殿ヶ谷戸庭園・紅葉亭から |
JR国分寺駅の近くにある殿ヶ谷戸庭園に、また寄ってみました。殿ヶ谷戸庭園については、拙ブログ「東京異空間108:都会の中の庭園~殿ヶ谷戸庭園(2023/5/4)で、 1.殿ヶ谷戸庭園の沿革 2.殿ヶ谷戸の自然」として紹介しました。今回は、国分寺崖線につくられた別荘群についても調べてみました。
また、庭園には秋の花が咲いていましたが、これからは紅葉も見頃になるところです。
1.殿ヶ谷戸庭園
前回にも述べたように、殿ヶ谷戸庭園は、1913年 (大正2)南満州鉄道の副総裁から貴族院議員にもなった江口定條(さだえ)がこの地に構えた別荘で「随宜園(ずいぎえん)」(よろしきに従うという意味)と命名された。1929年(昭和4)に三菱合資会社の取締役であった岩崎彦彌太(久彌の長男、1895-1967年)が江口から別荘を買い取り、彦彌太は和洋折衷の主屋に建て替え、紅葉亭を新築するとともに、回遊式庭園を造った。建物の設計は津田鑿 という三菱合資会社地所部営繕係に属していた技師による。津田は、千葉県冨里にある岩崎久彌の末廣別邸を設計しており、類似の設えが見られる。これらの建物のうち、主屋は現在サービスセンターとして使われ、紅葉亭は茶会などに使われている。
もう一つの建物に岩崎家が昭和13年に新築した倉庫がある。2階建てのコンクリート造りで、2階へは滑車で荷物を運搬することができるよう造られていた。関東大震災を教訓にしていたという。戦時中には岩崎家の書画骨董が運び込まれた。(ふだんは非公開だが、今回は、この2階で山野草展が開かれていた。)
また、作庭を手掛けたのは、赤坂の「仙石」という庭師であった。ただ、現在、仙石の作庭の面影が残っているのは次郎弁天池のみとなっている。庭師「仙石」は名を仙石荘太郎といい、他にも、八芳園や高橋是清邸の庭園を手掛けている。サービスセンターの展示資料に、仙石の肖像写真が掲げられている。
なお、庭園の管理は、江口家時代から続けて石川長三郎・宗三親子二代に渡り行われ、東京都が買収した後も1976(昭和51)年まで臨時職員として管理に専念したという。
随宜園(ずいぎえん) |
主屋(現・サービスセンター) |
倉庫 |
仙石の肖像写真 |
2.国分寺周辺の別荘群
明治の末頃から別荘が造られ始めるが、それまでは江戸市中の高台や隅田川沿いに立地する大名屋敷に由来するものであった。交通機関の発達などに伴い、武蔵野の自然環境、とりわけ国分寺崖線の地形が庭園として好まれたこともあり、国分寺、小金井、二子玉川などに多くの別荘がつくられた。そのうち、国分寺には先に述べた江口別荘のほかにも次のような別荘が建てられた。展示資料に載っている6件の別荘について調べてみた。
(1)今村別荘
国分寺村では大正期なると、実業家が別荘地開発のための広い土地を求めて進出し始め、別荘の誘致が村の発展につながると村を挙げて道路などのインフラ整備に取り組んだ。国分寺村に進出した別荘地は、「今村別荘」で、建主は鉄道事業家・今村清之助の次男・今村繁三である。繁三は今村銀行頭取を務めていた資産家であった。今村別荘は大正7年に建てられ、土地5,000坪、建物300坪の規模で、屋敷内には守護神として正一位穀豊大明神が祭られていた。本町の氏神である八幡神社の社殿は、今村氏から譲り受けた稲荷社の祠を元にしてできあがったといわれており、現在もある、穀豊稲荷大明神・子育弁財天の社地と旧社殿群は、彼の寄贈によるものである。
また、繁三は、1923(大正12)年には国分寺村に300円を寄付し、省線(現・中央線)の電化を吉祥寺から立川まで延長することに尽力した。そのほかにも、繁三は、旧制中学の同窓にあたる中村春二が始めた私塾「成蹊園」 (現・成蹊大学の前身)を岩崎小彌太とともに財政的に支援した。
しかしながら、世界恐慌のあおりも受けて銀行の経営が悪化し、没落し、邸宅を売り払い、所有していた美術品なども売り払ったという。
1942(昭和17)年に日立中央研究所が設立されると、今村別荘と周辺の土地は日立中央研究所の敷地となり、現在に至っている。
(2)竹尾別荘(大正8年)
竹尾別荘 は、洋紙業を営む竹尾藤之助が別荘としてつくった。竹尾藤之助は、初代竹尾栄一が明治32年に創業した洋紙販売業の2代目社長で、1913年に「合資会社竹尾洋紙店」に改組した。現在まで続く紙の専門商社 (株)「竹尾」となっている。
(3)天野別荘(大正3年)
