大斎原(おおゆのはら)・熊野本宮大社 |
前回の1.古代の神社に続き、2,中世の神社として、これまでに撮った寺社の写真を通じてカミ(神道)とホトケ(仏教)の変遷を見ていきます。
2.中世の神社:神祇信仰~御霊信仰
前回に述べた律令体制のもと、天皇を天照大神(アマテラス)からの系譜に位置づけ、出雲をはじめとする地方の豪族を「国譲り」として治め、その正当性を示した。具体的には、天皇は神祇官を通じ、班幣を行うことで、各地の神社を統治した。
天武・持統の時代から聖武天皇の時代になると、そうした律令制にほころびが見え始め、疫病や、反乱などの社会不安が広まった。聖武天皇は東大寺を中心に、全国に国分寺、国分尼寺を造り、仏教による鎮護を図る。
一方で、そうした社会不安を背景に、私度僧である行基は、民衆の中に入り仏教を説くとともに、困窮者の救済や社会事業を行い、民衆の支持を得た。そうしたことから行基は東大寺大仏建立にあたり、実質的な責任者として招聘された。
平安時代に入ると、都が京都に移され、王城の鎮護、社会の安寧を適え、人々の精神的不安を取り除く新たな仏教が求められた。それが、唐から帰ってきた最澄と空海が広めた密教である。これまでの顕教といわれる仏教では、釈迦の教えを経典など目に見える形のもので学問的に修得するのに対し、密教とは目に見えない釈迦の教えを修業や瞑想などと通じて直観的に体得することをいう。したがって、それには加持祈祷といった修法が求められた。
最澄、空海による密教は、同じく国家鎮護を標榜しながらも、これまでの南都六宗のように国家によって維持される国家仏教ではなく、国家の統制から自立できる力を持つようになっていった。
こうした密教の広がりとともに、10世紀から11世紀には、山岳信仰、稲荷、八幡、熊野三山、天神、祇園、弁天などの威霊ある神々の信仰が活発になっていた。 これらの神々を王城の鎮護にとりこむため、二十二社・一宮体制が敷かれていった。
(1)伏見稲荷神社(東伏見)~密教:最澄・空海
伏見稲荷大社は、もともとは渡来系氏族・秦氏の氏神で、後ろの稲荷山に神を祀ることによって、五穀豊穣をもたらすという稲荷信仰が広まった。
秦氏の稲荷社は空海の東寺とのかかわりが深く、稲荷山は山林修業の場であり、東寺の塔を建てる際に、稲荷山の木を切って使ったという伝承もある。空海の密教の広がりとともに、稲荷信仰も広まっていった。
稲荷神といえば、狐が神の使いとして知られるが、密教との関わりから、荼枳尼天(ダキニテン~もとはヒンドゥー教の女神で仏法の守護神)を乗せる白狐が結びつき、豊川稲荷のような仏教系の稲荷信仰も広まった。
近世にかけては、稲荷神は五穀豊穣の田の神であるばかりでなく、土地神として、社寺や城郭を普請するときの鎮守神として勧請された。
(ここでは、伏見稲荷大社から勧請した東伏見稲荷神社(昭和)と築地にある波除稲荷神社(江戸)の写真を載せる。)
東伏見稲荷神社(2020.6撮影) |
波除稲荷神社(2019.9撮影) |
(2)熊野三山~本地垂迹
最澄の天台宗では、法華経を最も中心の経典として重視するが、ここから本地垂迹説が出てきた。すなわち法華経は全体が28章に分かれていて、前半の14章を「迹門(しゃん)」、後半の14章を「本門」といい、本門で説かれる永遠の仏陀に対し、歴史上の仏陀は、その仮の現れ、すなわち「迹」であると説く。それが、神と仏の関係に適用され、仏を本来の姿である本地、神を仏が仮に現れた姿である垂迹とみるようになった。
一方で、最澄は比叡山で、空海は高野山で修行を行ったように、役行者が創始したという霊山にこもって修行する修験道が平安時代に広まっていく。役行者は、吉野・金峯山で、修行する中で蔵王権現が現れたとする伝承がある。いまでも、金峯山寺の本尊は蔵王権現である。権現とは、すなわち権(仮に)現れた神仏という意味で、あらゆるホトケ、カミを包含した霊力を持っているとされる。
