日本の近代建築の父といわれる辰野金吾の没後100年を記念して、日本銀行貨幣博物館と東京ステーションギャラリーで開かれていた展覧会を見て来ました。
もちろん、あわせて日本銀行本店、東京駅などの建物を撮ってきました。
〇日本銀行本店
辰野金吾は、政府が招いたお雇い外国人、ジョサイア・コンドルに師事し、明治12年(1879年)に工部大学校を首席で卒業し、イギリス留学を経て、工部大学校でコンドルの跡を継いで教授として建築教育に力を入れた。そのため、これまでコンドルの影響が大きいとされてきたが、それ以上に大きな影響を受けたのが、英国留学中の師、建築家ウリアム・バージェスであった。また、フランス・イタリアをかってのグランド・ツァーと同じように各地の建築を視察旅行を行ったことが大きな影響を与えたという。
辰野金吾は、政府が招いたお雇い外国人、ジョサイア・コンドルに師事し、明治12年(1879年)に工部大学校を首席で卒業し、イギリス留学を経て、工部大学校でコンドルの跡を継いで教授として建築教育に力を入れた。そのため、これまでコンドルの影響が大きいとされてきたが、それ以上に大きな影響を受けたのが、英国留学中の師、建築家ウリアム・バージェスであった。また、フランス・イタリアをかってのグランド・ツァーと同じように各地の建築を視察旅行を行ったことが大きな影響を与えたという。
とりわけ、バージェスが標榜する〈美術建築〉概念に強く共感し、建築は人の手が造り出す精度の高い美術的な装飾が施されることで完全性を獲得する、という建築観を日本に移植することを生涯をかけて実践していた。
<美術建築>という概念は、ちょっと分かり難いが、<工場建築>、すなわち単に効率性を重視した箱もの建築、といったことを対比する概念として考えると、その違いがわかるだろう。
辰野金吾は、日本を代表する公共的建築である日本銀行(明治29年1896年竣工)、中央停車場(東京駅)(大正3年1914年)、帝国議会議事堂(国会議事堂)を建設設計することに強い意欲を持っていたという。
そのひとつ、日本銀行本店を建てるにあたっては、欧米の銀行を視察し、銀行の持つ重厚さ、堅牢さを学んできた。さらに建設途中に起こった濃尾震災(明治24年)をきっかけに、当初は石造りだったものを設計変更して煉瓦造り石張りにして、耐震性をさらに高めるなど、全身全霊を込めてこの建築の設計に取り組んだという。その結果、関東大震災でも、火災は起きたものの建物が崩れることはなかった。
また、日本銀行の各支店の建物にも弟子である長野宇平治などとともに携わっている。日銀小樽支店の建物(明治45年1912年竣工)も、そのひとつであり、北のウォール街と呼ばれた小樽が一番繁栄した時代をしのばせるものとなっている。
日本銀行本店の前には常盤橋が架かっているが、そのたもとに澁澤栄一の銅像が建っている。像は朝倉文夫によるもので、きりっと日銀本店の方向を見つめている。
辰野は、日本銀行を手がける前に、澁澤栄一の邸宅を設計している。日本橋兜町にあった邸宅で、迎賓施設として建てられた(明治21年1888年)。その当時の写真をみると、ヴェネツィアン・ゴシック様式で建てられており、邸宅の前を流れていた日本橋川の風景と相まって、まさに水の都ヴェネチアの雰囲気となっている。辰野にとって、澁澤のパトロンとしての力も大いに与ったようだ。
常盤橋公園に立つ渋沢栄一像 |
きりっと日銀本店を見つめる |
日銀本店の前には三井本館(昭和4年1929年竣工)、その横には三越日本橋本店(昭和2年1927年)のビルがある。それぞれ関東大震災により被災し、その後、現在に残る建物は新たに建設され、三井本館はアメリカの設計事務所が、三越は横河民輔が設計をしている。
辰野金吾の建築とは異なるものの、どちらも<美術建築>といえる時代を感じる荘厳な建物である。
明治以降、建物は上へと高くなり、さらに塔を載せるようになった。商業、金融などの建物は角地に建てられ、建物の角に高く聳える塔をのせた。これは覇者としてのシンボルともなった。
