| 芬陀院(雪舟寺) |
東福寺の境内を出ると、すぐ近くに塔頭の芬陀院(ふんだいん)があります。ここの庭園は雪舟が造ったということから雪舟寺とも呼ばれます。初めて訪れました。
1.由緒
鎌倉時代後期の元享年間(1321年~1324年)、当時の関白・一条内経(またはその息子・一条経通)により創建。それ以後、五摂家のひとつ「一条家」の菩提寺となっている。
現在の建物は1691年(元禄4年)と1755年(宝暦5年)の2度の火災の後、桃園天皇の中宮・恭礼門院の旧殿を賜り移築し、さらに1899年(明治32年)に昭憲皇太后から御内帑金(ないどきん)を下賜されて改築したもの。
芬陀院・庫裏
(1)一条家と九条家
一条家は九条兼実の孫で、九条道家の四男である一条実経を祖とする家柄であり、九条家とは血縁関係にある。
共に摂政・関白を輩出する五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司 )の一つであり、貴族社会で非常に高い家格を誇る。
(2)東福寺・泉涌寺・随心院とのかかわり
既にみたように、九条道家によって東福寺は 「摂関家(九条家)の菩提寺」として創建され、また、「皇室の菩提寺」として泉涌寺の礎を同時に築いた。 さらに、その前に訪れた随心院は、九条家により、荒廃した寺院を復興し、九条家や一条家などの出身者が代々住職(門跡)を務めてきた、非常に格式高い門跡寺院であった。
2.方丈(本堂)
(1)仏画
中央に釈迦如来、向かって右側に獅子に乗る文殊菩薩、左側に象に乗る普賢菩薩。描かれている釈迦如来は一般的な釈迦如来と異なり、袖の中に手を隠しているのが特徴である。この珍しいお姿は 内省的な禅宗の教えを象徴しているとも言われる。
仏画の手前には、次のような仏具が置かれている。
①大磬(だいけい)とおりん: 向かって左側にある、大きな鉢のような形をした仏具。
②木魚: 向かって右側にある、木製の打楽器。
③経机(きょうづくえ)と経本: 中央にはお経を読むための机と経本が置かれている。
(2)大仏の蓮弁
焼失した東福寺の大仏の蓮弁が飾られている。東福寺の大仏は、九条道家が東大寺に次ぐ規模の寺院を目指して創建した際に計画され、東大寺大仏に匹敵する大きさで、5丈(約15メートル)にも及ぶ木造釈迦如来坐像が造立されたという。その後、1336年の兵火により焼失したが、すぐさま室町幕府の支援を得て再建が着手され、1346年頃に新たな5丈釈迦如来像が完成した。この姿が江戸時代まで続く「東福寺の大仏」として知られる。その後、1881年(明治14年)の仏殿焼失により、その大部分が焼失したが、 火災の際、巨大な「仏手」や「光背の化仏」とともに、「台座の蓮弁」の一部も救い出された。いまは「仏手」は東福寺本堂に、「化仏」「蓮弁」は塔頭寺院にそれぞれ所蔵されている。
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| * 巨大な「仏手」 |
(3)半鐘
この鐘は、仏事や行事の開始を知らせるための合図として鳴らされる。
(4)肖像
①一条昭良の像
茶室「図南亭(となんてい)」を建てた一条昭良の像が安置されている。像の前には「智徳院禅定殿下」と書かれている。昭良は後陽成天皇の第9皇子として生まれ、一条家を継いで摂政・関白を歴任した。昭良の法号は「智徳院」(正式には智徳院殿後芬陀利華院恵観)であり、後に出家して「恵観」と称したため、出家した公卿を指す「禅定」と、摂関を指す「殿下」を合わせた「禅定殿下」として祀られている。
| 「智徳院禅定殿下」と読める |
②明治天皇と昭憲皇太后
明治天皇の皇后となった昭憲皇太后も一条家の出身 (第22代当主・一条忠香の三女 旧名:一条美子)。
明治時代、荒廃していた芬陀院は、昭憲皇太后から下賜された「御内帑金(ごないどきん:皇室の私的財産からの金銭)」により改築が行われた。また、 天皇が東京へ移る際、京都御所の家財道具が芬陀院に遺されたというエピソードも伝わっている。そうしたゆかりから、院内には明治天皇・皇后両陛下の写真や愛用品が置かれている。
| 床の間に皇后の愛用品の小机 |
| 明治天皇・皇后両陛下の写真 |
③鎧櫃
昭憲皇太后の愛用品とされる櫃には、一条家の家紋「一条藤」が付けられている。
(5)襖絵
芬陀院の建物は、江戸時代の火災の後に桃園天皇の皇女・恭礼門院の旧殿を賜って移築されたものであることから、狩野派や雪舟の流れを汲む雲谷派による襖絵などが見られる。
狩野派の絵師、 村上東洲(?-1820)