天野別荘は、宝飾品卸業をしていた天野啓次郎が別荘としてつくった。天野は、明治末期から大正時代にかけて、東京の天賞堂、三越などの著名な小売店に幅広く宝飾品を卸していた。 1920(大正9)年 に、天野商店から天野時計宝飾品株式会社へ組織変更し、天野啓次郎が取締役社長となった。
(4)その他:渡辺別荘(大正3年)、豊原別荘(大正1年)
なお、展示資料には、「渡辺別荘、所有者:渡辺武左衛門 、豊原別荘、所有者:豊原清作」とあり、この二人についてネット検索してみたが、それらしき人物はヒットしなかった。
(5)小金井周辺の別荘群
国分寺の隣、小金井エリアにも、次のように多くの別荘が建てられた。
〇波多野邸(滄浪泉園):三井銀行の役員で衆議院議員をつとめた波多野承五郎による別荘。波多野は福澤諭吉の弟子あり、『時事新報』の主筆も務めた。
〇前田邸(三楽の森):NECの創立者でもある前田武四郎の別荘・三楽荘と名付けられた。
〇小橋邸(美術の森): 武官であった小橋寿が明治42年に別荘地とした。戦後は画家の中村研一がこの地に移住してアトリエを構えた。
〇岩村邸(美術の森に隣接):岩村俊武海軍中将が大正3年に別荘地とした。
〇富永邸(大岡昇平寄寓):青梅鉄道社長であった富永謙治が大正3年に別荘とした。昭和23年に大岡昇平が寄寓していた。大岡昇平の「武蔵野夫人」は小金井から国分寺にかけての国分寺崖線が舞台になっている。
このほか、次のような別荘があげられている。
〇小山邸:医師の小山善之。武蔵野自然公園となっている。
〇前田邸:赤坂の前田外科病院の前田友助医院長が大正末期ごろに求めた。
〇芥川邸:鉄道省の橋梁建設請負会社の社長・芥川寿。
〇渡辺邸:兜町の株屋・渡辺某が大正末か昭和初めに買い入れた。昭和4年に日本青年館の手に渡る。
〇磯村邸:土地師の磯村貞吉が購入。
〇大賀邸:東京シッカロール本舗の大賀社長が購入。
〇深田邸:銀行家の深田某。
参考:『続々小金井風土記』芳須緑 小金井新聞社 平成2年
国分寺崖線は、立川市から国分寺市、小金井市、さらに世田谷区、大田区などを通る延長約30キロ、高低差約20mの地形である。武蔵野の自然、崖の高台からの眺望(富士山が望めた)、庭の池泉に引く湧水があることなどにより、別荘地として好まれたと考えられる。
しかし残念ながら、こうした国分寺崖線のハケと湧水を利用した別荘群と庭園は、その多くが焼失した。そのうち、殿ヶ谷戸庭園のように住民運動により、公園(カッコ内の名称)などに公共化されたものもある。
2.秋の花
殿ヶ谷戸庭園では、倉庫の2階で山野草展が開かれていて、珍しい花も展示されていた。庭には、秋の七草などいろいろな花も咲いていた。
(1)マユハケオモト
「眉刷毛万年青」と書き、花のかたちが、役者が化粧のときに使う眉刷毛に似ていることや、葉が万年青(オモト)に似ていることから名づけられた。南アメリカ原産。
マユハケオモト(眉刷毛万年青) |
(2)ツリガネニンジン
花が釣鐘形で、根の形がチョウセンニンジンに似ているのでこの名がある。春のおいしい山菜で、トトキとよばれている。秋の掘り採った根は薬用にもできる。花姿が美しく、観賞用に栽培されることも多い。
ツリガネニンジン |
中国から古い時代に入ってきた帰化植物で、京都の貴船地方で自生するようになったとされる。「秋明菊」と書き、「秋に咲いて明るく彩る菊の花」という意味で名付けられたとされている。 別名は「貴船菊」 。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間である。
秋明菊(シュウメイギク) |
秋明菊(シュウメイギク) |
(4)オミナエシ
「おみな」は「女」の意、「えし」は古語の「圧し(へし)」で、美女を圧倒する美しさから 名づけられたとされる(諸説あり)。
『万葉集』に山上憶良が詠んだ秋の七草のひとつになっている。
「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」
女郎花(オミナエシ) |
萩のトンネル |
尾花(ススキ)(府中市美術館前) |
殿ヶ谷戸庭園には「萩のトンネル」という見所がありますが、訪れたときには既に見頃を過ぎていました。これからは紅葉の名所となります。庭園を一回りしてみました。
〇殿ヶ谷戸庭園・主屋
〇竹林
〇次郎弁天池
〇紅葉亭付近
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