日光東照宮(2020.3撮影) |
前回は、天下人のキリシタンに対する対応について、その禁教までを概観しました。続いて、近世2として、天下人の神についてみていくこととします。あわせて、これまでに撮った関連する寺社の写真を掲載します。
3.近世の神~天下人の神
この時代は、天道の観念のもと、信長が「天下布武」を唱え、つぎの秀吉は「天下統一」をはかり、さらに家康によって「天下泰平」の江戸時代となったという流れのなかでどのようにカミ・ホトケの対応が行われたかをみていく。
(2)天下人のカミ・ホトケの統制
まずは、天下人の仏教、神道に対する対応についてみてみる。
①信長の「天下布武」
信長の仏教に対する弾圧は強烈であった。なかでも比叡山の焼き討ち(1571年)はその激しさとともに良く知られている。比叡山・延暦寺はふもとの坂本にある日吉神社と神仏習合しており、かって平安時代に白川天皇は、意のままにならぬものとして「賀茂川の流れ、双六の賽、山法師」を挙げたというが、その山法師は比叡山の僧兵たちを指している。これまでの権力者もカミ・ホトケの力を恐れて手が付けられなかった比叡山に対し山頂から坂本までほとんどすべての建物を焼き払い、多くの僧たちを殺害したとされる。信長が攻めたのは、比叡山が敵対する朝倉義景を支援したという軍事的戦略からであるといわれている。
また、比叡山と同様、中世の主流であった真言宗に対しても、高野山の僧たちを斬り殺した。
もう一方の宗教勢力である、一向宗(浄土真宗)とも石山本願寺において熾烈な戦いをし、これを壊滅させた。各地で起った一向一揆において、「進まば往生極楽、退かば無間地獄」という、その死をも恐れない信仰心をもって戦いをする教団は、他の戦国大名以上に強敵であった。それを信長は平定し、ついには頂点の石山本願寺を破壊したとされる。
法華宗(日蓮宗)に対しても、「安土宗論」(1579年)を仕掛け抑え込んだ。宗論とは各宗派の教義上の論争を裁定者のもとに行うことであるが、安土宗論は、安土城下で、法華宗と浄土宗の僧の間で論争し、その裁定者が信長であった。結果は浄土宗の勝利という裁定であった。これも各宗派を統制しようとする信長の意図があったとされる。
なぜ、信長はこのような、カミもホトケも恐れない行動をとった(とれた)のであろうか。戦いをこととする戦国大名も、カミ・ホトケに戦勝祈願、武運長久をを一心に祈っていたはずである。
その理由として、「天道」という観念があったと考えられる。
この時代、「天道」という観念が武士をはじめとして広まっていた。天道とは、太陽・月の天の道ということであり、「運を天(道)に任す」などというように、人間の運命を超える大きな摂理と考えられた。天道に敵えば、神仏の加護を得られる、というように天道と神仏は等値であった。逆に天道を外れた行いをすれば「天罰」が下るとされた。つまり天道には、世俗的な道徳、とくに仁・義・礼・智・信という儒教的道徳を守ることが大切であるとされた。さらに祈祷など外面的な行為よりも内面的な「誠」「正直」といった心、倫理が天道に通じるものとされた。
先にキリシタンがデウスを「天道」とも訳したことを述べたが、こうした「天道」の観念はキリストの神にも酷似している。不干斎ハビアンがデウスのもとに、仏教、神道を批判したように、天道という観念は、仏教、神道などを相対化しうる視座を持つことになる。
天下人は、仏教や神道の教義、あるいは信仰そのものを抑圧、攻撃したわけではなく、そうした各宗派が共存することに反するような他宗派を攻撃する行為を非として、批判し、攻撃した。それが、「天道」に適うことであった。
先に述べた信長の比叡山への焼き討ちは、戦国大名らの勢力争いに、世俗的武力をもった比叡山の僧たちが絡んだためであり、一向一揆は、真宗内部の勢力争いも絡んで、相手を攻撃したからであり、また、宗論は、いわば教義の決闘のようなもので負けた宗派の僧衣を破り暴行するといった行為は、「天道」に適わぬとしたのであろう。
