芝東照宮 |
増上寺は、徳川家の菩提寺で、歴代将軍の霊廟もあり、仏教の地と思われるが、明治の一時期には本堂に神殿が置かれ神道教化の場となったこともある。また境内には芝東照宮、熊野神社などの神社も置かれて聖なる空間となっている。一方、増上寺一体は明治に最初の「公園」に指定された。近くには関東のお伊勢様といわれる芝大神宮もあり、かつては「盛り場」として賑わう俗なる空間でもあった。
1.芝東照宮
芝東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮とならぶ四大東照宮の一つとされる。
元和2年(1616年)家康は、死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。「寿像」は家康が還暦を迎えたときに自ら命じて等身大に作らせたもので御神体となっている。社殿は元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は、家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」から「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である
その後、3代将軍家光により寛永10年(1633年)に新社殿が造営され、駿府城より移築された惣門、福岡藩主により寄進された鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。
明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。 御神木のイチョウは、三代将軍・家光の御手植えによるものと伝わり、樹齢は約350年と推定され、東京都の天然記念物に指定されている。
芝東照宮 |
芝東照宮・参道は駐車場に |
芝東照宮・鳥居 |
芝東照宮・入り口 |
家光お手植えの御神木のイチョウ |
御神木のイチョウ |
2.熊野神社
増上寺の鬼門を守る熊野神社は、1624(元和10)年の創建し、熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請した。「熊野」は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、こちらは「ユヤ」権現と呼ばれ、「火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし」とされている。御神体は熊野本宮大社(家津御子大神)・熊野那智大社(大己貴命)・熊野速玉神社(伊弉諾尊)の三御神体を祀る。
どうして、増上寺に熊野三山に関わる神社が造られたのだろうか。
社殿の横にある石碑には、「故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課とし、増上寺の繁栄を願い、「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、老朽化した社殿等を改修し、鳥居を建立し護持・奉賛した」とあり、近くの住民に親しまれ、信仰されていたことがわかる。
また近くにある西向観音、千躰子育地蔵とともに、敷居の高い徳川家の霊廟の場にも、こうした庶民に親しまれる空間がつくられたのだろう。
熊野神社・日比谷通り側から |
熊野神社・鳥居 |
熊野神社・社殿 |
熊野神社・鰹木 |
熊野神社・鳥居から東京タワー |
熊野神社・綿貫次郎の石碑 |
西向観音 |
西向観音 |
西向観音菩薩像 |
千躰子育地蔵菩薩 |
3.芝大神宮
芝大神宮は江戸時代には芝明神と呼ばれていた。飯倉神明という名称が正式で、飯倉は穀倉のことで、その名称が付近の地名ともなっている。この辺りは、源頼朝が伊勢神宮に寄進した土地とされ、御厨(神饌を調達する場所)であったことから、その穀物を保管する倉ががあったということから「飯倉」という名称が生まれたという説がある。芝明神社は、伊勢神宮の祭神である天照大神と豊受大神の2柱を祀ることから、「関東のお伊勢様」ともいわれ、まさに伊勢信仰の地であった。
