2025年9月25日木曜日

東京異空間345:「時局と画家」@大田区立龍子記念館

 


東京国立近代美術館で「記録をひらく 記憶をつむぐ」@東京国立近代美術館で、戦争画を観てきましたが、川端龍子も従軍画家として戦争画を描いています。「時局と画家」@大田区立龍子記念館では、画家として龍子が表した戦争への姿勢から、時局と画家について考える展覧会が開かれていました。

(参照):

東京異空間245:美術展を巡るⅣ-4~MOMATコレクション@東京国立近代美術館2024/11/16

東京異空間341:戦争協力画~「記録をひらく 記憶をつむぐ」展@東京国立近代美術館2025/9/4

1.川端龍子(1885-1966

1885年、現在の和歌山市に生まれる。本名、川端昇太郎。10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。

龍子は、はじめ西洋画を学び、1913年(龍子28才)ときに渡米したが、立ち寄ったボストン美術館で鎌倉時代の絵巻物の名作『平治物語絵巻』を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向し、独学で学ぶ。1917年、横山大観率いる日本美術院の同人となる。

しかし、当時の日本画壇では、「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であり、日本美術院を脱退し、1929年、あらたに青龍社を立ち上げ、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して大作を描き独自の道を歩んだ。

戦時中は、軍の従軍画家として日本画による戦争記録画を描いた。戦後、画家の戦争責任を問われ、美術界の戦犯リストに「自粛を求める者」 として、日本画家では横山大観とともに名をあげられた。

ところで、「龍子」という号を使うことになったのは、徴兵検査のため戸籍謄本を取った時、そこに自らの出生の秘密を知り、父親への嫌悪感を抑えることができず、「俺は龍の落した子なのだ」という、強い反発心と新たな決意から、昇太郎は「龍子」という号を使い始めたという。

《龍子像》鶴田吾郎 1962年

《龍子像》鶴田吾郎 1962年


2.龍子の作品

(1)《源義経( ジンギスカン)》  1938

1938年、龍子は中国北部から内モンゴルを訪れ、モンゴル高原を一望した。源義経がモンゴル帝国の初代皇帝チンギスハンであるという伝説を取り上げながら、日中戦争下の当時、日本が満州、そして内モンゴルへと影響力を強めていった時局を表現している。 この絵は「彩筆報国への意図によるものである」と、龍子自ら語っている。






(2)《波切不動》( 1934 年 )

太平洋の覇権をめぐって悪化する日米関係の緊迫した状況を、不動明王が日米関係もろとも太平洋上で一刀両断する力強いメッセージが込められている。この不動明王は、空海が唐から帰るときに荒波を鎮めたという伝承を持つ高野山南院の本尊仏であり、龍子が平素より自分の守り本尊とする不動尊であった。





(3)《椰子の篝火》 1935

日本統治領であったサイパン、パラオ、ヤップの島々を視察した際には、原始的生活の面影を残す場所や、ヤップ原住民の戦争などいざ知らず、踊りを楽しむ姿に魅了され、「泰平の楽土であった」と語っている。






(4)《炎庭想雪図》 1935

かつて唐の詩人・王維は夏のバショウに雪が降り積もる「雪中芭蕉」の図を描いて涼を楽しんだと伝えられる。龍子はこれを現代風にアレンジし、自宅の庭にバショウや夏に咲くヤマユリ、タケニグザとともに雪景色を現わした。雪の白と対照的に鮮やかな緑に描かれたのは南洋諸島で実際に観た植物の印象が反映されている。





5)《花摘雲》 1940

この絵について龍子自ら次のように語っている。

「当時の日本の理想は、五族協和、王道楽土の出現にあったので、この理想郷を象徴したわけです。雲を飛天に擬したのは、北満の野草咲き乱れた大原に、雲のたたずまいの印象によるものです」








6)《伊豆の國》 1941

伊豆半島から富士山までの雄大な眺めを俯瞰した構図と墨で力強く表現されている。下田港への黒船来航を描いて日米の緊張の高まりを表 した。この作品の制作直後、 太平洋戦争が開戦する。

左《大和の国》、右《伊豆の國》





7)《大和の国》 1942

奈良・吉野山の桜、ヤマザクラが中千本、奥千本へと開花していく様子を描いた。戦争が激化していく中で龍子は、ヤマザクラを描くことを通じて、かつて「敷島の大和心を人問わば朝日ににほうヤマザクラ」と本居宣長が詠んだ「大和魂」を、今一度、問いかける一作である。」と語り、また「惜しみなく散る桜のごとき尽忠の誠心」(龍子)として、大和魂の象徴である桜とともに、花と散った兵士たちへの思いも込められている。