天道に適えば、神仏の御加護を得られる、したがって、信長は神も仏も恐れることなく、仏教、神道をふくめ各宗派が共存するように取った行動であり、逆に共存しなければ罰として懲らしめる行動であったともいえよう。
信長が、朱印に用いたという「天下布武」という言葉がある。これは武力を持って天下を治めるということではなく、「武」という語には、争いや戦いを止めるという意味があり、「天下に七徳の武を布く」という安定的な世を築くという意思の表れとみることができる。
参考:
*「七徳の武」とは、暴を禁じ、兵を治め、大国を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和せしめ、財を豊かにすること 。
**「天下布武」については、足利将軍のもと、天下とは京を含む、五畿内を平定すること、であり、全国統一ではないとする。(神田千里『織田信長』ちくま新書2014年)
②秀吉の「天下統一」
秀吉の伴天連追放については、すでに見たところであるが、仏教に対する秀吉の対応についてみてみる。
秀吉も、信長に引き続き、高野山を降伏させ、、三井寺の領地を没収、また、根来寺を焼き討ちするなど仏教集団を弾圧した。しかしながら、石山本願寺の跡に大坂城を築いたのちに、本願寺に寺社地の寄進をし、大阪の天満への移転、さらに京都への移転を行っている。いわば、信長の本願寺壊滅の後を回復させているともいえる。こうした仏教に対する復興は、新たに方広寺に大仏を造ったことにもみることができる。方広寺の大仏は兵火で焼損した東大寺の大仏に代わって建てられた(1595年)。そこには、古くは聖武天皇の大仏に対する鎮護国家の思いが想起される。
完成した方広寺の大仏の前で、亡父母のため千僧供養が行われた。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、浄土真宗、時宗、すべての宗派の僧が出仕を要請された。これは、秀吉がすべての宗派に対し自らの権威を示すために行われたとされるが、天道思想に基づき、すべての宗派の共存を願うものであったとみることもできよう。
ただ、千僧供養に出仕を拒否した宗派が日蓮宗の不受不施派といわれる一派である。法華経の教義を信じない他宗の人から施し(布施)を受けず、教え(法施)もしないという、いわば厳格な原理主義(釈尊を絶対的存在とする)の立場を取り、のちの徳川家康の出仕命令にも従わなかったことから弾圧され、この一派の僧俗は地下に潜って信仰を守ったとされる。江戸時代を通じて、徹底的に弾圧され、禁教とされたのは、キリシタンとこの不受不施派である。すなわち、これら徹底的した排他的宗派は、諸宗派の共存も、世俗権力との両立も不可とするため、教義および信仰そのものを禁止されたのである。
また、ここ方広寺は後に、良く知られている鐘銘事件を引き起こした。豊臣秀頼が方広寺の大仏を再興した際に、鐘に刻まれた「国家安泰」「君臣豊楽」の銘が家康の怒りを買い、大阪の陣につながり、豊臣家の滅亡に追いやったという。この事件は、家康の言いがかり、挑発であったとされるが、銘をそのまま文字通りに読めば、やはり豊臣家が仏教を深く信仰し、聖武天皇と同じように、天下の鎮護を願ったものを見ることができよう。
③家康の「天下泰平」
江戸時代(家康以降)に入ると、キリシタンを禁制にし徹底して排除するとともに、既存の宗教勢力に対しては法度によって統制を強めた。
仏教の諸宗派に対しては、高野山をはじめとして主要な寺院ごとに順次、「寺院諸法度」を制定した。このなかで、本寺・末寺の秩序を乱さず、本寺は末寺に対し理不尽な振る舞いをしないこと、という本寺・末寺制度を制定し、各宗派内を統制するヒエラルキーをつくった。
