2022年8月7日日曜日

思い出のアルバム9~塔2・関東編

 

浅草寺・五重塔

「思い出のアルバム8~塔1・関西編」に続いて、関東編を整理しました。関西のように古くに建てられた塔はありませんが、関東には江戸時代に建てられた塔、さらに現代に建てられたものも多くあります。

また、仏塔のみならず、明治以降に建てられたユニークな建物、さらには現代のタワーも一緒に並べてみました。

1.東京の塔

(1)上野東照宮の五重塔2019.2撮影)

上野動物園の中に五重塔がある。しかも東京都の所有である。この五重塔は、上野東照宮の一部として、1631年(寛永8)に創建されたが、1639年に焼失し、同年、幕府作事方の棟梁・甲良宗弘によって再建されたものである。(甲良宗弘は、芝増上寺、日光東照宮の建築にも関わっている。)

明治に入り神仏分離令に伴い、上野東照宮の五重塔は仏教施設であることから取り壊されることになったが、当時の宮司が五重塔は寛永寺の管理であると国に申し出たことにより取り壊しをまぬがれた、という。その後、寛永寺は上野戦争で焼失するも、寛永寺の五重塔は関東大震災や東京大空襲でも焼失を免れた。戦後、1958年に文化財管理のため東京都に移管された。こうした経緯を経て、いま上野動物園内に建っているが、上野東照宮の参道の横に位置する。ただし、東照宮側から入ることはできない。

塔の高さは、約32メートルで、多くの塔が心柱が懸垂式であるのに対し、この塔の心柱は土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上である相輪まで貫いている。また、心柱を大日如来とみなし、そのまわりに弥勒、薬師、釈迦、阿弥陀の四如来像が安置されていたが、いまは東京国立博物館に寄託されている。

なお、寛永寺とともに徳川家の菩提寺である増上寺にも五重塔があった。二代将軍・徳川秀忠の供養塔として建てられ、その後焼失、1809年に再建された。明治に入り、上野の五重塔と同じように、芝公園に移管されたが、東京大空襲で焼失したため、現存しない。

上野東照宮(旧寛永寺)・五重塔

(2)浅草寺の五重塔2019.92020.10.撮影)

浅草寺は、都内最古の寺院で、942年に平公雅(たいらのきんまさ)が建立したとされる。当時は、本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存し、薬師寺式の伽藍配置であったという説もある。1631年に焼失したのち、1648に徳川家光により五重塔が再建されたものの、三重塔は復興されなかった。再建された五重塔は、関東大震災には倒壊しなかったが、東京大空襲により焼失した。

現在の塔は本堂の西側、1631年に焼失した三重塔の跡と伝承されている付近に場所を移して、1973年(昭和48に鉄筋コンクリート造りで再建された。高さは約48メートルで、京都・東寺に次ぐ高さである。

江戸時代には、この浅草寺と先に述べた寛永寺、増上寺、そして幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった谷中・天王寺の五重塔があり、「江戸四塔」といわれる。さらに池上本門寺、中野の宝仙寺の三重塔を加えて「江戸六塔」ともいわれるものが、江戸時代に建立された江戸の仏塔である。

また、仏塔ではないが、浅草には、1890年(明治23)に「凌雲閣」、通称、「浅草十二階」という12階建て,高さ62メートルの高層建築ができた。当時、日本で一番高い建物で、「雲を凌ぐほど高い」ということから名付けられた。また、日本で初めてのエレベーターが設置され、中は、8階まで世界各国の物販店が入り、9階は休憩室、それより上が展望室で、12階には望遠鏡が設置され、多くの人で賑わったという。しかし、明治の終わりごろには客足も鈍り、経営難に陥っていた。その後、関東大震災により半壊し、解体されてしまった。

なお、浅草より一年前に大阪に同じ名で「凌雲閣」が、9階建ての建物ができ、「キタの九階」と呼ばれたという。どちらの「凌雲閣」も人気を博したというから、いかに当時の人々が高い建物に興味を持ったのかがわかる。

浅草寺・五重塔

浅草寺・五重塔

浅草寺・五重塔

浅草・凌雲閣の震災前後(Wikipediaより)


(3)東禅寺(2020.11撮影)

