藤牧は、葛飾北斎の『絵本 隅田川両岸一覧』に触発されて、憑りつかれたように『隅田川絵巻』を描いたという。葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』は、隅田川河口から上流へとさかのぼり、両国、吾妻橋、浅草寺などを経て新吉原に至るまでの情景を描いている。隅田川の西側を基点として東岸を無効に眺める構図で、四季折々の隅田川沿いの風景や風俗を描いたものである。

それに対し、藤牧の『隅田川絵巻』は3巻(4巻とも)、つなぎ合わせると長さは60メートルにも及ぶ大作である。やはり隅田川に架かる白髭橋、吾妻橋、清洲橋などとその周辺の景色を克明に描いていく、時には視点を変えて描きたいものを引き寄せて描いている。それを墨一色で白描画のように描く。しかし、その絵にはあるべきはずの影が全くない。

藤牧義夫「隅田川絵巻」

「隅田川絵巻」清洲橋


そんな不思議な絵を遺して、昭和10年9月2日、彼は突然姿を消したという、以来、消息不明。弱冠24歳であった。

藤牧義夫は、隅田川に何を見たのだろうか、隅田川を描くことによって何を言いたかったのだろうか?

牧義夫はこんな言葉を残してい

「白く光る川水は立派に時代に生きて流れていく。鉄橋が夕空に向かって言った。俺は俺で頑張る。君は素敵な大きな円体のようだが、君でも僕の存在を無視しやせんだろうねと。大空が鉄橋に応えて一言叫んだ。そうだとも」

関東大震災により大きな被害を受けた隅田川の橋も、ほとんどが復興事業により新しく架け替えられたこの時期、しかし一方で戦争への影が色濃くなってきている時代に、藤牧は隅田川の情景に俗なる空間には影をつけず、鉄橋を渡ることによって聖なる空間を見つけようと、この絵巻を描いたのではないだろうか。

藤牧義雄の言葉である。

「時代に生きよ時代を超へよ」

結局、彼は隅田川の橋を渡って「異界」に行ってしまったんだろう。

参考:

『新美の巨人たち~藤牧義夫「隅田川絵巻」』 テレビ東京2020.2.29放送

『君は隅田川に消えたのか』 駒村吉重 講談社


最後に、両国で思い出した自分の小さい頃の出来事を記すことを許していただきたい。

両国の花火を見たくて父に連れて行ってもらったことがあった。千葉に住んでいたので電車に乗って両国駅に着くと、もうホームまで人であふれていた。これでは近くまでは行けないと、一駅手前の錦糸町駅まで戻り、駅のホームで花火を見てそのまま帰ってきたことを覚えている。

両国の花火大会は昭和37年から52年まで中断されているから、行ったのは小学生の4年のころか?

また両国といえば相撲だが、当時夢中になっていたのは、鏡里や吉葉山、千代の山のころである。若乃花、栃錦が活躍するのはその後の時代である。まだ家にテレビもなくラジオを聴きながら新聞を切り抜いた取り組み表に、幕内の取り組みから、どっちが勝ったか負けたか〇×印をつけて行った。

鏡里や吉葉山が横綱で活躍していたのは1950年代後半であるから、自分はまだ幼稚園から小学校に上がったころのことである。

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