2022年8月20日土曜日

思い出のアルバム10:神社Ⅰ(古代)~カミとホトケ

 

大神神社

これまで撮った神社の写真を通して、カミ(神道)の歴史を概観してみました。その際、ホトケ(仏教)との関係は切っても切れないもので、あわせて見ていくことにします。

なお、古代から近代まで4回に分けて掲載する予定です。



1.古代の神社;自然信仰~神祇信仰

古代においては、人々は雷、稲妻、など自然の脅威、畏れるもの、見えないものをカミとした。、また災害、疫病、など恐れるもの、霊的なもの、祟るもの、すなわち人知を超えた強力な力を持つものをカミとして祀った。

そうした古代のカミを祀る形を残しているといわれているのが、奈良の大神神社である。

(1)大神神社(おおみわ)

大神神社は、古来より社殿を設けず、三輪山に神が鎮まるものとして、直接に祈りを捧げ、山を遥拝するという原初的な祭祀の姿であるとされる。三輪山は円錐形の美しい山で、こうした秀麗な山は神奈備(かんなび)と呼ばれ、山に神が宿る聖なる山として、信仰の対象となった。

しかしながら、三輪山から発見された祭礼遺跡からすると、山そのものを神として拝むのではなく、山からカミを呼び寄せ、岩(磐座いわくら)や樹木(神籬ひもろぎ)をカミの依代(よりしろ)として、そのつど祭礼の場としたとみられるという。祭礼の場に集まった人々はシャーマンを通じて、カミの声を聞いたのである。

このように、山の中の磐座の前が祭礼の場であったが、しだいに神が立ち現れる場、山そのものも神聖なものとなり、山そのものに神が宿るという神体山となり、信仰の対象となった。こうした祭礼の場を社(やしろ)、といい、社殿のようなものはなかった。

では、神社建築はいつごろできたのだろうか。これには諸説あるようで、はっきりとはしていないが、7世紀末から8世紀にかけて律令制が敷かれてからとされる。また、神社のシンボルともいえる鳥居についても、 神体山と世俗の場とは「聖と俗」として区別するために建てられたとするが、いつ頃からかは、はっきりとはしないようだ

6世紀半ばに仏教が伝来し、それを受け入れるかどうかで、崇仏論の蘇我氏と排仏論の物部氏の間に争いが起き、その結果、蘇我氏が優勢となり、仏教が受け入れられた。

(この仏教公伝、そして崇仏・排仏論争にしても、史実とは言えないとする説が出ている。)

さらに、乙巳の変(645年)により、蘇我氏が暗殺され、滅ぼされ、いわゆる大化の改新による政治改革が行われ、これまでの豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わった。その一環として「仏法興隆の詔」が発布されている。

白村江の戦い(663年)に敗れ、中国、朝鮮半島情勢からも国家体制を強化する必要が高まり、国防力の強化が図られた。

壬申の乱(672年)という国内最大のクーデターを経て、天武天皇が政権を取り、軍事を優先するとともに、官による統制を強化するため律令を整備していった。

天武天皇の時代(673686年)になると、律令体制として、太政官とともに神祇官が置かれた。神祇官は、天神(天津神)と地祇(国津神)の神祇の祭礼を司り、各地で行われていたさまざまなカミの祭礼は、天皇・国家の安寧に奉仕するものとして、再編成された。その際、各地の神主(祝部はふりべ)は神祇官のもとに集められ、中臣氏による祝詞と忌部氏による幣帛を受け取り、地方のそれぞれの社に戻り、在地の祈年祭において祝詞を読み聞かせ、幣帛を奉じた。

律令体制が確立していくに伴い、各地に神社が成立し、カミ=神祇信仰が鎮護国家の要となるとともに、ホトケ=仏教も体制強化のため、各地に官寺を作り、中央の仏教文化を地方に広めていった。すなわち、仏教は、中央の文化・信仰を地方へ、神祇は地方の土着のカミを中央に収斂させていく、という両方向のベクトルを持っていた。

このように、6世紀にはホトケは外国のカミ(蕃神)として受容され、7世紀にはカミとホトケの信仰は並存し相互に干渉しあうことはなかったが、8世紀に入り、律令体制において、両方が国家の鎮護の要となり有機的に結び付けられた。その結果現れたのが、仏法に帰依するカミ、すなわち「神身離脱(しんじんりだつ)」を願う神と神宮寺の登場である。