東禅寺は、幕末に最初のイギリス公使館が置かれたことで知られている。創建は1609年で、1636年に現在の、港区赤坂から高輪に移転した。当時は東京湾が眼前に広がることから「海上禅林」とも呼ばれ、その名にあるように臨済宗の寺院である。ここに三重塔があるが、平成4年に建てられた新しいものである。

東禅寺・三重塔

東禅寺・三重塔

(4)築地本願寺(2019.9撮影)

築地本願寺は、はじめ西本願寺の別院として、浅草近くに1617年に創建されたが、1657年の明暦の大火で焼失してしまう。その後、八丁堀沖を埋め立て土地を築き(そこから「築地」という名がついた)、1967年に再建された。1923年の関東大震災に伴う火災により焼失、1934年に再建された。

築地本願寺を設計したのは、「奇想の建築家」ともいえる伊東忠太である。伊東忠太は、1902年、36歳の時に中国、インド、中東、からヨーロッパへ建築をめぐる旅に出ている。そこで見たインドや中東の造形を取り入れて、築地本願寺が設計されている。本堂は、正面は蓮華をモチーフとしたインドの石窟寺院風であり、北翼と南翼の屋根にはそれぞれインドの仏塔(ストゥーパ)風が立ち上がっている。それぞれ鐘楼と鼓楼であるという。

ここ築地本願寺は浄土真宗であり、その教義から、念仏を唱えれば浄土に生まれ仏になるということから供養塔といったもの造らないとされる。そうしたことから、浄土真宗の寺院には、五重塔や三重塔といった高い塔を見ることはない。本堂の屋根の上の塔についても、「鐘楼」「鼓楼」としているが、この塔の形は、まさに仏塔(ストゥーパ)であり、インドにはじまる仏教の歴史を踏まえた、建築史家でもある伊東忠太ならではのデザインといえる。

築地本願寺・本堂

築地本願寺・屋根の上の塔

(5)東京都慰霊堂(2019.10撮影)

慰霊堂は、1923年、関東大震災により亡くなった方の遺骨を納めるための霊堂として「震災記念堂」と名付けられ、被害の大きかった被服廠跡(横網町公園)に1930年に建てられた。その後、太平洋戦争で亡くなった方の遺骨も納めるようになり、1951年、「東京都慰霊堂」と名前を変更した。

この設計も伊東忠太が手掛けている。もともとは、1925年に設計コンペが行われ、前田健二郎の案が一等となっていた。この案は当時流行っていたセセッション(分離派)風の西洋建築の形であった。しかし、これに対し、被災者の霊を鎮める建築として西洋型はふさわしくない、という世間の声が起きた。そこで、コンペの審査員のひとりであった伊東忠太が乗り出し、寺院風の堂塔を備えた形に設計した。

しかし、一見は和風と見えるが、ここにも「奇想の建築家」伊東忠太の発想がふんだんに取り込まれている。まず上からみると、建物全体で、「ラテン十字」を形づくっている。会堂は、教会にみられるバシリカ形式でできていて、内部の壁や天井にはアラベスク的文様もあるという、それぞれの宗教的要素を取り入れた折衷的なデザインとなっている。また、公堂の後ろにある建物は、塔の上にストゥーパ風の相輪があり、三重塔のように、造られ、城の石垣のような基盤部分が納骨堂となっている供養塔である。

この慰霊堂を見学したブルーノ・タウトは、「競技設計で当選した設計図・・・の方がまだしもいい」と日記に書いている。桂離宮の美しさを称賛する一方で、東照宮の過剰な装飾を「建築の堕落だ」といったブルーノ・タウトからすれば、如何にも、という評価であっただろう。

参考:『現代の建築家』井上章一  2014

東京都慰霊堂・ラテン十字形(手前が会堂、奥が供養塔)

東京都慰霊堂・供養塔(三重塔)

東京都慰霊堂・供養塔(三重塔)

(6)哲学堂の六賢台(2020.10撮影)

中野にある哲学堂公園は、哲学者で東洋大学の創立者である井上円了が、哲学の世界を視覚的に表現した精神修養の場として、1904年(明治37)に造られた。

そのシンボルの一つが三重塔のようにも見える「六賢台」である。東洋の六賢人として、日本の聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅仙を祀る六角形の塔で、1909年(明治42)に建てられた。

