2022年3月9日水曜日

東京異空間57 石仏巡りⅤ~長命寺1・東高野山の境内

長命寺

石仏巡りの五回目は長命寺に行きました。ここは境内に石仏をはじめ数多くの石造物があります。

場所は、西武池袋線の石神井公園駅、または練馬高野台駅から近くにあります。まずは、石神井公園駅前に建つ「石神井火車站之碑」を見てから、長命寺に向かいました。

1.石神井火車站之碑

西武池袋線は、武蔵野線として池袋と飯能を結び、東京の西近郊から、主に農作物などを運ぶための鉄道として大正4年(1915)に開通した。そのとき、石神井駅が開設され、それを記念した「石神井火車站之碑」が駅の前に設置されている。石碑には、郷人は挙って賛同し土地五千坪余りも寄付し、「火車站を設けて以もって交通殖産の利便に資す」と、石神井駅ができる喜びを記している。

この碑文の中に、長命寺についても、静まりかえった境内に、参拝客があちこちから集まってくる、東京からも近くなり、春秋の良い日よりには人々が引きも切らないようになるだろう、と紹介されている。

石神井駅は、昭和8年(1933)に石神井公園に駅名が変更されている。また、平成6年に新たにできた「練馬高野台」駅は、計画段階での仮称は東石神井」であったが、近くにある長命寺の山号が東高野山であるところから地名は高野台であり、新駅名は「練馬高野台」となった。頭に「練馬」を冠したのは、国分寺線に「鷹の台」駅があり、同音となるためとされる。なお、お寺は「こうや」だが、地名、駅名は「たかの」と読む。

石神井公園駅前の「石神井火車站之碑」

2.長命寺境内

長命寺は、慶長18年(1613)に、北条早雲の血を引き、後北条氏に仕えた増島重明(出家し慶算)が開基となって創設した。山号は東高野山、真言宗豊山派で、本山は奈良・長谷寺。 本尊は長谷寺の十一面観音を模して造ったという。また、奥の院は、紀伊の高野山を模して造られたということから、「東高野山」あるいは「新高野山」とも呼ばれる。当初は、増島家の氏寺であったが、御朱印地となり、隆盛した。

しかし、本堂はじめ堂宇は、江戸から明治にかけて再三の火災に遭い再建されたものがほとんどである。

(1)南大門

通りに面して大きな南大門があり、四方をそれぞれ持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)が守護する。 昭和56年(1981)に建設された。

南大門

広目天・巻物と筆を持つ

増長天・戟(げき)を持つ

持国天・刀を持つ

多聞天・左手には宝塔を持つ

(2)仁王門

南大門の横に、阿・吽の仁王像を安置する仁王門がある。建立年代は不明だが、寛文期(1661-73)とされ、17世紀後半の建築様式を残している。屋根はかっては茅葺であったという。区の文化財になっている。

仁王門

阿像

吽像

(3)鐘楼

練馬区では最古の梵鐘で、慶安3年(1650)に造られた。鐘身が細く形状は江戸初期の特色を有しているとされ、区の文化財になっている。

鐘楼

鐘楼

梵鐘

(4)本堂

本堂前の菩提樹の木の下に、阿弥陀如来像が立っている。明暦の大火で亡くなった人の供養のため、両国の回向院から移設された。寛文12年(1672)の造立。

本堂の横には、明和5年ごろ(1768-1773)に建てられたという長命寺碑があり、ここに 長命寺の由来がびっしりと刻まれている。

また本堂近くに石灯籠が対になって建っているが、そこには「文昭院殿尊前」と刻まれている。文昭院は徳川6代将軍家宣であり、正徳2年(1712)の造立の石灯籠を増上寺から移築したものである。この時期、長命寺は徳川家の菩提寺である増上寺を通して寺格を上げたのだろうか。

長命寺は、再三火災に遭っていて、明治30年の火災でも多くを焼失したが、本堂は明治37年(1904)再建され、その後、昭和45年、54年と大改築を行って現在に至っている。

本堂

本堂前の阿弥陀如来像

香炉

長命寺碑

長命寺碑・びっしりと由来を刻む

本堂横の石灯籠

「文昭院殿尊前」と刻まれている

増上寺の名も刻まれている

枝垂れ梅


(5)観音堂

本堂の左手に八角形の観音堂があり、十一面観音が安置されている。寛永17年(1640)に本山長谷寺の十一面観音像を模して造り安置したという。慶安元年(1648)には、観音供養料として幕府より御朱印を賜り、ますます隆盛した。

しかし、この観音堂も何度か火災に遭い、現在の観音堂は4代目で、当時の雰囲気とはだいぶ変わったという。

また、琵琶湖のほとりには同名の長命寺があり、西国三十三所の三十一番札所となっているが、こちらの長命寺は武蔵野三十三観音霊場の一番札所となっていて、参詣者が多いという。

観音堂

観音堂

(6)奥の院

奥の院は、高野山で修行した開基・慶算の思いを継ぎ、子の重俊が紀伊の高野山に模して建設した。慶安5年(1652)に将軍家光の一周忌にあたり、境内五輪塔「大猷院殿台霊供養塔」を配置したことに始まり、その後、大師を祀る小堂、御廟橋を架け、三鈷の松などを植え、高野山を模した霊場を整備した。いまでも、大師堂を中心として、七観音、六地蔵、十三仏、十王、石灯籠など多くの石造物が、その時代と変わらず配置されている。