また、寺請の選択は檀家の意志に基づき、僧侶が檀家を奪い合ってはならない、とい寺請制度(檀家制度)を制定しており、宗門改帳により、キリシタンおよび不受不施派を締め出す狙いがあった。これらは、今でいえば、戸籍の役割を持ち、行政の末端を寺院に任せ、各個人を管理することとなった。檀家と檀那寺の関係の中に個人は家単位で生まれたときから属することになり、死後のお墓も寺によって管理されることになる。こうした仕組みによって、仏教にとっては、一面では保護され、いわゆる葬式仏教として定着した。(現代でも、崩れつつあるとはいえ、まだ多くの日本人の間に浸透している。)
一方、「諸社禰宜神主法度」を制定し、神道界の統制を図った。このなかで、神主の衣装など、吉田神道を正統とし、その統制下に置いた。そのため、江戸時代には、ほぼすべての神社の神職を吉田家が管理することとなった。
このほか、江戸幕府の法令として、大名を統制する「武家諸法度」、朝廷、公家を統制する「禁中並武家諸法度」などがよく知られている。
(3)神となった天下人(信長、秀吉、家康)
「天下人」とは、言葉どおりにとれば、「天(道)の下にいる人」であり、自らを「天下」と同一化することによって、武士階級を越えた全階層を、さらに朝廷をも見下しうるような地位を築くとともに、自らを「神」として仏教、神道など諸宗派を共存させることを願った。
①神になりたかった信長
信長については、ルイス・フロイスが、次のように伝えている。「安土山に神体はなく信長は自らが神体であり、生きたる神仏である。世界に他の主なく、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」と。そのため信長は、安土城に総見寺という寺院を建立し、自身を「神体」として祀り、崇拝されることを望んだという。しかし、その真意については、本能寺の変で自害に至り、不明のままである。
②「豊国大明神」となった秀吉
秀吉については、その神格化は生前からの意志であったため、1598年、秀吉が亡くなると、ただちに廟所がつくられ豊国社が建築され、神号として「豊国大明神」という名称がおくられた。秀吉は、東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、東山の方広寺大仏殿の近くに豊国社を建て、自らを「新八幡」として祀るよう遺言したといわれる。八幡神は、武運の神であり、皇祖神でもあることから相応しいと考えられた。しかし、それに反して「大明神」となったのは、吉田神道によるもので、神仏習合した「八幡大菩薩」では、あまりにも仏教色が強いとみられたことによる。
また、「豊国」については、「豊臣」の姓から採られたと考えられるが、日本国の美称である「豊葦原の中津国」をも想起させる。
しかしながら、大坂夏の陣によって、豊臣家が滅亡するとともに、豊国社もつぶされ、明治になって「豊国神社」として復活する。(なお、豊国廟は、伊東忠太の設計により、石造五輪塔が建てられた。明治30年)
③「東照大権現」となった家康
家康は、1616年、駿府で75歳の生涯を閉じた。死去に先立って、自分の遺体は久能山に納め、一周忌を過ぎたら日光に「小さな堂」を建て神霊を勧請するよう遺言したという。遺言通り、遺体は久能山に埋葬され、秀吉の先例に倣って大明神として再令する準備が進められた。これを取り仕切っていたのは、吉田神道の梵舜と臨済宗の僧・崇伝であった。しかし、天台宗の僧・天海が異を唱え、山王一実神道による権現号を主張した。結局、採用されたのは天海の主張する権現号での祭礼が朝廷に上申された。朝廷から下された神号は、「東照」「日本」「威霊」「東光」の4案が示され、秀忠の選択により「東照大権現」となった。一周忌を期して日光に新たに造営された日光東照宮へ遷宮された。
山王一実神道では、山王権現とは大日如来(本地)であり、天照大神(垂迹)であると説いた。すなわち、仏教の優位を保ちつつ、同時に神道の体系も組み込み、家康=東照権現は山王権現でもあるとすることで、天照大神とも並ぶことになる。「東照」という号は、この「天照」に由来するとみられる。そこには、家康の神格化とともに、天照大神から続く天皇家と同様、徳川家の子孫代々の安泰の願いも込められているとみることもできるだろう。
