徳川家の葵の御紋 |
増上寺にあった徳川家の霊廟は、戦災により多くを失いましたが、台徳院霊廟門、有章院二天門が日比谷通りに面して残っています。また、他に残った霊廟の門や宝塔、銅灯籠、石灯籠などが、西武球場近くにある狭山・不動寺に移設されています。
先の増上寺のブログの追加として、これら霊廟門などについてまとめてみました。
1.台徳院霊廟門
増上寺の本堂を挟んで、南側に台徳院霊廟(二代将軍・秀忠)、北側に文昭院霊廟(六代将軍・家宣)、有章院霊廟(七代将軍・家継)があったが、戦災により建物はほとんどが焼失し、門だけが残った。現在は、台徳院霊廟の惣門、有章院霊廟の二天門が日比谷通り側に残っているが、ほかはここを西武がホテル、ゴルフ場などを建設する際に、埼玉・狭山に移設された。それが狭山・不動寺で、西武球場の近くに建てられている。
不動寺には、1960年に移築されたが、その前年まで徳川家の霊廟、墓の学術調査が行われた。調査に当たっては、増上寺檀家総代である渋沢敬三(渋沢栄一の孫)が斡旋し、徳川家正氏も立ち会ったという。
(1)勅額門
勅額門は、増上寺に現存する台徳院霊廟・惣門の奥に位置していた。現在は、不動寺の入口に置かれてる。勅額門という名称は、その扁額を後水尾天皇の筆によるものから付けられたものである。
切り妻屋根に、門の柱は黒漆に塗られ、上部には獅子の彫刻、龍の絵が極彩色で飾られている。これらは、名工・甲良広宗や狩野派の絵師によるものとされ、日光東照宮・陽明門などのさきがけとされている。屋根の懸魚には葵の御紋が描かれている。
門から後ろを振り返ると、西武球場の銀屋根がまぶしく光っていて、時代を混乱させるような不思議な光景であった。
狭山・不動寺の入口にある勅額門 |
後水尾天皇の筆による扁額 |
獅子の彫刻 |
獅子の彫刻 |
向こうに西武球場の銀屋根 |
懸魚に葵の御紋 |
勅額門の向こうに西武球場 |
(2)御成門
御成門は、もとは霊廟の奥院入り口に位置していたが、現在は不動寺の勅額門の上、階段を上ったところに建てられている。飛天の彫刻が施されていることから天人門とも呼ばれる。金箔が貼られた欄間彫刻の飾りが朱色の木組みに映えて煌びやかである。
ほかにも鳳凰が描かれ、また花頭窓には松が彫刻で描かれている。こちらの屋根の懸魚にも葵の御紋が描かれている。
御成門という名称は、将軍が臣下の邸宅を訪問することをとくに「御成り」と表現したことから付けら、現在も、地下鉄の駅名などに残っている。
御成門 |
飛天 |
金箔の貼られた飛天 |
鳳凰 |
花頭窓の松 |
(3)丁子門
丁子門は、台徳院霊廟から崇源院霊牌所(秀忠の正室であるお江)への通用門であった。霊牌所へは、台徳院惣門、勅額門を経て右折すると丁子門があり、この門を通ることになる。現在は、不動院の奥の低くなった場所に置かれている。
丁子門も極彩色で飾られ、屋根の瓦には金箔の葵の御紋が彫られている。向かい合う花頭窓は格子で組まれている。
ところで、丁子門の名称であるが、丁子とは、インドネシア原産の植物で香料、薬草として使われたというが、なぜ、その名がこの門に付いたかははっきりしないようだ。ただ、門の貫に載っている蟇股に三つの丁子の尻を合わせて車上にした紋が描かれており、そこから名付けられたのだろうか。
丁子門 |
蟇股に三つの丁子紋 |
黒漆の門 |
花頭窓の格子 |
金箔の葵の御紋の瓦 |
2.宝塔
この宝塔は、桂昌院霊屋にあったもので、北側の文昭院霊廟と有章院霊廟の間の奥に位置していた。現在は、不動寺の第一多宝塔の横に置かれている。この宝塔の下に石室が設けられていた。
桂昌院は三代将軍・家光の側室で、五代将軍。綱吉の母である。仏教への帰依が深く、東京・文京区にある護国寺は桂昌院の発願により、桂昌院の念持仏であった如意輪観音菩薩像を本尊としている。また、京都の善峯寺、南禅寺、清凉寺、西明寺、真如堂などの再建や、奈良の唐招提寺の戒壇院の復興などにも尽力している。
桂昌院の宝塔 |
3.銅灯籠
文昭院霊廟、有章院霊廟にあった銅灯籠80基が移設されたが、現在は76基が、不動寺の羅漢堂(井上馨邸にあったもの)の周囲にずらりと並んで置かれている。
ところで、残る4基のうち、大磯の吉田茂邸にある七賢堂前に1基、ほかに岸信介、佐藤栄作などの政治家にそれぞれ1基を堤康次郎が贈ったとされる。
なお、七賢堂は、伊藤博文の滄浪閣に、小祠を建て、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通の霊を祀り「四賢堂」と称し、伊藤博文を合祀して五賢堂とした。戦後、堤康次郎の手に渡り、その後、伊藤邸から吉田邸に遷座(1960年)し、西園寺公望、そして死後、吉田茂も合祀し七賢堂となったものである。吉田邸は、1969年に西武に買い取られ大磯プリンスホテルの別館となった。現在は大磯町の町有施設となっている。
羅漢堂の周りの銅灯籠 |
笠の大きな蕨手と葵の御紋 |
4.石灯籠
霊廟への参道や周囲を囲むように石灯籠が約1000基もあったという。これらは300の諸藩の大名からの寄進である。寄進にあっても、家格があり、銅灯籠は十万石以上とされ、五万石から十万石以下が石灯籠2基、5万石以下は石灯籠1基が基準となっていたという。
この石灯籠の特徴は、大きな笠に蕨手という飾りがついていることで、こうした様式は、ほぼ統一されていたようだ。江戸城の石垣と同様、伊豆石が使われている。
これら多くの石灯籠は、徳川霊廟の学術調査が終わるやいなや狭山のこの地に運ばれそのまま野積みにされ、西武球場が建設される時に西武線沿線の寺院にも分けられたという。以前、このブログでもとり上げた練馬の長命寺にも文昭院殿と刻まれた石灯籠が置かれていた。(「東京異空間57 石仏巡りⅤ~長命寺1」 2021.3.9)
参考:
『増上寺 徳川家霊廟』港区郷土資料館 編 2009年
『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』鈴木尚ほか編 東京大学出版会1967年
石灯籠 |
清陽院(綱重・家光の三男)と刻まれた石灯籠 |
桂昌院と刻まれた石灯籠 |
宝塔の前に並ぶ石灯籠 |
文昭院と刻まれた石灯籠(練馬・長命寺) |
増上寺について、三解脱門から境内にある堂宇や、かつての徳川家の霊廟門を観て、そのいくつかが狭山・不動寺にあることを知り、残っている門や灯籠などを観て来ました。この不動寺も西武によりつくられたもので、増上寺以外の各地からも建築物などを移設しています。
増上寺は、江戸時代は徳川家の菩提寺として、明治になると大教院として、また芝公園として、そして戦後、空襲により多くを失い、また西武のホテルやゴルフ場などになり、徳川家霊廟の一部は、狭山・補導寺に移設されました。そうした歴史的な変遷を経て、いまも三解脱門、その楼上にある仏像群といったこれらの文化財がいつまでも大切にされることを願いたいと思います。
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