2021年12月3日金曜日

東京異空間40~東伏見稲荷神社とその周辺を歩く

東伏見稲荷神社・神門前の白狐

西武新宿線・東伏見駅前にある朱の鳥居をくぐって歩いていくと、さらに大きな鳥居があり、左に曲がっていくと東伏見稲荷神社の前に出ます。家から一番近い大きな神社で、初詣にもこの神社にお参りします。

この東伏見稲荷神社には、裏手に「お塚」といわれる18の祠が祀られ、たくさんの朱の鳥居と白い狐が置かれています。また、その北側には旧中島飛行機武蔵製作所の殉職者の慰霊碑が建てられています。

東伏見稲荷神社にあるお塚や慰霊碑とその周辺を歩き、それぞれの由緒、歴史などを調べてみました。

 

1.稲荷信仰~東伏見稲荷神社と伏見稲荷大社 

東伏見稲荷神社は、1929年(昭和4年)京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された。当時、西武鉄道は、この沿線の開発として、つぎの3つの誘致を行った。①土地周辺の土地2500坪を提供し、早稲田大学の総合運動場を誘致した。②駅周辺に分譲地として「長寿園」という文化住宅を開発し、学者、文化人などを誘致した。③京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請し、「東伏見稲荷神社」を誘致した。その際、土地約7000坪を提供し、移転にかかる費用の3万円を負担、さらに御祭神を遷す際には貴賓車を仕立てた特別列車を運行したという。

東伏見という社号は、京都伏見から東に遷したという意であり、御祭神が到着した後に、駅名もそれまでの「上保谷」から「東伏見」へ変更し、あわせて町名も同じく「上保谷」から「東伏見」となった。

京都の伏見稲荷大社は、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社であり、古代において、渡来人である秦氏の氏神的信仰をもとに、秦氏の勢力圏が広がるにつれ伏見稲荷の信仰圏も拡大していったとされる。

稲荷神は農業神であり、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下がるにつれ、農業だけでなく、商業、その他の産業へと広まり、商売繁盛、家内安全、交通安全、芸能上達の守護神としても信仰されるようになっていった。

また、稲荷神は密教の荼枳尼天ダキニテン)と習合し、神仏習合して広まっていった。そのため、今でも三大稲荷の一つである豊川稲荷は曹洞宗の寺院であり、他にも成田山新勝寺(真言宗)には出世稲荷があるなど習合の形が残っている。

 

まずは、京都伏見稲荷大社から分霊された東伏見稲荷神社に参拝する。神社へは、西武新宿線・東伏見駅前の鳥居から線路沿いの鳥居を左折して参道を通り、正面の大鳥居に至る。階段を上ると、狛犬ではなく白狐が構える。口には玉をくわえ、一方の白狐は口に鍵をくわえている。玉は神徳を、鍵は米蔵の鍵、即ち神徳を開くとされる。

さらに朱の神門をくぐる。門扉には五穀豊穣を祈る御神紋「抱き稲の紋」が金色に輝く。この紋は、五円玉硬貨のデザインとよく似ている。まさに「ご縁」がありますように。

神門の前には、早くも年越しの大祓の茅の輪が据えられており、茅の輪をくぐり本殿で参拝した。

東伏見駅前の鳥居

西武線沿いの鳥居

鳥居から続く参道

社殿前の大鳥居

二基の白狐

鍵をくわえる白狐

玉をくわえる白狐

神門

神門の扉・五円硬貨のデザインとよく似ている

神門から本殿へ

神社の境内

茅の輪から神門

茅の輪をくぐって本殿へ

本殿の扁額

本殿に参拝する人

本殿の裏側

末社・この脇からお塚巡りへ

2.お塚信仰~朱の鳥居と白い狐

本殿で参拝した後、本殿裏側にある「お塚」をめぐる。「お塚」というのは、稲荷神社内にある個人的な、小さなお社、祠、石碑をいい、神社本社の摂社、末社とは別のものであり、「お塚信仰」ともいわれる。

「お塚信仰」は京都の伏見稲荷大社から始まる。伏見稲荷大社といえば、最もよく知られているのが千本鳥居である。朱塗りの鳥居がびっしりとトンネルのように連なり、不思議な空間をつくっている。その数は万を超えるという。これらは本殿ではなく後の霊峰、稲荷山の山中にある。そこには、また「お塚」という小さな祠が鳥居と同じように、万を超えるほどあるという。