こうした密教の影響、さらに修験道の広がりは、本地垂迹をもって、神仏習合の第二段階ともいえるように、カミとホトケの互いの関係が深まった。それを熊野三山にみることができる。
熊野三山も金峯山などと同様、霊山であり、「熊野権現」と呼ばれた。熊野本宮大社の主祭神(ケツミコノカミ)は阿弥陀如来、熊野速玉大社(新宮)の主祭神(クマノハヤタマオノカミ)は薬師如来、熊野那智大社の主祭神(クマノムスミノカミ)は千手観音とされた。
こうしてカミとホトケが結びつき一体化すると、平安後期には、浄土信仰の強まりと合わさって、熊野三山の本宮は西方の極楽浄土、新宮は東方の浄瑠璃浄土、那智は、南方の補陀落浄土の地とされ、熊野全体が浄土の地であるとみなされた。しかも、記紀神話に語られる神の地でもあった。そのため、上皇をはじめとする皇族・貴族の熊野詣が盛んになり、後白河院は34回にも及んだ。
熊野本宮大社(2020.2撮影) |
熊野本宮大社(2020.2撮影) |
熊野本宮大社(2020.2撮影) |
熊野速玉大社(新宮)(2020.2撮影) |
熊野速玉大社(新宮)(2020.2撮影) |
熊野速玉大社(新宮)(2020.2撮影) |
神倉神社(2020.2撮影) |
「ゴトビキ岩」神倉神社(2020.2撮影) |
那智大社(2020.2撮影) |
那智大社(2020.2撮影) |
那智大社(2020.2撮影) |
那智・飛瀧神社(2020.2撮影) |
花の窟神社(2020.2撮影) |
花の窟(いわや)(2020.2撮影) |
(3)上賀茂・下賀茂神社、貴船神社~二十二社
すでに述べたように、8世紀の律令制のもとにつくられた官社は、天皇のもと神祇官により地方の祝部(神官)が呼び集められ、幣帛を賜り、各地に戻り奉幣するという、国家により統制された仕組みであった。しかし、次第にゆるみが生じ、幣帛を受け取りに来ないところが出てきた。そこで、11世紀には、官社の格付けを定め、国家の異変、天変地異が生じたときに奉幣使をたて、祈願する神社を二十二社選んだ。(あわせて、後に述べる各国で社格の高い一宮の神社を定められた。)
二十二社は、ほとんどが近畿内の神社で、とくに重要とされる上七社には、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社、松尾大社、平野神社、伏見稲荷大社、春日大社が格付けされている。このうち、賀茂神社、いまの上賀茂神社、下賀茂神社をみてみる。
賀茂神社は、古代の氏族である賀茂氏の氏神である。賀茂氏は、おなじ山城の秦氏との関係も深いとされる。賀茂氏も秦氏もどちらも、この地域を治めていた豪族であり、その氏神である伏見社も賀茂社も王城の鎮護神として二十二社のうちの上七社となっている。こうした神社の奉幣には、天皇の使いである勅使が立てられた。
賀茂社で有名なのが葵祭である。今も行われている平安絵巻のような行列の主役は勅使代であるが、ヒロインは斎王(代)である。斎王とは、皇室から差し出される未婚の内親王、王女(天皇の皇女)であり、伊勢神宮と賀茂神社に巫女として奉仕した。
葵祭(賀茂祭)のような、もともと五穀豊穣を祈願するこうした祭礼が、天皇の祭礼にもとづく国家的な行事となっていった。
貴船神社は、社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、水の神を祀ることから、祈雨の神として信仰された。祈雨、止雨は、稲作をはじめ五穀豊穣のため最も重要な祈願であり、貴船神社が下八社に選ばれている理由であった。
上賀茂神社(賀茂別雷神社)(2019.11撮影) |
上賀茂神社(賀茂別雷神社)(2019.11撮影) |
上賀茂神社(賀茂別雷神社)(2019.11撮影) |
下賀茂神社(賀茂御祖神社)(2019.11撮影) |
貴船神社(2019.11撮影) |
貴船神社(2019.11撮影) |
(4)大國魂神社、三島神社~一宮
天皇祭礼の対象となった二十二社に対し、地方の諸国で成立していたのが一宮制である。その例を東京府中にある大國魂神社と静岡の三島神社でみてみる。
