2022年7月11日月曜日

東京異空間68:日本武道館~山田守

 

日本武道館

日本武道館といえば、多くの人がご存じではないでしょうか。しかし、その建築を設計した人は?というと、ご存じの人はぐっと減ってしまうでしょう。

今回は、皇居北の丸公園内にある日本武道館とそれを設計した山田守を取り上げてみました。そこには、様々な思いが込められた東京異空間がありました。


1.日本武道館

地下鉄九段下で降りて北の丸公園に向かい、田安門をくぐると日本武道館の屋根・擬宝珠が少し見えてくる。

八角形の屋根に擬宝珠をいただく姿は、法隆寺の夢殿をイメージし、屋根の曲線は富士山の稜線のような流れをイメージさせる。1964年の東京オリンピックの柔道競技場として建設された。収容人数は14000余りという大きな会場であることから、競技場としてだけでなく、大規模なイベント会場として利用されている。

なお、2020東京オリンピックでも柔道競技の会場となったことから、改修と、中道場棟が新設された。

(1)柔道競技場

1964年の東京オリンピックでは、国技とされる柔道が初めて正式種目となり、その会場がこの北の丸公園内に造られることになった。

その柔道競技の無差別級では、オランダのヘーシンクが神永を破り、金メダルを獲得した。武道は体重無差別ということから、最も重視されていた無差別級で外国人が日本代表を下したというのは柔道界のみならず、大きな衝撃を与えた。

しかしながら、のちに優勝したヘーシンクは、この大会で日本が優勝していたら、柔道が、その後もオリンピックの正式競技となることはなかっただろうと述べているという。

言ってみれば、このオリンピックで、日本のお家芸と言われた柔道が外国人選手に敗れたことが、その後の柔道が、国際的なスポーツとして広く行われようになったということだろう。

(2)コンサート会場

「日本武道の聖地」としての武道館は、1966年にビートルズのコンサートが行われることになってから「音楽の聖地」となったといわれる。

ビートルズという世界的な人気のポップミュージックのコンサートが武道館で開催されるということに対し、当時の館長でもあった正力松太郎をはじめとして、日本の武道文化を冒涜するものだといった批判的意見が多く出たが、コンサートが正力の読売新聞主催で行われることにより、正力自ら口を閉ざしたという。

しかしながら、武道館には、右翼団体が押し掛けるなどの騒動となり、大規模な警備体制が敷かれるなか公演が行われた。

結局、ビートルズの日本での5回の公演がこの武道館で行われたことから、以後、武道館で公演することが、大規模な興行が行える一流のミュージシャンというステイタスとなっていった。

多くの超人気スターが武道館でのコンサートを行っているが、たとえば、1980年には、山口百恵の引退コンサートが行われている。

(3)入学式・卒業式会場

大学もキャンパスが郊外にできるなど、大人数の学生の入学式、卒業式を行うには、大規模な会場が必要となり、この武道館を利用することが多い。主な大学は、専修、明治、法政、日大、理科大などが利用している。いまは大学の入学・卒業式にも親が参列することも多くなり、武道館での祝いは、心に残るものとなるだろう。

(4)葬儀会場

また、大規模な会場であること、場所も皇居・北の丸であることもあり、歴代の総理大臣経験者の葬儀がここで行われることが多い。

1967年、89歳で亡くなった吉田茂元首相の国葬が日本武道館で営まれた(戦後、初の国葬であり、以後は行われていない)。それ以外にも、次のような元首相の葬儀が営まれている。岸信介、佐藤栄作、大平正芳、橋本龍太郎、宮澤喜一など。

こうした国家のために尽くされた人の葬儀が行われるということから、日本武道館の持つ精神的な性格が高まっていったともいえるだろう。

日本武道館の設立趣旨が、建物正面に立派な石に刻まれている。そこには「青少年新進錬成の大道場として ここに創建する」とあるが、多目的な利用により、この趣旨以上のものがこの建物には宿って来ているのではないだろうか。

なお、武道館の近くの北の丸公園内には吉田茂の銅像も建っていた。

田安門をくぐると武道館の擬宝珠が見えてくる


設立趣旨を刻んだ石碑



屋根の上の擬宝珠

新たに増設された中道場棟・ミラーに緑が映る

手前が新たに増設された中道場棟


富士山の稜線のような曲線

擬宝珠


なだらかな屋根のカーブ

吉田茂の銅像


2.山田守(18941966年)

日本武道館は山田守の設計により、東京オリンピック開幕の直前1964103日に開館した。工期は約一年で完成した。

山田守は、1920年、東京帝国大学・建築学科を卒業後、逓信省営繕課に入り、電信・電話局の設計を担った。初期の代表作は、東京中央電信局(現存しない)とされ、逓信関係では、これまでの病院建築に一石を投じたといわれる東京逓信病院なども手掛けている。また、関東大震災後の復興事業として、永代橋、聖橋などのデザインも行っている。

