フランシスコ・ザビエル(Wikipediaより) |
前回の「中世の神」につづき、戦国時代から江戸時代のカミ・ホトケについて概観していくことにします。
まずは、これまでの日本の仏教、神道などとは別のカミ、キリスト教が伝わりました。
3.近世の神:キリシタンの神~天下人の神
(1)キリシタンの神
①キリスト教の布教
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、1549年、鹿児島に上陸した。キリスト教布教のため、九州の大名をはじめ、上洛をして、いわば上からの布教に努めた。しかし、京都は戦乱で荒廃し、天皇、将軍の権威も失墜していた。山口の大友や、九州の有馬、大村などの大名は、貿易の実利もあり、布教を受け入れ、領内の人々も改宗した。ザビエルの日本での布教活動は2年余りであったが、それを引き継ぐ宣教師たちにより、禁教される前には30万人とも40万人ともいわれる信者を獲得するに至った。
このキリスト教の到来は、6世紀半ばの仏教伝来に次ぐ、外来の宗教の大きなインパクトであった。もちろん、宗教面だけでなく、これまでの中国=儒教、インド=仏教、日本=神道の三国の世界観から、一挙にヨーロッパ=キリスト教というグローバルな世界に否応なく放り込まれることになった。
キリスト教の布教が、これだけの期間に拡大したのは、宣教師たちの布教の工夫や貿易の利もあったという実践的要因が大きいが、キリシタンの神を受け入れる側にも、一向宗、法華宗のように阿弥陀や釈迦を一心に祈るという一神教的な素地があり、また神道においても吉田神道にみるように根源神・大元尊神を探求するといった、思想的な要素もあったと考えられる。
一方、キリスト教の布教に当たって、仏教僧たちと教義についての論争も行った。そうした中で、当然のことながら言葉の問題、翻訳の問題が生じた。当初、ザビエルはデウスを「大日」と訳した。大日といえば、真言密教の大日如来をあらわし、大日=デウスを本地とし、「デウス」は垂迹して日本の神の一つとなり、仏教の本地垂迹の世界の中に取り込まれてしまう。その過ちに気づき、「デウス」という言葉そのものを使うようにした。
また、宣教師たちは、デウスの訳語として、「天道」「天主」なども考えられた。これらは、この時代の天道の観念(後述)を踏まえたものと考えられる。では、どうして「神」という訳語を当てはめなかったのだろうか。「神」という言葉は日本の多神教の神をあらわすもので、一神教の絶対神としてはふさわしくないものと考えられたからであろう。
したがって、仏教でも神道でもない、キリスト教の独自の立場を鮮明にしていく必要があった。キリスト教の最大の特徴は、唯一神による天地創造の教義である。その教義を踏まえ、仏教や神道、儒教を体系的に批判し、キリスト教の優位性を説いたのは、不干斎ハビアンの『妙貞問答』(1605年)である。ハビアンは、禅僧であったが仏教を捨て、イエズス会に入会し、日本人イルマン(司祭・パードレを補佐する者)として、布教を拡大する教団のリーダーとなった。『妙貞問答』は、上中下の三巻で、上巻では仏教を各宗ごとに批判し、中巻では儒教と神道を批判し、下巻においてキリシタンの教義を説き擁護する。ハビアンは、これまでの日本の宗教をキリシタンという新しい立場から包括的に批判するという視座を得たことになる。
しかしながら、ハビアンは、その後、棄教し、逆にキリスト教批判の書『破提宇子』(1620年)を著わすことになる。それと軌を一にするかのように、日本においてキリスト教は、仏教、神道を超えて広まることはなく、弾圧、禁教とされてしまう。
②キリシタン弾圧~禁教
その経緯を天下人・信長、秀吉、家康におけるキリスト教の対応に見てみる。
織田信長は、フロイスの『日本史』の記述から、キリシタンに対して好意的であったとされるが、必ずしもそうとは言い切れないようだ。確かに京都に南蛮寺(教会堂)を建てることを認めたり、フロイスを近くに置いたり、南蛮文化に関心を示したり、巡察使ヴァリニャーノを安土城で謁見したりしている。