秀吉、家康と最高権力者が死後に社殿が建てられ、神として祀られるのは、この後、明治天皇(明治神宮)をおいていない。
この権力者の神格化は、これまでの、菅原道真、平将門の神格化とは異なる。道真、将門は、その怨霊を御霊として祀ったのに対し、天下人が、死後に神号をもって祀られることで、全く新たなカミがつくられたこととなる。ただ、このカミは、仏教、神道のカミを超えるものではなく、東照大権現の役割は衆生利益を担い、世の泰平、徳川家の安泰を願うことにある。したがって、各地にも東照宮が勧請された。
なお、戦国大名が祀られるのは、例えば、上杉謙信は上杉神社に、伊達政宗は瑞鳳殿に祀られた。
このように、室町時代の後期ごろから、仏教も、神道も死穢を忌避しない。ケガレとせず、むしろ積極的にかかわっていった。そうしたなかで、仏教は一般の死者をホトケとする、一方、神道は死者となった権力者をカミとする。そしてホトケは「墓碑」「位牌」といった物象化されるのに対し、カミは神社の社殿に具象化されるようになった。
日光東照宮(家康を祀る)(2020.3撮影) |
日光東照宮(2020.3撮影) |
日光東照宮(2020.3撮影) |
日光東照宮奥宮・家康の御墓所(2020.3撮影) |
日光東照宮(2020.3撮影) |
日光東照宮(2020.3撮影) |
(4)天下人の建築・権力の館
戦国時代は、戦いにより、多くの寺社を壊滅させたが、一方で、天下人によって豪華、華麗ないわゆる桃山文化が開かれ、建築においても新しいスタイルが創り出された。また、それに伴って城下町や都市が形成されたことも大きい。そうした天下人の権力の館にも、それぞれの宗教観をみることができる。
①信長の建築と安土城下町
前回述べたように、この時代にはキリスト教の伝来とともに、ヨーロッパ文化、いわゆる南蛮文化が大きな影響をもたらしたが、建築の面では、教会堂である南蛮寺などが建てられたものの、西洋建築がもたらされた様子はうかがえない。それは来日した宣教師たちは、禅僧などと異なり、自らが建築技術を持つものがほとんどいなかったためとされる。(後に、キリシタン関係の施設はすべて破壊・禁止されたこともあるだろう。)
しかしながら、新しい文化・思想が建築にも少なからず影響を与えたのではないだろうか。そのひとつが信長の安土城である。
信長は、1575年、琵琶湖をまえに開けた安土山に城を築いた。五層七階建てで、柱には金箔を貼るなど、豪華、華麗な建物で、まさに信長の威光を知らしめるものであった。それまでの城は、山城のように防御にすぐれた軍事施設として建てられたが、信長は、その天主に居住としたという点でもきわめて特異な城である。また、「天主」というのは、キリシタンのデウスに由来するという説もある。その天にも昇る高さはゴシック教会をイメージさせるとも。
内部には、狩野永徳が描いたとされる障壁画があり、五階には仏教界を表す、釈迦、十大弟子が描かれ、六階には道教・儒教界を表す中国の帝王、孔子、老子、七賢人などが描かれている。
こうした壁画に描かれた内容について、信長自身が、それらの偉人より上位にある存在として位置づける意味合いがあったという説もあるようだが、やはり、これらの偉人像があらわす宗教・思想を統一、共存するという信長の天道思想にもとづくものであろう。
また、本丸御殿には、天皇を迎える計画があったとされ、天下にその正統性、権威を示す意図があったといわれる。
安土城には、秀吉をはじめとする家臣たちを住まわせ、楽市・楽座を開くなど、城下町が形成されたことも特徴的なことだろう。
いずれにしても、従来の城の概念を大きく変えた安土城は、本能寺の変(1582年)の後、天主は炎上し、織田氏の没落とともに1585年には廃城となった。
②秀吉の建築と京の改造