戦後は、逓信省を退官し、独立して、建築事務所を設立した。山田守の設計した建築でよく知られているのは京都タワー(1964年開館)である。京都駅前にあった京都中央郵便局の跡地に建てられた京都タワーは、京都の表玄関としてふさわしい白い円筒状の優雅なデザインの塔が乗せられた。しかし、東寺の塔より高いものは建てないという不文律を破るものであり、古都の景観を乱すものという批判を浴びた。しかしいまでは、京都のランドマークとなっている。

同じ1964年に開館した日本武道館に対する批評とあわせ、設計者としての思いがその時代には十分伝わらなかったということだろうか。

参考:『建築家山田守作品集』東海大学出版会 200612



東京中央電信局(Wikipediaより)

京都タワー(2020.11撮影)



3.北の丸公園周辺

(1)北の丸公園

日本武道館は、田安門をくぐって北の丸公園内に建てられているが、この公園は緑に囲まれ都心のオアシスとなっていて、家族連れなどもひと時を過ごしている。

現在は北の丸公園となっている場所は、もともと太田道灌が江戸城を築城した際に、関東の守護神であった築土神社の旧地であった。現在は、築土神社は向かいの九段坂に、ビルの間に社殿がある。平将門ゆかりの神社で、かっては将門の首そのものが安置されていたともいわれ、将門信仰の象徴的神社であった。古くから怨霊と恐れられた平将門と菅原道真を祀る神社である。(三大怨霊のあと一人は崇神天皇とされる)。

祭神の平将門に因み、武勇長久の神社として信仰され、日本武道館の氏神でもある。

田安門

北の丸公園

築土神社(2019.10撮影)


(2)弥生忠霊堂

田安門をくぐり、日本武道館の脇に、阿吽の獅子が建っている。弥生忠霊堂と刻まれた石碑がある。弥生忠霊塔を調べてみると、西南戦争により戦死した警察官は招魂社(現・靖国神社)に祀られたが、それ以外の凶悪犯逮捕や災害救助によって殉職した警察・消防者のために、明治18年(1885年)に「弥生神社」が創建された。この名称は、当初、本郷の弥生町に創建されたことによるもので、その後、遷座を繰り返し、戦後1947年に今の場所に遷座された。戦前は警視庁の管理下にあったが、戦後の「神道指令」により警視庁が神社を管理することができなくなったため、元警視総監らの有志による奉賛会を結成し、従来の神式の慰霊祭から「無宗教」形式の慰霊祭に変更した。奥には拝殿と本殿からなる神社建築に近い社殿が建てられている。

獅子


弥生忠霊堂・この奥に社がある

靖国神社(2019.10撮影)


(3)九段会館(旧軍人会館)

田安門あたりから牛ケ淵の向こうに見えるのが九段会館(旧・軍人会館)である。軍人会館としてできたのは、昭和9年(1934年)、そしてその2年後に起きた「二・二六事件」では、部隊の鎮圧に当たる「戒厳司令部」が置かれ、昭和史を刻む歴史の舞台となった。

戦後は、九段会館と改称し、日本遺族会により宿泊・結婚式場として運営されたが、2011年に起きた東日本大震災によりホールの天井が落下し、建物は閉鎖された。

建物は、帝冠様式という1930年代によく造られた建築様式を代表する建物の一つである。伊東忠太が監修し、鉄筋コンクリートの様式建築に和風の屋根をかけたデザインで、当時の思潮を反映して日本趣味が盛り込まれた。

建物が閉鎖された以降、歴史的な建物の一部を保存しながら、あらたに建て替えられることになった。まもなく「九段会館テラス」という名称で20227月に竣工する予定となっている。

九段会館(旧軍人会館)右が新築されたテラス

牛ケ淵から九段会館


(4)昭和館

九段会館の横にある建物は、昭和館である。主に戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活の労苦を後世代に伝えていくことを目的に、1999年(平成11年)に設立された。

建物の外周の壁面には、チタン製のパネルが張られ、お堀のそばに建ち特徴ある景観となっている。

昭和館(左の白い建物)と九段会館・テラス

九段坂から皇居・北の丸公園にかけては、靖国神社、築土神社、そして、弥生忠霊堂など御霊を祀る建物があり、また旧軍人会館や昭和館といった戦前。戦後の歴史を語る建物がある。そうした場のなかに日本武道館が建てられ、柔道の競技会場のみならず、コンサート会場、入学・卒業式の会場、そして葬儀会場など、様々な場を提供している。

日本武道館が完成した当時は、夢殿や富士山をイメージさせる、キッチュな建物という批評があったというが、いまやその日本的な美が周りの環境に溶け込み、設計者である山田守の思いだけでなく、人々の思いを重ねているようにみえる。

山田守という建築家については、京都タワーの設計をしたことは知っていたが、日本武道館、そして戦前の電信・電話局、逓信病院など逓信関係の建築にかかわっていたことについては知らなかった。これからも、山田が設計した現存する建物等も、訪れてみたいと思う。





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