明治元年(1868年)10月、明治天皇がはじめて東京行幸(東幸)の際に、品川から江戸城(東京城)に向かう途中、この社を内侍所(神鏡の奉安所)として小休止しされた。このとき増上寺も利用されたと推測する。というのは天皇の東幸には3300人もの供奉の者がいたということで、それだけの人数を収容できる場として使われただろう。実際、この年、戊辰戦争が勃発し、子院、学寮などが官軍の兵の宿舎に充てられていた。徳川家の菩提寺として、官軍に対するという厳しい状況下、増上寺側は慎重に協力する姿勢で望んだとされる。
芝神明社は、明治5年(1872年)に、現今の神社名である「芝大神宮」と称した。 社殿は神明造、千木のある屋根が特徴である。
江戸時代、増上寺と、この社の周囲には歌舞伎小屋、見世物小屋、楊弓場、講談や落語の小屋などがならび、江戸南郊随一の盛り場となっていた。江戸の盛り場としては、浅草、両国(回向院)などが知られているが、いずれも寺社の周辺にできており、とくに寺院の御開帳のときに民衆は信仰と遊興を一緒に楽しんだ。盛り場は、いわば聖なる空間と、俗なる空間が一体となった空間を形成していた。
また、歌舞伎の「め組の喧嘩」はよく知られているが、この演目は芝明神社の境内で起きた事件がもとになっている。文化2年(1805年)境内で花相撲が開催されたとき、力士とめ組の町火消との間に喧嘩が起こり、死傷者が出た事件で、歌舞伎や講談、実録本などに多く採り上げられた。まさに「火事と喧嘩は江戸の華」の一場面である。
「め組」は、いろは組町火消の中でもとくに有名で、増上寺境内にも「め組供養碑」が奉納されている(1716年建立)。
芝大神宮 |
芝大神宮・社殿 |
芝大神宮・「め組」奉納の狛犬 |
芝大神宮・千木・鰹木 |
増上寺境内にあるめ組供養碑 |
4.芝公園
増上寺の周辺一帯は、芝公園となっているが、増上寺と同様、その歴史は複雑なものがある。
明治6年(1873年)に公園制定の太政官布達が出され、芝、上野、浅草、深川、飛鳥山の5カ所が東京府の公園として誕生した。これは、西洋の「公園(public garden)」という概念を取り入れたもので、遣欧使節団による海外見聞と居留地外国人の要求により、西欧化、文明化の取り組みとしてつくられた。5カ所ともに、神社仏閣の境内を中心とするもので、しかも、上野・寛永寺(菩提寺)、浅草・浅草寺(祈願寺)、芝・増上寺(菩提寺)、深川・富岡八幡宮(八幡大神を尊拝し保護)、飛鳥山・王寺権現(家光が寄進、吉宗が桜の名所)という、いずれも徳川家と深いかかわりのある寺社である。こうした選定は、やはり明治新政権が徳川幕府の威光を抑え、新たな政権となったことを象徴的に示す施策であったと考えられるだろう。
このように増上寺一体の広い敷地を含んで公園化し、東京名所として、増上寺の壮麗な伽藍を中心に、周囲に滝のある庭園、花壇、料理店、さらには「東京勧工場」というものが造られ公園としての重質を図った。勧工場というのは、いまでいえば百貨店のようなもので、127店舗が入る集合店舗で、内国勧業博覧会の売れ残った古美術品を販売する店などが入っていた。
戦後、芝公園は大きく変わった。増上寺の伽藍の多くは空襲により焼失し、新憲法による政教分離に伴い、社寺所有地を公園として公費を持って管理することが出来なくなり、増上寺のエリアは公園から除かれた。また、南側には西武により、昭和34年(1959年)にゴルフ練習場とボーリング場、プールができ、北側には昭和39年(1964年)東京オリンピックを目前として「東京プリンスホテル」が建てられ、公園は大きく減少し、「薄皮饅頭」のように真ん中がなく周辺を残すのみになった。いまは、芝ゴルフ練習場等の跡地に、現在ザ・プリンスパークタワーが建っている(2005年竣工)。さらに、昭和32年(1958年)に竣工した東京タワーには、増上寺の墓地の一部が提供されている。
なお、西武が取得した土地は、徳川家の台徳院、文昭院、有章院などの霊廟があったところであり、これらの霊は、安国殿の後ろ側に新たにつくられた墓所にまとめて改葬されている。
戦後の復興から高度成長の波にのって、増上寺とその周辺は、信仰の空間というより、新しい観光、娯楽の空間として、大きく変化していった。
