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安田講堂 |
前回、「東京異空間156:東大・本郷キャンパスⅢ~歴史的建築物」(2023/11/4)において、明治期から大正期(震災)までの本郷キャンパスの沿革を、その中心人物、コンドル、山口半六、山口孝吉の設計を通してみてきました。今回は、その後の震災後から、戦後までの沿革をその中心人物、内田祥三を中心にみていくこととします。
2.関東大震災から戦後まで
本郷キャンパスには、医科大学校の擬洋風建築、法文大学校はコンドルによるヴィクトリアン・ゴシック様式、理科大学校は山口半六によるフランス古典主義、工科大学校の辰野金吾によるゴシック建築など、それぞれの様式が混在していた。しかも各分科大学それのぞれの場所の割拠があり、キャンパスがこうした建物に埋められていた。
そうしたなか、関東大震災に見舞われ、多くの建物が損害・被災し、とりわけ本郷通り側は壊滅状態となった。この際、キャンパスの被害とともに狭隘問題もあり、①郊外に広い敷地を求めて移転、②代々木の陸軍練兵所へ移転、③本郷に留まる、という移転計画もでた。しかし結局、③本郷に留まることとなり、その震災復興の指揮を執ったのが内田祥三である。
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正門付近から見た明治末期の東京帝国大学(国立国会図書館ホームページより) |
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関東大震災で焼失した図書館 |
(1)内田祥三(うちだ
よしかず )と濱尾新(はまお あらた )
建築学科の教授は、初代ジョサイア・コンドル→辰野金吾→佐野利器→内田祥三と続く。内田は、コンドルが教授と営繕を担当したのと同様、建築科の教授と営繕局課長を兼務した、いわば建築の教育=教授と実務=営繕課長の二刀流であった。なお、この営繕課長は、山口孝吉の後を継いだものである。
この三代の教授、辰野、佐野、内田ともに貧しい出であった。辰野金吾(1854-1919)は唐津藩の最下級の武士の子であり、佐野利器(1880-1956)は米沢の出身で山口安平という名であったが、生家(山口家)は没落した大地主で、実父が早く亡くなり、優秀さを見込まれ佐野家に養子となった、内田祥三(1885-1972)は深川の米屋であった父を4歳の時に亡くし、祥三は横浜の米屋の丁稚に出されるところであったが、その優秀さを見込まれ上の学校に進むことができた。三人ともに明治維新という激動に時代が生んだ優れた建築家であった。
内田は、震災復興のためのキャンパスの基本計画を策定した。それはコンドルが前庭を大きくとり、オープンスペースを確保したのと同様、キャンパスにいくつかの広場をつくり、それぞれを並木道でつなげ軸線をつくった。また、建物はスクラッチタイルで外壁を覆う、ネオ・ゴシックスタイル、いわゆる「内田ゴシック」といわれる建築様式を統一した。特に重視したのは、それまで木造煉瓦造りであった建物をすべて鉄筋コンクリート造りで防火、耐震に配慮したことであった。
内田の計画を進めるにあたり、それを後押ししたのは当時の総長・濱尾新(1849-1925)であった。濱尾は、土木総長といわれ、正門の意匠や、銀杏並木および大講堂の位置の発案をしたといわれる。
内田は、その大講堂、安田講堂をはじめ、東大本郷キャンパスだけでなく、駒場キャンパス、白金の医科学研究所(旧伝染病研究所)など40棟ほどを手掛けた。実際、キャンパス内を歩いていると、皆同じような建物に見えてきて、あれっ、ここはさっき通ったところでは・・・、とディジャブを感じてしまう。
(駒場キャンパスについては、「東京異空間125:東大・駒場キャンパス」(2023/6/23参照)
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東大本郷構内構想図・内田、岸田による油彩画 |
(2)安田講堂
「東京帝国大学大講堂」は、東京大学のシンボルともいえる建物である。内田祥三の基本設計で関東大震災での工事中断を経て、1925(大正14)年に完成。安田財閥の創始者・安田善次郎による匿名を条件とした寄付(建設資金として100万円)で建てられた。安田の死後、このことが知られるようになると、一般に「安田講堂」と呼ばれるようになった。
安田講堂が日本中に知れ渡ったのは、
1968(昭和43)年に起こったいわゆる「東大紛争」によってだろう。全共闘の学生たちによって占拠された安田講堂に大学から要請を受けた機動隊が入り封鎖解除を行った。学生たちの投石や火炎瓶などが行われる中、バリケードを撤去する模様の一部始終がテレビで放映された。
この紛争で荒れた講堂は以後20年にわたって荒廃状態のまま閉鎖された。再び旧安田財閥系企業の寄付もあって修復工事がスタートし、平成6(1994)年に工事は終了して往時の姿を取り戻した。
いまは、講堂の前は広場となっており、その地下には中央食堂(学生食堂)が造られている。
なお、内田祥三の最後の仕事は、やはり安田に関係する新宿にある安田火災海上本社ビル(現・損保ジャパン本社)で、1976(昭和51)年、内田が亡くなったあとに竣工した。
(安田善次郎については、「東京異空間132:大名庭園を歩く~旧安田庭園」(2023/7/5)参照)
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安田講堂 |
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安田講堂 |
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安田講堂 |
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安田講堂 |
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安田講堂・内部 |
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安田講堂・2階 |
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安田講堂 |