ここを「時空岡」と称し、「四聖堂」(釈迦、孔子、ソクラテス、カントを祀る)、「三学亭」(平田篤胤、林羅山、釈凝然を祀る)など、東西を代表とする哲学者に因んだ建物が建てられている。

井上円了は「真理は哲学にある」として、哲学による文明開化を志向していたことから、こうした哲学者に因むユニークな建物を建てた。

哲学堂・六賢台

哲学堂・六賢台

(7)三宝寺の根本大塔(2022.2撮影)

石神井公園の近くにありる三宝寺は、この地を治めていた豊島氏の祈願時として、1394年に創建された真言宗の寺院である。寺は、明治の神仏分離や寺領上知により縮小を余儀なくされ、1874年には火災により堂宇を焼失した。戦後、ようやく本堂が再建された(1953年)。

境内の奥に、多宝塔が建つ。これは開創600年記念事業として1996年に建てられたもので、「根本大塔」と呼ばれる。根本大塔とは、「根本本尊大毘盧遮那如来法界体性塔」の略で、真言密教の大日如来を象徴する塔のことをいう。

多宝塔は、真言宗の寺院にみられ、大日如来を中心とした密教の世界観をあらわす塔であり、仏舎利を納める五重塔、三重塔などとは意味合いが異なる。

三宝寺・根本大塔(手前は平和観音)

三宝寺・根本大塔(多宝塔)

(8)道場寺の三重塔(2022..2撮影)

三宝寺と隣接して建つ道場寺は、豊島家の菩提寺として1372年に創建された。当初は臨済宗の寺院であったが、1601年に曹洞宗に転宗した。

堂宇は比較的新しく、本堂は天平時代の唐招提寺をモデルにするなど各時代の様式で建てられている。

三重塔は、福井県の明通寺にある鎌倉時代の塔を模して造られており、塔内には薬師如来が安置され、その土台にはスリランカから頂いた仏舎利が納められているという。1973年に建てられた。

なお、モデルとなった福井・明通寺の三重塔は、1270年に再建され、現在もその姿をとどめており、鎌倉時代を代表する建築として国宝となっている。

道場寺・三重塔

2.千葉、埼玉、神奈川、栃木の塔

(1)成田山新勝寺の三重塔と多宝塔(2020.12撮影)

千葉の成田山新勝寺は、真言宗の寺院で、その開山は940年と伝承されている。縁起によると、朝敵・平将門を調伏するため不動明王を祈願したところ将門は敗北し、「新たに勝つ」ということから「新勝寺」と名付けられたという。江戸時代には不動信仰が広まり、多くの参詣者があった。いまでも、初詣の人数では明治神宮に次ぎ、寺院としては一番多い。

本堂の斜め前に三重塔が建つ。この塔は1712年に建立され、高さは25メートルあり、各層の垂木には雲水紋がほどこされ、木先には龍が彫られている装飾性が豊かな塔である。内部には、大日如来を中心に五智如来が安置され、周囲には十六羅漢の彫刻がめぐらされている。ここでは、三重塔は仏舎利を祀るのではなく、大日如来を中心とする真言密教の世界をあらわす塔となっている。

境内の奥のほうに位置する平和大塔は、昭和59年に平和を祈願して建立された多宝塔であり、やはり、内部は大日如来を中心とする真言密教の世界をあらわす塔である。

高さは、約58メートルあり、塔内には、不動明王像を中心に、降三世明王、金剛夜叉明王、軍荼利明王、大威徳明王の五大明王像が囲んでいる。両側には、金剛界・胎蔵界を表わす大きな曼荼羅が掲げてある。柱には菩薩が極彩色で描かれている。

新勝寺・三重塔

新勝寺・三重塔(軒の装飾)

新勝寺・三重塔(雲水紋)

新勝寺・平和大塔(多宝塔)

新勝寺・平和大塔(多宝塔)

新勝寺・平和大塔(多宝塔)


(2)喜多院の多宝塔(2018.2撮影)

