パレスサイドビル・北の丸から |
日本武道館のある北の丸公園を抜けて竹橋に出ました。お濠に面して、パレスサイドビルが建っています。東西に全長約200メートルの長方形の箱型が二つずれて並び、その両端に、高さ50メートルの白い円筒コアがインパクトを与えています。
このビルは、林昌二による設計で、1966年に竣工しました。その前には、A・レーモンドが設計したリーダーズダイジェスト東京支社が建っていました。そうした経緯も含めて訪ねてみました。
1.パレスサイドビル
パレスサイドビルは、その名の通り、皇居のお濠に向かい合う竹橋にある。敷地は道路と日本橋川(その上を高速道路が走っている)に挟まれている。ここに、毎日新聞とリーダズダイジェスト社を主体とした3事業体により、約100億円をかけてビルが建てられた。竣工は1966年、東京オリンピックから2年経っていた。
ビルの特徴は、変形の土地であることから、直方体が2棟ずれて並び、その両脇に白い円筒形のコアが2棟建つ。正面からみると、全面ガラス・カーテンウォールに日除けのルーパー、窓の高さと同じに漏斗状の雨樋いがつけられ、直線による規則正しい形が並んでいる。漏斗状の雨樋は、各階ごとに分節されており、雨水の流れがそれぞれに確認できるようになっている。地上9階建ての屋上には庭園が設けられていて、芝生などが流れて樋に詰まったとしても、どこの箇所かがすぐにわかる仕組みになっているという。
パレスサイドビル・平川濠から |
パレスサイドビル・平川濠から |
パレスサイドビル・平川濠から |
パレスサイドビル・平川濠から |
パレスサイドビル・平川濠から |
パレスサイドビル・竹橋から |
パレスサイドビル・竹橋から |
パレスサイドビル・竹橋から |
パレスサイドビル・竹橋から |
パレスサイドビル・竹橋から |
パレスサイドビル・竹橋交差点から |
内部は、毎日新聞社のオフィスと地下には大型の輪転機が入るためスパンが長くとられ、その他の階はオフィス・フロアとレストランやショップが入るフロアとして利用され、地下は地下鉄東西線の竹橋駅に直結している。
なお、リーダーズダイジェスト社は、1986年にこのビルから退去し、日本から撤退している。
両脇の2棟の円筒形コアにはエレベーターなど共有スぺースが集約されている。円筒形のコアの外壁は逆Rに形どられたコンクリートとなっていて、白亜と本館とのコントラストが相まって美しい外観をつくっている。また、東西に設けられた設備配管などが入るシャフトの壁には、一面に茶褐色の煉瓦が張られている。このビルのためにつくられた煉瓦で、その数60万個に及ぶという。
竣工から、すでに50年以上経って、いまでも使い勝手もよい複合ビルとして、また美しい外観と相まって、日本の近代建築の傑作のひとつにあげられている。
全面ガラス張り、漏斗状の雨樋が分節されている |
長さ約200メートルの正面 |
白い円筒形のコア |
コアは逆R形に |
シャフト・特注の煉瓦 |
白亜の円筒形コアと新聞社入り口 |
毎日新聞社入り口・ミスト |
円筒形コア内部のエレベーター・ホール(西側) |
円筒形コア内部のエレベーター・ホール(東側) |
オフィス受付 |
レストラン・ショップのフロア |
コンコース |
正面入り口 |
正面入り口 |
長い通路 |
2.林昌二(1928-2011年)
林昌二は、1953年に東京工業大学建築学科を卒業し、日建設計に入社している。
30代で、銀座4丁目の三愛ドリームセンターを設計し(1962年)、またパレスサイドビルのプロジェクト・リーダーとして、設計を手掛けた(1966年)。
40代には、中野サンプラザ(1973年)など、50代には、新宿NSビルなど、60代にはNEC本社ビル、文京シビックセンターなど、70代には、箱根のポーラ美術館など、多くの優れた建築を手掛けている。
中野サンプラザ(2019.9撮影) |
文京シビックセンター(2020.2撮影) |