神身離脱とは、神は人間と同じよ うに悩み苦しむ存在であり仏法の力により救われる存在であるという考え方である。 神もまた六道を輪廻する苦しみから脱 していないと考えられ、仏教による供養によってその苦しみから脱することができるとする。そのために神社の傍らに読経などの供養をする寺院が建立され、神宮寺と呼ばれる。 これが、神仏習合の第一段階である。

しかしながら、いつから神社建築が造られたかは、はっきりしていない。というのも、現存最古の神社建築は、平安時代に建てられた京都・宇治上神社で、それ以前、奈良時代などのものは残っていないからである。神社の建築様式から見ても、掘立柱の白木に茅葺屋根といったことから残り難いものであった。また、神社の場合は式年遷宮といった20年ごとに建て替えることもその一因である。

一方、寺院建築は、世界最古の木造建築といわれる法隆寺にみるように、礎石の上に朱塗りの柱を立て、組物、瓦屋根であることから、例えば、木の年輪や、瓦が発見されることにより、その年代も判別できるようになっている。

こうした建築様式の違いから考えて、寺院建築に対抗して神社建築も生まれたとされる。つまり、海外から伝わった寺院建築の煌びやかな巨大さや、天にも昇るような高さに対して、神社建築は、白木の掘立て柱に茅葺の屋根といった古代から引き継ぐようなスタイルの神社を建てたとされる。

大神神社


(2)伊勢神宮、鹿島神宮・香取神宮

日本の神社の中心となるのは、伊勢神宮である。壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇)が即位して間もなく創建されたとする。伊勢神宮は正式名称は「神宮」である。つまり、各地の神社の総元締めであり、皇祖神である天照大神を祀り、神代の国の始まりから天皇の系譜を位置づけ、その正統性を明らかにする。それが、古事記(712年)、日本書紀(720年)という正史の編纂となる。こうした記・紀に登場するカミは、天照大神と関連付けられ、各地の神社の祭神として祀られる。

伊勢神宮については、なぜ、大和でなく離れた伊勢の地に天照大神をまつる神社が創られたのか、なぜ、天照大神という皇祖神を祀るのも関わらず、明治天皇以前、歴代の天皇は参拝していないのか、持統天皇にあっては、伊勢まで行幸したにも関わらす参拝はしていない。さらに、なぜ、20年ごとの式年遷宮が行われるようになったのか、いつから行われているのか、などなど、多くの謎がある。一番の謎は、なぜ天照大神というカミが創造され祀られたのか、ということである。

これらの謎はさておき、伊勢神宮のほかに「神宮」が付くのは、古代においては鹿島神宮、香取神宮の三社のみである。「社」はヤシロであり、「宮」はミヤ、すなわち宮殿を意味する。

鹿島・香取神宮は、ヤマト政権の蝦夷平定の拠点として、また藤原氏の氏神として創建されたが、それがいつの時代かははっきりしない。鹿島神宮の公式H.Pには「神武天皇元年創建の由緒ある神社です」とあるが、神話・伝承に基づくもので史実とは言えない。またH.Pには、鹿島神宮の御祭神「タケミカヅチ」は、天照大神の命を受け、香取神宮の御祭神「フツヌシ」とともに出雲の国に天降り、大国主命と話し合い国譲りの交渉を成就し建国に挺身したという神話を載せている。

鹿島神宮は、藤原氏の前身、中臣氏にかかわる伝承も多く、中臣鎌足と常陸国とのかかわりも深いものがあったという。そうした伝承の中に、鹿島神宮から神の使いである鹿に乗って、奈良・三笠山に行き、春日大社がつくられたという話がある。実際、春日大社には、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られている。

いまも鹿島神宮では鹿を囲いの中に入れて飼っているし、春日大社周辺では鹿が放し飼いになって神聖視されている。

なぜ、鹿が神の使いとなったのか。角を持った鹿の雄々しい姿、角が生え替えるという生命の再生力から山の神とされた。また、肉食にもなり、その骨は焼いて、その割れ目から神意を伺う占い(鹿卜)に使われた。鹿は、神事・祭礼を司った中臣氏であるからこそ、氏神である春日大社までカミを運んで行くにふさわしい神獣であった。