川越にある喜多院は、830年に円仁が天台宗の教えを広めるために開創した寺で、無量寿寺と号していた。

1599年に、僧・天海が住職となり、徳川家康が川越を訪れたとき接見し、その後家康のブレインとなり、寺号も「喜多院」と改め、山号を東の比叡山を意味する東叡山と名乗った(のちに山号は上野・寛永寺に移る)。徳川家をバックに寺勢をふるい、1638年に火災により堂宇の多くを焼失するも、江戸城の紅葉山御殿の一部を移築するなど、すぐに再興した。

多宝塔は、1639年に建てられたが、その後、明治には老朽化等により、移築・改修され、1975年に、移築の際に大きく改造されていたため解体修理を行って、現在の地に復元した。

喜多院・多宝塔

(3)三渓園の三重塔(2019.8撮影)

横浜の三渓園は、生糸貿易により財を成した実業家・原三渓により、1906年に公開された。園内には、京都や鎌倉などから歴史的価値の高い建造物が移築されている。中でも、小高い丘の上に建てられた三重塔は、三渓園を象徴する建物となっている。この三重塔は、京都・燈明寺に、1457年に建てられたもので、1914年に三渓園に移築された。

京都・燈明寺は、寺伝では奈良時代に行基による創建とされ、その後建武の兵乱により廃絶して、のちに室町時代に天台宗の僧により復興した。三渓園に移築された塔はこの時代のものである。現在は、日蓮宗の寺院であるが、廃寺同様となっており、本堂も解体され、1987年に三渓園に移築された。

三渓園・三重塔

三渓園・三重塔

(4)日光東照宮の五重塔と宝塔(2020.3撮影)

日光東照宮は、徳川家康を御祭神として祀るため、1617年に社殿が造られたが、多くの社殿群は三代将軍・家光によって1636年に造営された。上野東照宮と同様、棟梁は甲良宗弘であった。

五重塔は、1650年に建てられたが、1815年に火災で焼失し、1818年に福井・小浜藩主により再建された。塔は極彩色で彩られ、初層の蟇股には十二支が配されていて、寅は家康、兎は秀忠、辰(龍)は家光の干支であり、正面には虎(寅)がきているという。

塔の高さは36メートルだが、塔の高さと標高をあわせると、634メートルとなり、東京スカイツリーの高さと同じであるという。(トリヴィアなことだが、東京スカイツリーについて後述することから、触れておく。)

この五重塔は、東照宮の入口にあたる一の鳥居のすぐ横に建っている。神社に五重塔があるのは、神仏習合であったからで、上野東照宮と同じく、明治の神仏分離令により、日光の場合は、神社の東照宮と二荒山神社、寺院の輪王寺という「二社一寺」に分かれた。その際に、五重塔は神社側に残った。

なぜ、東照宮側に残ったのか。明治政府は、神仏分離令により五重塔のような仏教施設を神社から移すように命令したものの、その後、これを撤回した。しかし、これら堂塔の所属をめぐって東照宮と輪王寺の間で対立が続き、裁判となった。東京高裁は、明治政府はこれら施設の移遷を求め(その後、撤回し)たのであり、所有権の帰属の変更を求めたのでない、とし東照宮の所有権を認めた判決を出している。。(東京高裁、昭和45年)

とはいえ、その他一部の施設の帰属や共通拝観料の扱いなどについても、東照宮と輪王寺の間で、いまだに争いが続いているという。

なお、1999年に「日光の社寺」として、二社一寺の建造物群とその周辺の文化的景観を合わせて世界遺産に登録された。

日光東照宮・五重塔

日光東照宮・五重塔

東照宮の奥社に、家康の墓所である宝塔が建てられている。1622年に建てられた時には、木造であったが、1641年に石造に改められたが、地震で倒壊したため、1683年に現在の鋳銅製になった。85段の石の基盤の上にさらに3段を青銅で鋳造した台の上に宝塔が乗せられている。高さは約5メートルである。

この宝塔とは、円筒形の塔身に方形の屋根を架け、頂上に相輪を立てた一重の塔をいい、平安初期に密教とともに伝来したという。一重ではなく、二重、三重になったものを多宝塔という。こちらは、大日如来を中心とした密教の世界を表すものとして、真言宗の寺院ではよく見かける。

東照宮は、家康を祀る神社であることから、家康の墓もあることに不思議はないように思うが、そもそも神社に墓はないものであり、不思議なことに思える。実際、徳川家の墓は、、日光の輪王寺に、家光の墓があるが、他は増上寺と寛永寺にあり、それぞれ寺院である。(ただし、最後の将軍慶喜が谷中霊園に神道形式で埋葬されている。)

