2021年12月26日日曜日

東京異空間50発祥の地~学士会館と如水会館

 

学士会館

ミニ忘年会ということで、学士会館でランチをしてきました。ここは東京大学の発祥の地でもあり、日本野球の発祥の地でもあります。また、白山通りをはさんで斜め向かい側にある如水館にも寄ってみました。ここは現・一橋大学と東京外国語大学の発祥の地でもあります。

それぞれの「発祥」を追ってみました。


1.学士会館

学士会館は、旧帝国大学系の同窓会である「学士会」の会館である。創立は、1886年(明治19年)に東京大学総理であった加藤弘之の退任を機に親睦会を発足させたのが始まりとされる。

旧帝大というと、東京大学をはじめとして、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋の7大学であるが、それに加え、かって日本統治下にあった京城(朝鮮)、台北(台湾)を含む9大学をいう。

現在の学士会館の建物は、関東大震災後、1928年(昭和3年)に建てられた。建築を推進したのは、耐震工学を開拓した佐野利器で、その弟子の高橋貞太郎が設計をした。戦後はGHQに接収されるなどをしたが、永年の利用に耐えうる耐震構造が施されていて、いまも現役として使用されている。

なお、高橋貞太郎は、日本橋高島屋、川奈ホテル、上高地ホテル、帝国ホテル新館などの設計を手掛けている。

いまは、学士会の会員のみならず、一般も利用ができるレストラン、ホテル、宴会場などを備えている。運営は、築地精養軒の重役であった森田純次が創業した学士会館精養軒が行っている。

学士会館、前は白山通り

外装はスクラッチ・タイル

正面入口、アーチは日の出石を使っている

アーチ・トップはオリーブをかたどったキーストーン

正面入口

入口横に大燈籠が2基

大燈籠は、戦時中金属供出され失われたが、復元された

レストラン側の窓

スクラッチ・タイルの外壁

スクラッチ・タイルの外壁の庇が美しい

古い時計

エレベーター・ホール

玄関ホール

赤い絨毯が敷かれた廊下

クラシックな階段

テラゾーという人造石張りの十二角形の柱

ステンドグラス

階段ホールの天井

運営している学士会館精養軒の創業者・森田純次の銅像

(1)大学の発祥の地

ここは、東京大学の発祥の地であるとともに、現・一橋、東京外語、学習院などの大学の発祥の地でもある。

現在の学士会館あたりは、徳川綱吉の時代に、護持院が開山されたが、吉宗の時に火災に遭い焼失し、復興が許されず護持院は音羽の護国寺に移され、跡地は火除地となり「護持院ケ原」と呼ばれていた。

明治初頭、護持院ケ原は、開成学校(東京大学のほか語学校(東京外国語大学華族方学習院(学習院)高等商業学校(一橋大学)が建てられたことから、それぞれ現在の大学の発祥の地なっている

①東京大学の発祥の地

東京大学は、明治10年(1877)に神田錦町3丁目にった東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の4学部編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられ1885年に本郷に移転するまで、ここに校舎があった。

現在は、それを記念する「東京大学発祥の地」というプレートが、学士会館の正面入り口の横に置かれている。

1886年(明治19)東京大学は、時の文部大臣森有礼により、「帝国大学」と改組する。「東京帝国大学」と改称したのは、京都に大学ができた(1897年明治30)ことに伴うもので、この時点では「帝国大学」であった。「帝国」を冠したのは、森にとって、わが国最初のかつ唯一の大学は、国家の大学、すなわち「大日本帝国」の大学でなければならかったからだとされる。学術のためでも、生徒のためでもなく、国家のためが優先する、とはっきりと宣言している。

この後、大学は、京都をはじめ旧(9)帝大として展開していき、各大学の学士号をえた卒業生が、先に述べた「学士会」に入会していった。

「東京大学発祥の地」の碑

②学習院開校の地

現・一橋大学、東京外語大学の発祥については後述するとして、学習院について概略すると、1847年に京都御所の東側に公家の教育機関として学習所が設けられ、1849年に孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜された。明治に入って、いわゆる「東京奠都」となり、1877年華族学校として、ここ神田錦町に開校し、明治天皇の勅諭により学習院の名を継承した。その後、火災や地震による被害を受け、1896年に北豊島郡高田村(現・目白)に移転した。