一宮制というのは、さきに述べたように、律令制のもと各地に官社をつくり、神祇官より幣帛を班給する仕組みであったが、遠隔地の神社の中には幣帛を受け取りに来ない事態が生じた。そこで、官社を、幣帛を直接受け取る官幣社と、諸国の国司を通じて受け取る国幣社に二つに分けた。国司は朝廷から任命され、その国に任ずると、有力な神社へ巡拝し、班幣を行うこととなる。それが国司神拝と呼ばれるものとなった。その国司が最初に巡拝すべき神社を一宮、つぎを二宮、三宮と順になっていったとされる。
府中には武蔵国の国府が置かれた。国司は、武蔵国にある一宮から六宮までを巡拝することが大変なことから、各社の神を勧請して、一つにまとめて祀り、その神社に参拝するだけで済むように総社を置いた。それが府中の大國魂神社である。
大國御魂神社で、今も行われている奇祭に「くらやみ祭り」がある。暗闇に行われるのは、神聖な御魂が神社から神輿に移り御旅所に行く際に人目に触れることのないようにするため、という神事の伝統が今も守られているとされる。
静岡の三嶋大社は、伊豆諸島の「御島」に由来するといわれ、伊豆国の一宮である。三島にも伊豆国の国府が置かれ、三島大社も総社であったとされる。いつしか地名も三島となり、今では新幹線の駅名にもなっている。また、各地に「一宮」あるいは「二宮」といった地名が残っている。
このように、平安京の天皇、貴族にとって中央の二十二社が「王城鎮守」とされ、地方の国衙にとっての一宮制が「国鎮守」とよばれ、相互に補完しあって、国家祭礼体制が出来上がった。
府中・大國命神社(2019.9撮影) |
大國命神社(2019.9撮影) |
大國命神社(2019.9撮影) |
大國命神社(2019.9撮影) |
静岡・三嶋大社(2019.11撮影) |
(5)亀戸天神~御霊信仰(菅原道真)
御霊信仰は、天災や疫病の発生を怨みを持って死んだり、非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざ、「祟り」として畏怖したが、その霊を鎮め神として祀れば「御霊」となって平穏と繁栄をもたらすと信じられた。
三大怨霊として知られているのは、菅原道真(845-903年)、平将門(903-940年)、崇徳天皇(1119-1164年)の三人の怨霊である。
菅原道真は、中流の文章博士の家柄に生まれたが、その才能を認められ右大臣まで上りつめた。その異例の昇格に危機感を持った、左大臣の藤原時平らの陰謀により、大宰府に左遷され、その地で没した。その後まもなく、陰謀を企てた藤原一族の間につぎつぎと不吉なことが続いた。また、世の中には疫病が蔓延し、雷雨がしきりに起こった。これらは道真の怨霊による祟りだとされ、道真を天神=雷神として祀るため、京には北野天満宮、九州に大宰府天満宮が建てられた。怨霊は御霊となり、怒りを鎮め、慈悲に満ちた神に変化し、それに応じ信仰の性格も変わり、文人であったことから、学問の神、詩歌の神として信仰されるようになった。
亀戸天神は、江戸時代、明暦の大火からの復興事業として本所の地を定め、鎮守の神として天神様を祀った。古くは、東の大宰府として「東宰府天満宮」とも呼ばれた。
また、江戸・東京には、湯島天神があり、近くに湯島聖堂が移ってきたこともあり、文教の中止となり、学問の神として多くの参拝者があった。いまでも、受験シーズンとなると、合格祈願の神様として、まさに神頼みに訪れる人が多い。
このように、天神は、学問の神として、また稲作に必要な雨と水をもたらす雷神として、全国各地に広まった。
亀戸天神(2020.11撮影) |
(6)筑土神社、神田明神~御霊信仰(平将門)