なお、ほんとうに家康はここに眠っているのか、については、日光東照宮と久能山東照宮との間で、論争があるようだ。いずれも、発掘調査は行われておらず、真相は謎のままという。

日光東照宮・奥社・宝塔(家康の墓所)


3.タワー

(1)東京タワー(2018.72020.11撮影)

東京タワーは、1958年に開業した電波塔である。創建者は日本工業新聞(現・産経新聞)の創業者である前田久吉である。設計は、「塔博士」といわれた内藤多仲である。

前田久吉は、「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。1300年も前にすでに高さ57メートルあまりもある立派な塔(東寺の五重塔を指す)が日本人の手でできたのである。ましてや科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張したという。

当初は、350メートルで計画されていたが、下部のアーチが出来たところで、工期の短縮や資金の面から、高さを抑え333メートルとなったという。

名称については、公募され、一番多かったのが「昭和塔」、続いて「日本塔」「平和塔」であり、ほかにも「宇宙塔」「プリンス塔」などという案もあった。しかし名称審査会に参加した徳川無声が、「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定したという

ここで、応募の名称は多くが「塔」と言っているのに対し、新たに「タワー」という名称がついた。夢声の一言で、世の中の高層建築のイメージが「塔」から「タワー」に変わっていったともいえる。

しかしながら、東京タワーの足元には、古代の古墳群があり、また、かっては増上寺の五重塔があったところである。やはり、仏舎利を祀る「塔」が「タワー」となって、ここに建っているとも言えるだろう。

東京タワー(増上寺・徳川家墓所より)

東京タワー

東京タワー(アーチ)

東京タワー(手前は増上寺の有章院霊廟二天門)

東京タワー(手前は増上寺の有章院霊廟二天門)


東京タワー

東京タワー(お台場から)

(2)スカイツリー(2019.9浅草、2019.11あずまばし、2020.11撮影)

東京タワーは、観光施設としても人気を博し、東京のシンボルともなったが、東京の都心では超高層ビルが林立して、電波障害が生じきたこと、また放送のデジタル化に対応するために新たな電波塔が求められた。その新しい電波塔として「東京スカイツリー」が2012年に完成した。

構想段階では、世界一高い建造物を目指し、東京タワーの2倍の高さ666メートルや、浅草寺の創建年代628年(縁起による)に因んだ高さにする案もあったという。結局、東京近辺の旧国名である「武蔵国」の語呂合わせで、634メートルとなったという話がある。先に述べたように、日光東照宮の五重塔が標高を含めると、同じ高さになるというのも、そうしたこじつけの一つなのだろう。

名称については、「東京スカイツリー」のほか、「東京EDOタワー」、「ライジングタワー」、「ライジングイーストタワー」、「みらいタワー」、「ゆめみやぐら」の6つの候補の中から、「東京スカイツリー」に決定した。

この名称案にもみられるように、東京タワーと同じ「タワー」とつく案が多かった。「塔」から「タワー」へ、そして「タワー」から新たなイメージを持つ「ツリー」になり、二つともに、東京のシンボルとなっている。

なお、東京スカイツリーは、建築物としては、ドバイにあるブルジュ・ハリファ828メートルに次いで世界2位の高さを誇る。

また、東京スカツリーは、構造的に独立した心柱をもっており、「心柱制動」といわれ、地震に強い五重塔が持つ心柱構造を生かしているという。スカイツリーの心柱の内側には、避難階段が設けられていて、訓練など特別な時にこの心柱の中を通れるようだ。

もっとも、五重塔などは、五階建てにみえるが、中には階段などはなく上に登ることはできない構造となっている。そもそも、塔全体が仏舎利を祀るためのものであり、人などが入る建物ではないからである。

参考:『タワー』津川康雄 ミネルヴァ書房 2016

東京スカイツリー

東京スカイツリー


東京スカイツリー(浅草寺から)

東京スカイツリー

東京スカイツリー

(3)ドコモタワー(2020.11撮影)

東京スカイツリーから遠くにニューヨークの摩天楼を思わせるビルが見える。これは、ドコモが旧国鉄の新宿貨物駅の跡地に、建物と鉄塔が一体となったビルを、2000年に建てたものである。

