2022年11月14日月曜日

東京異空間71:増上寺Ⅱ~増上寺の堂宇、霊廟

 

大殿の扁額

前回「増上寺Ⅰ」では、増上寺の三解脱門と釈迦三尊像や十六羅漢像を観てきましたが、今回、増上寺境内にある堂宇と、霊廟について「増上寺Ⅱ~増上寺の堂宇、霊廟」として、まとめてみました。

また、境内には東照宮などの神社があり、近くには芝大神宮もあります。また、増上寺の歴史のなかでは本堂に神殿が造られ、神道教化の場となった時期がありました。これらを「増上寺Ⅲ~増上寺の神社」として分けてまとめました。

1.グラント松

三解脱門をくぐり大殿(本堂)側から振り返ると、門の前に大きな木が立っている。「グラント松」といわれ、米国18代大統領ユリシーズ..グラント将軍が1879年(明治12年)に日本を訪問し、増上寺の参拝記念に植樹したと伝えられている。グラント将軍は、長崎公園、上野公園でも植樹をしている記録があるが、ここ増上寺については記載がないという。また当時、大殿(本堂)は火災に遭っており、グラント将軍に関しては確かなことはわからないようだ。なお、グラント松といわれているが、ヒマラヤスギである。

三解脱門の前に植えられているグラント松

2.大殿(本堂)

大殿(本堂)は、昭和49年(1974年)に再建され、大きく荘厳な空間をつくりだしている。本尊は、阿弥陀如来坐像で、室町時代の作と伝わる。両脇には、法然上人と善導大師が鎮座している。

大殿(本堂)

大殿(本堂)

本尊・阿弥陀如来坐像

本尊・阿弥陀如来坐像

法然上人像

善導大師像

大殿・広間

3.安国殿

戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、 家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」から安国殿としている。

本尊の恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」は、家康が日々拝んでいた念持仏で、江戸時代にも御開帳され、勝運・厄除けの仏様として、広く人々の尊崇をあつめた。 (現在の御開帳・黒本尊祈願会、正月・5月・9月の15日)

安国殿

安国殿

安国殿・黒本尊(お前立ち)

4.光摂殿(こうしょうでん

大殿の左にある光摂殿は、修行のための道場や講堂として平成122000年)に完成した。広間の格天井には、小倉遊亀、上村松篁をはじめとする日本画家による作品が奉納されている。天井絵は毎年秋10月の「みなと区民まつり」のときにあわせての特別公開される。

光摂殿

光摂殿

幼少の法然像

5.経堂

経蔵には宋版、元版、高麗版の各大蔵経が収蔵されている。これは大正大蔵経といわれる漢訳仏典の総集といわれるものの底本のひとつにもなった。また、内部中央に八角形の輪蔵を配、これを回すことにより経文を読んだ功徳が得られるとされる。輪蔵の正面には、輪蔵を考案したとされる傅大士(ふたいし)とその二子による三尊像が奉安されている。 建物は、慶長10年(1605年)に創建された土蔵造の典型的な経蔵で、宝形屋根に四面白壁の美しい姿である。都の有形文化財に指定されている。訪れた日は、東京文化財ウィークということで内部が特別公開されていた。

経蔵・宝形屋根

経蔵・白壁

6.鐘楼堂

三解脱門の右側にある鐘楼は、寛永10(1633)年の建立されたが、現在の鐘楼堂は戦後に再建されたもの。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、あまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し東日本で最大級の鐘で、江戸三大名鐘の一つに数えられている。他は寛永寺、浅草寺の鐘で、江戸時代の川柳には「今鳴るのは芝か 上野か 浅草か」と詠まれた。

また、鐘の響く音が大きく、「西国の果てまで響く芝の鐘」と川柳に詠まれたり、強く撞くと芝浦の魚がびっくりして逃げてしまうので、わざと弱く撞いたとか、江戸湾を超えて木更津の方まで聞こえたといわれるなど、人々に親しまれていた。

鐘楼堂

7.慈雲閣

平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山 堂の再建を企画、建築された。

慈雲閣

慈雲閣

慈雲閣・聖聰上人像

8.黒門

日比谷通りに面して建つ黒門は、慶安年間(16481652年)、三代将軍家光公の寄進・建立とされ、増上寺にある多数の建物の中でも古い年代に属する貴重な建物である。 増上寺方丈の表門であった旧方丈門で、昭和551980)年に当山通用門として日比谷通り沿いに移築 した。全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれ、建設当時は、三解脱門などの朱塗の建物との対照がきわだっていたようだ。

蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示しているといわれる。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげが残っている 。

黒門

黒門

黒門

黒門

黒門・日比谷通り側から

黒門・日比谷通り側から

黒門と奥に三解脱門の屋根

9.徳川家霊廟

増上寺に霊廟が造られたのは、2代将軍・秀忠の台徳院霊廟が最初(1632年)である。その後、6代将軍・家宣の文昭院霊廟(1712年)、そして7代将軍・家継の有章院霊廟(1716年)と立て続けに造営されたが、8代将軍・吉宗による幕府財政の再建のため、新たに霊廟を建造することが禁止された。

明治時代になり、外国人も増上寺を訪れている。イギリス人日本学者・チェンバレンの『明治旅行案内』には、増上寺に関して二天門から本殿まで向かう本格的な拝観順路の記述がある。また、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』には、外人訪問客の興味をそそる名所として、愛宕山、神田明神、をあげ、遊びに出かけたが、上野・寛永寺、芝・増上寺の華麗な将軍の霊廟は外国人には閉ざされ、1868年の革命まで立ち入ることはできなかった、とある。徳川家の霊廟は、明治12年以降に公開されたとされている。それまで、まさに徳川家の聖地であった。