平将門の乱と藤原純友の乱は938~941年にかけ続けて起こったが、これも、先の菅原道真の怨霊と結びつけられた。平将門は、一族の争いから、地方豪族の調停にかかわり勢力を拡大して、ついには関東全域を制圧し、「親皇」を名乗り、関東に独立勢力圏を打ち立てようとした。これに対し、朝廷は直ちに諸社寺に調伏の祈祷を行わせるとともに、追討軍を出した。将門は自ら先頭に立ち奮戦するも、流れ矢が当たり討死した。将門の首は京でさらし首にされ、首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、落ちたところの一つが、今は大手町のビジネス街の中心にある「将門塚」だという伝説がある。
九段にある筑土神社は、江戸時代には、将門の首そのものが安置されていたといわれ、将門信仰の象徴的神社となっていた。
また、神田明神は将門塚が創建の地とされ、将門を祭神として祀っていた。しかし、明治に入ると、天皇が京から江戸に移り、明治天皇が行幸するに、逆臣である将門が祀られているのはあるまじきこととされ、祭神から外された。祭神に復帰したのは、1984年(昭和59)になってからであった。
将門信仰は、中央に対し叛旗を翻した反骨精神の武将として、東国の武士や、修験者に信奉された。さらに、庶民には世直しの神としても信仰を集めた。首に因んで、首まわりや首より上の病気の治癒神ともされた。
天神信仰=菅原道真も、神田明神=平将門も、怨霊を鎮め、御霊として祀られることにより、力強いが優しい神となって人々に信仰された。なお、三大怨霊とされる崇徳天皇は、京都・白峯神社に祀られている。
大手町・将門塚(2019.10撮影) |
大手町・将門塚(2019.10撮影) |
神田神社(2019.10撮影) |
神田神社(2019.10撮影) |
神田神社(2019.10撮影) |
筑土神社(2019..10撮影) |
筑土神社(2019..10撮影) |
(7)弁財天~女神信仰
弁財天は、もともとはヒンドゥー教の川の女神であり、仏教の天部として伝来し、神仏習合により神道にとりこまれ、様々な変容をとげた。多くの財をなしうるということから福徳の神、また音楽の神として信仰され、川や湖、池などの水辺に多く祀られる。
また、人頭蛇身の姿でとぐろを巻く宇賀神と習合して、竹生島宝厳寺の弁天像のように弁財天の頭頂部に小さく乗っている姿もみられる。
蛇は、川の流れのようにうねる姿から、水の神とされ、また脱皮をすることから「死と再生」のサイクルとして不老不死の霊力を持つとされた。蛇頭は男性のシンボルを連想させ、子孫繁栄の霊力を持つとされた。水の神である蛇と弁財天が結びつくことにより、豊穣をもたらす神として広く信仰されるようになった。
近世には、七福神の一つとなり、福徳や財宝を授ける女神として、宝船に乗る縁起物にもなっている。
竹生島や江の島、宮島(厳島)の弁財天がよく知られているが、ここでは、竹生島宝厳寺の弁財天と上野・不忍池の弁天、井の頭池にある弁天を載せる。いずれも、かっては寺院の一部であった。
竹生島(2020.11撮影) |
竹生島・宝厳寺「弁財天」(2020.11撮影) |
竹生島・白蛇 |
竹生島・白蛇・福徳の神 |
不忍池・弁天堂(2019.11撮影) |
不忍池・弁天堂(2020.11撮影) |
弁天堂・宇賀神「人頭蛇身」(2020.11撮影) |
井の頭・弁財天(2019.3撮影) |
井の頭・弁財天(2018.5撮影) |
(8)カミの姿の変容
ここで、カミの姿の変容のあらましをフォローしておくと、古代の自然信仰では、雷のように自然の驚異に畏怖するカミを、山の中の磐座などを依代として祀った。その後は、山そのものを御神体として祀るようになった。この時期はカミの姿は見えないものであり、シャーマンを通じてカミの声を聞いた。
仏教が伝来し、釈迦や仏像の姿の影響も受けて、次第に天照大神など神話に登場する神々が生まれたが、いずれも抽象的な神である。さらに、神武天皇をはじめとする天皇神が、その正当性を示すものとして位置づけられた。
律令制に伴い、天津神と国津神を祀る神祇信仰により各地に神社が造られ、仏教とともに鎮護国家の役割を担うようになる。