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安田講堂 |
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安田講堂・天井の明かり |
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安田講堂・階段 |
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安田講堂・入口 |
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安田講堂・ステンドグラス |
(3)時計塔
ところで、安田講堂には時計塔が建っておりシンボルとなっている。時計の針は当初の木製針からアルミニウム製針となり現在は五代目となる。機械本体は、当初は水銀振子式→水晶発振式→電波時計となっている。(丸の内・インターメディアテクに展示)
また、駒場キャンパスの正面にある1号館にも時計塔が載っており、やはりシンボルとなっている。こうした時計塔は、東大に入った東京医学校の建物にも造られていた(明治9年)。当時造られていた学舎には2階建の中央に塔を建てた擬洋風の建物が多くみられる。(例えば、松本・開智学校)
時計塔でよく知られているのは、札幌農学校・演舞場(現・札幌時計台)である。1878(明治11)年完成。この時計塔は黒田清隆開拓長官の指示で設置が決まったと言われている。時計本体はアメリカのハワード時計商会に注文して取り寄せたものである。
その後も、現存する大学の建物の時計塔としては、慶應義塾大学図書館(1912)、立教大学本館(1919)、京都帝国大学本館(1952)、早稲田大学大隈記念講堂(1926)などがある。これらの建物に載せられた時計は、英国製あるいはアメリカ製であった。
なぜ、このように多くの校舎に時計塔がシンボルのように造られたのだろうか。ひとつには、ヨーロッパでは、教会や、公会堂など公共的建物に時計塔が見られるように、文明開化、近代化のシンボルとして造られたということ。ふたつには、明治5年に明治政府は太陽暦への改暦を公布したことにより、あらなた時刻が求められた。江戸時代には城や寺などが鐘や太鼓をならして時刻を知らせていたり、多くの庶民は鶏の鳴き声で時刻を知る目安にしていたのが、時計という西洋の文明の利器により正確な時刻が知らされるようになった。それは学校という集団の規律にも反映されたのであろう。
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大講堂の時計(インターメディアテクの展示) |
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附属図書館内にある時計 |
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安田講堂・時計塔 |
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安田講堂・時計塔 |
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安田講堂・時計塔 |
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駒場キャンパス1号館・時計塔 |
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駒場キャンパス1号館・時計塔 |
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慶應義塾大学図書館・時計塔 |
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立教大学本館・時計塔 |
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立教大学本館・時計塔 |
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立教大学本館・時計塔 |
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早稲田大学大隈記念講堂・時計塔 |
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早稲田大学大隈記念講堂・時計塔 |
(4)総合図書館
内田の代表作として安田講堂とともに総合図書館が知られている。関東大震災でそれまでの煉瓦造りの図書館が全焼し、76万冊にも及ぶ蔵書の大部分が灰塵に帰してしまった。新たな総合図書館は、震災後にロックフェラー財団の寄付によって建設された。1928(昭和3)年完成。正面の本を並べたような外見が特徴的である。
正面玄関の列柱の上のレリーフは新海竹蔵が制作したもので、新海は医学部附属病院のレリーフを彫っている。左からそれぞれ「力・序・義・眞・生・和・慈・玄」を表象している。
広場には、建設時にその防火水槽として設置されていた噴水がある。この噴水は岸田日出刀がデザインしたもので、五重塔の頂部に当たる九輪を参考にしたものになっている。
現在は、この噴水を中心として広場になっており、地下には書庫が造られ300万冊が収蔵されているという。
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総合図書館 |
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総合図書館 |
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総合図書館・新海竹蔵のレリーフ |
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総合図書館前広場 |
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総合図書館 |
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総合図書館の広場、噴水とともに内田によりつくられた藤棚 |