秀吉の威光を象徴するのは、大坂城と聚楽第、そして伏見城である。秀吉は、信長の死後、そうそうに明智光秀を討ち、1583年には大坂城を築いた。この地は、信長により討伐された石山本願寺の跡地であり、また古くは難波宮(744年)が置かれた地でもあり、交通の要衝であった。
大坂城は、五層六階、地下二階で、全体に黒塗りで、金具や金箔の瓦などを引き立たせ壮麗な姿を見せていたという。また、5階には有名な金の茶室を設け、秀吉の権威と財力をしめしていた。
なお、のちに秀吉の子・秀頼は、信長の安土城と同様、ここに居住したが、大坂夏の陣によって陥落し豊臣の栄光とともに崩れ去ってしまう。(現在に残る大坂城は、徳川家によって築城されたものである。)
聚楽第は、大内裏という天皇の象徴的な場所に豪華、華麗な政庁兼邸宅として建てられた(1587年)。「聚楽」という名については、「長生不老のたのしひをあつむるものなり」といわれ、同じく、ルイス・フロイスは「聚楽とは、彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」と言っている。その名の通り、聚楽第は天皇の行幸を2度も迎える舞台となり、公家との社交の場、さらに外交使節(例えば、巡察使・ヴァリニャーノ)との謁見の場として用いられたという。聚楽第は、天皇をも動かしうる権力者の館であり、天下の中心であった。また、この時期は、ポルトガル、スペインのヨーロッパ勢のほか、明、朝鮮など東アジア勢との海外情勢も緊迫しており、外交戦略上も重要な拠点であった。
その後、秀吉が関白職を秀次に譲ると、聚楽第は秀次の邸宅となった。しかし、秀次が秀吉により高野山に追放され切腹に追い込まれてしまうと、この館も徹底的に破却されてしまった(1595年)。8年間の栄華であった。秀吉がその名に込めた願いとは裏腹に栄華は長く続くことはなかった。
伏見城には、聚楽第の多くの建物が移築され、政治の中心が聚楽第から移ったことを世に知らしめた。伏見城の築城は、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役1592年)の時期に始まり、1598年、秀吉が没し、その遺言により秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって家康がこの城に入り、政務をとった。その後、家康が駿府城に移り、1619年に廃城となった。その煌びやかな建物の多くは、西本願寺唐門や竹生島神社・本殿などに移築され、栄華の名残を後世に伝えている。
また、秀吉は、こうした建築のみならず、京の都市改造を行い、治水や御土居といわれる土塁を築き、町の地割を見直し寺町を形成するなど、荒廃した京都を軍事都市、商業都市へと変えていった。
一方では、信長の焼き討ちにあった比叡山の復興や、本願寺の再興など仏教寺院への寄進や寺領を与えるなど再建に尽くした。こうした仏教支援・政策は、家康以降の徳川家に引き継がれていった。(後述)
③家康の建築と江戸の都市形成
関ヶ原の戦いで勝利した家康が、江戸に入府して、太田道灌が建てたという江戸城を増改築した。天守は、五重五階で、高さは30間(約54.5m)もあったという。江戸に君臨する徳川家を象徴する城であった。
家康は、築城だけでなく、江戸の水運、治水、埋立といった土木工事を天下普請により行い、江戸を大都市として作り上げた。その江戸の守護と徳川家の繁栄をホトケ=寛永寺とカミ=東照宮に祈った。
江戸城の鬼門に寛永寺を建て、守護を願った。寛永寺は、「見立て」という設計思想により、京や延暦寺をマネて伽藍を配置した。天台宗の総本山である延暦寺と同様、創建当時の年号「寛永」をつけ、東(江戸)の比叡山という意味の山号「東叡山」を名付けた。他にも、清水観音堂は京の清水寺、不忍池弁天堂は琵琶湖竹生島の宝厳寺、祇園堂は京の八坂神社を見立てたものであり、都の中心が京ではなく江戸に移ったことを示した。