神仏習合が進み、カミはホトケの加護を願うようになり、本地垂迹が広まると、ホトケが、仮にカミの姿となった。本地垂迹というと、カミはホトケに従うように見えるが、かえってカミはホトケの慈悲の力を授かるものとなった。
また、山岳で修験道が行われるようになり、カミは「権現(仮に現れる)とし、蔵王権現のように忿怒の様相であらゆる霊力をもつとされる。こうした異形の神は、弁財天などにもみられる。
平安時代に入ると、今回見てきたように、人格を持った神、それは天皇ではなく、非業の死を遂げた人が怨霊となり、それを鎮めるために御霊として祀られ、人神(ヒトガミ)となった。
さらに、近世になると、武士の頂点に立った人物が神となって祀られるようになる。戦国時代、織田信長も、豊臣秀吉も、そして徳川家康も神になりたかった。
(9)鎌倉仏教と神道
仏教においては、天台・真言の密教に対し、新たにいわゆる鎌倉仏教が登場してきた。
この鎌倉新仏教の各宗派のカミ=神祇信仰に対するスタンスを見ておく。
まず、既存の仏教に対し改革運動を始めたのは、比叡山に学び、山を下りた法然の浄土宗である。法然の説く専修念仏は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることによって救われ、他の修行は否定したことから、神祇あるいは本地垂迹の信仰も雑行の一つとして否定していた。この神祇不拝の態度を、興福寺等の既存宗派より、念仏に事寄せて神を敬わないと批判された。
法然の教えを継ぎ、さらに徹底した親鸞(浄土真宗)に至っては、神祇信仰をはっきりと否定している。しかしながら、その後継者たちにより、教線を拡大するため、徐々に神祇信仰を受け入れるようになっていった。
浄土宗の一派である時宗の一遍は、熊野権現(本地は阿弥陀仏)に神勅を受け、信不信、浄不浄を問わず念仏札を配りなさいというお告げにより全国を回り、結縁を成すという伝承があるように、神祇信仰を全面的に受け入れていた。
また、禅宗においては、臨済宗は、のちに吉田神道(後述)に学ぶ禅僧が出てきている。一方、曹洞宗は、道元は、神祇信仰を認めつつも、積極的に接近する立場ではなかった。しかし、曹洞宗は、北陸、東北、関東など地方に教線を広げていくうえで、神祇信仰の受容は不可欠であった。
日蓮宗は、日蓮にしてから神祇信仰の取り込みに積極的であった。とりわけ他宗への批判攻撃をする一方で、正法(法華経の教え)を擁護する神々を取り込んだ。日蓮宗には、三十番信仰というのがあるが、これは三十の神々が一か月三十日の間、交替して法華経護持に当たるという信仰である。
こうした鎌倉仏教が、神祇信仰も受け入れて多くの信者を獲得し、勢力を拡大していくのは、室町時代になってからである。浄土真宗の蓮如は、親鸞の教えをよりシンプルにわかりやすく説き、農民、武士、商工業者など多くの門徒を得た。また、曹洞宗は、僧の葬送儀礼を在家の人に適用できるよう、簡素化し、座禅よりむしろ葬送儀礼により地方に大きく教線を拡大した。
また新仏教のみでなく、既存仏教の西大寺(律宗)の僧・叡尊にように、ゆるんだ戒律を改めて戒律を厳守することを説くとともに、非人救済など社会事業を行い社会的に大きな影響を与えた。
これらの改革運動の背景には、南北朝の内乱を経て、室町幕府が京都に置かれたことにより、権力のトライアングルが武家に独占され、公家、寺社はそれへの従属という構造的な変化があり、そうした寺社の相対的な低下に対し、民衆の支持を得る新たな仏教改革が必要となったと考えられる。また、一方では天皇・公家の権力低下に対応して、神社に新たな神道理論が求められた。
(10)神道理論・吉田神道
先に述べた二十二社・一宮体制は、応仁の乱により、京の都はマヒ状態になり解体し、一宮も守護から戦国大名が登場し、その支配体制の中で解体していった。