(5)各学部と附属病院
各学部の建物も、ほとんどが内田の設計によるものである。とりわけ工学部の建物は、1924年に完成した2号館は内田が初めて設計した建物であった。現在、安田講堂に面する南側は保存され、その上空に新しく高層建物が造られ、外側にV字の太い柱によって支えられている。また、工学部4号館は、現存する工学部の建物の中でも最も古い1927年に建てられた外観を残している。
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工学部2号館 |
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工学部2号館 |
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工学部6号館 |
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工学部6号館 |
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犬小屋のポーチ |
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工学部1号館 |
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工学部1号館 |
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工列品館 |
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「科学築建」(建築工学を意味するようだ) |
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理学部 |
文学部と法学部の建物を抜けるアーチは一直線になり軸線を形成している。このアーチを支える柱はコリント式円柱で、柱頭には装飾が施されている。特徴的なカールした造形は、アカンサスの葉を表している。アカンサスの葉は、力強く、雄大な姿は生命を表すシンボルとして図案化され、古代ギリシャ建築のコリント式円柱の柱頭の飾りに用いられてきた。
また、内田ゴシックの特徴の一つ「犬小屋」と呼ばれるポーチがいくつもの建物の入口に見ることができる。これは、関東大震災により使用不能となったジョサイア・コンドル設計にかかる旧法文校舎に用いられていた意匠であり、コンドルへのオマージュとしての意味も含まれているようだ。
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ポーチ外灯(戦時中に金属供出された) |
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史料編纂所 |
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史料編纂所 |
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法学部 |
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内田ゴシックの特徴の一つ「犬小屋」と呼ばれるポーチ |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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アーチの軸線 |
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柱頭の装飾 |
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柱頭の装飾 |
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柱頭の装飾 |
学部の建物とは別に、バス通りに面して、神田お玉が池の種痘所(1858年)に源を持つ医学部の附属病院棟が建っている。そのファサードは全長250mという長さを持ち、外壁には「診療・治療・予防」と名付けられた新海竹蔵(1897-1968年)によるレリーフ、「長崎への医学の伝来」と名付けられた日名子實三(1892-1945年)によるレリーフが刻まれている
。 なお、日名子は八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしている。
また、医学部本館は、赤門から銀杏並木を通って軸線となっている。建物の前は広場となっている。
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附属病院棟 |
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附属病院棟 |
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附属病院棟 |
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附属病院棟 |
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附属病院棟・「長崎への医学の伝来」のレリーフ |
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附属病院棟・「診療・治療・予防」のレリーフ |
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附属病院棟 |
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附属病院棟 |
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附属病院棟 |
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医学部 |
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医学部 |