(8)《越後》 1943年、 《山本五十六元帥像》 1943

日に日に悪化する戦局において、龍子は戦死した海軍大将・山本五十六を《越後(山本五十 六元帥像)》に鎮魂の思いとと もに描き上げた。越後・長岡出身の海軍将校・山本五十六を大画面に描き、英知の将軍と称えられたその人と成りを表現する。この作品は「地球儀を前にして地図を案じる」写真をもとに描いたという。地球儀の意味を龍子は次のように語る。

「わずか一年以内にその醸成を覆した今度の大東亜戦の、実にめざましい戦果に対して、その戦果ー占領ー進展をその都度ごとに、日本各地にある地球儀にいちいち日本色にぬりかえもやれん訳である。ところで、不用意にも今、日本色と一言にしたが、これを敵側が利用すれば、日本の野望ということになる。」(龍子)





同じ構図の《山本五十 六元帥像


(9)《水雷神》 1944

マリアナ沖海戦での敗北以降、南洋では日本軍が壊滅的な状況に向かう戦局において、 三 人の青年が悲痛な表情で魚雷をつき動かす。本作について「龍子は怒っている」と批評されるほど強烈な印象を与えた。

「今年の龍子は怒っている。・・・ 龍子は何を怒っているのであるのか、《水雷神》は三人の水雷が必中必殺の魚雷をすくって、南の海を突進する姿を描いているが、その青不動ともみたい水神の憤怒の姿相を見るがよい。雷雲にとりまかれてまさに鳴動せんとする」(読売新聞 1944913日)










岩田豊雄(獅子文六)『海軍』1943年 装幀画


10)《怒る富士》1944

この作品も、戦争画破局的状況を迎えた1944年に発表された。本来、赤富士は吉祥の画題だが、深紅の山肌に龍子は悪化する一方の戦況に対する怒りを表した。たちこめる黒雲は本土空襲に怯える国民の不安を象徴するかのようだ。雷には、本作を描く2週間前に妻を病で失った龍子のが激情が表現されているという。




11)《稲妻》 1942

秋の夜空に稲光が走り、三重塔が照らし出された瞬間を描いた。古い諺に「陽炎は消えて明るく、稲妻は消えて暗し」という実体のないものを指す言葉から構想したと龍子は述べている。黒雲がたちこめ、これから激しく雨が降り出す光景は、何か不穏なことを暗示し、太平洋戦争開戦後の不安な心境が重ね合わされているようだ。




12)《臥龍》 1945

この作品は、終戦直後に描かれた。「龍を自発的に描いたのはこの一点だけ」と、龍子は焼け跡から始まる戦後の日本を象徴して弱り切った龍の姿を描いた。そして傍らに球を配することで日本再興に向けての強い願いを込めた。

《臥竜》を制作する前には、《特攻隊》を描くため下図まで制作されたが、敗戦を迎えたため、《臥竜》が描かれた。

龍子は、19456月に画室で展覧会を開催した時の案内状に「戦争に捷(か)った暁に さて芸術が無いとあっては寂しいものでしょう」とあくまでも勝利を信じて書いた。しかし、終戦後の2か月後、10月には日本橋三越で展覧会を開催し、《臥竜》等を展示した。その際には、次のように述べている。

「永遠に世界人類を戦果より免がれしめんというような理想の持ち主でも無かったし、又軍に戦争そのものを罪悪視する非戦論者でも無かった。・・・しかし、今日の日本国の最大の主題はすなわち永遠の平和の理念の上に日本再建のその事以外には何物も無い」







13)《香炉峰》 1939

今回は展示されていなかった作品。

横7mもある大画面いっぱいに、戦闘機を半透明にして、香炉峰が見えるように描いている。龍子曰く「(機体の)迷彩に背景の自然の山を利用した」とのこと。タイトルの「香炉峰」からは戦闘機や戦争ではなく『枕草子』の「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ。」という雅なイメージを浮かべるが、香炉峰は北京にある主峰であり、日本軍の攻撃を描く戦争画である。因みに、操縦席のパイロットは龍子自身であるという。



14)《爆弾散華》 1945

今回は展示されていなかったが龍子の代表作の一つ。

終戦を翌々日に控えた1945年(昭和20年)813日に、龍子の自宅も空襲に遭った。使用人2人が亡くなり、家屋のほか食糧難をしのぐため庭で育てていた野菜も被害を受けた。この後すぐ《爆弾散華》を描き上げた。金箔や金色の砂子の背景にトマトなどの夏野菜が爆風でちぎれ飛ぶ様を描いた。

