| 早雲寺・惣門 |
夏の暑い時期(7月)に箱根・湯本に行ってきました。泊まったところの近くに早雲寺がありましたので、歩いてみました。
1.早雲寺
(1)由緒
室町時代「創建」: 大永元年(1521年)、後北条氏の2代目当主・北条氏綱が、初代・北条早雲(伊勢盛時)の遺言に従い、京都大徳寺の「以天宗清(いてんそうせい)」を招いて創建した。
門前町としての発展: 北条氏の隆盛とともに、関東屈指の臨済禅の道場として栄え、当時の箱根湯本のほぼ全域を境内とするほどの規模を誇った。現在の箱根湯本の町は、この早雲寺の門前町として始まったと言われている。
戦国時代「焼失」:天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、当初は秀吉の軍勢の本陣として利用された。しかし、石垣山一夜城が完成すると、秀吉の手によって火を放たれ、広大な伽藍は一度すべて焼失してしまう。
江戸時代「再建」:その後、江戸時代前期に、北条氏の血を引く狭山藩(大阪府)の北条家などの支援や大徳寺の僧・近転宗晴らの尽力により、現在の場所に再建された。
(2)境内
惣門
境内の入り口に立つ門で、北条氏の家紋である「三つ鱗(みつうろく)」が刻まれている。掲げられた「金湯山」の扁額は、江戸時代に訪れた朝鮮通信使の雪峰による揮毫という。
惣門近くの地蔵菩薩
中門
山門と本堂の間に位置する伝統的な木造門。平成後期に新築・復元修理が行われた。
本堂
伽藍の中心となる建物。江戸時代に再建されたもので、均整のとれた大きな銅板葺の屋根を持つ。
鐘楼堂
山門の左側に位置する鐘楼。吊るされている梵鐘は、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、本陣を置いた早雲寺から石垣山一夜城へと移して合図に使ったものと伝えられている。元徳2年(1330年)鋳造の古い梵鐘である。
開山堂
本堂の奥、庭園の近くにある茅葺の小堂(工事中であった)。創建時の開山(初代住職)である以天宗清(いてんそうせい)を祀っている。
枯山水庭園「香爐峯」
背後の山の斜面をそのまま活かして大小の石を配した枯山水となっている。この迫り来る山肌の風景を、中国の景勝地である「香炉峰」の荒々しくも美しい山容に見立てている。
戦国時代屈指の文化人であり、早雲の三男でもある北条幻庵が作庭したと伝えられる。 秀吉による焼失を経ているため、現在の庭園は江戸時代初期の再建時に改修された遺構と推定されている。
(3)北条五代の墓
北条五代の墓: 初代・早雲から、氏綱、氏康、氏政、氏直にいたる小田原北条氏(後北条氏とも)の歴代当主5人のお墓が並んでいる。秀吉の焼き討ちによって本来の埋葬場所は分からなくなってしまったが、江戸時代に入り、生き残った子孫(狭山藩北条家)によって改めてこの供養塔が建てられた。
(4)北条五代による関東支配
北条五代は、室町時代後期から戦国時代にかけて約100年間にわたり関東地方を支配し、独自の先進的な国家体制を築き上げた。初代・北条早雲(伊勢宗瑞)から5代・氏直に至るまで、巧みな軍事・外交戦略で南関東を中心に領国を拡大し、足利氏や上杉氏の旧勢力が争い荒廃していた関東地方に、領民の安定を優先する政治的安定をもたらした。
しかし、1590年に 豊臣秀吉の「小田原征伐」に直面し、氏直は降伏する際、自らの命と引き換えに領民や城兵の助命を乞い、滅亡した。 なお、氏直は助命されて高野山に流されたが、翌年1591年、疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。
北条五代が100年かけて整えた関東の強固な農業基盤、税制、そして小田原で培われた都市づくりのノウハウは、その後に関東に入った徳川家康による江戸の繁栄の土台としてそのまま引き継がれることになる。
(5)連歌師・宗祇の墓
室町時代に全国を旅した連歌師・宗祇は、江戸に向かう途中、体調が急変して、この箱根湯本の地で没した。83歳。境内には彼の供養塔がある。
本堂前の石碑には、宗祇 の「世にふるも 更に時雨の 宿りかな」が刻まれている。
