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葛飾北斎・富嶽三十六景《登戸浦》(1830-34年ごろ) |
千葉の登戸と稲毛に行って、二つの神社に参拝してきました。この辺りは、私にとって懐かしい場所です。今では想像もつきませんが、これらの神社のすぐ近くを走る国道14号線から先は海だったのです。今は埋立てされ、官庁や住宅が立ち並らび、海は見えませんが。
1.登渡神社
登渡神社は千葉市中央区登戸に位置する。神社は「とわたり」で地名は「のぶと」である。登戸という地名は、いくつかあり、よく知られているのは川崎市の登戸で、こちらは「のぼりと」と読む。地名の由来は多摩丘陵への「のぼり口」にあたることからだとされる。同じように、ここ千葉の登戸も海岸から急に丘に登る入口に当たる。
この辺りは、かつては登戸浦と呼ばれる入江で、 江戸時代には船で江戸に年貢米や海産物などの物資を運ぶ交通の要衝として繁栄していた。いまでは想像もできないが、海は遠浅で、汐干狩りなどが楽しめた。葛飾北斎の富嶽三十六景《登戸浦》は鳥居のある海岸で汐干刈りを楽しむ人たちが描かれ、鳥居の間からは富士山が望まれる。
登渡神社は、由緒によれば、千葉氏の末裔、登戸権介平常胤が祖先を供養するため、地区の最高点である遠望台(標高約15m)に千葉妙見宮(現在の千葉神社)の末寺を1644年に勧請し、僧定弁を守護の任にあてたのが始まりとされる。その後、1867(慶応3)年に、登渡神社と改め祭神を妙見菩薩と同一視される天御中主神以下の造化三神に定める。
社殿は、総檜造で、もとは寺院であったことから伽藍構造の特徴を持っている。9月5日は例祭で神輿渡御などが賑やかに催される。子供のころ、このお祭りに屋台がたくさん出ていたのを覚えている。この神社の向かいに登戸小学校があり、ここに通った懐かしい思い出がある。1873(明治6)年に開校した日本一古い小学校の中の一つだというのは、今度調べていて初めて知った。。
葛飾北斎・千絵の海《下総登戸》(1830年ごろ) |
登渡神社
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お祭りの屋台(千葉に住む友人の写真から) |
2.稲毛浅間神社
稲毛浅間神社は千葉市稲毛区に位置する。先の葛飾北斎の《登戸浦》に描かれた海にある鳥居は、登渡神社ではなく、海中に鳥居があったことが記録されている稲毛浅間神社ではないかとする指摘もある。
「稲毛(いなげ)」という地名は、古代の官職名「稲置(いなぎ)」に由来するともいわれている。浅間神社は名前の通り富士山信仰によるもので、808年、富士山本宮浅間大社から勧請したのに始まるとされる。
鎌倉から室町時代にかけては、千葉全域に君臨した関東の有力豪族である千葉氏が、一族の守護神である「妙見菩薩」とともに代々、浅間神社への信仰が篤かったといわれる。1187(文治3)年に社殿を再建した時には、富士山の姿にならって山を整え、富士山道のように三方の参道を山に設け、社殿は湾の向こうの富士山を正面に望むように建立された。
1962(昭和34)年、原因不明の火災により、文治再建の社殿が焼失したが、1966(昭和41)年に再建されたのが現在の社殿である。
例大祭は7月14日から15日にかけて行われる。例大祭のお参りは1年間、毎日参詣するのと同じご利益があるとされ、昔から「近郷7歳以下の児童は必ず参加する習慣があり、遠きは数里より集うもの万余に及ぶ。」(『千葉市誌』昭和28年)と記されるとおり、多くの人が集うお祭りであったという。現在も、神楽や稚児行列などが行われ、通りには露天が多く並ぶ。
稲毛区に所在する緑町中学校に3年間学び、冬にはマラソン大会があり、ここ稲毛海岸の松林が折り返し地点で走った思い出がある。緑中は、1947(昭和22)年、学制改革により千葉市立第五中学校として発足、1951(昭和26)年に千葉市立緑町中学校と改称した。
ちなみに、マツコ・デラックスは稲毛の出身、キムタクとは同じ高校(千葉県立犢橋高校)だったという。
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ジョルジュ・ビゴー《稲毛海岸》 1903(明治36)年・千葉市美術館蔵 |
左手奥に小さく見えるのは、当時海中にあった稲毛浅間神社の一の鳥居。今は埋め立てられて見る影もない。
松林 |
自分が小学校のころは、登渡神社の下の海岸に出て、汐干狩りや、小魚を獲ったりしていました。高台にある小学校からは、富士山がよく見えました。また、中学校のころは、近くの学校と野球の試合をやったりしていました。高校のころになると、埋立が一気に進み、海が遠くになったように思います。そんな埋立地にいって写真を撮ったりしていました。懐かしい思い出の場所です。
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