文京シビックセンター・展望フロア(2020.2撮影) |
3.リーダーズダイジェスト東京支社とパレスサイドビル
パレスサイドビルは、リーダーズダイジェスト東京支社(RD社)の跡地に建てられた。
RD社は、A・レーモンドの設計により1951年に竣工した。2階建てで、全面ガラス張りの開放感と透明感のある、まさに近代的なオフィスであった。庭園のデザインはイサム・ノグチが担当し、築山、池などを配置し、ノグチの彫刻も配され、皇居のお濠や緑との連続性をつくりだしていた。
しかし、この名建築は、1963年に取り壊されることとなった。保存か開発か。それについて、当時A・レーモンドは自分を建て替えの設計者に指名しなかったことに対する長い抗議の手紙をRD社のオーナーに送ったが受け入れられなかった、とされる。後に、A・レーモンドがRD社に送った次のような手紙が公開されている。
「過去において私の貴社のためにした仕事を考えますと、貴社の今回の行動は私にとっては不可解であり、かつ容赦することができないもののように思われます。わたしには自分の怒りを表現すべき言葉が見当たりません。」『日刊建設通信』(1969年10月29日)*3
これについて、壊す側になった林昌二は、次のように述懐している。
「私たちはあの建築から多くを学んだ立場ですから、もちろんあの傑作を壊したくはありませんでした。しかし、建て替えを企画したのは同じRD社(を含む事業体)でしたし、当時たしかめたところでは、撤去・建て替えに関して、RD社とA・レーモンド氏との間で話し合いがあり、了承を得たと聞いています。ただし、模型をつくって新ビルに据えたいという申し出に対して、氏が賛同しなかったというあたりの意味するところは、よくわかりません。」*2
優れた歴史的建築の、保存か開発か、については、いまも大きな課題となっている。このRD社についていえば、戦後の日本にアメリカ文化がいっぱい詰まった雑誌を発行する会社の社屋として、皇居の前という立地に近代的建物を建てうる背景には、GHQによる威光があったこは否めないだろう。竣工式には当時の吉田茂首相も呼ばれたという。
しかしながら、1964年の東京オリンピックにあたり、高速道路やホテルなどが建設整備されるとともに、オリンピックの会場や、選手村には、在日米軍施設であるワシントンハイツが返還され、あの丹下健三の代々木競技場などが建てられた。東京オリンピックは、日本が米軍の占領から独立し、経済成長し発展していくことを世界にアピールする場でもあった。こうした占領時代の終わりとともに、RD社も消えていく運命となった。
リーダーズダイジェスト東京支社(RD社)*5 |
RD社の奥に如水会館、学士会館、さらに遠くにはニコライ堂が見える*5 |
一方で新たなビルを建てるにあたり、林昌二は、次のような意気込みを持っていた。
「このビルが建つ前、この土地にはA・レーモンドの戦後の名作、リーダーズダイジェストの社屋が美しく横たわっていましたから、そのビルを取り壊して建てるということは、私たち設計チームに取って、身震いするほどの緊張と、取り組み甲斐とを意味していました。」*2
実際、全面のガラス張りや屋上に庭園をつくるなど、RD社の面影を引き継いでいるようなところもある。屋上庭園について、林は、「RD社には彫刻家ノグチ・オサムが設計した庭園が広がっていた。せめて空から見たときにその痕跡を残したいという意図もあった。」と述べている。いまも屋上にはノグチが選定した庭石が3つ移設され残されている。
また、ノグチの彫刻に替えて、かっては新聞社が使っていたという「伝書バト」の彫刻が置かれている。(屋上庭園は、平日の昼休み時間11:30~13:00の90分開放される。)