また、宝暦5年(1755)ごろに開創したとされる、江戸府内の弘法大師ゆかりの寺院で構成された御府内八十八箇所霊場の17番札所として、多くの信者が参拝したという。

大師堂(御影堂)の正面扉には仏教説話(?)を描いた欄間彫刻が施されている。

御影堂(大師堂)

御影堂・扉の彫刻

大師堂(御影堂)前の石灯籠

大師堂(御影堂)前に石灯籠・石仏が並ぶ


名称碑「東かうや山おくのいん入口」の銘

名称碑「東かうや山おくのいん入口」の銘

道標「右東高野山」の銘

五輪塔「大猷院殿台霊供養塔」

(7)御廟橋(みみょうのはし)

本家・高野山では、大師は今も生きているとされ、「生身供(しょうじんぐ)が運ばれる。御廟橋は、聖地とされる弘法大師御廟に最も近い橋ということからこの先からはテレビ番組などでも全て撮影禁止となっている。

長命寺の奥の院に架かる橋の長さは3メートル半程度であるが、そこから先には数多くの石仏、石灯籠などが並び、ミニ・高野山の雰囲気がある。

橋の手前に、嘉永7年(1854)に建てられた名称碑には「御廟橋 左ん拝以の人が王多れハ 里やくあり(参拝の人が渡れば利益あり)」と刻まれ、古来、この橋を渡ると仏の浄土に往き、罪煩悩が取り除かれると信じられている。

御廟橋

御廟橋・手前に名称碑

(8)姿見の井戸

また、本家・高野山にもあるが、こちらにも「姿見の井戸」がある。この井戸の中を覗き込んで自分の顔が移らなければ3年以内に死んでしまうという、恐ろしい言い伝えが、ここにも同様にあるそうだ。

また、長命寺は江戸府内の十七番であり、四国八十八か所の十七番札所・井戸寺と同じ十七番ということもあり関係が深い。四国の井戸寺は、弘法大師が水不足に困っているこの地に錫杖で一夜にして井戸を掘ったという言い伝えがあり、「面影の井戸」と呼ばれている。

姿見の井戸

姿見の井戸

2.江戸町火消

長命寺の境内には、多くの石造物があるが、その中でも江戸町火消が奉納した水盤や地蔵堂などがある。

江戸町火消は大岡越前守忠相によって享保のころ創設組織化された。江戸町火消と長命寺との関係は古く、府内八十八か所大師霊場参りの始まった宝暦年間のころからとされる。危険な火事場に携わる町火消にとっては、何よりも神仏のご加護が心の支えであった。

(1)手水石鉢 

文久2年(1862)に奉納された水盤である。表には大きく「八番組」の名が刻まれ、裏には小組(ほ わ 加 た組)と刻まれている。

火事と喧嘩は「江戸の華」といわれるほど、火消しの活躍と侠気からくる喧嘩早さは、よく知られているが、組としての結束も強く、安全を祈願し、こうした石造物を奉納した。

なお、江戸町火消は、明治3年(1870)には廃止・解体され、東京市部消防組が編成され、その活動は現在の消防団へと繋がっている。

手水石鉢

手水石鉢・裏側

(2)木遣地蔵堂 

「木遣」は、もともと重い木を遣り渡す(運ぶ)という労働歌であったが、鳶職人で構成された町火消仲間でも歌われ、のどの良い名人も現れ、次第に祝い唄としての性格を持つようになった。

その一人が野田重五郎という名人であった。野田重五郎が講元となり、木遣りの会が「キヤリ地蔵講」と称して、木遣地蔵尊が安置されている六角堂、並びに石碑を奉納した。堂前には記念碑「野田重五郎像」があり、線刻で描かれている。大正10年(1921)造立。

木遣地蔵堂は、再建されたものだが、その由来書には、 「東高野山長命寺は江戸時代より聞こえし霊場なり、消防関係者の信仰極めて篤し、その篤信」により、明治33年に創建したとある。

木遣地蔵堂

木遣地蔵堂・扁額

木遣地蔵講の名札

「野田重五郎像」・線刻の肖像画

(3)木遣塚

本堂への参道の左手には、木遣塚碑と顕彰碑が置かれた木遣塚がある。顕彰碑は、木遣師津田金蔵氏の「徳を讃え鏡となし」として昭和28年(1953)に造立された。 塚の一角には地蔵菩薩像も立っている。

長命寺では、いまでも4月21日の御開帳には木遣歌などの供養が営まれているという。

木遣塚・一角に地蔵菩薩像

木遣塚

長命寺は、この地域では大きなお寺であり、明治になって、谷田(こくでん)学校が境内の一角に建てられたということです。この近くでは豊島学校(禅定院)、練馬学校(愛染院)など、寺院が信仰の場だけでなく、近代教育の場でもあったということです。

 

今回は、堂宇を中心として長命寺の由来などを取り上げてみましたが、次回は、引き続き長命寺にある数多くの石造物のうち、十三仏や十王といった石仏を中心に取り上げたいと思います。

参考:

『練馬高野台 長命寺考』 増島忠之助 人間舎 平成10年

『長命寺考余聞』増島忠之助 人間舎 2006年

『練馬の石造物 寺院編 その二』練馬区教育委員会 平成6年

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