お塚の始まりは明治の神仏分離令にあるという。神仏分離によって、それまで個々人が神徳に因んだ「〇〇大明神」といった神名を、すべて「稲荷大明神」と改めるようになり、その他の神名はすべて排除されることになった。そこで、永年持っていた信仰を続ける者が、人目を避けた山中に、いわば個人的な「お稲荷さん」として祀ったのが「お塚」であった。そして、祈願した人は、願いが「通る」ようにと朱の鳥居を奉納したことから、千本鳥居も築かれていったという。

古いお塚には明治期のものもあるそうだが、昭和37年に御祭神、稲荷大神の分霊の依代にかぎり、「お塚」の建立を許可するという方針が伏見稲荷大社によって出されたことから、昭和40年代にかけ、より多くのお塚と鳥居が建立されたようだ。

 

東伏見稲荷神社の「お塚」は、伏見稲荷大社の稲荷山を模した、いわばミニ版となっており、18のお塚とともに多くの鳥居が奉納されている。

それぞれのお塚をめぐるには、迷路のようになっている多くの朱の鳥居をくぐって参る。いくつかのお塚をみてみると、伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂神=穀物の神、宇迦之勧善懲悪を司る神<田中大社>、商売繁盛の守護神<末広社>、縁結び・長寿の守護神<金鷹社>、勧善懲悪を司る神<白狐社>、長寿、愛敬、和合の神<末広社>などなど、多様な神が祀られている。

稲荷神とは異なるような神様も祀られている。開照大神というのは、「岩戸隠れ」の神話に登場する天鈿女命(あめのうずめのみこと)という芸能の女神。その近くには、浪花亭綾太郎稲荷社があり、盲目の浪曲師・浪花亭綾太郎(1889-1960年)が信仰したお稲荷様が奉納され、やはり芸能向上の神とされている。ちなみに浪花亭は「壺阪霊験記」の「妻は夫を労わりつつ、夫は妻を慕いつつ・・・」という名調子で大当たりした浪曲師である。

「八幡大神」という大きな石碑も建っている。石碑の前は白狐ではなく、こちらは狛犬である。稲荷神社に八幡信仰まで祀っているという、まさに「お塚」は八百万の神を祀っているといってもよいであろう。

参拝者の中には、「お塚」に膝まづいて、「般若心経」や「稲荷心経」などを唱える人もいるという。神仏習合した庶民の信仰が息づいているともいえる。

お塚に奉納された白狐と鳥居

朱の鳥居と石碑が奉納された祠


白狐は神様の使い

朱の鳥居、幡、祠(お塚)


宇迦之御魂神(うかのみたま)大社



白狐社



八幡大神

八幡大神前の狛犬

八幡大神前の狛犬

開照大神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)

浪花亭綾太郎の奉建


講による奉納

それぞれのお塚の祠には、やはりたくさんの「白狐」が置かれている。稲荷信仰といえば「白狐」であるが、どうして稲荷神と狐と結びついたのだろうか?その結びつきについては諸説あるようだが、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の尻尾が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使い<眷属>になった、という説明が分かりやすい(というか、もっともらしい)だろう。さらに、狐の色と同じ色の油揚げを供え、油揚げにお米をつめたものが「おいなりさん」になり、お狐さんの好物となったとも。しかし、実際のキツネが油揚げを食べることはない。

神様の眷属としては、稲荷神社は<狐>だが、八幡神社は<鳩>、天神神社(牛)、春日神社<鹿>、弁才天<蛇>など、いずれも身近な動物が霊獣となっている。それぞれの信仰が庶民に広まり、こうした身近な動物と神様が結びついていったのであろう。





 

また、お塚には白狐とともに朱の鳥居がたくさん建てられている。どうして朱の鳥居がたくさんあるのだろうか?信仰する人々が、願いが通る(叶う)ように、あるいは通った(叶った)というお礼に、つぎつぎと鳥居を奉納し、いまのような千本鳥居までも築かれていったという。

また、朱色は、魔力に対抗する色とされ、古代から宮殿、寺社に多く用いられていたこと、朱の原料は水銀=丹で、昔から木材の防腐剤として使われてきていたこと、そうしたことから、朱の鳥居が赤く塗られるようになったという。あるいは、陰陽道の五行である火<赤>⇒朱の鳥居と土<黄>⇒狐であるという説もある。