いまは、神田錦町郵便局の向かい側に「学習院(華族学校)開校の地」という碑が建てられている。

学習院開校の地の碑https://4travel.jp/より)

(2)日本野球の発祥の地

ここは、また日本野球の発祥の地でもあり、学士会館の前には、ボールを握った手のブロンズ像が置かれている。

1872(明治5)学制施行された当初、ここに東京開成学校の前身があり、第一大学区第一番中学と呼ばれてい同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン(1843~1927)が、アメリカから持参したボール3個、バット1本を使って生徒達に野球を教えた。翌1873年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。

ホーレス・ウィルソンは、お雇い外国人として来日し、英語などを教えた教師であるが、野球を伝えた功績を称え、2003年に野球殿堂入りしている。この手のブロンズ像は氏の殿堂入りを記念して建てられた。ボールには世界地図が描かれ、日米を縫い目によって結んで国際化を表現しているとのこと。除幕式には元巨人軍の監督・川上哲治が参列し、「もし、野球が日本に来なかったら私は熊本の田舎者にすぎなかった」とあいさつしたという。

野球のボールを握る手

握りは、カットボール?それともスライダー?

ボールには世界地図が刻まれている

「日本野球発祥の地」の碑


(3)新島襄の生誕の地

学士会館の角に「新島襄の生誕の地」という石碑が置かれている。新島襄は、京都を拠点に伝道活動に努めるとともに、明治8年(1875)年に現・同志社大学の前身である同志社英学校、翌年に同志社女学校を創立した。

新島襄の生誕の地が、同志社大学のはじまりだった、ともいえるだろう。

例年2月12日の生誕日には、学士会館で生誕祭りが行われているという

新島襄生誕の地の石碑

 

2.共立講堂

学士会館の向かい側に共立女子学園がある。共立女子大学は、1886年(明治19)に共立女子職業学校として創立された。当時としては、「良妻賢母」を目ざした教育でなく、職業教育を実践していくことを目ざした教育を行う「女子職業学校」という名称からして女子教育のパイオニアであった。創立にあたっては、鳩山和夫の妻・春子や永井荷風の父・久一郎など34名によって共同設立されたことから、校名に「共立」が付けられた。のちには、鳩山一郎の妻・薫も運営に携わっている。

横には共立講堂が建っている。共立講堂は、1938年昭和13年)に建てられ、構造設計は、東京タワーの設計者としても知られる内藤多仲による。こうした規模の公会堂は当時では日比谷公会堂と並ぶ大講堂であった。ちなみに日比谷公会堂は1929年に竣工しており、早稲田大学の建築家・佐藤功一の設計による。

戦後になると、こうした大講堂が少なかったこともあり、若者たちの音楽公演のメッカとなり、1970年代にはフォークシンガーの吉田拓郎、かぐや姫、アリスなどがコンサートを行った。ラジオやテレビでも「神田共立講堂」から、という名をよく聞いた覚えがある。

1956年(昭和31)には火災に遭い、内部は焼失した。再建にいち早く取り組んだのが当時の学園長・鳩山薫で、翌年には落成を迎えることができた。1976年(昭和51)には、一般への貸しホールとしての使用をやめた。日比谷公会堂も現在長期の休館中であり、一時代をつくった二つの講堂は幕を閉じたようだ。

共立講堂の正面

共立講堂

タイルと自然石を組み合わせた外壁

共立女子学園の正面

 

3.如水会館

共立講堂の横には一橋講堂があったが1995年ごろに解体され、いまは新たに建設された高層ビルの学術総合センターの中にある。

その隣が如水会館の建物である。一橋大学の同窓クラブ「如水会」の同窓会館として、1919年大正8)に建設されたが、今は建て替えられ当時の建物はない。

ここが一橋大学の発祥の地であり、また東京外国語大学の発祥の地でもある。

学術総合センター

学術総合センター入口

学術総合センター

 