鹿島神宮

鹿島神宮


鹿島神宮・拝殿

香取神宮

香取神宮

香取神宮


(3)談山神社

談山神社は、藤原氏の祖である中臣鎌足の墓があり、その上に十三重塔を建て、塔を神廟として妙楽寺と称した。談山の名の由来は、645年乙巳の変の際、中臣鎌足と中大兄皇子がこの多武峰で行い「談い山(かたらいやま)」と呼んだことによる。

談山神社

談山神社


(4)春日大社

先に述べたように、鹿島神宮・香取神宮から勧請した神を祀る藤原氏の氏神であり、一方で同じ藤原氏の氏寺である興福寺と関係が深く、神仏習合が進むにつれ、一体化し勢力を拡大していった。

春日大社

春日大社

鎌倉時代の「春日造」(円成寺の鎮守社である春日堂・白山堂)


(5)出雲大社

出雲大社は、古代より杵築大社と呼ばれ、大国主命を祀る。古事記、日本書紀にある、いわゆる国譲りの条件として、「千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べたことによって、出雲の地に造られたとする。

国譲りだけではなく、幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)の霊力もヤマト政権に移し、継承することを語っている。

また、出雲の地は、西の果て、太陽が沈むところである。一方、伊勢の地は東の太陽が昇る地であり、皇祖神である天照大神を祀る。この両方の神を大和朝廷は治めることができるとされる。

出雲大社で、よく知られているのは、10月を一般には神無月というが、ここでは「神在月」といって、全国の神々が稲佐の浜からここに集まってくるという話である。これも、全国の神々を集約できるという力を示すものであり、出雲は大和にとって保護する神として位置づけられた。

なお、「空高く立派な宮」という神話、伝承で語られていた本殿の建築物が、平成12年に発掘された三本の柱から、かっては巨大な高層建築があったということが証明された。16丈、約48メートルの高さの本殿が建てられていたという。

現在の本殿(高さ約24メートル)も大きいが、平安時代の「口遊(くちずさみ)」では、「雲太、和二、京三」といわれ、それぞれ大きい建物順に出雲大社、大和・東大寺、京・大極殿を指したという。

出雲大社

出雲大社・参道

出雲大社・本殿

出雲大社・三本の巨大な宇豆柱の出土地点

かって48メートルの高さがあったという本殿の推定模型

幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)の霊力

出雲大社・鳥居


(6)諏訪大社

諏訪大社は、古事記の中では大国主命の弟であるタケミナカタが国譲りに反対して戦ったが敗れ、諏訪まで逃れきて、そこに国を築いたと書かれている。

また、大神神社と同様、本殿と呼ばれる建物がなく、代わりに秋宮は一位の木を、春宮は杉の木を、御神木とし、上社は御山を御神体として拝している。

この御柱祭りが6年に一度、雄壮に行われることはよく知られている。

諏訪大社


(7)宇佐神宮

宇佐神宮は、宇佐八幡宮とも呼ばれ、八幡宮の総本社でもある。八幡神は戦の神ともいわれ広く信仰された。この地域には新羅の神が渡ってきたという伝承もあり、新羅との関係から八幡神が生まれ、早くに神宮寺が建立されたとされる。

また、749年には、東大寺の大仏建立に当たり、八幡神が建造に協力しようという宣託を与えたということからも、早くから仏教と習合しようとしていたことがわかる。

さらに、769年の道鏡が天皇に就こうとする道鏡事件では、和気清麻呂が「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という宇佐神宮の御宣託を大和に持ち帰り奏上したことによって道鏡の企みを阻止したとするこのように、宇佐神宮は、皇室の守護神ともいえる力を発揮したとみられる。

宇佐神宮

宇佐神宮


今回は、古代に創建されたとする各神社を中心に、神社がいつごろからできたのか、すなわち、古代のカミ=神道は、ホトケ=仏教との関係、ときに結びつき、ときに対抗しながら形づくられ、両方ともに、中央集権的国家=律令体制の形成に大きく寄与してきた、ということの概略をみてみました。

次回、中世の神社に続きます。



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