稲荷神社においては、鳥居だけでなく神門、本殿に至るまで建物はすべて朱塗りであり、これを「稲荷塗」というそうだ。 





朱の鳥居の迷路

お塚に奉納されたミニ鳥居

お塚に奉納されたミニ鳥居

「御礼」と書かれた朱の鳥居が奉納されている

朱の鳥居が輝く

多く奉納された朱の鳥居と幡

3.慰霊碑と顕彰碑

お塚の北側の一角に慰霊碑が建てられている。

ここ東伏見から南の現在の武蔵野市の市役所、陸上競技場、NTT武蔵野研究所などのエリアにかけて、中島飛行機の軍需工場があった。面積は56万㎡、東京ドーム約12個分の広さがあった。この「中島飛行機武蔵製作所」には従業員に加え、日本全国から徴用工員学徒ら総数5万人が動員され、零戦や隼のエンジンを製造する国内第一の航空発動機工場となっていた。そのため、米軍のB29による日本本土空襲が始まると、その最初の目標とされた。

空襲は、1944年(昭和19年)1124日にB29が約70機現れ、武蔵製作所をめがけて250キロ爆弾を投下したことに始まり敗戦までに合計9回に及び、その間に従業員ら200名以上が死亡し、500名以上が負傷したといわれている。

この空襲により、亡くなった人は中島飛行機の従業員ばかりでなく、当然周辺に暮らしていた住民にもおよび、約500人が犠牲なったという。しかも、その多くが幼い子供たちであったという。

 

東伏見稲荷神社の境内に中島飛行機の修練道場があったことから、ここに亡くなった人たちの慰霊碑が建てられた。慰霊碑の碑文の一部を書き写しておく。

毎年十一月二十四日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った (中略) 茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである

いまも、11月24日には東伏見稲荷神社で慰霊祭が行われている。

殉職者の慰霊碑

殉職者の名が刻まれている

11月24日には慰霊祭が行われる

慰霊碑の向かいに、もうひとつ片野永正翁顕彰碑という石碑が立っている。この方は、中島飛行機の幹部であった人で、戦後会社の整理業務の陣頭指揮を執るとともに、いち早く殉職者の慰霊奉祀を発願し、慰霊碑建立に尽力されたという。その碑文の一部を書き写しておく。

「(翁は)その生涯を閉じる迄、初代の代表理事として例大祭を主宰し、実にその半生を殉職諸霊の奉祀に捧げてきたのである。そして翁の遺志は爾後連綿として継承されるであろう。茲に浄財を以って入れ日のある境内に小碑を建て、翁の無量の徳心を永久に称えるものである。 昭和五十一年十一月六日建之 」

片野永正翁顕彰碑

顕彰碑の裏面
 

こうした慰霊碑、顕彰碑のほかに、いまは、中島飛行機工場がこの地域にあり、空襲により壊滅されたことなどの傷跡を見ることはほとんどできない。このあたりは、武蔵野市の中央公園や陸上競技場、そしてNTT武蔵野研究センターなどになっており、戦争時の姿を窺わせるものは全くない。

しかし、次のような出来事があると、この地域にも戦争があったことが、急に呼び戻されることになる。

例えば、戦後30年たった1975年には、東伏見駅の隣駅である柳沢駅付近に、終戦直前に投下された爆弾が、長崎に落とされた原子爆弾と同型ということで、「原爆模擬爆弾」投下作戦として投下されたものであったということが判明したという記事があった。あるいは、戦後60年たった2005年には、東伏見坂上付近で1トン爆弾といわれる不発弾が発見され、処理のため付近の交通が規制され、住民も一時避難したというニュースがあった。(つい最近も、杉並区で不発弾が見つかったというニュースがあった)。

 

4.ガスタンクとNTT研究所

東伏見稲荷神社を出て、石神井川沿いを歩くと、遠くに球形のガスタンクが2基見える。現在は東京ガス防災供給センター保谷基地というようだが、これも戦前は中島飛行機のガスタンクであった。ただ、形は今と違って円筒形の水槽式ガスタンクであったという。

石神井川からガスタンク

近くを流れる石神井川

2基のガスタンク・右に小さく見えるのは大鳥居

また、現在のNTT武蔵野研究開発センターの地には、やはり中島飛行機のプロペラ試運転場などがあったという。 現・研究開発センターは、戦後、GHQの意向を踏まえ、アメリカのベル研究所をモデルとして、1950年に電気通信研究所として建設され、電電公社発足(1952年)とともに引き継がれた(1952年)。この研究所建設時に行われた調査では数キロにわたる地下通路が張り巡らされていた跡などが確認されたという。この地下通路は、防空のためではなく、従業員を効率的に移動させるためと、廃棄物を効率的に回収するためにつくられたという。

2001年まで、この研究開発センターに中島飛行機時代の地下道や建物跡が残っており、老朽化により撤去された。

なお、中島飛行機の工場は空襲で壊滅し、戦後、GHQにより組織も解体され、後身として富士重工業(現・SUBARU)がついでいる。

NTT武蔵野研究開発センターの北門

NTT武蔵野研究開発センター

中島飛行機工場周辺:1947年(昭22)07月09日‐米軍撮影を編集senseki-kikou.netより)