この応仁の乱の時期(1467-1477年)に、仏教の影響を受けつつも、それとは独立した吉田神道(唯一神道とも)が確立していく。吉田神道は、占いの卜部家の兼俱(かねとも)が、神道の教説についての新たな理論化と儀礼の体系化を図り、それに基づいて全国の神社、神職を一元的に統制しようとした。具体的には、吉田山にある斎場所を「日本最上神祇斎場」と称して、茅葺八角形の大元宮をつくり、そこに大元尊神を祀り、これこそが日本の神々の中心だと主張した。すなわち、天照大神をも取り込んだ、「根源神」を求め、そこに神々の秩序を見出そうとした。大元宮は、時の足利幕府の日野富子の援助を受け、天皇からの勅額を受けて神道の中心としての権威付けを行った。それによって全国の神社、神職を組織化し、宗教としての神道を確立しようとした。ただし、神道は、浄土真宗が門徒まで組織化したのとは違い、神社の氏子といわれる信者までを組織化したのではなかった。
吉田神道において説かれる「根葉花実説」というのがある。日本は種、根(=神道)を生じ、中国は枝葉(=儒教)に現し、天竺(インド)は果実(=仏教)を開く、すなわち、神・仏・儒が相互に密接な関係があるなかで、神道を根本に据えることによりその優位性を主張した。
なお、、伊勢神道(後述)の理論家で、南朝を指揮した北畠親房は『神皇正統記』を「大日本は神国なり」という文句で始めている。こうした「神国日本」という思想は、のちの時代、皇国史観の源泉となった。
吉田神道のまえに、密教の胎蔵界、金剛界を伊勢神宮の外宮、内宮に重ね合わせた両部神道、天台宗の一部としての山王神道など、仏教内部的な神道があったが、こうした神道は、本地垂迹説を踏まえたものであるのに対し、逆に、反本地垂迹説(神本仏迹説)を踏まえた渡会家による伊勢神道があり、これら諸説の神道を背景に、独自の体系化を行ったのが吉田神道である。こうした神道の理論化は、仏教が新仏教により改革を進めたのと同様、新たな神道の復権を求めた動きともとらえられる。
なお、この吉田神道は、江戸時代には寺院の統制と同様、幕府の神社を統制する中心となった。
吉田神社・大元宮(Wikipediaより) |
(11)中世の寺院建築
平安時代以降の寺院建築について、その特徴的なところを見ておく。
多くの寺院が配置された平城京とは違って、平安宮に置かれた寺院は東寺と西寺のみであり、そのうち東寺は空海に任され、大日如来像を中心とする密教の世界観をあらわす立体曼荼羅が置かれ、真言密教の根本道場として「教王護国寺」と称した。相対する、西寺は平安宮の衰退とともに荒廃し、いまは見る影もない。
都の中心に寺院が置かれない一方で、密教や修験道の修行の地である山岳に寺院が建てられた。その代表が比叡山の延暦寺であり、高野山の金剛峯寺である。
建築として特徴的なのは、真言密教にみられる多宝塔であり、三重塔、五重塔とは違った日本独自の建築様式とされる。
鎌倉時代には、中国・宋に学んだ重源が、平重衡による南都焼き討ちにより消失した東大寺の再建を果たす。そこに用いられたのが「大仏様」といわれる中国・宋の建築様式を取り入れた大きく剛健な建築スタイルである。
また、宋の様式を取り入れた禅宗伽藍の建築様式が「禅宗様」として、鎌倉の円覚寺、などに用いられた。これらは、武士として鎌倉幕府を開いた源頼朝にとって、平家に替わって為政者となったことを世に知らしめるものであった。また頼朝政権はそれまでの平安貴族文化になじみが薄かったことから、東大寺の再建、鎌倉という地方都市の建設に宋からの新しい建築様式を取り入れることができた。
こうした建築様式が用いられた背景には、日宋交易の活発化に伴い、栄西のような入宋した禅僧、また蘭渓道隆のような宋から渡来した僧の活躍があった。
しかしながら、戦国時代に入ると、東大寺は再び兵火に遭うなど、多くの建築物が破壊されることとなった。
「禅宗様」東村山・正福寺・地蔵堂(国宝)(2019.3撮影) |
次回は、3.近世の神社を予定しています。
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