(1)一橋大学の発祥の地

まずは一橋大学の沿革を概略する。

・1875年(明治8)に、森有礼が福澤諭吉と渋沢栄一の援助を得て開いた商法講習所をはじめとする。森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、米国代理公使としてワシントンに滞在した経験から、英米では実業家が政治家、官僚に劣らず活躍しており、国の基盤として経済を富強するためには経済人の育成が急務であることを痛感していた。一方で、旧士族を中心とした、法科重視の明治政府からは、一時は東大に商学経済学部をつくり吸収せよと、廃校の危機にもあった(申酉事件1908-9年;澁澤栄一が調停に乗り出し文部省側が折れた)。いまでも、産業界の指導者を育成するという建学の精神を掲げ、官僚等の養成を目的とする旧帝国大学とは違う、という考えを持っているというのは、この辺りにも淵源があるようだ。

・1884年に東京商業学校と改称し、翌1885年には東京外国語学校を併合し、現在の神田一ツ橋に移転した。

・1920年に大学令により東京商科大学となる。

・1923年の関東大震災により校舎が倒壊し、仮校舎として石神井(練馬)を経て、いまの国立・小平にキャンパスを移転した。郊外の学園都市として中央線の新駅を「国立」(国分寺と立川の中間)とし、伊東忠太の設計による兼松講堂をはじめとする校舎を建設した。

・1949年新制大学に移行するにあたり、名称を学生の投票により、かってあった場所に因んだ一橋大学とした。

 

(2)東京外国語大学の発祥の地

一橋大学の沿革にあるように1885年に東京商業学校と東京外国語学校は併合している。そのことから、ここは東京外国語大学の発祥の地でもある。

現・東京外国語大学の起源は、江戸時代1857年幕府が開いた「蕃書調所」とされる。ペリー来航により、軍事・外交の強化が喫緊の課題となり、そのため老中・阿部正弘は洋学研究・教育を行う機関として藩書調所を開校した。

その後、場所を九段から神田一ツ橋に移転し、洋書調所などと改称し、新政府により1869年(明治2)に「開成学校」として再開校された。

1873年開成学校語学課程と語学所を併合し「東京外国語学校」が設立され5語学(英・仏・独・清・露)の学科を置いた。このとき、一ツ橋に校舎が置かれた。

富国強兵・殖産興業が推進されるなか、「語学ハ商業ニ附属」する学問とみなされ、1885年東京商業学校へ統合され、翌年廃校となる。このとき外語の一ツ橋校舎は東京商業学校の校地となったことから、当時の外語学生は「庇を貸して母屋を取られる」と評したという。

日清戦争(1894年)を経て、「外國語ニ熟達スルノ士」の養成が急務となり1899年に、東京商業学校から独立し、東京外国語学校となった校舎は神田錦町3丁目に置かれた。

その後、校舎は火災、関東大震災、戦争に伴い、神田錦から麹町、西ヶ原、上石神井などを経て、2000年に今の府中のキャンパスに移転した。

いまは、如水会館の隣に「東京外国語学校発祥の地」というプレートが置かれている。

「東京外国語学校発祥の地」の碑「時空トラベラー」https://tatsuo-k.blogspot.com/より)

(3)如水会館

如水会館は、一橋大学の同窓による「如水会」の会館である。

高等商業学校に校友会が設立されたのは、1889年(明治22)に遡るが、「如水会」と名付けられたのは1914年(大正3)である。如水会の名称は、澁澤栄一礼記にある「君子交淡如水」より命名した。

如水会館が建てられたのは1919年(大正8)である(設計は曽彌達蔵、中条精一郎が、1923年(大正12)の関東大震災にあって灰燼と化した。その後、1926年(大正15)に再建(修復設計は佐藤功一)される。戦後は、学士会館同様、やはりGHQに接収され、建物は改修を行ってきたが、1979年(昭和54)に老朽化のため閉館した。1982年(昭和57)に如水会ビルディングとして新たな建物となった。