少し戻って、青梅街道沿いにある郵便局の近くにNTT保谷社宅があった。今は取り壊されて空地になっている。ここは、中島飛行機の創始者中島知久平の腹心の部下で、武蔵製作所の初代所長であった佐久間一郎の邸宅跡である。ここに1450坪の土地に100坪の2階建ての家を建てた。彼は、中島飛行機の創業時のメンバーの一人であり、エンジンについては天才肌といわれるほどの技師であった。戦後は、出身地の横須賀で「関東電気自動車」という会社を立ち上げ、中島飛行機の技術者を集めた。(敗戦後はガソリンの入手が見込めないことから電気自動車を当面の方策として考えた)。その後、会社はトヨタの下請け工場になり、クラウンやトヨペットを作ったという。トヨタやホンダにも中島飛行機の技術者がいたということだ。
(参考:『佐久間一郎伝』加藤勇 刊行会 昭和52年)
NTT保谷社宅のあった空地(佐久間一郎邸跡)

NTT保谷社宅の空地


5.夜泣き地蔵と詩人の家

東伏見稲荷神社の前の通りを伏見通りというが、その通りの横にビルに隠れるように小さな祠があり、そこにお地蔵様が3体祀られている。夜泣き地蔵というようだ。おそらく、幼児の夜泣きに悩む母親が、このお地蔵様に祈願したのであろう。

地蔵信仰は、稲荷信仰と同様、庶民に広く信仰された。とりわけ地蔵菩薩は子供や弱い立場の人々の苦悩を、時には身代わりとなって救済してくれる菩薩として広く信仰された。

よく知られている地蔵和讃に、「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」と、賽の河原に集まった子供たちを鬼から救ってくれるお地蔵さまが語られている。

先の戦争で犠牲となった多くの子供たちも、お地蔵様に救っていただいたのだろうか。

夜泣き地蔵

夜泣き地蔵


夜泣き地蔵

夜泣き地蔵から青梅街道にでると、もうひとつ地蔵菩薩立像がある。道路から少し入ったアパートの前に、ひっそりと立っているお地蔵様、やはり空襲により二つに割れてしまったそうだ。それを中島飛行機が接合したと伝えられている。
地蔵菩薩立像

お顔も相当損傷している

石には日にちや文字が刻まれているが判別は難しい

白っぽい部分が接合したところ


石神井川に架かる弥生橋から一つ路地を入ったところに、詩人・茨木のり子(1926-2006年)の家がある。のり子33歳の時(1958年)、ここ東伏見に家を建て住んだ。1975年、夫を亡くした後も、ひとりで住み続け、2006年、この自宅で死去する。享年79歳。

茨木のり子の詩は、多くの国語教科書にも掲載されている。戦前は自ら軍国少女であったという、のり子がはたちの時に、敗戦を向かえた。そのときの心情を詠った詩、「わたしが一番きれいだったとき」の一節を引用しておく。

 

わたしが一番きれいだったとき

 わたしの国は戦争で負けた

  そんな馬鹿なことってあるものか

   ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた。

 

実際、写真を見てもきれいな人だ。家は、いまでもモダンな姿を残している。庭には夏みかんが黄色く実っていた。茨木のり子は「凛としてあり続けた」人といわれる。ここにも、戦争を挟み、戦後を強く生きてきた人の姿を窺うことができる。

いまは、この家を残し、いずれは記念館にしようとする有志の活動が続けられている。

茨木のり子の家・右側に夏みかんの木

家の表札

茨木のり子(昭和21年撮影) Wikipediaより

東伏見稲荷神社とその周辺を歩き、朱の鳥居をくぐって「お塚」をめぐり、人々の信仰の一端に触れました。また慰霊碑などが建つ一角では戦争の傷跡を見るとともに、ガスタンクやNTT研究開発センターでは、、かっての中島飛行機の工場跡地を想像してみました。ひっそりと今も残るお地蔵さまには、悲しみをみるようでした。詩人・茨木のり子の家には、凛として戦後を生きた女性の姿を見るようでした。

それぞれの異空間に、戦争を挟んで、生きてきた人々の信仰、心情、思い、といったものを垣間見ることができました。

最後に、茨木のり子の73歳の時の詩を書き写しておきます。(今の自分とほぼ同じような年齢です)

「倚(よ)りかからず」

もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくない

ながく生きて

心底学んだのはそれくらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合なことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

 


 










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