いまでは「新宿のエンパイアーステートビル」とも呼ばれているほど、目立つ存在となっている。高さは240メートルである。

ドコモタワー(東京スカツリーから)

(4)駒澤オリンピック公園の管制塔(2019.12撮影)

1964年の東京オリンピックの際に、国立競技場につぐ第二会場として駒澤公園に各種の運動施設が整備された。この公園は、かっては東京ゴルフ倶楽部のゴルフコースであり、戦後は、プロ野球東映フライヤーズの本拠地ともなった場所である。

公園の広場に建つオリンピック記念塔は、オリンピックの単なるモニュメントとしてだけでなく、管制塔として建てられた。この管制塔はオリンピック会期中、テレビ電波や、観衆を輸送する交通を管理したり、電気・水などもコントロールしていた。あのバレーボールが行われた体育館から、東洋の魔女たちの活躍を電波に乗せて放送したのもこの管制塔である。

管制塔は12層あり、高さ約50mで、五重塔を模したような形状は、日本を象徴したものとなっている。設計は、芦原義信で、ほかには国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉)、ソニービル(銀座)、東京芸術劇場(池袋)などを手掛けている。

駒澤オリンピック公園・管制塔

駒澤オリンピック公園・管制塔

(5)伊豆松崎・時計塔(2020.10撮影)

伊豆・松崎町には、なまこ壁のある商家が多く残っているが、その一軒「中瀬邸」のまえに、奇妙な時計塔が建っている。あるはずのない13時の文字が刻まれたり、宇宙と交信するような突き出したアンテナがあったり、円形の天井には、鳳凰のような鳥が描かれたりしている。

これは石山修武の設計によるものであり、同じ松崎町にある「伊豆の長八美術館」も設計している。

伊豆松崎町・時計塔


4,塔と宗派(時代別)

これまでの塔~関西編・関東編のまとめとして、とりあげた塔と宗派との関係を中心に時代別に整理しておく。

(1)仏教伝来~奈良時代

6世紀中ごろに仏教が伝来し、塔は仏舎利を祀る信仰の中心であった。聖徳太子は、「塔を作る目的は舎利の供養にあり、それによって国は自ら厳清となる」と説いた。

法隆寺は聖徳太子の寺とされ、戦後に聖徳宗を名乗っている。法隆寺では仏舎利を祀る五重塔と仏像が安置される金堂とは並列に配置され、塔の内部には、釈迦の入滅に号泣する弟子たちの塑像が置かれ仏の世界を表している。

さらに奈良時代になると、聖武天皇が東大寺を総本山に全国に国分寺、国分尼寺を造り、仏教による国家鎮護を図った。そのため、寺院は大きくなるとともに、塔は回廊の外に出て、七重塔のように、より高くなった。大きな伽藍は、信仰というよりも権威を示すものとなった。塔には、仏舎利を納めるのではなく、「金光明最勝王経」という四天王たちによる国家鎮護を説いた経典を納めた。このころは、南都六宗といわれ、それぞれ中心となる寺院があった。これらの宗派は主に経典を学ぶ学派的な学僧の集まりであったとされる。なお、現在に残るのは、法相(興福寺、薬師寺)、華厳(東大寺)、律宗(唐招提寺)の三つである。

興福寺は、法相宗であり、金堂とは離れた位置に五重塔と三重塔を持つ。

また、海龍王寺は真言律宗であり、西金堂に納められている五重小塔は、薬師寺の三重塔にも似ている。

談山神社の十三重塔にみるように、神仏習合に伴い、神社(神宮寺)にも塔が建てられた。

一方で、官寺、氏寺ではなく、山林寺院が造られ、平地から、山奥に寺院が開かれた。室生寺などは、本堂からさらに奥に美しい五重塔が建つ。室生寺は、興福寺の末寺であり、その後中世には、真言宗に転宗する。

(2)平安時代

平安時代になると、南都六宗に最澄による天台宗、空海による真言宗という密教が加わり、国家権力に密着する「顕密体制」となった。近世以前の塔では、天台宗と真言宗の寺院が圧倒的に多い。