ほかにもイギリス人写真家・ベアトは、幕府崩壊前に撮影のために霊廟に入ることを試みたが幕府役人に阻止されたというエピソードがある。しかしながらベアドは維新前後の増上寺の写真を撮っており、時代を映して貴重である。また、J.コンドルは有章院霊廟を油絵に描いている。

しかしながら、これらの霊廟は、1945年、東京大空襲により、そのほとんどを焼失してしまい、旧台徳院霊廟惣門と有章院霊廟二天門が日比谷通りに面して残っている。

参考:

『鹿鳴館秘蔵写真帖』 社団法人霞会館 編 平凡社 1997

『特別展 増上寺徳川家霊廟』港区港郷土資料館 2009年

(1) 旧台徳院霊廟惣門

戦災を逃れた「旧台徳院霊廟惣門」は芝公園内、ザ・プリンスパークタワーの入り口に残り、東京プリンスホテルが管理している。台徳院は二代将軍・秀忠の院号で、霊廟は秀忠が死去した1632年に境内南側に建立された。 徳川家霊廟の中でも最も規模の大きいものであったが、東京大空襲によりほとんどを焼失した。そのうち惣門は現地に保存されたが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年に所沢市(西武球場前)の狭山不動寺(埼玉県)へ移築されている。移築された三棟はそれぞれ、勅額門は、霊廟の入口にあって御水尾天皇の勅額を掲げた門。御成門は将軍の参詣用の門で、天井に天人像を描いていることから「天人門」といわれる。丁子門は、台徳院霊廟から崇源院霊牌所への通用門。崇源院は秀忠の正室で「お江」として知られる。

惣門の両脇に安置されている仁王像は、川口市西立野の西福寺の仁王門に安置されていたものを、1958年(昭和33年)頃に、この惣門に安置されたとれている。

なお、台徳院霊廟は焼失してしまったが、その縮尺1/10の精巧な模型が造られており、宝物館で展示されている。この模型は東京市が1910年の日英博覧会のために制作し出品したもので、その後、家康没後400年を機に英国から里帰りし、2015年より宝物館で展示されている。

台徳院霊廟の造営は、大工棟梁・甲良宗広が手掛けている。甲良宗広(1574-1646年)は近江出身で、徳川幕府の大棟梁となり、宗広以降、11代が明治維新に至るまで大棟梁を勤めた。甲良宗広は、台徳院霊廟以外にも、江戸城天守、日光山造営、上野寛永寺・五重塔など、幕府の主要な建築を手掛けている。

また、狩野派の画工のほか、塗師、蒔絵師など、京都から当代随一の面々が呼び寄せられ、霊廟造営にあたった。この後、修復時にもこうした一流の職人たちが担っていた。

旧台徳院霊廟惣門

旧台徳院霊廟惣門・仁王像

旧台徳院霊廟惣門・仁王像

旧台徳院霊廟惣門・仁王像

旧台徳院霊廟惣門・扉

旧台徳院霊廟惣門

旧台徳院霊廟惣門

(2)五重塔

台徳院の供養塔として五重塔が建てられていたが、その後焼失し、1809年に再建された。しかしながら、これも東京大空襲により焼失してしまった。江戸時代に造られた五重塔は、上野・寛永寺、浅草・浅草寺(再建)、また日光東照宮にも建てられ、現在も見ることができるが、この増上寺の五重塔は、礎石などの遺構も残っていない。現在の芝東照宮の後ろ側、芝丸山古墳の近くに建っていたようだ。

江戸絵図に描かれた五重塔

(3)有章院霊廟二天門

旧台徳院霊廟とは反対側の東京プリンスホテル側の日比谷通りに面して有章院二天門があり、近年修復され、華麗な門を見せている。

有章院は、七代将軍・家継の院号で、家継はわずか5歳で将軍となり、その4年後には病気のため短い生涯を終えた。霊廟は1717年に造られ、その豪華さは日光東照宮に劣らないともいわれた。

二天門は、霊廟の入口となる門で、両脇には広目天、多聞天が安置されている。有章院霊廟は文昭院霊廟(1713年建立)と並んで建てられ、文昭院霊廟の門には持国天と増長天が安置され、四天王として祀られていた。

これらを造像したのは、京都七条仏師の28世法橋康伝とその弟子たちだということが体内にあった墨書から確認されたという。京都七条仏師は、慶派の伝統を受け継ぎ、七条に工房があり、その棟梁の仏師は東寺大仏師職に補任されていた大きな仏師勢力であった。江戸時代には「幕府御用」といわれる幕府関係の造像、「禁中御用」といわれる天皇家関係の造像も一手に手掛けていたという。

有章院霊廟二天門

有章院霊廟二天門・広目天

有章院霊廟二天門

増上寺の境内にある堂宇は、そのほとんどを戦災で失い、再建されたものがほとんどである。また、三解脱門をはじめ、徳川家霊廟の門などの一部が現存しているが、徳川家霊廟の往時の壮麗な姿を見ることはできない。

続いて、増上寺に置かれた大教院の歴史の一部にもふれながら、増上寺境内にある神社、さらにその周辺の公園と芝大神宮などについてまとめてみました。

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