「この世を生き長らえていく人生とは、通り過ぎる冷たい時雨の間に、わずかに雨宿りしているようなものだ(=人生は非常に儚く、短い)」という意味
(6)山上宗二追善碑
堺の茶人・山上宗二は、千利休の高弟であり、秀吉の茶匠であった。理非曲直の発言で秀吉の怒りを買って浪人となり、前田利家に仕えるが、再び秀吉を怒らせたことから小田原に下り、北条氏に仕えた。小田原征伐の際に、秀吉は利休を介して宗二を再登用しようとしたが、宗二が断ったため、耳と鼻を削がれた上、打ち首にされたという。享年46歳。
この追善碑は、山名宗二の生涯とその悲劇的な最期を悼む文が刻まれている。碑の真横にある鐘楼に吊り下がっている梵鐘(元徳2年・1330年鋳造)は、小田原攻めの際、秀吉が自身への権力誇示のために築いた「石垣山一夜城」へと持ち去られ、戦いの「陣鐘」として実際に使用されたという。勝利した秀吉側の戦利品となった「陣鐘」と、その秀吉の怒りを買って命を落とした「山上宗二の慰霊碑」が、同じ境内に隣り合って並んでいることに歴史の無常さが感じられる。
(7)太子堂
惣門近くに太子堂があり、近くに苔むした「延命地蔵尊」が置かれている。
2.白山神社
早雲寺惣門の向かいにある白山神社。
(1)由緒
創建と伝承:奈良時代の天平年間(729〜748年)、関東地方で猛威を振るっていた「疱瘡(天然痘)」を鎮めるため、加賀白山の開祖である泰澄(たいちょう)の弟子、浄定(じょうてい)がこの地に白山権現を勧請したのが始まりとされる。
温泉の誕生:浄定が十一面観音を祀って病魔退散の修法を行ったところ、箱根の山が裂けて温泉が湧き出したという。この温泉に浸かった大勢の病人がことごとく快癒したことから、古くより「温泉の神」として広く信仰を集めるようになった。
御祭神:白山比咩大神=菊理媛命(くくりひめのみこと)、伊奘諾命(いざなぎのみこと)、伊奘冉命(いざなみのみこと)の三柱を祀っている。
| 向拝柱にかかる海老虹梁 |
| 龍の欄間彫刻 |
| 龍の欄間彫刻 |
| 見返りの唐獅子(木鼻) |
| 見返りの唐獅子(木鼻) |
(2)白山稲荷(境内社)
| 狐の欄間彫刻 |
(3)白山御神水(手水舎)
境内には「白山水」と呼ばれる清らかな御神水が現在も湧き出ている手水舎が置かれている。
(4)珍しい狛犬
大正年間に奉納された境内の狛犬は、一般的なものとは異なり、耳がピンと上に向かって立っている非常に珍しい造形をしている。
(5)菊理媛命の降臨大岩
境内には、御祭神である菊理媛命が降臨されたと伝わる「白山神社大岩」が鎮座している。
(6)神仏習合・白山神社と早雲寺
戦国時代に北条氏綱によって早雲寺が創建される前からこの地(湯本)の象徴であった白山神社は、江戸時代までは早雲寺の境内の一部(門前)に組み込まれ、「白山権現」の名で祀られていた。当時の日本では、寺院の中にその土地や寺を守るための神社(鎮守社)を置く「神仏習合」が一般的であり、白山神社もその役割を担っていた。
幕末の嘉永年間(1848〜1854年)に、早雲寺の境内から道路を挟んだ現在の山すその地へと遷座された。これにより、湯本村の独立した鎮守(郷社)となった。『新編相模国風土記稿』には「白山社 湯本村及湯本茶屋村ノ鎮守ナリ。」と記されている。
白山神社は、温泉旅館「花紋」の隣に御鎮座している。
| 旅館「花紋」 |
3.ホテル前の稲荷神社など
泊まったホテルの玄関前に、稲荷神社、勝海舟灯籠などが置かれていた。
稲荷神社は「箱根祥月天聖稲荷神社」と呼ばれ、古くは東海道五十三次の大磯宿に祭られていたという。
灯籠は、赤坂の勝海舟の邸宅にあったものを、ホテルの創業者側の縁者がこの由緒ある庭園の灯籠を譲り受け移設したもの。
鬼瓦は、上野の寛永寺にあったものを移設したという。
北条五代の墓から関東一円を治めた北条氏の歴史を、連歌師・宗祇や茶人・山名宗二の碑からもその歴史の一端を垣間見ることができました。早雲寺を訪ねて、歴史散歩となりました。
翌日は、吉池旅館にある岩崎弥之助の別邸の庭園「山月園」に行ってみました。