東京プリンスホテル |
有章院二天門と東京プリンスホテル |
芝公園 |
徳川家墓所 |
徳川家墓所 |
5.大教院
明治になって、増上寺は、徳川家の菩提寺から、天皇を祀る神殿を本堂につくり、神道の教化に勤める場所となった。
明治新政府は、王政復古のスローガンを掲げ、祭政一致の体制を進めるため、古代律令制に倣い、1868年に、神祇官を設置した。1871年には神祇省に降格となり、さらに翌1872年には廃止され教部省が設置された。この教部省のもとに大教院が設置され、天皇を中心とする神社神道の国教化を推進するため神道・仏教合同で民衆教化をはかることとした。
この大教院が、増上寺に置かれることになった。増上寺が選らばれた理由として、明治5年(1872年)に開催された秘仏・黒本尊の御開帳大法会が大変な盛況であり、このような人気を背景に廃仏毀釈によって衰退の風潮のあった仏教界の隆盛を期待したと推測されている。さらにいえば、新政府は、徳川家から天皇へ、仏教から神道へ、と大きく変わったことを象徴する政治的意味をこの増上寺という場に持たせたのではないだろうか。
増上寺に設置される前に仮教院として芝金地院、元紀州藩邸を経て、明治6年に芝増上寺の本堂(大殿)に大教院が置かれた。増上寺側からすれば、本堂を献納させられることになるため当然、反対もあったが、大教院側はこれを強行した。その背景には三島通庸ら薩摩閥の勢力があったという。
増上寺の本堂が献納されたため、本尊・阿弥陀如来、黒本尊は台徳院御霊屋へ、大師像は経蔵へ遷座され、台徳院御霊屋が本堂となった。また三解脱門楼上の十六羅漢像も撤去された。かわって、旧本堂に神殿が造られ八神と天地地祇と歴代の天皇の霊も祀られた。神殿の棟上げ式には神式の儀式が行われ、神官と同様、僧侶も鳥烏帽子、直垂衣の正装で神饌を供したということで、僧侶たちにとってはかなりの衝撃であった。
翌明治7年1月1日、増上寺に置かれた大教院に火災が発生した。この火災によって、大教院の講堂、神殿鐘楼、書類記録一切を失ったが、肝心の御霊代は宿直者が救出し延焼をまぬがれため、近くの芝大神宮(神明社)へ遷座された。
この火災は、高知県士族の者による放火であった。彼らは、大教院は邪宗(キリスト教)防衛にも敬神愛国もなしえない「神威を汚し奉る」場であるという反発心、さらには仏教に対する反発心もあり、本殿に神殿が置かれていること自体が許容できなかったことから、「焼滅するに如かず」として犯行に至ったという。
放火後、大教院は御霊代を仮の芝大明神から芝東照宮に遷座し、すぐに機能を回復した。失われた神殿の再建については神道側が、伊勢神宮、琴平神社、出雲大社など各有力神社に資金拠出を割り当て直ちに再建した。一方の旧本堂を失った増上寺側は、再建は浄土宗門下、信徒などの献金に拠るしかなく、資金はなかなか集まらず、本堂(大殿)の再建には火災から約30年後、明治36年(1903)にやっと大殿(本堂)が落成した。
この事件は、神道側にとっても、本堂を強いて献納させたるも、不浄の地であり神の御心に叶わないために起きた天罰と映ったようだ。それが大教院の活動自体をも表しているように、明治8年に大教院は解体され、明治10年には教部省も廃止された。
参考:『大教院の研究』小川原正道 慶應義塾大学出版会 2004年
芝増上寺・川瀬巴水 |
増上寺は、江戸時代中頃には、檀林(学問所)が置かれ、周囲には100件以上の学寮があり、3000人以上の学僧が学んでいたという。また子院(塔頭)も多く、お堂が120以上もあったという。ここには、徳川家の菩提寺として歴代将軍6人が眠っている。
そうした徳川の聖地に、明治の一時期には神殿が造られ、神道の教化の場となったという歴史、さらには、江戸時代の建築も東京大空襲などにより、ほとんどが焼失し、増上寺の周囲は公園と西武によるホテル、ゴルフ練習場となるなど、カオス的な歴史をたどった。いまは、東京タワーが背後に建ち、東京のランドマークとなっている。
増上寺・三解脱門の特別公開に出会い、それを機会に、増上寺とその周辺の歴史の移り変わりに触れることができた。
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