しかしながら、好意的であるというのは、キリシタン側の史料によるもので、一方では信長は、キリシタン大名・高山右近を従わせるために、自分の命令どおりに行動しなければキリシタン教団を滅ぼすとまで宣言しているという。いずれにしても、こうした日本側の確実な史料はほとんどないこともあり、必ずしも好意的であったとは言い切れないようだ。
一転して、キリシタン弾圧に向かったのは秀吉であった。1587年、伴天連追放令が出された。その中で、秀吉は「日本は神国たる処」と宣言するとともに、キリシタンをそれに反する邪教と決めつけた。この秀吉の伴天連追放令は、直ちにキリスト教を禁止するというわけではなく、伴天連(=宣教師)を追放するというものである。追放令を出した背景には、伴天連たちが日本の在来の神仏を悪魔として排除し、神仏の信仰は異教として撲滅するために、仏像を焼き、神社仏閣を破壊するなど、目に余る行動があったことによる。また、伊勢神宮から秀吉に伴天連の成敗の訴えがあったため、という説もある。
その後、1596年に起こったスペイン船・サンフェリペ号事件の船員がスペインは布教とともに征服を事業としているという発言を契機に、厳しい弾圧の姿勢に転じ、長崎二十六聖人殉教に至ったとされる。
徳川家康に政権が移ってからは、当初は南蛮貿易の利益という観点から布教は黙認された。しかし、1613年、「伴天連追放の文」を布告した。この文にも、「日本は元これ神国なり」と説かれ、キリスト教は神国・仏国で保たれている日本で、みだりに邪教を広め、正宗を惑わすものとして、禁止されるべきものであると論じている。
その後、2代将軍・秀忠になると一層厳しい弾圧が行われ、さらに島原の乱(1637-8年)が起こり、徹底した禁制が敷かれ、オランダ商館以外の渡航を禁じる鎖国政策に結びついていった。こうした方向転換の背景には、大航海時代に始まるポルトガル・スペインの海の覇権が次第にイギリス、オランダに移っていったこと、またカトリックの強い使命感を持った布教に対し、プロテスタントは布教にそれほど関心をもったものでなかったことがある。
③世俗権力とキリスト教の絶対神
結局、16世紀中ごろにザビエルが布教を始めてから、17世紀初めまでにキリスト教は日本に広まることなく、弾圧、禁教となった。キリスト教を受け入れる一神教的な素地はあったと考えられるが、一方で、キリスト教布教とともに、日本に入ってきた鉄砲をはじめとする武器、そして南蛮貿易の利益により軍事力を高めた世俗権力は一層強大なものになっていった。天下統一を図ろうとする権力者にとって、比叡山や一向宗など信仰を基にした宗教勢力は、他の戦国大名以上に手ごわい戦力を持ち、これを弾圧した。同じように、世俗権力を上回るようなカミである絶対神を信仰するキリスト教に対しても強い危機感を抱くようになった。秀吉も家康も伴天連追放令を出すに当たって、「日本は神国」という神国論を持ち出したが、それは権力者の危機感の裏返しであった。また、戦国を勝ち抜き、天下統一を目指した信長、秀吉、家康は、それぞれ神になりたかった(なった)のであり、それに対抗し、上位に位置するもの、すなわち絶対神のキリスト教に対して圧倒的な世俗権力でもって弾圧し、禁教とした。
加えて、世界情勢がポルトガル、スペインの海の覇権がイギリス、オランダに移ったこともあり、布教の面からカトリックからプロテスタント(オランダ)に移り、また貿易についてもオランダ商館を窓口として完全に統制しする、いわゆる鎖国体制に入り、ここで、一旦、キリスト教は日本の歴史の下に潜行することになった。
織田信長(Wikipediaより) |
ここで、ブログも一旦、区切りをつけ、続く「天下人の神」から江戸時代のカミ・ホトケについては、次回みていくことにします。なお、今回は、自分で撮った写真で掲載するようなものはありませんでした。
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