さらに、保存か開発か、について、林は、「建築は環境とともにある。空間環境、生活環境が失われれば、建築が消滅するのは致し方ない」として、いわゆる動態保存が望ましいが、それ以外には、再生・新生の作法が問われることになるとしている。建物そのものを別な場所に移転・移築して保存する「転地転生」という言葉に対して、林は、「同地転生」という言葉を使って、「パレスサイドビルとRD社屋とは、DNAを共有していると思います。パレスサイドビルをRD社屋の「同地転生」と考えては、先代様に失礼でしょうか」*2と述べ、問わず語りに、自らの建築を讃えている。
パレスサイドビル・高速道路入口側から |
パレスサイドビル・高速道路入口側から |
高速道路(日本橋川)側から |
日本橋川に映る円筒形コア |
円筒形コア・高速道路(日本橋川)から |
4.A・レーモンドと林昌二
A・レーモンドについては、すでに「東京異空間66:聖アンセルモ教会」(2022.6.21)で述べたように、チェコ出身のアメリカの建築家で、フランクロイド・ライトに誘われ帝国ホテルの建築にかかわるため、1919年に来日した。数年後、ライトの許を去り、日本で後藤新平の邸宅や、在日外国人の邸宅、東京女子大、聖路加病院、フランス大使館、またレストラン不二家(横浜)など数多くの設計を手掛けていた。しかし、戦争の色が濃くなり1937年に日本を離れアメリカに戻った。
戦争中、レーモンドは、日本建築に関する知識を生かし、ユタの砂漠に日本の住宅棟の模型を建て、効果的な爆弾攻撃のための実験に協力している。その結果が夜間低空飛行による焼夷爆弾の投下であった。それによる東京空襲は、レーモンドが設計したいくつかの建築も破壊した。
このことについて、林昌二は、自らの家も二度目の東京空襲で焼かれた経験もあり、次のようにその心情を語っている。
「信じがたいことですが、ルメイ(空爆を実行した人物)は、1964年、昭和天皇から勲一等旭日大綬章を受けています。レーモンドはRD社屋を、いまパレスサイドビルが建っている地に設計して、日本建築学会賞を受けました。建築家であること、日本国民であること、二十世紀人であることが、ときに疎ましくなります。」*3
おそらく、戦争中であれば、ほとんどの建築家(建築家でなくとも)が戦争に協力することになる。それはレーモンドも例外ではなかった。戦争は建物を破壊するだけでなく、それぞれの人生、そして生活までも壊してしまう。
林昌二の人生も、戦争によって大きく変わってしまった。少年時代は飛行機の設計者になることを夢見ていたが、敗戦後、GHQにより航空産業は解体され飛行機の設計といった研究もできなくなった。航空学科から建築学科に進路を決めたのは、尊敬する二年先輩の「これからは建築だぞ」という言葉であったという。この先輩は、東大の建築家を出て電電公社の建築部に入ったという。*1
そこから林昌二の建築家としての人生が始まった。だが、時代がもう少し前であったら、林も零戦などの航空機の設計に携わり、戦争に協力していたかもしれない。
A・レーモンドのRD社は取り壊され、同地に林昌二のパレスサイドビルが建ち、いまも名建築として建っている。しかしながら、最近のニュースによると、林昌二の手掛けた中野サンプラザは、約40年の時間を経て2023年7月には閉館し、2028年に新しいビルが完成する予定という。果たして、サンプラの建物の一部でも保存されるのだろうか、あるいはサンプラのDNAは引き継がれるのだろうか。
建築家の人生以上に長い建築も、その人生は、社会環境などによって大きく変わることになる。そうした姿を、街のあちこちで見かける。これも「東京異空間」のひとつとして、残しておきたいと思う。
参考文献:
*1 『林昌二の仕事』 新建築社 2008年9月
*2 『建築家 林昌二 毒本』 林昌二 著 新建築社 2004年11月
*3 『アントニン・レーモンドの建築』三沢浩 著 鹿島出版 2007年
*4 『私と日本建築』A・レーモンド 著 鹿島出版 1967年
*5 レーモンド設計事務所 HP https://raymondsekkei.co.jp/achievements/1337/
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