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医学部 |
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赤門からの軸線・医学部 |
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赤門からの軸線・医学部 |
(6)育徳堂(弓道場)・七徳堂(柔剣道場)
本郷キャンパス内には、内田ゴシックとは全く異なる和風の建物があるが、これらも内田祥三の設計になる。三四郎池(育徳園)の近くに建てられている「育徳堂」は、弓道場として1935(昭和10)年に造られた。後に矢内原忠雄総長(南原繁総長の後、1951-57年の間総長)により命名された。
七徳堂は柔剣道の道場として使われている。御殿造といわれる純日本風の様式で、屋根の反り、鬼瓦などは天平風といわれている。中国の古典『春秋左氏伝』の「武に七徳あり」より、塩谷温(東京帝国大学名誉教授、漢学者1878-1962年)により命名された。
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育徳堂(弓道場) |
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育徳堂(弓道場) |
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育徳堂(弓道場)・懸魚 |
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七徳堂(柔剣道場) |
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七徳堂(柔剣道場) |
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七徳堂(柔剣道場) |
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七徳堂(柔剣道場) |
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七徳堂(柔剣道場)・鬼瓦 |
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七徳堂(柔剣道場)・グランドから |
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七徳堂(柔剣道場)・グランドから |
(7)内田総長
本郷キャンパスを震災復興を成し遂げた内田だが、その後、第14代総長(1943-1945年)となり、大戦により東大本郷キャンパスの存亡の危機に直面する。
敗戦前(昭和20年6月)には、陸軍から帝都防衛のため司令部として本郷を使いたいという強硬な申し出があった。陸軍としては、宮城および帝都防衛には上野の森と本郷台を結ぶ線を基礎とするため、是非とも東大本郷が必要であるという結論に達したとする。これに対し、内田総長は次のように述べている。
「私は、この場所こそ、われわれの死所と考えて、毎日の仕事をしているのであるから、どうも御要求に応ずることができないことを御了承願いたい、といって、はっきりと、ことわったのであった。
」
さらに、戦後には、GHQに接収されんとする危機に直面した。
大戦により広い範囲が焦土と化した東京において、本郷には内田ゴシックのキャンパスがほとんど変わらずに残っていた(3月の空襲で懐徳館が焼失した)。米軍は占領後に本郷キャンパスに拠点を置くため、あえて爆撃の標的から外していたのである。
敗戦後1945(昭和20)年、その目的を果たすため、GHQが接収の交渉に東京帝国大学を訪れた。この時対応したのは、内田総長、南原繁法学部長、石井事務局長三名であった。内田総長は、次のように主張し、断固としてキャンパスの接収を拒否した。
「それはゆゆしい大事である。東大は、わが国教育文化の最高峯を占めて居るものであり、万一、これが接収されるようなことになれば、その全面的な疎開移転等は不可能なことであるから、わが国の教育文化が停止することにもなる。それだから、戦時中、わが軍でこれを使用したいということもしばしばあったのを、その都度おことわりして居り、軍部もまたこれを了承して、東大を使うことが全然なかったのは御承知の通りである。
」
その結果、GHQの総司令部は現在の第一生命館を本部として接収することとなった。
なお、この時、郊外の一橋大学の小平キャンパス、慶應義塾大学の日吉キャンパスはGHQに接収された。また、内田の自邸は接収され10年ほどソ連大使館として使われた。
(引用)
学士会 「東京大学が接収を免れた経緯について」
No.660(昭和30年7月)号
https://www.gakushikai.or.jp/
(参考)
・『東京大学本郷キャンパス 140年の歴史をたどる』 東京大学出版会 2018年
・『東京大学本郷キャンパス案内』木下直之 他 東京大学出版会 2005年
・「内田祥三という人」藤森照信『東大という思想』所収 吉見俊哉他編 東京大学出版会 2020年
・『東京大学の歴史』寺崎昌男 講談社学術文庫 2007年
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接収された内田邸 |
内田祥三により、本郷キャンパスは、スクラッチタイル張りで、高さは鉄骨鉄筋コンクリート3階地下1階という統一されたの建築群と広い広場を確保し、それを銀杏並木道という軸線でつなぎ、また建物のアーチにより建物間の軸線により繋ぐなどの基本計画に沿って造られ、他に例を見ない統一した建築群を形成することになった。それは本郷キャンパスのみならず、駒場キャンパスなどを含み統一した空間を形成することにより、東京帝国大学の「総合」大学としての存在を高めたといえる。
こうした内田の建築の実務の成果とともに、教育(教授)としての成果として、岸田日出刀をはじめとして、丹下健三、前川國男など多くの建築家を輩出し、次の世代にモダニズム建築を広めることになった。
次回は、これらを含め現代建築まで、本郷キャンパスの新たな建築を観ていくことにする。
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