因みに龍子は、爆撃によりできた穴を「爆弾散華の池」として庭に残した。



15《洛陽攻略》 1944

東京国立近代美術館に所蔵されている川端龍子の描いた「戦争記録画」が2点、東京国立近代美術館に所蔵されている。

大きく描かれているのは中国・龍門石窟の磨崖仏。そこに梯子をかけ、白い手袋をして合掌する日本兵が右下に描かれている。この画に表されているのは戦争で命を失った人々に対する祷りだろうか



16)《輸送船団海南島出発 》1944年

同じく、近美に所蔵されている川端龍子の「戦争記録画」の一つ。

海南島は南シナ海北部に位置し、この島で鉄鉱石を採掘し本土へ送る輸送作戦は、戦争末期になると決死の様相を帯びた。暗い中に大きな船が二艘、その中央に南十字星の白いクルス。右の空にはに太陽、そして左には月。船の運命が暗示されているかのようである。


17)《護れ興亜の兵の家》軍事保護院 1940年 ポスター原画

1939(昭和14)年、日中戦争の新段階に対処し、軍人援護の徹底強化を図る目的で、厚生省外局として軍事保護院を設置された。その業務は、傷痍軍人、軍人遺族、軍人家族の擁護であった。


3.青龍社

青龍社は、1929年(昭和4年)に、日本美術院を脱退した川端龍子によって結成された。川端龍子は伝統的な小さく優雅な「床の間芸術」と言われる日本画壇から、迫力ある大画面の日本画という「会場芸術」を目指し、「健剛なる藝術への進軍」をスローガンとして、新たな日本画の創出を目指した。 

(1)主な活動

結成と同年の19299月に第1回展を開催した。毎年秋の展覧会は戦時中も欠かさず1965年の第37回まで開催された。

1966年、川端龍子が亡くなるとともに、青龍社も解散した。その3年前に龍子は、「青龍展の名は自分一代かぎりで、死んだら墓の中へ持っていく」という宣言をしていた。解散はその意志を尊重し、関係者の解散式は故人の三十五日に当たる14日に行われ、正式な解散日は、京都・大丸で開かれている「春の青龍展」が幕をおろした15日となった。

(2)主な参加者

福田豊四郎、落合朗風、横山操、女性画家の小畑鼎子といった画家たちが参加した。発足時、わずか14名で始まった団体も最終的には100近い団体へと成長し、帝展(新文展、日展)、院展と並ぶ日本画壇の一大勢力へと成長した。

「青龍社」龍子のもとに集まった若き日本画家たちとの集合写真。左から5番目が龍子


(3)龍子記念館・龍子公園

龍子が晩年を過ごした東京都大田区には、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に、自身が構想した龍子記念館が建てられた。当初は青龍社が運営していたが、解散に伴い、1991年から大田区立龍子記念館として龍子の作品を展示している。展示室は龍子の大作が飾られるよう大きな壁面が設けられ、鑑賞のための引きも十分に取られた広い空間となっている。また、建物を上から見ると、「龍子」の号に因んで身をうねらせる龍のような形状をしている。




龍子記念館


龍子は、1920(大正9)年にこの地に暮らし始め、自ら構想した自宅兼画室を「御形荘」と名付けた。御形荘は終戦間際に空襲で大破するが、画室は無事であった。爆撃の難をのがれた画室は青龍社創立10周年となる1938年に建造されたもので、龍子は、そこで戦後も精力的に制作をつづけた。1951(昭和26)年には邸宅を再建し、庭には空襲によって出来た爆弾跡を「爆弾散華の池」として造った。

これらは龍子公園として、1日3回、担当者の案内で観ることができる。


主屋

「爆弾散華の池」




仏間棟・伝 俵屋宗達《桜芥子図襖》(複製)




川端龍子も戦時中は従軍画家として戦争画を描き、戦後はその戦争責任を問われました。これらの作品を観ると、これまでみた藤田嗣治のリアルな洋画とは違う、日本画の大作としての迫力ある作品を描いています。また同じ日本画の横山大観のように国体を象徴するような富士を描くのではなく、そこに激情がこもるような雷を加えています。また、青龍社の展覧会を戦時中も開催し続けるなど、独自の画業を貫いた川端龍子をみることが出来ました。

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