法華経では「塔を建立するものは悟りを得ることができる」と説くことから、天台宗の寺院では、三重塔などの塔も建てられる。琵琶湖周辺にある天台宗の寺院である西明寺、金剛輪寺、常楽寺、長命寺、など、多くの寺院に三重塔が建てられた。

真言宗でも、東寺などに五重塔などが建てられるが、特徴的な塔が、多宝塔である。塔の内部には大日如来を中心とした五智如来を配置するなど密教の世界を表し、仏舎利を祀る塔とは根本的に異なるものとなる。多宝塔は、規模としては小さいものが多いが、構造的には、五重塔などを建てるより、技術的に難しいという。

また、平安末期には、末法思想とともに、浄土信仰が高まる。浄瑠璃寺(真言律宗)にみるように、池を挟んで三重塔に薬師如来を安置し、対岸の金堂に九体の阿弥陀如来を拝する。ことにより、来世(彼岸)と(此岸)を表している。

(3)鎌倉時代~室町時代

鎌倉時代に入ると、これまでの顕密に対して、鎌倉仏教といわれる新たな宗派が生まれる。しかしながらこうした新宗派では、塔を建てることは少ない。

法然の浄土宗には塔は例外的にあるが、親鸞の浄土真宗には、塔はみられない。浄土宗、浄土真宗は、その教義からして念仏が基本であり、塔を建てることは教義上必要なくなった。また、伽藍を飾る塔ではなく、庶民を中心とした多くの信者を収容できる大きな御影堂などが建てられた。

法華宗(日蓮宗)では、法華経を根本の経典とすることから、塔が建てられる。江戸時代になるが、池上本門寺の五重塔(1608年建立)や法華経寺(1622年建立)の五重塔がある。

禅宗では、栄西の臨済宗では、京都・法観寺(八坂の塔)や安土に移築された摠見寺などに見られるものの、道元の曹洞宗では、ほとんどない。

禅宗の中では、臨済宗は、有力な武士を信徒に持ったことから、塔が建てられることがある。京都・法観寺(八坂の塔)や安土に移築された摠見寺などに見られる。しかし、曹洞宗は、その禅の教義や、地方に寺院を設け修業に努めたように、寺院の飾りとしての塔を建てることはなかった。ただし、臨済から曹洞へ転宗した寺院や、一部の曹洞宗の寺院には見られる。

(4)安土・桃山時代~江戸時代

戦国時代には、多くの堂宇が兵火により焼失している。それを再建することが、豊臣家の財力を消耗させるため行われたり、徳川家により再建されたりした。それは、権力の象徴だけでなく、財力を誇示するためでもあった。

徳川家康が亡くなると、東照宮が建てられ、五重塔、そして墓として宝塔が建てられた。

また、徳川家の菩提寺は、浄土宗の増上寺と天台宗の寛永寺があり、それぞれ堂宇が整備され、増上寺には、二代将軍・秀忠の供養塔として五重塔が1600年代の半ばに建てられた。その後、1800年初頭に火災により焼失している。

川越の喜多院は、天台宗の僧・天海が住職となったことから、多宝塔が建てられた。

成田山新勝寺(真言宗)のように、江戸庶民に広く不動信仰が広まり、本堂をはじめ、日光東照宮の五重塔と同様、装飾が過剰なほどの塔が建てられた。

また、大分の龍源寺は浄土宗であり、そこに三重塔があるのは珍しい。前にも述べたが、九州には他の地域に比べ、五重塔、三重塔は少なく、江戸期までに造られた塔は二つしかない。

なお、江戸時代初期に来日した、隠元を開祖とする黄檗宗があるが、これも禅宗の一派であり、塔などは造られない。

(5)明治時代~現代

明治に入ると、神仏分離令、寺領上地令により各寺院は大きな痛手を被る。仏像や経典は焼き払われるなど、廃仏毀釈が広まった。興福寺の五重塔のように売りに出されるケースも生じた。

神社として継続した、東照宮、竹生島、また中臣鎌足を祀る談山神社まで、神仏分離をするよう命令された。しかしながら、塔のような大きな建物は、移設するにも、廃棄するにも大きな困難が伴うことから、そのまま残された。