学士会館と同様、館内にはレストラン、宴会場などがあり、こちらは東京會舘が運営している。

如水会館

如水会館・正面入口


如水会館入口にマーキュリーの校章

マーキュリー」は、ローマ神話の商業・学術の神メルクリウスMercurius (英語名Mercury)の杖を図案化したもの。2匹の蛇は英知をあらわし、翼は世界に天翔け五大州に雄飛することを意味する。Commercial College の頭文字C・Cが添えられているのは、一般の商業学校とは区別される「高等」商業学校の特別な地位を示している



正面入口のアーチ

フロント・ロビー

澁澤栄一の銅像


マーキュリーがデザインされた彫刻

古い時計

赤い絨毯の階段

ロビーのシャンデリア

入口マットにもマーキュリーのデザイン

 

4.一ツ橋

如水会館を出たところにある橋が一ツ橋である。この辺りの地名でもあり、一橋大学の名前にも冠せられた。現在の橋は、1925年(大正14)に架けられた。

一ツ橋は日本橋川に架かる橋だが、その由来は家康が入国したころには大きな丸木が一本架けられていたことから、という説や、川の合流地点であったことから合流を表す「一つ」が橋の名称についたという説があるようだ。

また、一ツ橋といえば、江戸時代の三卿の一つ、一橋家である(地名は一ツ橋、家名は一橋となる)。この橋の前に江戸城の外郭門が築かれ、「一橋門」と名付けられた。八代将軍・吉宗が子の宗尹に一橋門内(現在の丸紅本社の一画)に屋敷を与えたのが一橋家のはじまりである。

その、一橋家の九代当主が慶喜であり最後の徳川将軍となった。慶喜が大政奉還をして、明治がはじまり新たな国づくりがスタートした。

ここ一ツ橋から神田錦町の地は、先にふれたように、「護持院ケ原」という火除地であったが、この一帯が明治に入り、文教地区の観を呈し、各大学が校史に発祥の地とする地域となった。

この地で、法科、商学、語学、実学、(そして野球)を学んだ多くの学生が明治日本の近代化を推進した原動力となった。

一ツ橋


日本橋川に架かる一ツ橋


高速道路に覆われている

向こう側に、如水会館、学士会館がある

大正十四年の竣工


今回、学士会館(神田錦)如水会館(一ツ橋)を訪れ、「発祥の地」ということから大学の沿革などを通して、近代日本の歴史の一面をみることができました。

 

一ツ橋の近くにあった一橋家の九代当主・慶喜が、最後の徳川将軍となり、大政奉還を行い「天皇の世紀」となりました。天皇が京都から東京に移ったことに伴い、学習院も京都御所から東京・神田錦に移転してきました。

江戸から明治にかけて、この辺りは、護持院ケ原と呼ばれる火除地でありましたが、開成所などが開設され文教地区の様相を呈しました。

明治期に入り、これまでの封建的身分制から、学問を通じて個人の自由・独立・平等という価値観が広がりました。それは福澤諭吉が説いた『学問のすめ』の世界であり、また澁澤栄一が、実業界のみならず広く活躍する根源でもあった、世襲的な身分制に対する強い反発心でした。そうした近代の価値観は、この高等教育の場から広がったともいえるでしょう。

開成学校にはじまる東京大学は、法科を重視し官僚を育て、対して、商業学校(一橋大学)は商業・経済を重視し、経済人を育てていきました。そこには、申酉事件にみられるような確執があり、いまでも建学の精神として引き継がれているようです。

いま、白山通りを挟んで、学士会館と如水会館が相対していることも、それを象徴しているかのように思えます。

その東京商業学校は、東京外国語学校を併合し、その後独立させています。如水会館の横に小さく、しかし立派な「東京外国語学校発祥の地」という碑がひっそりと建っていることも象徴的に思えました。

これらの学校も、関東大震災、戦争などを経て、郊外へキャンパスを移転して、それぞれ学園都市を形成しています。

また、日本野球の発祥の地にみるように、学生たちは学問だけでなくスポーツを学び、そして共立講堂にみるように音楽、フォークといった新たな文化を創り出しました。

 

学士会館と如水会館のあるこのエリアを訪れ、そうした歴史的異空間にふれた思いがします。

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