狩野派の絵師、渡辺孝対(1815-1889 )
(6)茶室「図南亭(となんてい)」
東庭の北側にあるのが「図南亭」。庭に面した茶室は、江戸時代の関白・一条昭良(恵観)によって建てられた。現在の茶室は、恵観公三百年忌に際し、1969(昭和44)年に再建されたもの。貴人を迎えるための席であるため、一般的な茶室にある「躙口」がなく、立ったまま出入りできる「貴人口」が設けられているのが特徴である。
ちなみに、「図南」の意味は、荘子の『逍遥遊』に登場する「図南の翼」から。巨大な鳥(鵬)が南の海へ向かって羽ばたく様子から、「大きな志を立てて遠くへ行く」ことを意味する。一条昭良(恵観)がこの地で大きな志を持って茶の湯に親しんでいた、あるいはその高い精神性を称えて名付けられたとされる。
「茶関白」と呼ばれた昭良は、雪舟の庭をこよなく愛し、ここから庭を眺めながら茶を楽しんだと言われ、公家文化と雪舟の芸術が融合した貴重な空間となっている。丸窓から見える「東庭」は、昭和の作庭家・重森三玲によって、雪舟作の「鶴亀の庭(南庭)」と対になるよう作られた枯山水である。4859-60、8869
勾玉の手水鉢と 崩家形燈籠(東庭)
3.方丈庭園
方丈南側の枯山水庭園「鶴亀の庭」は、雪舟の作と伝えられ、雪舟が京都で唯一手がけた庭園ともいわれている。
(1)雪舟(1420~1506年)
雪舟は、備中国(現在の岡山県)に生まれ、京都の相国寺で修行。その後、山口の大内氏を頼り、遣明船で中国(明)へ渡って本場の画法を学び、 『山水長巻』や『天橋立図』など6点が国宝に指定され、日本絵画史において別格の高評価を受けている。
画僧としての雪舟はあまりにも有名であるが、いっぽう、作庭家としての雪舟は、大内氏や一条家など有力なパトロンの依頼により、西日本を中心に作庭している。 医光寺(島根)、萬福寺(島根)、常栄寺(山口)、旧亀石坊庭園(福岡)の雪舟庭は「雪舟四大庭園」と呼ばれる。雪舟の作庭は、中国(明)の雄大な山水画の精神を、日本の庭園という三次元空間に写し取ったような枯山水や池泉庭園が特徴とされる。
芬陀院の庭は、当時の関白・一条兼良の依頼により作庭された。当時、亀の絵を描いてほしいと依頼された雪舟が、「絵ではなく石で亀を表現したい」と申し出、描いたのがこの石組であるというエピソードが残されている。
(2)庭園
南庭の「鶴亀の庭」は、1468年頃に雪舟が作庭したとされる、京都で最も古い枯山水庭園の一つ。 白砂の広がる庭に、苔に覆われた鶴島(左側)と亀島(右側)の2つの石組が配されている。この亀の石組があまりに上手にできていたため、夜になると動き出すという噂が立ち、雪舟が亀の背中に大きな石を載せて動けなくしたという不思議な逸話が残っているという。庭園にある亀島の石組をよく見ると、甲羅の上にもう一つの石が乗っているのが分かり、この伝説を今に伝えている。
| 亀島 |
| 鶴島 |
| 三羽の鶴に見立てた石組(東庭) |
この南庭は、元禄と宝暦の火災などにより荒廃していたが、その復元整備には、二人の現代の作庭家が関わっている。
1939( 昭和14)年に、昭和を代表する作庭家・重森三玲によって復元・整備された。 重森三玲は、もともとあった石を一つも足すことなく、当時の姿を忠実に再現した。 また、この復元の際、重森三玲は南庭(鶴亀の庭)と対になるように、新たに「東庭」も作庭した。
日本庭園を独学で学び、19368昭和11)年より全国の庭園を実測調査し、全国500箇所にさまざまな時代の名庭実測、古庭園の調査などにより、研究家として日本庭園史のさきがけとなる。また三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴であり、その 代表作には、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園(いずれも京都)などがある。
②中根金作(1917-1995)
1957(昭和32)年、中根金作はその後の管理・維持・整備において重要な役割を果たし、庭園の景観を整えた。
中根は、「昭和の小堀遠州」と称えられ、古庭園の研究に基づいた本格的な石組みにあり、伝統的な手法を守りつつ、現代的で開放的なパノラマビューを持つ庭を造った。その代表作には、足立美術館庭園、大仙公園日本庭園、退蔵院余香苑などがある。
芬陀院を出る
拝観を終え、芬陀院を出た。
三泊四日の「京の寺社」も、この芬陀院が最後になりました。東福寺駅に向かう途中、老舗の和菓子店「鶴屋弦月」に寄って、そのあと京都駅に出ました。