こうした混乱期には、五重塔の数でみると、明治の44年間で、わずかに4基しか建てられていない。大正期から戦後までは、1基も建てられていない。五重塔の建設が再開されたのは、昭和30年代からで、昭和が終わるまでに25基、平成に入り、31基となり、その多くは、木造ではなく、コンクリート造になっている。

四天王寺の五重塔、浅草寺の五重塔もコンクリート造りで再建されている。これらは寺院のシンボリックな建物ともなっている。

近年、多くの塔が建てられているが、これらは、震災や戦災による犠牲者の慰霊塔であったり、供養塔として、また平和を祈願して建てられたものが多い。

宗派の教義というより、普遍的な平和祈願といった目的で塔を建てたり、また寺院の充実を図る、あるいは信徒を含む財力の観点からシンボル的に塔を建てるケースが増えているのかもしれない。なかでも、練馬・三宝寺にみるように、真言宗の寺院では平和祈願として多宝塔を建てている。同じく、成田山新勝寺も平和大塔を建てている。

また、寺院ではなく、また仏塔でもなく、被災者の慰霊を行うために 宗派に関係ない新たな建物が建てられる。伊東忠太の設計による東京慰霊堂も、そうした建築物である。

あるいは、三渓園の塔にみるように、庭園の一部として、また古い建築の保存、趣味として、宗派とは全く関係なく塔が移築されている場合もある。目白の椿山荘の庭園にある三重塔も同様である。この塔は、広島の竹林寺から大正時代に移築されたもので室町から江戸初期のものとされる。

塔は、それぞれの時代を経て、本来の釈迦の信仰のためから遠く隔たり、その目的はひとつの建築的な飾り、シンボルとなってしまった。

現代に至り、塔はシンボルとしての「タワー」として甦った。東京タワーやスカイツリー、また京都タワーなどは、観光スポットとして、人気を博している。かって、塔は信仰、信者のためであったが、タワー、ツリーは観光、観光客のための建造物となり、ランドマークとなっている。それでも、東京タワーのように、古代の古墳の上に建ち、また増上寺の五重塔のあった付近に建ち、東京スカイツリーは、心柱構造という伝統的技術を用いて、日本では一番高い塔を建設した。いずれも、塔の名残りを引き継いでいるともいえる。

また、塔にしても、タワーにしても、より高くを求めてきた。高さが、古代には信仰の象徴となり、その後の時代では権力、あるいは財力の誇示であり、そして現代になると、観光のシンボルとなったともいえるだろう。

これまでに撮った塔の写真を整理し、それぞれの塔の歴史などをまとめてみた。これからも、機会があれば、まだ訪れたことのない各地にある五重塔、三重塔などを見てみたいと思う。

参考として、取り上げた塔のうち、江戸時代までに建てられたものを、その寺院の宗派と建立(再建)年代をリストにしておく。

関東編:

東照宮・五重塔 (神社) 1818

旧寛永寺・五重塔 天台 1639年 (上野東照宮は神社)

喜多院・多宝塔 天台 1639

新勝寺・三重塔 真言 1712

旧燈明寺 (三渓園) 日蓮もと天台 15

関西編:

法隆寺・五重塔 聖徳 7c末

室生寺・五重塔 真言 8c末~9c初

興福寺・五重塔 法相 1426

(同上)・三重塔 法相 13c鎌倉前期

浄瑠璃寺・三重塔 真言律 12

海龍王寺・五重小塔 真言律 8c 

談山神社・十三重塔 (神社) 1532年(多武峰妙楽寺 創建時679年 法相 のち956年天台に、鎌倉時代には曹洞宗へ転宗)

東寺・五重塔 真言 1644

清水寺・三重塔 北法相 1632

法観寺・五重塔 臨済 1440 (八坂の塔)

長命寺・三重塔 もと天台 1597

西明寺・三重塔 天台 13

金剛輪寺・三重塔 天台 14

常楽寺・三重塔 天台 1400

摠見寺・三重塔 臨済 1454年(旧長寿寺 三重塔跡)

龍源寺・三重塔 浄土 1858



参考:

『日本の塔』濱島正士 平凡社 1996

『日本仏塔集成』 濱島正士 中央公論美術出版 平成13

『五重塔のはなし』 濱島正士 監修 建築資料研究社 2010年

『古代寺院』吉村、吉川、川尻 編 岩波書店 2019年


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