寛永寺の山主は法親王(出家した皇族)が務め、天台座主を兼ねることにし、延暦寺から寛永寺に天台宗の権威が移るとともに、宗教的にも江戸が中心であることを示した。さらに日光東照宮(家康を祀る)、および日光輪王寺(家光を祀る)の山主を兼ねた。
寛永寺の創建は、比叡山延暦寺の西塔を見立てたものであり、家康の横川の復興、家光の東塔の復興と合わせ、延暦寺の全てが復興したことになる。それは、かって一大勢力であった延暦寺(天台宗)が徳川の手に収まったという意味を持つ。こうした一連の宗教政策は天台宗の僧・天海の采配によるものであるとされる。
江戸が徳川の拠点となったが、依然として朝廷は京の都にあり、これに対し幕府の権威の優越性を示すものが二条城であった。1601年、家康は上洛時の滞在場所として二条城の造営に着手した。この城も天下普請によるもので西国の諸大名に費用と労役を割り当てた。
徳川三代(家康・秀忠・家光)の将軍就任の儀式は、この二条城で行われ、徳川の京における拠点であるとともに、幕府の正統性を示すものであった。さらに家光の時代には後水尾天皇の行幸を迎え、公武の和の象徴の場となった。後に再び二条城が歴史の舞台となるのは、徳川最後の将軍・慶喜の大政奉還の時である。
日光山輪王寺・大猷院(家光を祀る)(2020.3撮影) |
日光山輪王寺・大猷院(2020.3撮影) |
日光山輪王寺・大猷院(2020.3撮影) |
東叡山・寛永寺(2019.11撮影) |
東叡山・寛永寺・徳川家霊廟(2019.11撮影) |
東叡山・寛永寺の大仏(お顔のみ残る)(2019.3撮影) |
東叡山・寛永寺の五重塔(2019.2撮影) |
東叡山・寛永寺の清水観音堂(2019.3撮影) |
上野・東照宮(2019.3撮影) |
上野・東照宮(2019.3撮影) |
徳川家菩提寺・増上寺(浄土宗)(2020.11撮影) |
増上寺・徳川家墓所(2020.11撮影) |
④寺社の復興
天下が統一され、太平の世になると、戦乱により荒廃した諸社寺の復興や新たな寺院が建立された。
豊臣家による再興としては、金峯山寺蔵王堂、石清水八幡宮、などが秀吉の存名中にも行われ、秀頼の代には、法隆寺、東寺、醍醐寺、南禅寺、相国寺、北野天満宮などの再興が行われた。また、地震、火災で損傷した方広寺の再興も行った。こうした秀頼による寺社の再興事業には、徳川家康の豊臣家の財力を削ぐ思惑もあったとされる。
徳川家による寺社の再興は、家光の上洛が一つの契機となって行われた。各地の寺社の再興は、将軍の行く先々に恩恵をもたらし、徳川の威光を天下に響き渡らすこととなった。
家光の時代である寛永期には、内裏、清水寺本堂、仁和寺(内裏の紫宸殿、清涼殿などが下賜された)、また家康が信徒である浄土宗の総本山知恩院などの復興がなされた。京では、東寺・五重塔、石清水八幡宮などの再建も行われた。さらに近江国では、多賀神社、大瀧神社、湖宮神社などの復興が行われた。
綱吉の時代には、東大寺大仏殿および大仏の復興が行われている。とくに家光の側室で、綱吉の生母である桂昌院は仏教への帰依が深く、江戸・護国寺の建立、京都の智積院金堂の建立、南禅寺、清凉寺、西明寺、真如堂などの再興に努め、奈良の唐招提寺・戒壇院の再興にも尽力した。
近江・多賀大社(2020.11撮影) |
多賀大社・太鼓橋(秀吉の寄進)(2020.11撮影) |
多賀大社(2020.11撮影) |
唐招提寺(2017.11撮影) |
東大寺・大仏殿(2019.3撮影) |
竹生島神社・本殿(伏見城から移築)(2020.11撮影) |
こうして、泰平の世を迎えた江戸時代は、カミもホトケも民衆教化に努め、民衆はさまざまなカミ、ホトケを信仰した。
次回は、江戸の民衆のカミ・ホトケについてみることにする予定です。
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