建物の近代化とは裏腹に、三越の屋上には三囲神社(三井家の守護社で、向島に本社がある)の分社が置かれている。
神様を祀る神社の後方を見上げると、三井本館の横に最新の高層ビル三井タワーが建っている。古来から近代、そして現代を映しているようだ。
三越日本橋本店 |
建物の角に立つ塔は覇者のシンボル |
三越日本橋本店の屋上にある三囲神社 |
三越の三囲神社:後ろには三井タワーがそびえる |
辰野金吾の手によるもう一つが中央停車場(東京駅)(大正3年1914年)である。当初はドイツ人技師フランツ・パルツァーが設計したが、その和洋折衷のデザインは受け入れられず、辰野金吾のお鉢が回ってきて、より西洋風の建築が受け入れられた。
なお、辰野はすでに万世橋駅舎(明治45年1912年)を手がけていた。赤レンガ造りの豪華な駅舎で、中央線のターミナルとして賑わった。しかし、東京駅ができたことから利用が少なくなり、震災の被害もあり廃駅となった。いまも御茶ノ水駅と神田駅の間にその遺構一部がマーチエキュートと名付けて公開されている。
辰野にとっては、これがいわば試作品になったようなもので、東京駅も赤レンガに鉄骨を入れたより堅牢な駅舎となった。
ところで、東京駅は、アムステルダム中央駅を模倣したものだと、まことしやかに語られることがあるが、辰野がアムステルダムを訪れた記録はなく、オリジナルな「辰野式」といえる。
なお、現在みられる東京駅は、2012年に辰野金吾が設計した当初の姿に復元されたものである。
辰野金吾設計の東京駅模型 |
ドーム柱頭:「西暦2012年」を示すローマ数字「AD MMXII」 |
レンガと鉄筋による重厚な造り |
八角形のドーム |
八角形のドームの天井に取り付けられた8羽の鷲や8つの干支のレリーフも、当時の意匠を見事に復原されている。このドームの8つの干支のレリーフにはエピソードがあり、4つの干支(子卯午酉)が足りないことが長らくの謎であったが、東京駅と同時期に改修が進められていた辰野の故郷・佐賀県の「武雄温泉楼門」に、足りない干支があり東京駅とあわせ一組のものだという。これは辰野の遊び心のひとつではないかという。
この武雄温泉楼門は、辰野が手掛けた和風建築の一つで、ほかにも奈良ホテル、南天苑(大阪)がある。
干支のレリーフ |
辰野金吾は、「辰野堅固」と言われるくらい重厚で過剰なほど堅牢な西洋建築を多く手がけた。その数は200棟を超え、そのうち25棟が現存しているという。
その<美術建築>の例としては、銅像の台座がある。九段坂公園にある品川子爵銅像臺、東京駅の前にある井上子爵銅像臺などを彫刻家(像は本山白雲の作)との共同して手がけている。なお、現在東京駅丸の内側に置かれている井上勝像は朝倉文夫の作による。
品川弥二郎銅像:台座は辰野金吾の設計による |
井上勝:日本の「鉄道の父」といわれる。 |
当初(1914年建立)は本山白雲の作、台座は辰村金吾による。2017年に再建。 |
さて、3つのうち残る帝国議会議事堂(国会議事堂)はどうなったのか?その設計は、当初、大蔵省とつながりのあった妻木頼黄(つまきよりなか)になるところ、辰野が設計コンペを提案し、自ら審査員となった。しかし、このコンペは波乱ずくめとなった。妻木が病に倒れて亡くなり、辰野までもがスペイン風邪でこの世を去ってしまった。明治建築界の大御所を立て続けに失ったコンペは遅れに遅れ、議事堂は昭和11年にようやく完成を見たが、結局、設計者があいまいなままに建てられた、という。
(まさか、「速やかに、設計図面等はシュレッダーにかけた」わけではないだろうが??辰野が国会議事堂を手がけていたら、もっと堅固な政治がなされれきたのではないだろうか、というのは妄想か?)
辰野金吾の息子で東大仏文教授になった辰野隆は、「実に彼は男なりき。善き父なりき。」と評している。また、家訓として「建築家になるな」と述べたという。こうした言葉は、建築と格闘してきた生涯の重みを感じさせる。
参考図書
『辰野金吾』河上真理・清水重敦 著 ミネルヴァ書房 2015.3.10